小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第八話
第八話 包みの中の、もうひとつの顔
翌朝、神田の町には、薄い霧が残っていた。
夜明け前の雨が石畳を濡らし、軒先から落ちる雫が、道の端に小さな水たまりを作っている。
小室泰六は、芝居小屋へ向かう道を歩きながら、昨夕の三吉の言葉を思い返していた。
包みの端から、木の色か、金色のようなものが見えた。
それが本当に見えたのか、記憶が後から形を変えたのか。今のところ、確かなことは何もない。
だが、確かでないからといって、初めから捨ててよいわけでもなかった。
「泰六さん」
隣を歩く和田進一が言った。
「昨日の三吉の話、気になりますね」
「気になることと、証拠になることは別だ」
「ええ。ただ、源次さんの包みには金具や細工道具が入っていた。もし三吉が見た色が金具だったなら、話がつながるかもしれません」
「かもしれん。だが、木の色だった可能性もある。包みの中身を確かめるまでは、どちらとも言えん」
泰六は、濡れた石畳を避けるように歩いた。
「我々が探すべきは、三吉の記憶に合う物ではない。実際に源次が届けようとしていた物だ」
「物を先に調べるわけですね」
「人の記憶は、問い方ひとつで変わる。だが、物の形や傷は、こちらの都合に合わせて変わってはくれん」
進一は、なるほどとうなずいた。
*
芝居小屋の帳場では、舞台番の源吉が待っていた。
「久保田源次が届けるはずだった品について、受け取り先がわかりました」
源吉は帳面を開いた。
「細工道具の一部は、舞台で使う小道具の修繕に回す予定だったそうです。受け取るのは、道具方の弥助という男です」
「弥助は、今どこにいる」
「朝のうちに来るはずですが……」
源吉が言い終わらぬうちに、廊下の向こうから足音がした。
「呼びましたか」
現れたのは、三十前後の男だった。袖をまくり、指先には木屑が付いている。
「道具方の弥助です」
泰六は名乗りを受けると、源次の届け物について尋ねた。
「源次さんが届けるはずだった品を、あなたが受け取ることになっていたそうだな」
「はい。舞台道具の修繕に使う金具を頼んでいました。ですが、まだ受け取っていません」
「源次が来たことは知っているか」
「昨日、源吉さんから聞きました。裏口まで来たそうですが、私が別の用事で席を外していたため、渡せなかったらしいと」
「その後、源次に会ったか」
「いいえ。会っていません」
弥助は、ためらいなく答えた。
「包みを見たこともない?」
「ありません。受け取っていないのですから」
泰六は、男の手を見た。
指先には木屑が付いている。道具方ならば、不思議なことではない。
「あなたは、舞台で使う刀の手入れもするのか」
「刀の手入れというほどのことはしません。柄の緩みを直したり、鞘を調整したりすることはありますが、刃を研ぐ仕事ではありません」
「舞台用の刀には、どのような種類がある?」
「木刀もありますし、金属製のものもあります。見栄えをよくするための飾り刀もあります。ただ、役者が振り回すものですから、刃が鋭いものは使いません」
「それでも、人を傷つけることはあるだろう」
「もちろんです。重い物が当たれば怪我をしますし、刃のある道具なら、切れ味がなくても皮膚を傷つけることがあります」
泰六は、短くうなずいた。
「源次の傷は、刀によるものと断定されていない。あなたは、そのことを知っていたか」
弥助の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
「……いいえ。そんな話は初めて聞きました」
進一は、その反応を見逃さなかった。
しかし、それだけで弥助を疑うことはできない。驚いたのかもしれないし、何か別のことを考えたのかもしれない。
泰六も、すぐには追及しなかった。
「わかった。では、あなたが受け取る予定だった金具について、もう少し詳しく聞かせてほしい」
*
弥助は、道具置き場へ二人を案内した。
