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16話



 ──下らない演技は無しにして、あたしらはあたしらで実りある話をしようじゃないか。


「……」


 そう言ったおばあさんは現在、目の前のホットスナックに果敢に手を伸ばしている最中。


 色んな意味で置いていかれた僕は、身の丈に合わない高級ラウンジが如き娯楽室に自分がいることも、クラスメイトの女の子のおばあさんと二人きりにされるのもとにかく居心地が悪くてソワソワしていると、つまらなさそうな顔をしてホットスナックを食すおばあさんと目が合う。


「……別に、取って食いやしないよ。ほら、残りはあんたが食べな」

「えっ……」

「ジャンクなものが好きなのは本当だけどね、こんなもんは所詮、あの子の為の方便さ。あんたも、今までの子と同じで、あの子に無理くり連れて来られた質なんだろう? ほれ、小遣いをやるから、あの子との関係を話しておくれ」


 言いながら、拭った手で財布から取り出したのは一万円札。

 その余りにもな対応に、僕は思わず肩を跳ねさせる。

 そのおばあさんの行動にも驚いたが、おばあさんの声音にもだ。

 声音は穏やかだが、目だけは、笑っていなかったから。


「ええと……」


 アゲハグループと言う莫大な資本を持つ会社の社長、そして会長を歴任してきたと話を聞いていたが、揚羽さんの話では既に耄碌しているとの話だったはずだ。それがどうして、全てを見透かしたかのような鋭い眼光を宿しているのか。まだまだ現役だと言われても遜色ない目の輝きである。

 海千山千を乗り越えてきた人の研鑽は、たかだか数年ボケた程度では霞みもしないということだろうか。


 ……いやいや、僕は何を怯えているのか。

 僕は別に、おばあさんに隠し事をしているわけでは無い。これはただ、おばあさんの放つプレッシャーに気圧されているだけだ。後ろめたいことが無いのだから、堂々としていればいい。


「そのお金は、結構です。揚羽さんのことを話すだけですから」

「へえ……、驚いた。今までの男たちは、喜んでひったくっていくようなヤツばかりだったからね。でも、これは受け取ってもらうよ。帰りにあの子と、ご飯でも食べて帰りな」

「いや、でも……」

「このあたしに、財布から一度出した金を仕舞えと言うのかい? あんた、伊達じゃないね。いいから黙って受け取りな」

「は、はぁ」


 半ば押し付けられる形でくしゃくしゃになった一万円札を握らされ、置き場に困った右手を呆然と見つめていると、おばあさんから催促が来る。


「ほら、さっさと話を聞かせな。面白かったら、おひねり加えてあげるからさ」

「おひねりは結構です。でも、話くらいなら。それなら、最近揚羽さんと一緒に出掛けた──」


 揚羽さんにこれは言うなと口止めされているわけでも無し、僕はこれまでの二か月と少しの間に起こった彼女との思い出を語る。もちろん、自殺願望とか、希死念慮のこととか、彼女が暗く淀んだ社会を渡り歩いていたことは伏せて、語った。


 結論から言うと、僕には面白おかしく語る才能は無かった。


 けれども、おばあさんは最後まで僕の話を遮ることなく聞いてくれた。時折口を挟んでくれたのは、おばあさんの興味を惹けて、彼女の暇潰しになれたと捉えていいのだろうか。


「──そこの足湯カフェが、結構良かったんですよ。揚羽さんなんか、うなぎ屋さんでメニューの半分くらい頼んだのに、そこでもたくさん甘いものを食べていて」

「へえ。あの子は、よく食べるんだね」

「それで、今度は富士五湖の方に遠出してみないかって話をしていて……」


 おばあさんの小気味よい相槌に気持ち良くなって話を進めていると、不意に我に返る瞬間がある。おばあさんの反応を窺うようにチラリとそちらを見ると、おばあさんは溜め息を吐いた。やはり、興味を持ってくれたなんて言うのは僕の勘違いで、とにかく退屈だっただろうかと慌てて言葉を繕おうとするも、それはおばあさんの手で遮られる。


「……あんたは、人の顔色を窺い過ぎだね」

「え、っと……」

「あの子と……、美命とよく似ている。あんたら二人は、似た者同士ってやつだ。まあでも、あの子の場合は人の顔色を見てこれ以上言っては駄目だと理解していながら駄目な線の上を反復横跳びするようなもんだけどね」


