17話
◇
七月も下旬に入り、学生諸子らは夏休み。
学生と社会人とで生活が大きく乖離するこの期間。
僕もまた例に漏れることのない学生である。それゆえに今は夏休みの真っ最中であると言うのに、両親は相変わらず帰って来ない。それが良いことなのか悪いことなのかは、判断しかねる。善悪の涵養とは、一生をかけて行うものだから。などと言ってみたは良いものの、果たして僕の一生が終わるまでにその善悪の区別を付けられるようになるのだろうか。
「ありがとうございましたー」
待ちに待った長期休暇──、と言っても僕にこれと言った予定はない。
変化と言えば、朝からバイトに精を出していることくらいだろうか。
結局、僕の唯一の友人である陽人君は夏休みの期間中、短期バイトとその他の友人と遊ぶ予定に板挟みにされ、僕との予定は何一つ噛み合うことが無かった。結果、僕はバイトの無い日はエアコンの利いた部屋でゴロゴロしているか、あてもなく散歩をしているかのどちらかであった。
夏休みが始まって二週間と経たないうちに課題の全てを終わらせたとあって、やることのない僕は着々と高校二年の夏を無駄に消費していっている。
そのことを揚羽さんに相談すると、「聞いてて悲しくなってくる」と言われて謎に同情されたのが、先週の思い出。
その揚羽さんもまた、夏休みに入っても相変わらず週末にバイト先にやって来ては、家に泊まりに来ている。すっかり習慣付いた一連の流れは僕らの生活の一部と化しており、夏休みでも変わらず揚羽さんは決まって毎週金曜日にバイト先であるカフェ【Sincerità】に遊びにやって来る。
「──そうだ、歩夢君。今週末、神社で夏祭りがあるだろう? 二人で行って来たらどうだい?」
週中。すっかり顔馴染みになった揚羽さんと僕の関係を執拗に探って来ようとするマスターに、店先に貼られたものと同じポスターを手渡されて勧められた話を伝言ゲームでそっくりそのまま揚羽さんに伝えると、揚羽さんは少しだけ悩む素振りを見せてから頷いて見せた。
その予想外の反応に、僕は慄かざるを得なかった。
てっきり、「めんどくさい」の一言で断られると思っていたから。
彼女が行くと言えば、僕に行かないと言う選択肢は無かった。
そうして来たるは日曜日。
僕らが足を運んだのは、近所で一番大きな神社である。
「結構ちゃんとしてるんだね」
「近くに住んでるのに、来たこと無いの?」
「行きたくなかったわけじゃないけど、一人じゃ、来ようと思わないからね。揚羽さんとだから、初めて来れたんだ」
駅前の掲示板なんかに貼られているのを毎年この時期になると見かけていたが、陽人君ともいろ姉とも来たことが無かった近所の神社の夏祭り。
一の鳥居から二の鳥居までの参道には両脇に屋台が並べられていて、神社の境内に入っても多くの人が
屋台を賑わせている。
時刻は十八時半。それも日曜日という訳で、最も人が集まる時間帯と言う訳なのか、子供連れにカップル、友人同士で来ている人々でごった返していた。
思えば、自殺の下見以外にこうして二人で出かけるなんて、初めてのことだ。初めてのことに緊張しているのは僕だけだろうか。
なんだか落ち着かなくて右に左にと視線を彷徨わせれば、浴衣や甚平と言った夏の装いで夏祭りを満喫する男女の姿が目に入る。僕はともかくとして揚羽さんの浴衣姿が見たくなかったかと問われれば、見たかったと頷かざるを得ない。叔母さんが着付けも出来るとの話だから今からでも、と思って横を見ると、
「えびせん、やきそば、わたあめ、からあげ、かきごおり、フランクフルト、チョコバナナ、肉巻きおにぎり、ベビーカステラ……」
この場の誰よりも集中力を発揮する人物がそこにいた。
人混みや僕の些末な緊張も後悔も意にも介すことなく屋台飯に夢中になる揚羽さんである。
