小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第十話
第十話 月下の推理、消えた包みの行方
その夜、芝居小屋の客席には、いつもより少し早く人が集まっていた。
『白鷺城の月』は、評判を聞きつけた客を呼び寄せている。舞台の上では、白鷺主膳が疑いに揺れ、天守の女が白い衣をまとって現れる。
しかし、舞台袖に立つ宗二郎の顔には、いつもの芝居への誇らしさがなかった。
彼は、客席の歓声を聞いても笑わなかった。
小室泰六と和田進一は、開演前の舞台裏を訪れていた。
「宗二郎先生。今日は、あなたに確かめたいことがあります」
進一が言った。
「失くした紙のことですね」
宗二郎は、すぐに答えた。
「ええ。それから、久保田源次さんが、あなたに会おうとしていた可能性についても」
宗二郎の顔色が変わった。
「源次が……私に?」
「まだ、あなたに会う約束だったと決まったわけではありません。ただ、源次さんは事件の夜、届け物を持って芝居小屋へ来ていました。そして、別の人物と会うつもりだったとも話しています」
泰六が続けた。
「その人物の名を、彼は明かそうとしませんでした」
宗二郎は、しばらく黙っていた。
やがて、舞台袖の椅子に腰を下ろした。
「……源次とは、以前、一度だけ話をしたことがあります」
「どのような話ですか」
「私が、ある人物について調べていたときです。昔の芝居に関わった人で、今はもう、この町にはいないと思っていました。ところが、源次が、その人の消息を知っているかもしれないと言ったのです」
進一は、静かに尋ねた。
「その人物が、失くした紙に関係しているのですか」
宗二郎は目を伏せた。
「ええ。紙には、その人が誰かを待ち続けていたことを書いていました。名前は書いていません。ただ、私自身が忘れてはいけないと思ったことを、書き留めていたのです」
「源次さんは、その紙の存在を知っていた?」
「知っていたかもしれません。ですが、紙そのものを見せたことはありません」
泰六は、宗二郎を見つめた。
「では、源次があなたに会おうとしていた可能性はあるわけだ」
「……はい」
宗二郎は、苦しそうにうなずいた。
「ただ、私は、彼と会う約束をした覚えはありません。もし彼が私に話したいことを持っていたのなら、それは私の知らないところで決まったことです」
進一は、その言葉を慎重に受け止めた。
源次が会おうとしていた相手が宗二郎だった可能性は出てきた。だが、二人が約束を交わした証拠はない。
「先生」
進一は言った。
「あなたが紙を失くしたことと、源次さんが傷を負ったことが、同じ理由で起きたとは限りません。ですが、もし何かご存じなら、源次さんが話せるようになったとき、彼の言葉を聞いてあげてください」
宗二郎は、しばらく進一を見つめていた。
「……わかりました」
*
宗二郎と別れたあと、泰六は舞台の道具置き場へ向かった。
弥助が、先日見せた小箱を棚から取り出している。
「この箱を、もう一度見せてほしい」
泰六が言うと、弥助はうなずいた。
箱の蓋は、まだ少し浮いていた。修繕に必要な金具は、源次が届けるはずだったものだ。
「この箱は、事件の夜もここにあったと言ったな」
「はい。私は、そう思っています」
「箱の中の紙は、いつ入れた?」
「芝居の稽古を始める前です。古い書状に見えるよう、宗二郎先生が作ったものを入れました」
「それ以降、誰かが取り出したことは?」
「私は知りません」
泰六は、箱の内側を確かめた。紙は折り畳まれ、箱の底に収まっている。
「この紙を、誰かが宗二郎の失くした紙と取り違える可能性はあるか」
弥助は首を傾げた。
「どうでしょう。見た目は似ているかもしれませんが、書かれていることはまるで違います。宗二郎先生の紙は、もっと個人的なものだと聞いています」
「誰から聞いた?」
「先生が探しているのを見た者が、そう言っていました。ただ、私は中身を見ていません」
泰六は箱を閉じた。
「わかった。箱を動かした者がいるかどうか、今後も気をつけておいてくれ」
弥助は、少し不安そうにうなずいた。
舞台用の箱は、まだそこにある。
消えたのは、箱ではない。
その中身でもない。
少なくとも、今のところは。
*
夕刻、二人は診療所を訪れた。
源次は、寝台の上で上半身を少し起こしていた。顔色はまだよくないが、前よりも言葉がはっきりしている。
「源次さん。今日は、事件の夜のことを、もう一度だけ伺いたいのです」
進一が言った。
「はい」
「あなたは、芝居小屋へ品物を届けるために出かけました。それとは別に、誰かと会うつもりだった。そうでしたね」
源次はうなずいた。
「ええ」
「その相手は、宗二郎先生ですか」
源次は目を見開いた。