 なんとなく、分かる気がする。

 彼女の口の悪さは折り紙付きだ。そのせいでトラブルになりがちだけども、それは決して彼女の心が悪だからということではない。揚羽さんはいつも間違ったことは言っていない。正論で相手を追い詰める。

 そこに悪意が無いとは言い切れないのだが、揚羽さんは的確に相手がわざわざ見ない振りをしている弱点にスポットライトを当てて相手の怒りを誘う。周りから見れば実に性格の悪い姿に映るだろうが、あれは彼女なりの防衛手段なのかもしれない。

 他に迎合することのできない揚羽さんは、例え孤立しようがそうやって生き延びることしか知らない。孤立ではなく、孤高の道を歩もうとする。社会への適応を、誰にも教わって来なかったから。


「……あの子には、悪いことをしたよ」

「おばあさんも、ですか?」

「も、ってことは、あの子から粗方聞いているのかい? それと、おばあさんじゃなく八重ちゃん、もしくは八重子さんと呼びな」

「それじゃあ、八重子さんで」

「ふん、意気地なしだね」

「良く、言われます」


 呵々、と笑いながら言う八重子さんにお茶のお代わりを所望される。

 お茶を手に戻ると、今度は代わって、八重子さんの話が始まった。


「……子の不始末は親の責任って言うだろう? 要するに、光秀(みつひで)の恥ずべき行いは、親のあたしがするべきなのさ」

「光秀?」

「あたしの息子であり、あの子の父親さ。あたしは、知っての通り仕事ばかりの人生だった。三十後半で旦那と出会って、四十であの子を産んだ。もう半世紀も前のことだ。今と比べて、当時は女性の社会的地位は高くなくてね、あたしは子供を産んで一度戦線離脱した身で、元の地位に戻るのに必死だったんだ。だからあの子の成長にほとんど携われなくてね。あの子は、母親の愛を知らずに育ったんだ。その分、旦那が愛情を注いでくれたんだろうけど、あの子はあたしを強く憎んでいるのだろうよ。あの子の家だって、元はあたしの物だったんだ。二十年前にあたしの旦那が死んだとき、あの子、なんて言ったと思う? 社長職を辞任して俺に譲れ、って言ったんだよ。仕事が全てだったあたしから、全てを奪おうって言うんだ」

「……旦那さんのことは、愛していたんですか?」

「愛して──……、いや。子供の前で取り繕う必要も無いか。……愛されてはいたが、あたしが本当の意味で旦那を愛していたわけじゃあないね」

「じゃあ、どうして」

「どうして結婚したんだ、って? そうだね……。一言で言うなら、あたしは、あの人のことを心の底から尊敬していたから、だね」


 八重子さんは、今日会ってから今に至るまでで一番穏やかな表情と、とても優しい眼差しで旦那さんのことを口にする。きっと今、八重子さんの頭の中では幸福だった記憶が渦を巻いていることだろう。


 八重子さんの旦那さん、ということはつまり、揚羽さんの祖父。社会経済の最前線から退いて数年が経ってもまだ気迫も牙も抜け落ちていないような八重子さんがこんなにも柔らかな表情を浮かべているのを見て、今日初めて会っただけに過ぎない僕であってもその旦那さんがどれだけ素敵な人だったかが手に取るように分かる。そんなおじいさんがもし生きていれば、揚羽さんの人生はまた違ったものだったかもしれない。


「あたしが美命とまともに会話をしたのは、あの子が十二歳の時の事だった。社長職を辞しても尚しがみついていた会長職を離れざるを得なくて、恨みを買った息子から自分の家を追い出されるようにしてこの施設に入れられた時に初めて、あの子と話したのさ。開口一番、あの子、なんて言ったと思う?」

「揚羽さんのことだから……黙って頷いた、とかですか?」

「へぇ……。あの子のこと、良く分かってるじゃないか。そうさ、あの子は突然、何の前触れもなく老婆の世話を押し付けられても、黙って頷くことしかしなかった。おばあちゃんっ子って訳でもないのにね。あの時あの子が浮かべていたあの目は、何故と問うても、無理だと言っても通じないと分かり切っているような、諦めに満ちた目の色だった。長いこと生きて来たけどあんな目を、あたしは見たことがなかった」


