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19話

 



 ◇



 九月に入り、学校が始まった。

 学校が始まっても、揚羽さんの姿はどこにもない。


 先生に尋ねてみても、家庭の事情の一点張り。教師も事情を知らぬとあって、加えて夏休みのあの出来事だ。祭りの場に居なかったクラスメイトですらも沸き立つ噂に耳を傾け、今では教室中で学校に来なくなった揚羽美命(あげはみこと)のあらぬ噂で持ちきりだった。


「──妊娠したんでしょ?」

「──薬やって捕まったとか」

「──結婚するって聞いたけど」


 揚羽さんの噂は、夏休み前からあったことだ。

 けれども夏祭りの一件でクラスメイトの中で彼女だけが住む世界が違う、という印象が更に色濃くなったお陰で、噂の解像度も増したように思える。

 今までは空想上で具体性を得なかった噂が、まるで受肉したかのように輪郭を得てしまう。真実を知る身としてはそれが余計に気持ち悪く感じられて、とにかく居心地が悪い。


 真実、とは言ってみたものの、僕だって揚羽さんが連れ去られた後のことを知っているわけではない。むしろ知っている人がいるのなら教えて欲しいくらいだ。

 担任教諭ですら詳しい事情は聞かされていないらしく、頼れる伝手なんてそれでおしまいだった。そうこうしていると時間だけが流れていき、徐々に噂が浸透していくクラスに同調圧力の空気が漂い始める。いつの間にか、否定すべき噂に飲み込まれそうになっている自分が要ることに気付く。


 ……教室にいるだけで、気分が悪い。


 入学から今まで、揚羽さんはこんな空気の中に居たのかと思うと、家庭の事情を抜きにしても、この場の空気にそれだけの時間晒されているだけでも死にたくなる。

 こんな状況で人間不信にならない方が、どうかしている。


「……ほら、あいつも」

「あぁ、揚羽さんに付き纏ってた、って奴でしょ?」

「なんか、かっこつけたとか聞いたけど」

「彼氏気取りきちぃ~!」

「ウケる。男女揃って趣味悪くね?」

「言い過ぎだし!」


 揚羽さんの噂に隠れて僕もまた、彼らが囲む火種の一つにされていた。

 ぎゃはは、と下品な笑いをするのは、僕を良く思っていない陽人君の取り巻きたちだ。


 あの日以降、陽人君とも会っていない。

 彼は会って話がしたいと言うけれど、それを僕が「あの人達になんて言われるか分からない」と言って堰き止めている形だ。陽人君は当然、「俺が止めさせるから」と言って主人公みたいにカッコいいのだが、その眩さは今の僕にとって痛いくらいだった。だから「落ち着くまで構わないで」と言って突き放したのだけれども、陽人君はこまめにメッセージで僕を心配する旨を伝えてくれる。揚羽さんもそうだったが、陽人君のような友達思いの彼こそ、僕にはもったいない存在だ。


「──お疲れ様です」

「お疲れ様、歩夢君。今日も賄い、持って行っておくれ」

「お気遣い、ありがとうございます」


 憂鬱な学校を終えてバイトもこなすのが、平日のルーティーン。

 そう考えると、揚羽さんと出会う前の日々に戻っただけと言える。

 けれど、彼女という衝撃を知ったこの身体は、以前の日常を退屈に思えるようになってしまった。

 アダムとイヴが知恵の実を齧った時のように、齧った後では齧る前に戻れないことを知ったのだ。


「……こんな気持ち、知りたくなんてなかったのに」


 いつからだろうか。常日頃、隣でこの世の全てに悪態を吐いていた揚羽さんの存在に安心感すら覚えるようになったのは。彼女の存在は、もう既に僕にとってかけがえのない存在になっていたのだ。


 胸にぽっかりと穴が開いたようなこの空虚な気持ちは、他の物では埋めることが出来ない程、大きな穴となっていた。

 だからと言って、知らないままでいればこんな思いもしなかったのに、とは口が裂けても言えない。


「約束だって、まだ果たしてないのに……」


 一番初めに結んだ約束は、今も継続中のはず。

 そもそも、その約束自体、僕の思い込みであることは否めない。


 ──揚羽さんはまだ、死ぬつもりは無い。

 

 一方的な思い込みだとしても、そう考えていないと潰れてしまいそうになる。


 だからもしかしたらこのカフェにまた揚羽さんがひょっこり現れてくれるのではないか、とあらぬ期待を寄せているのだが、夏休みの最中から今に至るまでの間、彼女がカフェに現れた形跡は一度たりともないのであった。


「お待たせ。今日はラタトゥイユだよ。温めて食べてね」

「ありがとうございます」


 マスターが気を遣って持たしてくれる賄いを受け取って、僕は帰路につく。


 事情を知っているいろ姉やマスターは以前にも増して気を遣ってくれるようになった。

 夏休みのあの日以来、僕の雰囲気がより一層暗くなったのを自覚している。働いている間は努めて明るく振る舞ってはいるが、マスターやいろ姉の目を騙せる程、僕は演技が上手くはない。

 加えて、あの夏祭りはマスターからの進言である。それにはいろ姉も一枚噛んでいたいたらしく、二人が責任を感じているのがひしひしと伝わってくるが、二人を責めるなどお門違いも甚だしい。二人のせいじゃない、と口酸っぱくしているつもりだが、心配を掛けているのは僕の心境が原因の全てでもあるから強く出られない。