神社の入り口に立って屋台の看板を睥睨する彼女の頭の中では、この場所から神社本殿に至るまでの道程を計算しているのだろう。スーパーコンピュータ―並みの演算技術から漏れ聞こえる限り、甘いのとしょっぱいのを行き来する永久機関まで模索しているようだ。抜かりない。
「楽しそうで何より──」
「集中してるから話し掛けないで」
「ごめん……」
切り捨て御免とばかりに封殺されても、僕の口元には笑みが浮かぶ。
本人には伝えていないが、食べ物を前にして瞳を輝かせる興味津々な揚羽さんの姿を見るのは、ここ最近の僕の密かな楽しみでもあったから。
自殺の下見と称して色々なところへ赴く傍ら、足を向けるのはその土地の観光名所。そこに並ぶ、よりどりみどりな特産品。死に場所を探して観光名所とは違う場所を歩き回った後で名物にありつく度に、彼女は心底楽しそうに目を輝かすのだ。
そんな彼女を見る度に、僕の脳裏にはある考えが顔を出す。
──揚羽さんが死ぬのを諦めてくれれば、もっと……。
そんな思いが強くなる度に、僕はその芽を摘んで回る。
揚羽さんの希死念慮は、抵抗の証。
それこそが揚羽さんの生きるということへの賛美でもあるのだ。それを否定することなどあってはならないというのに。
彼女の希死念慮があってこそ、僕と揚羽さんは繋がった。それが解消された暁には、この関係も一緒に解消されてしまう。
初めは少なくともそのことを願っていたはずなのに、今ではそれが達成されることに酷く怯えている自分がいる。
今の僕は、彼女の死を願うと同時に生を懇願するという二律背反の感情を抱きながら揚羽さんに付き纏っている。それが健全かどうか、分からないまま。
「──あんたは? 食べたいのとか、あるの?」
「うーん。たこ焼き、とか?」
彼女との関係が僕の自己承認を満たすバロメーターになってはいけない、と頭を振って余計な思考を跳ね除け、尋ねて来た揚羽さんの声を聞いて僕は我に返る。
夏祭りと言えば、の品を上げると、揚羽さんは「了解」と一つ頷き、歴戦の戦士が如き頼もしさを見せる。
「……よし。止まらずに行くから、はぐれないよう付いて来て」
食べ物を前にした揚羽さんは、目の色を変えて突き進んで行く。
……難しいことは考えず、とにかく今は目の前のことに集中しよう。
問題の先送りこそ、僕の得意とすることじゃないか。そう考えていると──
「あれ、揚羽さん?」
彼女の姿をすっかり見失ってしまう。
僕の耳にはまだ揚羽さんの「はぐれないでね」と言う声がこだましているというのに、僕はその声が薄れる間もなくはぐれてしまうのだった。
「……どうしよう」
初めての商業施設にテンションが上がった年少の子供より早く迷子になった僕は、人の流れに沿うように人混みの中を漫然と目的もなく歩いていく。そこかしこから立ち込める甘かったりしょっぱかったりする香りに誘われることもなく、人混みの中で揚羽さんの目立つ髪色を求めて視線を彷徨わせるばかり。
そうやって視線をうろつかせる理由としては、心細いという訳ではなく、一人で突っ走って行った揚羽さんが心配だからである。
その理由と言うのが、彼女に歯止めを掛けなければ、全ての屋台飯を二人前で買ってきてしまうからだ。
揚羽さんは自分の胃袋を平均的だと見積もっているため、僕にも同じ容量を詰め込もうとする。それを止めるために同行しようとしたのだが、このままでは僕は強制給仕を受ける羽目になってしまう。フォアグラの完成にまた一歩近づいてしまう。だから一刻も早く合流しなければならないのだが、
「──あれ? 歩夢?」
「は、陽人君……」
僕が見つけるよりも先に僕を見つける声がする。
濁流が如き人の波に揉まれる中で揚羽さんを探す僕に掛かった声に振り向くと、そこにいたのは大勢の友人に囲まれる陽人君だった。
「終業式ぶりじゃん! なんだよ歩夢! 来てるなら言ってくれよ!」
「ぐ、偶然……、だね」
陽人君は、僕の顔を見た途端に蕾が花開くかのごとく笑みを咲かせていく。
それが嬉しいような、嬉しくないような。