 希死念慮に囚われた者の特徴。光の無い、影だけが宿る暗い瞳の色。死を意識した人の目など、むしろ、一生目にしない方が普通である。


 八重子さんの話に思い出してみると、十二歳と言えばその頃にはもう、揚羽さんは自殺行為を試していたのではないだろうか。八重子さんの口調からして、それを知っている素振りは見えず、僕は黙って耳を傾けた。


「そこで、あたしは初めてあの子の置かれている状況を理解しようとした。当時の秘書に、最後の仕事だって言って調べさせたのさ。光秀たちはあたしの前じゃ本音を漏らさないからね。そしたら、出てくるわ、出てくるわ。我が子の目を覆いたくなるような育児放棄の実態がね。それに、だ。……あんたも知っているんだろ? 聞かされているんだろう? あの子が、自殺未遂をしたことも」

「っ!」

「……あんたは、これまでの男どもとは違う気がしてね。どこかで知ったのか、それとも、あの子から聞かされたのか。そこまで知ってる男は今までいなかったよ。あの子に、そのことを話してもいいと思える相手が出来たってのは良い傾向だと思う。あんたなら、共感してやれるんだろう? あたしには出来ないことだ。素直に喜ばしいよ。でもね、光秀たちは、娘が自殺未遂をしたことに関して、何の感傷も抱いていない。我が子が自らの命を断とうとしているってのに、あいつらは何も思わないのさ。……そんな風に育てちまったあたしが悪いんだろうけど、それは流石に、あの子が可哀そうだ。だからかね、その報告を聞いた途端、一気に老け込んじまったのさ」


 それは、八重子さんなりの独白だった。

 我が子の責任を、と言いたいのだろうが、その独白を聞いて僕が思ったのは、静かな怒りだった。


 ──かわいそう、なんて一言で済まされていい問題じゃない。


 けれど、どれだけ大きな怒りの感情を抱こうとも、僕は怒りの発散の仕方を知らない。それは静かに体の奥に積み重なっていくばかり。僕はテーブルの下で、固く拳を握る。

 知らない、と言う前提で話を聞いていたから僕は八重子さんに好意的な印象を抱いていたが、知っているとなれば話は別だ。一転して僕は俄かに嫌悪感すら抱き始めていた。


 死にたい。そう強く思うことがどれだけ苦しくて、どれだけ辛いことなのか、僕には八重子さんがそれを理解しているとは到底思えなかった。

 少なくとも五年も前から彼女の為に動いているのであれば、どうしてまだ揚羽さんがそんな思いを抱えているのか。僕には納得のいかない点が多すぎて、思わず怒りを湛えて八重子さんに尋ねてしまう。


「……知っているのに、何もしなかったんですか」


 しかし、これは僕の浅はかさが浮き彫りになったかのように八重子さんから答えが返って来る。


「……何も、出来なかったのさ」

「出来なかった?」

「あの子には、病院を勧めた。でもね、あの子は行きたがらなかった。病院に通い詰めてでも生きようと言う気力が、もう既に無かったんだろうね。先生も、安定している内は無理に連れてこようとしなくていいと言ってくれたけど、それはつまり、あたしに出来ることは何も無いってことさ。今はその経過観察の延長線上みたいなもんさ。言ってしまえば……、手遅れだったのさ」


 末期がんの患者に何をしても延命治療にしかならずに苦しみを長引かせるだけなのと同じように、八重子さんが気に掛けた時点で、既に揚羽さんの心は最早手の施しようがないほどに削れていたということだ。

 それをつい最近になって関わり始めたばかりの部外者である僕が今更直情的に怒りを口にするなんて何様だと思っているのか。

 そう思って謝罪と共に頭を下げると、八重子さんは「あの子の為に怒ってくれたんだろう?」と嬉しそうに笑っていた。


「……あたしが息子からも、義理の娘からも邪険に扱われているのは自業自得、あたし自身の身から出た錆だ、ってのは理解できる。……でも、あの子は違う。あの子は、何も悪いことをしていないじゃないか。何をどうしたら、あの子があそこまで傷付けられなくちゃいけないんだ……って思っても、差し伸べた手をあの子は拒絶する。もし掴んでくれたとしても、今のあたしじゃあの子を引っ張り上げてやる力も残っちゃいない。……孫一人の笑顔すら、守ってやれなかったのさ。不甲斐ないだろう? あたしは……」


 揚羽さんが言っていたことを思い出す。


 ──おばあちゃんの世話を押し付けられたの。


 だが実際には、自分の世話をさせることに八重子さんの願いが多分に含まれていたのではないだろうか。八重子さんなりに、揚羽さんを、彼女の家庭から救い出す目的で定期的にここに呼び出していたのではないだろうか。

