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18話





 今後、クラスメイトどころか陽人君にすらどんな顔を向ければいいのかと焦燥に駆られながら神社の境内を駆け抜けた。だが、どれだけ後悔に襲われようとも、今更戻ることは許されない。


「……遅い」


 逃げ行く道を突き進み参道の裏を回って人混みを抜けた僕が探すのに手間取ってようやく揚羽さんを見つけると、彼女はすっかりご立腹な様子で僕を迎え入れるのだった。


 今になって思えばスマホで連絡を取ればもっと早い話だったろう。

 冷静な判断のできないパニックに陥った頭ではそれに思い至らなかったとはいえ、揚羽さんの方からでも連絡の一本でもくれれば良かったのに、という文句は胸の内に秘めたまま、揚羽さんの隣に腰を下ろす。


「罰として、あんたの分は減ります」

「それは……別にいいけどさ。それより、お金はどうしたの。カードしか持ってなかったでしょ?」

「知らないの? 最近の屋台はカードも対応して──あっ」

「……今、ちゃり、って音が聞こえたけど?」


 既に食べ進めていた彼女の隣にはゴミ袋が膨らんでいて、僕の膝の上に並べた屋台飯の数々は隣から伸びる手に吸い取られていく。まあ、僕が買ったものじゃないし、揚羽さんが美味しそうに食べるなら文句は無いけども。


「ぬ、盗んだお金じゃないし。彩春さんから、あんたには言うなって一万円渡されて……」

「疑ったわけじゃないよ」


 マスターかいろ姉の差し金、という選択肢だったが、後者となると大方、僕にたらふく食わせろ、とでも言ってあるのだろう。揚羽さんはそれに律儀に答えただけで、僕がとやかく言うつもりは無い。


「それよりも、助けてくれてありがとう」

「助けた? 誰が、誰を?」

「陽人君……と言うより、クラスメイト達から」

「そんなのいた? あんたがナヨナヨしてるから絡まれるの」


 視界に収めてすらいなかったかのように、とすら思えた行動であったが、まさか本当に揚羽さんは彼らを認識していなかったのだろうか。とまで思い至ったところで僕は頭を振る。


 ()()は明らかに意識していなければ出ない言葉だから。


「でも、あの時……」

「い、言ってないし……!」

「まだ何も言ってないけど?」

「知らないったら知らないから……!」

「自覚、あるんじゃん」


 やり返す、という訳ではないが、いつもやられてばかりいる僕が揚羽さん相手に攻めに転じられる機会などそうそうなく、興が乗って思わず調子に乗ってしまう。何せ、顔を赤くしてそっぽを向いた彼女の顔なんて滅多に見られるものじゃないから。

 だからこそ、反撃が来るなんて思いもしなくて。


「ウザ。……じゃあ、歩夢も呼んでみれば? あたしのこと」

「お、覚えてるんじゃん……」


 揚羽さんにとって羞恥心とは己を加速させるガソリンになるのか、吹っ切れた様子の彼女の口から再び、いわゆる「下の名前呼び」が聞かされた日には、僕は怯み、たじろぎ、慄くばかり。


 僕の長くない一生を共に付き添ってきた名前。

 陽人君からもマスターからも呼ばれ慣れているはずの名前なのに、彼女の声で呼ばれるとたちまち恥ずかしくなって縮こまり、不連続する機械音を口から零すだけの存在と化してしまう。