そこには、木箱や布袋が積み上げられていた。舞台で使う小道具は、役者が手にする刀や扇だけではない。壁に掛ける飾り、机に置く文箱、古びた巻物、見せかけの宝石まで、さまざまな物が並んでいた。
「源次さんに頼んだのは、留め金です。舞台で使う小さな箱の蓋が緩んでいたので、直すために」
弥助は、木箱をひとつ取り出した。
「これです。蓋が開かないよう、金具を付け直す予定でした」
泰六は箱を手に取らず、まず外側を観察した。
木目は古く、角には擦れた跡がある。蓋の一方は少し浮いていた。
「この箱は、芝居のどこで使う?」
「白鷺主膳が、古い文書を取り出す場面です。筋の上では重要な物ですが、中に入っているのは紙切れだけですよ」
「その紙は?」
「芝居の道具として作ったものです。大した内容はありません」
弥助は、箱を開けてみせた。
中には、折り畳まれた紙が一枚入っていた。紙には古い書状らしい文字が書かれているが、舞台の客席から読めるものではない。
「この箱は、いつから使っている?」
「ずいぶん前からです。今回の芝居のために新しく作ったものではありません」
「この箱の金具が壊れたのは、いつだ」
「三日前です。稽古のときに蓋がうまく閉まらなくなりまして」
「それから、箱はどこに置いていた?」
「道具置き場です。稽古のときは舞台へ出しますが、それ以外はここに戻します」
泰六は箱の蓋を眺めた。
「源次が届けるはずだった金具は、この箱のためのものだったのだな」
「はい」
「では、源次が来たとき、あなたはこの箱の修繕をしていたのか」
「いえ。私は別の道具を直していました」
「その道具は?」
「舞台の飾りです。壊れた留め具を直していました」
泰六は箱から視線を外した。
「その飾りを、今見せてもらえるか」
弥助は少し戸惑ったが、奥の棚から細長い木製の飾りを取り出した。金色に塗られた縁取りがあり、端の部分には小さな金具が取り付けられている。
「これです。壊れていた留め具を直しました」
進一は、その飾りを見つめた。
金色の縁が、窓から差し込む光を受けて鈍く輝いている。
三吉が言った、包みの端に見えたかもしれない色。
だが、それだけでは何の証明にもならない。
「このような物を、布で巻いて運ぶことはあるのか」
泰六が尋ねた。
「あります。塗装が剥がれないよう、布で包むことはありますね。ただ、これは長いので、腕に抱えることもあります」
「なるほど」
泰六は、飾りの長さを目で測った。
源次が届けようとしていた包みも、腕ほどの長さだったという。
しかし、細工道具を入れた包みが、その飾りと同じ長さだったとは限らない。三吉の記憶だけで、両者を結びつけるわけにはいかなかった。
「この飾りは、事件の夜もここにあったのか」
「ええ。少なくとも、私はそう思っています」
「そう思っている、というのは?」
弥助は言葉を探した。
「事件の夜は、皆が忙しかったので、どの道具がどこにあったか、全部を覚えているわけではありません。ただ、これを持ち出した記憶はありません」
泰六は、飾りを元の場所へ戻すよう促した。
「わかった。今のところ、あなたを疑う理由はない。だが、調べることはまだ残っている」
弥助は、ほっとしたように息を吐いた。
*
道具置き場を出ると、進一は泰六に声をかけた。
「三吉の見た色は、この飾りだったのでしょうか」
「可能性はある。だが、まだ何とも言えん」
「源次さんの届け物も、舞台道具に使う金具だった。長い包みと、金色の飾り。何か関係があるように思えます」
「関係があるかもしれん。だが、源次が持っていたのは金具や細工道具だ。飾りそのものではない」
「では、三吉が見た包みは、源次さんのものではない?」
「そう決めるのも早い。包みの形や中身がわからぬ以上、同じとも違うとも言えん」
進一は、少し考え込んだ。
「事件の夜、源次さんが届け物を持っていたことは確かです。しかし、その後どこへ行ったのか、誰と会ったのかは、まだわかっていません」
「そうだ。だから、次に調べるのは、源次が倒れるまでの足取りだ」
