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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -  『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第九話

第九話 約束の刻、裏口に消えた影



 神田の町に、夕暮れが近づいていた。


 店先では、売れ残った品を片づける者があり、長屋の路地からは夕餉の支度をする匂いが流れてくる。


 芝居小屋の前には、今夜の『白鷺城の月』を待つ客が、少しずつ集まり始めていた。


 その賑わいを横目に、和田進一は小室泰六とともに、裏通りを歩いていた。


「源次さんが会おうとしていた人物。あの人は、なぜ名前を言わなかったのでしょう」


 進一が尋ねた。


「名を口にすれば、その者に迷惑がかかると考えているのだろう」


「その人が、源次さんを傷つけたのでしょうか」


「そう考えることはできる。だが、傷つけた相手をかばっているのか、別の事情を知られたくないのか、それとも事件とは関係のない秘密なのか。今のところ、どれとも決められん」


 泰六は歩みを止めなかった。


「秘密があることと、罪があることは別だ。そこを混同すると、推理はたちまち人を裁く道具になる」


 進一は、その言葉を胸に刻んだ。


 二人が向かっていたのは、源次が普段、細工道具や金具を扱っている小さな店だった。事件の夜、彼がどこから来て、どこへ向かおうとしていたのか。その足取りを確かめるためである。


     *


 源次の店は、通りから少し奥まった場所にあった。


 戸口には、釘や蝶番、細工用の小さな金具が並んでいる。店の奥では、若い男が木箱の蓋を修繕していた。


「久保田源次さんのお店でしょうか」


 進一が声をかけると、若い男は手を止めた。


「はい。主人は今、休んでおりますが……」


「私たちは、源次さんが怪我をされた件について、少し事情を調べています」


 男の顔が曇った。


「主人は、助かるのでしょうか」


「医師の話では、命は助かったそうです。ただ、まだ無理はできないとのことでした」


 進一が答えると、男はほっと息を吐いた。


「よかった……」


 その声には、商売上の損得とは別の安堵があった。


「あなたは、源次さんのところで働いているのですか」


「手伝いをしております。名は清吉と申します」


「事件の夜、源次さんが出かける前に、何か話をしましたか」


 清吉は、しばらく考えた。


「ええ。芝居小屋へ品物を届けると言っていました。それから、帰りが遅くなるかもしれないとも」


「それ以外には?」


「……誰かと会う約束があるようでした」


 泰六の目が、わずかに鋭くなった。


「誰と会うのか、聞いたか」


「いいえ。主人は、仕事のことと私事を、きちんと分ける人でしたから」


「出かけた時刻は覚えているか」


「日が傾き始めた頃です。私は店の片づけをしていました」


「源次が持っていった物は?」


「金具を入れた包みです。布でくるんでいました。大きな荷物ではありませんでしたが、細長い形をしていました」


 進一は泰六を見た。


 三吉の見た長い包みと、同じものなのだろうか。


 だが、ここでも断定はできない。細長い包みを持つ者が二人いた可能性もあるし、三吉の見た男が源次本人だった可能性も、別人だった可能性も残っている。


「その包みの端から、何か見えていましたか」


 泰六が尋ねた。


「いえ、よく覚えていません。布で巻いてありましたから」


「わかった。では、源次が帰ってきたことは?」


「帰っていません」


 清吉は、目を伏せた。


「だから、心配していたのです。翌朝、主人が怪我をして運ばれたと聞いて……」


 声が途切れた。


 進一は、すぐには次の質問をしなかった。


 主人の身を案じる若い男にとって、事件は推理の材料ではない。毎日顔を合わせていた人が、突然、血を流して倒れたという出来事なのだ。


「お話しいただいて、ありがとうございました」


 進一が言うと、清吉は深く頭を下げた。


     *


 店を出た二人は、近くの小さな茶店に入った。


 泰六は茶をひと口すすり、進一に尋ねた。


「どう思う」


「清吉さんは、源次さんが誰かと会う約束をしていたことは知っていました。でも、相手の名前までは知らないようでした」


「そのように見えたな」


「源次さんが持っていた包みは、三吉の見たものと似ています。ただ、三吉は顔を見ていない。包みを持った男が源次さんだったと、まだ言い切れません」


「よろしい」


 泰六は茶碗を置いた。


「では、もうひとつ考えよう。源次が芝居小屋へ品物を届ける目的で出かけたことは、清吉の証言で裏付けられた。だが、源次が裏口に到着してから何が起きたかは、まだわからん」