 あのボケた振りも、彼女を不用意に警戒させないためのものだとすれば、納得できる。

 元を正せば八重子さんのツケが揚羽さんに回ってきていると言えるものだが、八重子さんは変わろうとしている。揚羽さんに果たしてそれが伝わっているのかどうか。……恐らくだが、彼女には伝わっていないのかもしれない。


 揚羽さんが祖母の八重子さんに似ているのであれば、きっと八重子さんは素直な人じゃないだろうから。


「──それはそうと」


 フッ、と息を吐いた八重子さんが、今度は身を乗り出す。

 口調を変え、声音を変え、空気までがらりと変わった様子に、一体何を言うのかと身構える前に八重子さんは嬉々として言葉を放った。





「──あんた、あの子のどこが好きなんだい?」




「ッ?! ──きゅ、急に、何を言って……?!」

「だって好きでも無けりゃ、一つ屋根の下に招き入れたりしないだろう? それは男でも女でも変わらんさ。きっとあの子もあんたのこと……」


 突如として叩き込まれた驚きふためく内容に、飲み込もうとした唾が道を逸れ気管にダイレクトしたことで噎せこんでいると、更に耳を疑うようなことが聞こえてくる。

 生き生きとした顔で恋バナに花を咲かせる八重子さんに対して、僕はなんとか息を整えて否定することができた。


「ち、違いますよ。揚羽さんはただ、その、なんて言うか……僕を、都合よく利用しているだけなので!」

「はぁ?」

「家に居たくない、家族に居場所を特定されたくない、って言うから、僕の家の寝床を貸しているだけで、恋愛感情とかそう言うのは関係ないって言うか……。そもそも、揚羽さんは彼氏と別れたばかりって言ってましたし……」


 僕の認識は、揚羽さんと出会った頃から変わっていない。揚羽さんが困っているから手を掴んだ。もちろん、寂しさを紛らわせるためだとか良い人に見られたいとか、そう言った下心はあったが、揚羽さんを女性として見たことは一度もないし、向こうもそのはずだ。

 揚羽さんはただ都合がいいから僕を利用しているだけに過ぎない。その認識で間違いないと思っていたのだが、八重子さんは僕の言葉を受けた途端、僕のこれまでの人生の中で遭遇したことのないくらい大きな溜め息を吐いた。


「はぁ~~~~…………。分かってない、分かってないね、あんた」

「な、何がですか」

「あたしの口から言うのは無粋ってもんだから黙っておくが、まずはその『揚羽さん』って言うのを止めな。あたしも『揚羽さん』、だからね」


 ここまで話して来て突如として八重子さんは呼び名に突っ掛かる。マスターもそうだが、どうして年配の人たちはみんな男女の関係を一つに絞りたがるのだろうか。要するに、八重子さんは僕に揚羽さんの下の名前を呼べ、と言うのだろう。


 いいだろう。彼女の下の名前を呼ぶ事くらい、朝飯前である。僕を辱めようとしたってそうはいかない。いやらしい笑みを浮かべて「ほら、早く」と催促するおばあさんの企みなど、男気溢れる僕にとっては屁でもない。


 だから──


「み──……、いや、でも」

「──かぁ~~~~~~ッ! 青い、青いねぇ……! 今更だけど、旦那が言ってたことが分かる気がするねぇ……」


 何故か湧き上がる羞恥心に思わず目線を逸らすと、葛藤する僕を見て八重子さんは楽しそうに膝を叩いて腰を浮かす。支え無しに立ち上がれないはずの体にみるみる生気が宿っているような気がするのは気のせいか。もしかして、吸われていたりしないよね?