 とは言え、気遣う二人の態度が、憩いの場であるはずの居心地の悪さに比例していることは未だに言い出せていない。それでも、その気遣いのお陰で今も生きていられる。


 夏祭りの日以降、僕は揚羽さんを探して、日夜街をうろつくようになっていたから。


 彼女と行った所縁ある場所だったり、彼女が行きそうな繁華街だったり。それは都内に限らず、関東近郊であればあらゆる場所を巡った。平日であればバイトの後で。週末は、日がな一日。日が暮れるまで彷徨い歩いた。それこそ、死に場所を求める揚羽さんのように手当たり次第に探し回った。


 夏真っ盛り。暑さのピークが続く日々の中。炎天下の中である。いかに暑熱対策を施していようと、避けられるのは日焼けだけ。長時間オーブンの中に放り込まれて無事な食材が無いように、僕は熱さにやられてぶっ倒れた。行動を起こして、すぐの事だった。


 いろ姉が異変を察知して来てくれなければ、僕は残りの夏休みを病院で過ごす羽目になっていただろう。

 そこで、心配してくれたいろ姉には事情を明かした。もちろん、お互いの希死念慮については秘匿したままだが。

 それは僕と揚羽さんの身に起こったことを知ってもらいたいことに加えて、いろ姉ならなんとかしてくれるのではないか、というほんの一匙の期待を込めての事だった。

 だが、当然の如く返ってきた答えは首を横に振る姿。いろ姉にだって、出来ないことはある。


 天下のアゲハグループの、しかも家庭事情に首を突っ込むなど、市井を生きる一般人の誰にそんな真似が出来ようものか。その時にいろ姉からかけられた言葉は僕の心を慮るものであったが、遠回しに「諦めなさい」と言われているようなもので、僕は釈然としないながらも頷く振りをした。マスターも、似たようなものだった。


 結局、事情を話せば分かってくれる人などどこにもいなかった。

 頼りになる大人も、背中を押してくれる大人も。

 揚羽さんのことを助けることが出来る人は、何処にもいない。


 ……当たり前だ。現実を知っている人なら、誰でもそう言うに決まっている。


 ──僕のやっていることは無駄なことだ、と。

 ──だから諦めて切り替えるべきだ、と。


 諦めるのが正しいことくらい、言われなくても分かっている。


 分かっていてそれが出来ない理由は、一つだけだ。


 ここで退いたら最後、誰が揚羽さんを助けてあげられるのか。


 ……助けてあげる、というのは言い過ぎか。僕は万人に手を差し伸べられるような、そんな人間じゃない。むしろ僕の方が助けてくれ、と手を差し伸べているのかもしれない。

 それに、きっと彼女はほんの僅かなきっかけさえあれば自分で希望を掴み取れる。そんなバイタリティのある強い人だ。だけどこのままじゃ、彼女にそんなきっかけの一つすら与えられないまま終わりを迎えかねない。


 誰も助けてくれないのなら、揚羽さんに残された道は一つだけになる。


 それは──、自死だ。


 自殺だけが、彼女を取り巻く絶望の環境から彼女が抜け出す唯一の手段となる。


 今の揚羽さんにそれだけの動機(ストレス)を与えてしまえば、確実に実行に移すに違いない。

 それだけは、防がなければならない。


「……揚羽さんには、死んでほしくない」


 彼女と二人、幾度となく歩いた帰り道。僕は一人で歩きながら、祈るように呟いた。


 元より僕と揚羽さんは、希死念慮によってのみ繋がっただけの関係。ゆえに、お互いの生死においては、積極的に関与すべきなんだ。


 だからこそ、僕は言いたい。

 もっと早くに僕が言うべきだったんだ。


 揚羽さんは、死ぬべきじゃない、と。


「誰が言っているんだか……」


 揚羽さんと出会って、僕の世界は大きく変わった。死生観が変わった。何より、一人じゃないことを知った。

 それがどれだけ心強かったことか。


 僕は死にたいのではなく、寂しかったのだと知ることが出来た。揚羽さんと居る時だけは、希死念慮の一切を感じなくなった。

 だからこんなにも、彼女が居なくなった後でこの心の穴が大きく感じるのだ。


 僕と彼女の関係は、友達と呼べるほど浅くはない。かと言って、恋人と呼べるほど深く繋がったわけでは無い。ならば、言葉で言い表せない程に厚い関係だったのかと言うと、それほど大層なものでも、立派なものでもないと言い切れるのが僕たちでもある。


 僕らは何度も言ったように、互いの希死念慮が引き合わせただけの関係で、互いに利益のある関係で、約束を結んだだけの関係。

 言うなれば、死に際を見せつけ合う予定を組んだだけ関係だ。

 だからこそ、友人のように振舞うことも、恋人のように彼女の為に命を懸ける権利すら持ち得ていない。

 それを今更になって歯痒く思ったところで、僕に思いを明かすだけの度胸など期待するだけ無駄だった。

 そんな居心地の良いだけの責任の生じない関係に甘えていたのは、他ならぬ僕なのだから、責めるとしたら周りではなく、揚羽さんの為に何もしてこなかった自分自身である。


 だから、という訳では無いが、僕は今日も夜な夜な、揚羽さんを探して街に繰り出す。


 何もしていないと、不安に駆られる。

 希死念慮が全身を覆うのだ。

 特に、夜の間は。


 マスターの賄いを何の感動もなく片付けた後に、僕はあてもなく電車に乗って彷徨い歩く。


 明日のことなんて考えずに、揚羽さんだけを求めて、街をうろつくのだった。









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