「誰かと会ったのか。それとも、会う前に襲われたのか」


「そうだ。そして、届け物が受け取られなかった理由も不明だ」


 進一は、湯気の立つ茶碗を見つめた。


「源次さんは、包みをなくしたことよりも、会うはずだった人物のことを話したがらないようでした」


「そこが気になるのだな」


「はい。品物がなくなったことなら、商売上の損失です。でも、あの人は、誰かが傷つくことを恐れているように見えました」


 泰六は、しばらく考えた。


「それは、人間を理解するための手掛かりにはなる。だが、犯行を解く証拠とは限らん」


「わかっています」


「いや、わかっていても、忘れやすいことだ。人の悲しみを見れば、その悲しみを生んだ理由まで、こちらが補ってしまいたくなる」


 進一は、黙ってうなずいた。


 泰六は続けた。


「我々は、源次が何を恐れているのかを知る必要がある。だが、それを知ることと、彼が襲われた理由を知ることは、別の仕事かもしれん」


     *


 茶店を出ると、二人は再び芝居小屋へ向かった。


 裏口では、舞台番の源吉が、明日の公演に使う道具を運んでいた。


「源次さんの届け物について、もう少し確認したい」


 泰六が声をかけると、源吉は荷を置いた。


「何でしょう」


「源次が来たとき、受け取るはずだった金具は、舞台の小箱に使うものだったな」


「はい。弥助が頼んだものです」


「源次は、その箱を見たことがあるのか」


「そこまではわかりません。ただ、金具を頼まれたのなら、修繕する箱のことは聞いていたかもしれません」


「箱の中身について、何か知っているか」


「芝居の小道具です。古い文書を入れておく箱ですが、中身は舞台用の紙です」


「その箱は、事件の夜、どこにあった?」


「道具置き場にあったはずです。稽古で使うとき以外は、そこに戻しますから」


「誰でも持ち出せるのか」


「裏方なら、必要に応じて持ち出すことはできます。ただし、持ち出した者がいれば、普通は戻したこともわかるものです」


 泰六は、源吉を見た。


「その箱が、事件の夜に一時でもなくなったことは?」


「いいえ。そんな話は聞いていません」


「では、宗二郎の失くした紙については?」


 源吉は、顔を曇らせた。


「先生が探しておられることは知っています。ですが、どこへ行ったのかは……」


「誰かが、紙を探していた様子はなかったか」


「それは……」


 源吉は口をつぐんだ。


 泰六は急かさなかった。


 やがて、源吉は小さく息を吐いた。


「事件の夜ではありませんが、宗二郎先生が裏口の辺りを探しておられるのを見ました。何か落としたのかと思いましたが、声をかける前に、先生は舞台の方へ戻ってしまいました」


「何時頃だ」


「正確には覚えていません。稽古が終わった後だったと思います」


「そのとき、何を探していたか、聞かなかったのだな」


「はい」


 泰六は、うなずいた。


「わかった。話してくれてありがとう」


 源吉は、荷を持ち直した。


 二人がその場を離れようとしたとき、進一がふと振り返った。


「源吉さん。宗二郎先生が探していたものは、紙だったと思いますか。それとも、別の物だったと思いますか」


 源吉は、困ったように首を振った。


「遠くから見ただけです。何を探していたのか、何もわかりません」


「そうですね。失礼しました」


 進一は頭を下げた。


 泰六は何も言わなかったが、進一の問いを咎めもしなかった。


 問いを投げることは必要だ。だが、答えが得られなかったとき、その空白を想像で埋めてはならない。


     *


 日が暮れ始めた頃、二人は芝居小屋の裏手で立ち止まった。


 壁際には、昨夜と変わらぬ古い染みが残っている。


 進一は、そこを見つめながら言った。


「源次さんがここで傷を負ったことは確かです。しかし、誰が、何を使って傷つけたのかは、まだわからない」


「そうだ」


「三吉の見た長い包みは、源次さんが持っていた包みだった可能性があります。でも、別の人物だった可能性も残っている」


「その通りだ」


「宗二郎先生の紙も、源次さんの届け物も、まだ見つかっていない」


 泰六は、静かにうなずいた。


「だが、ひとつ、はっきりしたことがある」


「何でしょう」


「源次は、仕事のために芝居小屋へ向かった。そして、誰かと会う約束もしていた。少なくとも、その二つは同じ日の行動だった」


 進一は、息をのんだ。


「つまり、源次さんは、届け物を渡すだけでなく、別の目的も持っていた」


「そうだ。ただし、二つの目的が同じ相手に向けられていたのかは、まだわからん」


 泰六は、路地の奥を見た。


「我々は、これまで、消えた物を追いかけてきた。だが、物が消えた理由を知るには、その物を持っていた人間が、何をしようとしていたのかを知らねばならん」


 進一は、源次の言葉を思い出した。


 その人にも事情がある。


 私が何もかも話せば、別の人まで傷つくかもしれない。


 源次が守ろうとしているのは、誰なのだろう。


 そして、その人物は、事件の夜、どこにいたのだろう。


 そのとき、芝居小屋の中から、三味線の音が聞こえた。


 今夜の公演が始まるらしい。


 舞台では、白鷺主膳が疑いに苦しみ、天守の女が月の光の下に現れる。


 彼女は、誰かを待っている。


 だが、現実の路地で待っていたのは、誰だったのか。


 泰六は、進一に言った。


「明日、もう一度、宗二郎に会う」


「失くした紙について、ですね」


「ああ。今度は、紙に書かれていた内容だけでなく、彼が誰に読まれることを恐れていたのかを聞く」


 進一は、ゆっくりとうなずいた。


 事件の真相は、まだ見えない。


 しかし、消えた包みを持っていたかもしれない男と、失くした紙を探していた作家と、誰かを傷つけたくないと願う商人。


 それぞれの道は、少しずつ近づいていた。


 月は、まだ雲の向こうに隠れている。


 けれど、夜が深まれば、いずれその姿を現すだろう。


 その光が照らし出すのは、罪の形だけではない。


 誰かが守ろうとしたもの、誰かが失ってしまったもの、そして、言葉にできなかった思いもまた、そこにあるはずだった。


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