 そう思っていると、僕のしがない思春期心を味わい噛み締めたモンスターはいじわるに口を歪めて告げてくる。


「青くさいのは良いが、そんなモタモタしてたらあの子の『初めて』は何一つ残っちゃいないかもしれないよ?」


 人の恋路を邪魔するどころかせっつかせるようなことを言いながら下世話な話を引き出そうとする八重子さんは、僕の目にはまるで悪魔のように見えて仕方がない。

 僕だって成人を間近に控えた思春期男子だし、性に関する知識は漏れなくついている。だからと言って、その醜い性欲を所かまわず向けるなんてはしたない真似はするはずもなくて。


「……初めてに価値があるのは知っていますが、僕はそれよりも……、誰かの最後になりたい。そう、思うんです」

「それは、美命のかい?」

「そ……っ、れは……」

「ああ、いい。答えなくていいとも。その顔を見ただけで、良く分かる。そりゃそうよな。好意が無けりゃ、他人を部屋に上げないものな。それも、異性を」


 否定も肯定もないところをすくった八重子さんは、満足そうに頷く。

 ここで却って八重子さんを相手にしたならば、僕は自分でも気づいていない感情を曝け出される、と察知して言葉を噤む。対人コミュニケーションにおいては、僕はどう転んだって八重子さんに対して勝ち目など無いのだから。黙ることが、この場を乗り切る唯一の方法だ。


 ……僕の気持ちは、後日整理をつけると言う事で。


「それにしても、最後になりたい、かい……」

「変なこと、言いましたか?」

「いや、なに、良いプロポーズだと思ってね。それは、あたしが旦那に堕とされたのと同じ口説き文句だよ。まさか半世紀以上が経ってから、ここで聞くことになるとは思いもしなかった」


 そう言って、左手薬指についた指輪を指でなぞる八重子さんは、先程までの悪魔や畜生に思えた表情が嘘のように消え、懐かしい過去を振り返るような穏やかな眼差しを見せる。


「……歩夢、とか言ったね」


 背筋が伸びる声で名前が呼ばれ、僕はついかしこまった返事をしてしまう。

 八重子さんの目に宿った光は、揚羽さんが言うようなボケが始まった気配は微塵もなかった。


「あんたは、暗闇を知っている。あたしらの知ってる闇とは違う、あの子と……美命が味わった絶望と同じものを知っているからこそ、あんたはあの子に寄り添える。だから、これからもあの子の傍で、あの子を見守ってやっておくれ」

「……はい」


 八重子さんは皮が張り付いて骨の浮いた手で僕の手を取り、優しく包み込む。

 しかし、僕は自信も無く頷くことしか出来なくて。それを見た八重子さんは、カッカ、と笑った。


「自信なんざ、後からついていくる。歩夢、あんたには、信頼できる大人はいるかい?」

「……尊敬できる人なら、います」

「それで十分だ。困ったらその人でも、なんだったらあたしでもいいから、好きに頼りな。大人ってのは、案外暇なもんなんだよ」


 言われて僕が思い浮かべたのは、マスターの姿。

 マスターはいつも言葉少なで寡黙な人だが、質問したり雑談を振ると、喜んで会話に乗ってくれる。それが暇だから、という訳ではないことは、僕にだって分かる。


 そう思って静かに考え込んでいると、背中から声が掛かった。


「──随分、仲良くなったんだ」

「あ、揚羽さん」

「あたしのことかい?」

「いやっ、ちがっ……!」


 手を握られたままの状態で肩を跳ねさせた僕を弄るように乗ってくる八重子さんを放って、揚羽さんは僕らを見下げる。


「……もう、帰るから」

「あ、うん」

「美命は、あたしと話すことは無いかい?」

「……家はいつも通り。ご飯は食べてる。学校は普通。……これでいい?」


 家族から振られる話題あるあるを、定型文で極めて短い会話時間に縮めるという手法を見せた清々しいまでに塩対応を一貫した揚羽さんに、八重子さんは笑って、僕は唖然とせざるを得ない。

 もう少し手心を、と思わなくもないが、それが二人の距離感ならば下手に口を出すのも憚られる。そんな僕の心配を他所に、八重子さんはこれまた生き生きとした輝きでクツクツと笑う。


「……ババア相手に嫉妬かい? あんたがそんなに執着するとはね」

「ハァ? ンなわけないでしょ。普通にダルい」

「だとさ、歩夢?」

「ええと……」

「あんたも! 耄碌したババアの言う事なんかまともに聞かなくていいから! ほら、さっさと帰るの!」


 今度は揚羽さんからもせっつかれていそいそと席を立つ僕を見て、八重子さんはこれまた楽しそうに笑っている。揚羽さんと共に戻って来た山崎さんに「ババアだってさ」と話し掛けては、「そうですね」と返されていた。