「あたしに勝とうなんざ、十年早いっての」


 無残に喘ぐ僕を見て、揚羽さんは鼻高々に勝ち誇る。

 しかし不意に彼女の言葉に引っ掛かりを覚えてしまい、僕は我に返る。


 ──十年後。彼女が生きているとは限らない。


 そう思うと、フン、と鼻を鳴らす彼女をこのまま勝ち逃げさせる気にはなれなくて、僕にあるはずの無い意気地が湧いて出てくる気がした。


「……み、美命」

「は?」

「み、美命……さん」


 奮起した僕の勇気によって口から出た彼女の名は震えていて聞くに堪えなかったが、それでも言ったことには変わりない。

 どうだ、言ってやったぞ、と揚羽さんを見ると、彼女は首をもたげたままジッと見つめて来た後で二ッと笑って言った。


「──童貞っ」

「なっ?!」


 言って、ケタケタと笑う揚羽さんはどこまでも楽しそう。


 分かったこと言えば、僕の勇気や意気地は所詮、童貞の域を出ないらしい。

 実験結果としてはみすぼらしくて公表することもできない結果であることに肩を落としつつ、たこ焼き以外がほとんど食べ尽くされた膝の上に視線を戻す。


「ねえ、次はどこ行くの?」

「次、かぁ……。この前の富士五湖は良かったよね。日帰りだったから時間は限られていたけど、楽しめたし」

「楽しむなし。あたしの自殺の下見でしょ。あんたの中で趣旨変わってんじゃない?」

「どうせなら、観光したいと思ってね。でも揚羽さんだって、楽しんでるでしょ?」

「……否定はしないけど」

「マスターもお土産楽しみにしてたし。そろそろ、海でも行ってみる?」

「いいけど、まさかあんたみたいな奴から海って単語が出るとは思わなかった」

「……それ、どう言う意味?」

「あんたって海の対極にいるような奴じゃん」

「それを言うなら海にいる人たちの対極、だと思うけど、まぁ、否定はしないよ」


 互いに軽口の応酬をしていると、揚羽さんの「ウザ」で会話は途切れ、沈黙が訪れる。

 いつものことだが、その沈黙は苦痛ではなくむしろ心地良く、最近ではろくにテレビも付けずに二人でお菓子を摘まんでいる時間の方が長かったりする。それに、揚羽さんの悪態にもすっかり慣れたもので、分析によると「ウザ」や「キモ」は大抵が照れ隠しで、彼女の機嫌がいい時に出るものだ。


 僕の瞳には彼女が。彼女の瞳には僕が映り込む。


 きっとあの目の色は、次に何を食べようか考えているところだ。逆に、揚羽さんは、僕の瞳を覗いて何を読み取るのか。


 僕たちの関係値を表わすような長い、長い沈黙が流れた後で、僕らの前に影が差した。


 それを僕らは、何の気も無しに顔を上げた。




 ──これが、僕らの関係を終わりに導く影だと思いもせずに。




「──探したぞ、美命」

「っ?!」

「織原、捕らえろ」


 姿を見せたのは、玉砂利を踏み鳴らす、二つの影。

 片や皺一つ無い高級そうなスーツと汚れ一つない革靴に身を包んだ年若い男性と、片や上下スーツのセットアップで落ち着き払った雰囲気の女性の二人組だった。


 若作りに励む男性の方から見かけによらぬ渋い声で命令が下されると、「織原」と呼ばれた女性が流れるような動作で揚羽さんの腕を掴む。彼女は逃げようとしていたようだが、それよりもスーツの女性の動きが早く、揚羽さんは捕まってしまう。


 護身術の一つも知らない青二才である僕たちに、プロと思しき暴漢に襲われた時の対処法など知る由もなく、僕はただひたすらに目の前で繰り広げられた映画のワンシーンが如き光景を茫然と見つめていることしか出来なかった。


「……ッ、離して、よ! ……大声、出したっていいんだけど?」

「相変わらず、子供の癇癪は耳障りだ。不出来な分際で親に逆らおうなど、親不孝も甚だしい。だが、大人しくしておいた身の為だ。そこのボーイフレンドを危険に晒したくはないだろ?」

「……っ」


 ここは、祭り会場の外れも外れ。境内の裏側にある場所だ。それこそ、この神社の宮司や巫女くらいしか近寄らないような場所である。多少騒いだとて、文字通りお祭り騒ぎの喧騒の内にしかならない。けれども、危険性のある悲鳴を上げれば誰かしら異変を察知してくれるに違いない。だと言うのに、男性の脅し文句に揚羽さんは歯噛みした様子で押し黙る。


 なぜ黙るのか。

 それが理解できなくて、僕は慌ててスマホを取り出す。もちろん、取り出したスマホで行う操作は電話一択だ。人生の内でかけたことのない緊急連絡先。この場合、119が正しいのか、それとも110番が正しいのか分からないがとにかく警察だと思い、震える指先で液晶に触れた瞬間、いつの間にか目の前にまで迫ったスーツ姿の男性にスマホを没収される。


「驚いたよ。まさか美命が君を守ろうとするなんてね。でもお生憎だ、君のような庶民とは違って、彼女にはお役目があるんだ。邪魔はするなよ、クソガキ。織原、スマホを」

「──ッ、触るな! 返してよ!」


 男性と僕の背丈はあまり変わらない。

 そのはずなのに、男性に見下したように見つめられると、たちまち襲い来る押し潰されそうな圧迫感に僕は息が詰まる。没収されたスマホの電源が落とされるのをただ見ていることしか出来なかった。


 そして男性は次なる行動として、女性が奪った揚羽さんのスマホを手に取った。揚羽さんは次なる光景が見えていたのかのように叫ぶと同時に、男性は揚羽さんのスマホを地面に叩き付け、踏み抜いた。


「っ……!」

「どんな伝手で入手したかは知らないが、お前には必要ないものだ。……私のカードで随分いい思いもしたんだろう? これまで遊ばせてやったんだ。今度はお前が家族の役に立つ番だ。織原、連れて行け」


 やめてっ、と叫ぶ揚羽さんの声は祭りの喧騒に溶けて消え行き、固い靴底で踏み抜かれたスマホは、鈍い音を立てて真っ二つに圧し折れた。


 その後に残るのは、背中を丸めた彼女の嗚咽だけで、男性はもう僕に見向きもせず去っていく。


 ──これが、僕と揚羽さんの別れ?