しばらく黙ったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうです」
泰六は、表情を変えなかった。
「なぜ、初めからそう言わなかった」
「先生に迷惑をかけたくなかったのです。私は、ある人の消息について、先生に伝えようと思っていました。その人は、長い間、誰かを待っていたのです」
「その人物は、宗二郎が書き留めていた紙に関わる人か」
「おそらく、そうだと思います。私は紙の中身を見ていません。ただ、先生がその人を探していることは、以前の話から知っていました」
進一は、静かに尋ねた。
「源次さんは、その人の消息をどこで知ったのですか」
「商いの途中です。古い知り合いから聞きました。詳しいことを確かめるために、宗二郎先生に会おうと思ったのです」
「では、事件の夜、裏口へ向かったのは?」
「届け物を渡し、それから先生を探すつもりでした。ですが、裏口へ着く前後のことが、どうしてもはっきりしないのです」
「誰かに会いましたか」
「……誰かがいたような気はします。けれど、顔は見ていません」
「長い包みを持った人物を見たか」
源次は、目を閉じた。
「それは……自分の包みだったのかもしれません。私は、届け物を持っていましたから」
泰六は、しばらく源次を見つめた。
「では、三吉が見た男は、あなたである可能性がある」
「はい。そうかもしれません」
「しかし、三吉は顔を見ていない。したがって、あなたであったと断定することもできない」
「ええ」
源次は、悔しそうに唇を噛んだ。
「私は、何も覚えていない。誰かに傷つけられたことは確かでも、その相手が誰だったのか、何をされたのか、わからないのです」
進一は、源次の手を見た。
男の指先は、布団を握りしめていた。
「源次さん。あなたが覚えていないことを、無理に思い出す必要はありません。ただ、もし、何か思い出したことがあれば、どんな小さなことでも教えてください」
源次は、深くうなずいた。
「……ありがとうございます」
*
診療所を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
進一は、歩きながら泰六に言った。
「源次さんが会おうとしていた相手は、宗二郎先生だったのですね」
「そうだ。これで、二人の間に接点があったことはわかった」
「しかし、源次さんが傷を負った理由は、まだわかりません」
「その通りだ」
泰六は、足を止めた。
「我々が知っていることを整理しよう」
進一は、黙って聞いた。
「源次は、芝居小屋へ金具を届けるために出かけた。同時に、宗二郎へ伝えたい消息があった。三吉は、長い包みを持つ人物を見たが、顔は見ていない。源次は、傷を負った瞬間に刃を見ていない。医師も、刀による傷とは断定していない」
「それから、宗二郎の紙が失くなっている」
「そうだ。だが、紙が失くなったことと、源次が傷を負ったことが、同じ人物によるものだという証拠はない」
泰六は、街灯の下で手袋を直した。
「進一。ここまで来て、我々が最も気をつけなければならないことは何だと思う」
「……自分たちの推理に都合のよいように、証言をつなげてしまうことです」
「その通りだ」
泰六は、わずかにうなずいた。
「物語を作るのは簡単だ。だが、事実を見つけるのは難しい」
進一は、源次の言葉を思い返した。
誰かを守りたい。
誰かを傷つけたくない。
その思いが、事件を複雑にしているのかもしれない。
しかし、それだけでは、傷の理由を説明できない。
「泰六さん。源次さんは、誰かをかばっているのでしょうか」
「そうかもしれん。だが、彼が守ろうとしている人物が、事件に関わっているとは限らない」
「……わかりました」
泰六は、芝居小屋の方角を見た。
「明日、最後の確認をする。源次の傷と、現場の状況。そして、消えた包みの行方だ」
「それで、真相が見えてきますか」
「見えてくるかもしれん。だが、まだ断言はしない」
遠くから、芝居小屋の三味線の音が聞こえてきた。
今夜も、白鷺城の天守には白い女が立っている。
彼女は誰かを待っている。
その姿を見た観客は、彼女が復讐を望んでいるのか、それとも忘れられたことを悲しんでいるのか、思いを巡らせるだろう。
だが、現実の人間は、舞台の登場人物ほどわかりやすくはない。
誰かを守ろうとして嘘をつく者もいる。
自分の秘密を守るために、他人を疑わせてしまう者もいる。
そして、何も語らずにいることで、かえって誰かを傷つけてしまう者もいる。
泰六は、静かに言った。
「明日、事件の形を決めよう」
進一は、うなずいた。
その言葉には、解決を急ぐ焦りよりも、誤った答えを出してはならないという決意があった。
月は雲の切れ間から、かすかに姿を見せていた。
真相は、まだその光の外にある。
だが、二人はもう、ただ暗闇を歩いているわけではなかった。