 そうして揚羽さんは八重子さんとまともに会話をすることもないまま僕を連れてエレベーターの前までやってきていた。


「……」


 僕と話している様子では八重子さんは心から揚羽さんのことを心配していたのが分かるが、その想いが揚羽さん本人に微塵も伝わっていないのが気に掛かる。


 家庭の事情に首を突っ込むことが野暮であることは分かっている。きっと認識一つ変わったところで、揚羽さんの人生が好転するわけでもない。けれども、そのきっかけにはなるかもしれなくて。

 そんな余計なお世話の代名詞とも思える行動を起こそうとエレベーターの到来を待っている間、苛立ちを隠さない揚羽さんに声を掛けるのを躊躇しては決心して、また躊躇するのを繰り返していると、再び背後から声が掛かった。


「──美命」

「……何。お見送りにでも来たの?」

「そんな殊勝な真似が出来るなら、家族にも嫌われてないよ」

「ハンッ、それもそうかもね」


 振り返った先では、山崎さんと杖に支えて立つ八重子さんで。揚羽さんは変わらず挑発するような態度で八重子さんを迎え撃つ。

 けれど、八重子さんはそんな彼女を歯牙にもかけず、穏やかに笑ってもう一度、彼女の名を呼んだ。


「美命」

「……だから、何」

「あんたは、決して一人なんかじゃないよ。それを、忘れないでおくれ」

「…………」


 それだけ言うと、八重子さんは返事も待たずに「あたしゃトイレに行きたかったんだ」とだけ言って去っていく。


 揚羽さんは無言のまま、開け放たれたエレベーターに乗り込んでいくのだった。




 ◇




「……あたし、おばあちゃんが嫌い」


 八重子さんの元から帰る道で。しばらく沈黙を貫いていた揚羽さんが不意に零したのは、不愉快さをこれでもかと詰め込んだ一言だった。それは、誰かに聞いてほしいとか、そんな細やかな願いが込められているわけでもなく、ただの独白のようであった。


 不満や不服、忌むべき何かを言葉に含んだ鬱憤が彼女の内から淀みなく零されていく。滾々と沸き出る負の感情を前に、僕は黙って相槌を打つことに徹した。


「──……、しわくちゃの顔が嫌い。骨と皮だけの手が嫌い。細くて貧弱な手足が嫌い。耳が遠いのも嫌い。そのために大きな声を出さなきゃいけないのも嫌。目が悪いのが嫌い。力が無いのが嫌い。口を開けば説教ばっかりなのが嫌。一度した話を何度も繰り返すところが嫌い。昔のことをずっと引きずっているのが嫌い。気を遣わないとすぐに不機嫌になるのが嫌い。プライドが高いのが嫌い。触って欲しくないのに触ろうとしてくるのが嫌い。一人ではご飯も満足に食べられないのも嫌い。一人ではトイレに行けないのも嫌い──」


 嫌い、嫌い、嫌い。嫌いの連続。


 おばあちゃん。

 揚羽さんが指して言う祖母を、僕は八重子さんしか知らない。


 その八重子さんの一挙手一投足が嫌いだと口にした揚羽さんの印象は、必ずしも全くの事実無根というわけではないことを僕は知っている。


 八重子さんがいかに獰猛な生気を漲らせた人だとしても、寄る年波に体が蝕まれている。どんな人であろうと、老衰には勝てるわけも無いのだから。だけれどもしかし、揚羽さんが蛇蝎の如く嫌っている両親のように、八重子さんから何かされたというわけでもないのにこうも露骨な悪感情を抱いていることに僕は違和感を抱かずにはいられなかった。


 もちろん、僕が揚羽さんの全てを、八重子さんの全てを知っているわけではない。もしかしたら僕の知らない部分に悪感情が芽生える所以があるのかもしれないが、揚羽さんのことを知って八重子さんのことまで知った今、どちらもそんな真似をするとは思えなかった。二人とも、良くも悪くも不器用なのだ。あるとすれば、ボタンの掛け違いのようなすれ違いだろう。


 そして恐らく、言葉の表面からでは彼女の真意を読み取ることは出来ない。


 揚羽さんの内側に積もり積もった鬱憤と言うのは八重子さんに対してではなく、全ての大人への不信感の表れでもあるように思える。


 その悪意に満ちた中で生まれ、そこで育まれた「敵意」が、最も近しい八重子さんに向けられているのではないだろうか。


「……」


 僕にも、彼女の気持ちが分からないわけでは無い。


 ただ漫然と生きている人であれば、「──年長者は敬うべき」という言葉を鵜呑みにして思考停止したまま受け入れるのだろう。だが、数ある人生の内で本当の意味で敬うべき年長者に巡り合えた人でなければ、その言葉は通用しない。