今この状況においては、「嬉しくない」に針が傾きそうであった。
どうやら夏休み中に遊ぶ約束が取れなくてショックを受けていたのは陽人君の方だったで、この場での遭遇は彼にとってみれば棚から牡丹餅らしい。表情から溢れんばかりの喜ぶ様に、僕は笑顔を保つのがやっとである。
その理由と言うのが、
「……なんで陰キャのくせに」
「……なんだよ、あの笑顔」
「……誘ったり、しないよな?」
「……おい。どうすんだよ、これ」
キラキラと眩しい陽人君の後ろで、祭りの電球に影を落とすような陰りが僕の目には見えていたから。
陽人君は性善説をその身に宿したかのような聖人であるがゆえに、人の好意にも、そして悪意にも鈍感である。その純粋さが彼の美徳ではあるのだが、そんな人ばかりが彼に寄ってくる訳でも、周囲がそれに染まるとは限らない。彼が素晴らしい人間だとしても、綺麗な花に虫が集るように彼の周りに集まった人達が綺麗な心を持っているとは限らないのだ。僕も、含めて。
そんな彼らを避けているつもりなのに、陽人君は僕を仲間に入れようとする。悪意が無いのが一番質が悪いとはよく言ったもので、陽人君は良かれと思ってやっているのだろうが、巻き込まれる側としてはたまったものではない。
だから、今、この瞬間。僕の脳内では光の速さで思考が巡っており、この後に待ち受ける場面をどう切り抜けるかの答えを揚羽さんのことなど二の次にしてまでも探し求めているのであった。
「──せっかく会えたんだから、一緒に祭り、回ろうぜ!」
想定通り。やはり来た。悪夢の誘いが。
これに頷けば周囲からの失意に塗れた溜め息と舌打ちに晒されること間違いない。かと言って首を横に振れば好意百パーセントで誘ってくれた陽人君の期待を裏切ることになる。その先に待っているのは、「陽人君の誘いを断るとか何様?」という周囲からの棘のある視線。
どちらに転んでも悪意に晒されるのは間違いないのだが、僕の頭は無謀にもどちらにも転がらない結果を求めて思考を続けた結果、どちらとも取れない反応を示すに至るのだった。
「えっ、あ……、う、えっ、と……」
「歩夢?」
予想通りに事が運んだとしても、完璧な受け答えを用意してあるとしても、その言動を取れるかどうかと言われたら、答えは「否」だ。
結局、僕に出来たのは、きらきらと期待に満ちた視線と、さっさと答えろよと言わんばかりの冷徹な視線に板挟みされたことで、完全にショートした頭で固まることだけ。
そんな、時だった。
「──歩夢」
ここ最近ですっかり聞き慣れた声。
けれど、聞き慣れない呼び名。
「あ、揚羽さん……!」
その場にいる全員が振り返った先で待っていたのは、両手両脇に大量の食べ物を手にした、揚羽美命その人だった。
彼女は「早く持て」と言わんばかりの眼差しで僕を睥睨して荷物を渡してくるし、僕はそれを黙って受け取らざるを得ない。
「境内の方で座れるみたいだから、行くよ」
「ちょっ……」
揚羽さんは陽人君やその周りのクラスメイト達に目もくれず再び人の波に消えて行く、揚羽さん。
「……今の、揚羽美命、だよな?」
「なんでこんな奴と一緒に……?」
「って言うか今、下の名前で……!」
興味は疎か視線すらも向けられなかったクラスメイト達が口々に今起こった出来事を理解しようと考え込むが、そこにノイズのように僕の存在が散る。お陰で、全員の顔に困惑の色がくっきりと見えていたが、僕はただひたすらに居心地の悪さとこの場から逃げ出す方法を探るので手一杯だった。
「~~~っ、ごめん、陽人君」
「あぁ、ちょっ?! 歩夢?!」
彼女が何も言わずに去ったと言うのは、後から追い付いてくるのが当たり前だと思われている証拠。もし来なかったら後でどんな顔して詰め寄られるのかが怖くなって、たった一人の友人への説明も置き去りにして、全員が揚羽さんの去って行った方向を見つめている隙に脱兎の如く人混みに紛れるのだった。