 一瞬だった。

 時間にしてみれば、五分と経たぬ間の出来事。余りにもあっさりと、そして僕たちの感情を無視した別れである。


 元から揚羽さんと僕は住む世界が違うなんて思っていたけれど、それはあくまでも外側の話。僕らは同じ気持ちを、同じ時間を共有したことで、繋がれたと思っていた。住む世界何か関係なく、同じ事で悲しんだり、同じ事で笑ったりすることが出来るのだとようやく理解出来たところだった。


 それなのに、こんな仕打ちはあんまりだ。こんなのはまるで、本当に生きる世界が違うと言われているようなものじゃないか。


 何も出来ない自分と、理不尽な現実。

 それ以外にも幾重にも重なり合った後悔が押し寄せてきて僕の足を浚っていく中で、僕の頭は意外にも冷静なまま、僕に「出来ることはない」、と現実を突き付けてくる。


 ……ああ、分かっている。


 突如として現れた男性は恐らく、彼女の、揚羽さんの父親だ。

 もしも今ここで僕が行動を起こしたところで、彼にはきっと敵わない。揚羽さんは彼の娘で、彼は揚羽さんの父親だ。その関係を引き裂くのであれば、明確に僕が社会のルールを破ることになる。そして社会のルールを破った上で社会のルールの範囲を逸脱しないのは、大人の得意技である。今この瞬間は正しく、僕には手も足も出せない状況だと言えた。


 ならば、揚羽さんが連れて行かれるのを、黙って指をくわえて見ているしかないのかと問われると、僕は全力で首を横に振り否定する。

 否だと叫ぶことが僕に出来る唯一のことだった。


「あ……、揚羽さんッ!」


 だから、叫んだ。


 去り行く彼女の背中に目掛けて、声を張り上げた。


 振り絞った勇気と声は震えていたが、その声は間違いなく彼女に届いた。


 けれど、揚羽さんは届いた声に足を止めただけで、振り返ることはなかった。


 それをどうして、と疑問に思うことはない。なぜなら、代わりにスーツ姿の男性が僕に近付いてきたからだ。


 別の世界に彼女を連れて行くなと訴えようにも、何者でもない僕には、その男性が放つプレッシャーに呻くことしか出来ない。この感覚は両親を、特に母さんを前にした時の感覚と同じだ。自分が絶対であることを信じて疑わず、思った通りでなければ許さない。こちらに有無を言わせる余裕の一つも与えない雰囲気は、全身から嫌な汗が噴き出す。


「……私たちが去った後で君が何をしようが、構わない。まあ、何が出来るか分からないけどもね。下手な真似はしない方がいい、とだけ言っておこう。あの子にも言ったが、それは君の為でもあるのだから。ここはお互い、飼い犬に手を噛まれたとでも思ってこれ以上の関与は避けるとしよう。何も褒めるところの無い娘だが、面だけはマシだ。それ以外になんの取柄もない女だが……、楽しんだんだろう? 君も、良い思いをしたんだろう。むしろアレは、その為だけのような存在だからな」

「違う! 揚羽さんは──」

「耳障りだ。黙りたまえ。聞きたくもない。要するに、君は今、魔法が解ける時間だ、と言う事だ。それをアレにも同じことが言えるな。君は納得するか、納得せずとも頷くことしか許されていない。ああそうだ、何かあればここに…………いや、君には必要、無いかっ」

「──光秀様。流石に、目立ったようです」

「観衆、か。放っておけ。先方がお待ちだ」


 あからさまに他者を、揚羽さんを見下した物言いを放つ男に、僕は口答えをせずにはいられなかった。どれだけ恐怖に支配されようとも、ここで黙っていられるほど、彼女に入れ込んでいないわけではないから。