 普通の人であれば、両親や祖父母と言った身近な大人が尊敬や愛の対象に値するのだろうが、僕も揚羽さんも、揃って例外の家庭である。

 その点で言えば、僕は幸運だったと言える。


 叔母さんやいろ姉をはじめ、マスターのような僕に心を砕いてくれる大人と出会う事が出来たから。だけど、揚羽さんはそうでは無い。彼女はずっと一人だった。彼女の周りには、幼き彼女を利用しようとする悪い大人ばかりが群がっていたから。だから大人に敵意を向けた。


 もしも僕が尊敬する大人たちと巡り合えていなければ、僕もまた、揚羽さんと同じ考えを抱いていたかもしれない。大人とは敵で、老人とは憎悪の対象になっていたかもしれない。

 それがわかるからこそ、僕は揚羽さんの吐き出した鬱憤を否定も、肯定もしない。


 必要なのは、彼女の本音を引き出すことだ。


「揚羽さんは、八重子さんが……、お年寄りが嫌いなんだ」

「嫌い。あんな風には、なりたくないから」

「それなら、ならなければいい。何かになるより、何かにならない方が、僕は簡単だと思うよ」

「どういうこと?」

「反面教師という言葉があるように、人の振り見て我が振り直せって言うでしょ。揚羽さんが嫌うお年寄りの姿を克服した時、きっと揚羽さんは、素敵なお年寄りになると思う」

「……意味わかんない。そもそも、あたしはそうなる前に、死ぬつもりだし」

「そっか、そうだよね。……うん。やっぱり、揚羽さんが怖がっているのは、老いることだね。揚羽さんは八重子さんが嫌いなわけじゃなくて、年を取ることが怖いんだよ」

「……そう、なのかな」


 揚羽さんが怖がっているのは、老いだ。

 どうしてわかったんだ、とでも言わんばかりに目を瞠る彼女に僕は当然だろう、と笑みを返す。


「僕も、同じだからさ。……年を取るごとに、成長していくごとに、自分の体に流れる血の濃さを思い知るんだ。僕にとっては恐怖の対象でしかない両親に、少しずつ似ていくことが本当に怖い。まるで、朝起きる度に、自分が削ぎ落されて行っているみたいで、その度に……死にたくなる」


 ──親に似ている。


 誰かにとっての褒め言葉は、誰かにとって最大の悪口でもある。


 僕にとってそれは喉から手が出るくらい欲しくても、誰からも言ってもらえなかった言葉。

 彼女にとってそれは唾棄すべき賞賛の言葉であり、否定することも許されない言葉。


 行き過ぎた拘泥によって心が置き去りにされるその言葉は、肯定も否定もされずに心に深く刺さって抜けない呪いの言葉のようですらあった。


「っ! そう、あたしも、同じ……。学校とかでも、ふとした拍子に、あいつらの片鱗を思わせる何かがあたしの中で蠢くの。それが、どうしようもないくらい、気持ち悪くて……」


 これがもし、僕たちが大人になって人の親にでもなった場合、この衝動はさらに顕著になるだろう。僕の場合は両親を殺したい程憎んでいるわけでは無く、極度の苦手意識が植え付けられているため嫌悪感で留まっているが、揚羽さんのように殺意にも近い憎悪を抱いている場合、少しでも面影が重なった瞬間、親としての自覚も責任すらも放り捨ててしまいかねない。


 それらはあくまでも可能性。推察の域を出ない。あるかもしれない未来など心配するだけ無駄だと言うのは分かっている。けれど、限りなく低い可能性だとしても、血がそれを証明している以上、僅かな可能性すら生じていることに激しいストレスを覚えるのだ。

 蛙の子は蛙であることに違いはない。


 だから僕らは大人になることを拒み、速やかな死を願うのだ。


「……ねぇ、今日はもう少し、話さない?」

「奇遇だね。僕もそう思ってた。お小遣いもらったから、どこか食べに行こうよ」

「もっとふんだくってくればよかったのに」

「僕はそんなに食べられないよ」


 遠く、手の届かないものだと思っていた死が思いの外近くにあることを知った。


 けれども、胸に蟠る無数の苦痛も一人なら耐えられなくとも、二人なら少し軽く思えるようになっていた。







個人的にこの話が一番好きです。

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