泰六は、芝居小屋の裏口を振り返った。
「それと、あの小箱だ」
「小箱ですか」
「箱の金具が壊れたのは三日前。源次が金具を届けるはずだった。だが、箱の中の紙は、芝居のために作られたものだと弥助は言った」
「それが何か?」
「宗二郎が失くした紙は、個人的な記録だ。小箱の中の紙とは別物だろう。だが、どちらも紙であり、どちらも誰かに見られたくない事情を持っている可能性がある」
進一は、泰六の横顔を見た。
「紙というだけで、同じものだと考えてはいけませんね」
「その通りだ。紙は紙でも、書かれた内容も、失われた理由も違うかもしれん」
泰六は歩き始めた。
「源次の包みが見つかれば、いくつかの疑問が片づく。だが、包みが見つかっただけで事件が解けるわけではない」
「人の言葉も必要ですからね」
「そして、その言葉を裏付ける物も必要だ」
*
夕刻、二人は再び診療所を訪れた。
源次は、前日より顔色がよくなっていた。進一が挨拶すると、男は小さく頭を下げた。
「昨日は、十分にお話しできず、申し訳ありませんでした」
「無理をなさらないでください。今日は、ひとつだけ伺いたいことがあります」
進一は椅子に腰を下ろした。
「あなたが届けようとしていた金具は、舞台の小箱に使うものだったそうですね」
「ええ。道具方の弥助さんに頼まれた品です」
「その箱に、何か特別な物が入っていると聞いていましたか」
源次は首を振った。
「いいえ。私は箱を見たこともありません。頼まれた金具を届けるだけでした」
「では、箱の中身については何も知らない?」
「何も」
泰六は、源次を見つめた。
「事件の夜、あなたが裏口へ向かったのは、金具を渡すためだった。それ以外に、誰かと会う約束はなかったか」
源次は黙り込んだ。
しばらくして、視線を落とした。
「……ひとり、会いたい人がいました」
「誰ですか」
「それは……」
源次は言葉を切った。
「今は、名前を申し上げられません」
泰六の目が鋭くなった。
「あなたが傷を負ったことと、その人物は関係があるのですか」
「わかりません。会うつもりだっただけです。実際に会えたかどうかも、覚えていないのです」
進一は、源次の手が布団の上で握りしめられているのを見た。
「その人を、かばっているのですか」
「かばう、というのとは違います」
源次は、苦しそうに答えた。
「その人にも事情がある。私が何もかも話せば、別の人まで傷つくかもしれない。それが怖いのです」
進一は、すぐに返事をしなかった。
人は、秘密を守るとき、誰かを守ろうとしていることもある。だが、その秘密が、知らぬ間に誰かを疑わせることもある。
「源次さん」
進一は、静かに言った。
「あなたが話したくないことを、今すぐ無理に聞き出すつもりはありません。ただ、あなたが傷を負ったことについて、何か知っているのなら、それは話していただきたいのです」
源次は、目を閉じた。
「……考えさせてください」
「わかりました」
進一は立ち上がった。
泰六も、それ以上は追及しなかった。
診療所を出たあと、進一が尋ねた。
「源次さんは、誰かを守ろうとしているのでしょうか」
「そうかもしれん。だが、秘密を持っている者が、必ずしも事件の犯人とは限らん」
「ええ」
「人間は、真実を隠すこともある。だが、真実を隠す理由が、そのまま罪の理由になるわけではない」
進一は、静かにうなずいた。
夕暮れの空に、細い月が浮かんでいた。
芝居小屋では、今夜も『白鷺城の月』が演じられる。
舞台の上では、白鷺主膳が疑いに苦しみ、天守の女が誰かを待ち続けるだろう。
そして舞台の外では、傷を負った男が、誰にも言えない約束を胸に抱えている。
その約束は、事件と関係があるのか。
それとも、ただ人間が人間を思うがゆえに生まれた、別の秘密なのか。
泰六は答えを口にしなかった。
ただ、次に調べるべき場所は、もう決まっていた。
源次が倒れるまでに歩いた道。
そして、彼が会おうとしていた、名もまだわからぬ人物。
謎は、少しずつ形を持ち始めていた。