 だが、僕の吠える声なんて彼には野良犬がキャンキャンと叫んでいるのとなんら変わりないのだろう。耳を傾ける素振りすら見せず、男は明らかに僕を見下した態度で言い放つ。


 そして漏れ聞こえた男性の名を聞いて、僕は確信を得る。

 彼こそが、アゲハグループホールディングス現社長の、揚羽光秀。揚羽美命の、父親なのだと。


 彼らはそれきり興味を失ったかのように僕を視界に映すことなく去っていく。

 ぽつんと取り残された僕は、ベンチに捨て置かれた自分のスマホを拾い上げる。暗い液晶には、いつもと変わらない自分が映る。


「……」


 結局、僕は何も出来なかった。

 打ちひしがれる権利すら無いまでに惨めな自分に、どうしようもないくらい反吐が出そうになる。


 別れの挨拶の一つすら交わすことも出来ずに、揚羽さんを尊重しない父親に言い返すことも出来ずに、彼女は連れ去られた。僕は完全に、部外者だ。いや、事実、そうなのだろう。僕と揚羽さんを繋ぐのは、共に希死念慮に駆られた者同士という細い線のみ。だけどもその頼りない線に縋り付く関係というのが、思いの外居心地が良くて、その関係性に胡坐をかいていたのかもしれない。


 命を吹き返したスマホの画面に映るいろ姉からの「楽しんでる?」、と言うメッセージを見て、僕はどうしようもないくらいの自己嫌悪に襲われた。


「こっちで確かに声が聞こえて──」


 呆然と立ち尽くしているだけだった僕の元に、そんな声と共に複数の足音が近づいてくる。


「……歩夢?」

「あぁ……、なんだ、陽人君か」


 祭りの喧騒から離れた場所に顔を見せたのは、全部ドッキリでした、と言う現実にしても面白くもなんともない僕の淡い期待を容易く裏切るかのような人物。揚羽さんでもなく、宮司や巫女でもない、陽人君を見て、僕は果てしない虚しさに駆られる。

 そんな都合の良い妄想など、意味がないのに。


 現実を、見るべきだ。

 見たくもない現実を。


 そして当然、彼がいると言う事は彼の取り巻きもぞろぞろと付いてくる。


 数分前までは僕と揚羽さんしかいない人口密度の低い場所だったのに、瞬く間に十数人が雪崩れ込んできたことに、僕は溜め息を零す他無かった。


「……なあ、おい。揚羽美命はどこ行ったんだ? 一緒だったんだろ?」

「やめろよ、なあ」


 一部始終とは言わずとも、彼女が連れて行かれるところでも見ていたのだろうか。


 僕に問いかけられた第一声は侮蔑や嘲りと言った軽薄さに満ち満ちており、ただでさえ空虚な気分が逆撫でされる。不快であることしか感じられない。

 僕個人を指しているのか、それとも揚羽さんを指しているのか、それとも、両方か。

 一人が口火を切った途端、陽人君を除くクラスメイト達による悪態で満たされていく。やれ、「あの子は悲劇のヒロインだから」とか、「要するに、住む世界が違うってことだろ?」とか、「奪われた、ってこと? ださっ」だの、言いたい放題だ。


 日頃から空気が読めず、集団に迎合できない僕らへの不平不満をここぞとばかりにぶちける彼らを前に、僕は何も言えずに俯いている。


 事実、その通りだから。

 僕は何も出来ないまま、揚羽さんを連れ去られた。


「…………」


 これがもし僕がアニメや映画の主人公なら、アゲハグループの社長に直接抗議する勇気や伝手を持っていて、彼女を解放しろ、と訴えたりするのだろう。

 こんな場面でもきっと、僕や揚羽さんを良く思わない彼らの胸を打つような情熱を訴えて味方につけたりするのだろう。

 だけど、残念ながら僕は、主人公ではない。


 僕では、揚羽さんを救い出すヒーローにも、濁った彼らの眼を晴らすことのできる光にもなれやしない。


「……揚羽さんは、君たちが思っているより、恵まれた人では無いよ」


 多分に怒りを込めた言葉は、彼らにとっては格好の餌にしかならなくて。


「え? なんだって?」

「声、ちっさ」

「もしかして、怒ったの?」

「引き離されたくせに、負け惜しみかよ」

「かっこわる……っ」

「お前らやめろよ! 歩夢は、俺の親友で……」


 陽人君だけは味方に回ってくれたようだが、僕と揚羽さんの話題で持ち切りになった彼らの耳に陽人君の声すら届かない。


 四方八方から飛び交う嘲笑に耳を閉ざした僕は、砕けた揚羽さんのスマホを拾い上げ、屋台飯の大量のごみを抱えて、彼らの横脇を逃げるように抜けていく。


 賑わいを見せる祭りの流れ逆らった僕は、帰り道の記憶などほとんど無いまま、家に辿り着くのであった。




「…………こんな、広かったっけ」




 七月も末。

 日曜の夜だと言うのに静けさに満ちた家の中はただ広く感じられて、僕はその日、泥のように眠りにつく。


 そして夏休みの間、揚羽さんが再び僕の元を訪ねてくることは一度もないまま、僕の高校二年の夏は、終わりを迎えるのだった。










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