小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第七話
第七話 幕が下りても、月は残る
芝居小屋の裏口には、昼の光が斜めに差し込んでいた。
昨夜まで、ここには大勢の人間が出入りしていた。役者、裏方、道具を運ぶ者、芝居を見に来た客。人々の足音と声が入り混じり、ひとつひとつの動きを覚えている者など、誰もいなかっただろう。
だが、泰六はその雑踏の中に、いくつかの違いがあったはずだと考えていた。
「まず、源次が届けた品を確かめる」
泰六は言った。
「それから、三吉の見た長い包みについて、もう一度聞く。最後に、宗二郎の失くした紙だ」
進一はうなずいた。
「三つとも、まだ誰かを犯人と決める証拠にはなっていませんね」
「その通りだ。証拠にならぬものを、証拠に仕立てるわけにはいかん」
二人は裏方の帳場へ向かった。
*
帳場では、舞台番の源吉が帳面を開いていた。
「久保田源次という商人が、細工道具を届けに来たはずだ。記録はあるか」
泰六が尋ねると、源吉は帳面を繰った。
「ええ、確かに来ています。金具と小さな道具を届けると聞いていました。受け取る者が別の用事で席を外していたので、すぐには渡せなかったはずです」
「その後は?」
「そこまでは、帳面には書いてありません」
「品物を受け取ったという印は?」
「ありませんね」
泰六は帳面を閉じなかった。
「源次が来た時刻はわかるか」
「日が傾き始めた頃だったと思います。正確な刻限までは……」
「そのとき、裏口に誰がいた?」
源吉は困ったように頭を掻いた。
「裏方が何人か。役者も出入りしていました。稽古の支度で、みな忙しかったんです」
「誰がいたか、覚えていないのだな」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。覚えていないことを、覚えているように言われる方が困る」
進一は帳場の隅に目をやった。
木箱が幾つも積まれ、縄や布、釘や金具が置かれている。芝居を成り立たせるものは、舞台の上で見える刀や衣装だけではない。観客の目に触れない小さな道具が、いくつも必要なのだ。
「源次さんの包みが、ここに置かれた可能性はありますか」
進一が尋ねた。
「ないとは言えません。ですが、預かった記憶はありません」
源吉は首を振った。
「届け物が届かなかったのなら、誰かが受け取ったのか、どこかへ置かれたのか、それとも持ち帰ったのか。そこを調べなければなりませんね」
進一の言葉に、泰六がわずかに目を向けた。
「そうだ。消えた品物を考えるとき、盗まれたという答えだけを先に置くべきではない」
泰六は帳面を指で軽く叩いた。
「受け取りの記録がない。これは、品物が盗まれた証拠ではない。受け取った者が記録をしなかった可能性も、そもそも渡されなかった可能性もある」
「では、次は受け取るはずだった人を探すのですね」
「ああ。だが、その前に三吉だ」
*
三吉は、芝居小屋から少し離れた路地で、天秤棒を担いでいた。
「おう、先生たち!」
二人を見つけると、魚籠を揺らしながら駆け寄ってきた。
「今日は魚がよく売れたか」
進一が尋ねると、三吉は胸を張った。
「そりゃもう。朝から鯵が飛ぶように売れましたよ。けど、あっしの魚より、昨夜の芝居の方が評判でさ」
「芝居の話は、もう聞いた」
泰六が言った。
「今日は、裏口で見たものについて、もう一度聞きたい」
三吉の顔が引き締まった。
「はい。覚えていることなら、何でも」
「長い包みを持った男だ。お前は、あれを刀だと思ったのか」
三吉は少し考えた。
「最初は、そう思いました。芝居小屋だし、長いものを布で巻いていたから。でも、よく考えたら、刀かどうかなんて、わかりません」
「包みの形は?」
「細長かったです。人の腕くらいの長さで、布が巻いてありました。先が少し膨らんでいたような気もするけど……そこは自信がありません」
「男の顔は?」
「見てません。背が高くて、黒っぽい着物だったことくらいです」
「その男が裏口へ入ったのを見たか」
「いいえ。裏口の方へ行ったのは見ました。でも、あっしは魚を届けに行くところだったから、その後は知りません」
泰六はうなずいた。
「よろしい。見ていないことは、見ていないと言えばよい」
三吉は少し安心したように笑った。
「それと、壁際に白いものがあったと言っていたな」
「はい。紙か布か、よくわからないものです。暗かったし、気になったけど、拾いませんでした」
「それを見たのは、長い包みを持った男の前か、後か」
三吉は眉を寄せた。
「……それが、はっきりしないんです。男を見たときに目に入ったのか、その後だったのか」
「無理に順番を決める必要はない」
進一が言った。
「お前が覚えているのは、白いものが壁際にあったことだけなのだからな」
三吉は大きくうなずいた。
「そうです。あっし、見ていないことまで見たように言いたくありません」
その言葉に、進一は微笑んだ。
「それでいい。大人だって、つい自分の考えを見たものにしてしまうことがある」
「へえ。先生たちでも?」
「私も気をつけなければならない」
進一が答えると、泰六は小さく鼻を鳴らした。
「お前は特に、気をつけるべきだな」
「泰六さん、それはどういう意味です」
「そのままの意味だ」
三吉は二人の顔を見比べ、声を立てて笑った。
だが、泰六の目は笑っていなかった。彼は、三吉の証言を一つずつ頭の中で整理していた。
長い包みを持つ男がいた。
男は裏口の方へ向かった。
顔は見ていない。
包みが刀だったかどうかもわからない。
壁際には白いものがあったかもしれないが、見た順番は確かでない。
それ以上のことを、三吉の証言から導き出すことはできなかった。
*
宗二郎は、舞台袖で台本を読み返していた。
二人が声をかけると、彼は台本を閉じた。
「源次さんの傷について、何かわかりましたか」
「傷を負った本人は、刃を見ていません。医師も、刀によるものとは断定していない」
泰六が答えると、宗二郎は眉をひそめた。
「では、芝居の刀とは関係がないのでしょうか」
「まだわからん。だからこそ、あなたに聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あなたが失くしたという小道具。それは、どのようなものですか」
宗二郎は少し迷ったあと、答えた。
「芝居の筋に関わる小さな道具です。刀ではありません。なくなったので、代わりのものを使いました」
「その道具がなければ、芝居は成立しない?」
「いいえ。筋を知る者なら、代わりのものでも演じられます。ただ、細部の見え方が変わる」
「誰が、その道具のありかを知っていましたか」
「私と、舞台の者たちです。もっとも、道具がどこに置かれているかなど、裏方なら誰でも見当はつくでしょう」
「失くした紙についても、同じことを聞きたい」
宗二郎の表情が硬くなった。
「紙のことは、もうお話ししたはずです」
「あなたの机の引き出しに入れていた。鍵はかけていなかった。そうでしたな」
「ええ」
「それが失くなったことと、源次の包みが消えたこと。この二つが同じ人物の手によるものだと、あなたは考えていますか」
宗二郎は、すぐには答えなかった。
「……考えたくはありません。ですが、無関係だと断言することもできません」
「なぜ、紙を失くしたことを届け出なかったのです」
宗二郎は目を伏せた。
「そこに書かれていたことを、他人に知られたくなかったからです」
「誰かを守るためですか」
「……そのようなものです」
泰六は、しばらく宗二郎を見つめた。
「あなたは、誰かを守るために黙っているのかもしれない。だが、黙っていることで、別の誰かを疑わせている可能性もある」
宗二郎の肩が揺れた。
「わかっています」
「ならば、あなたが知っていることを、話す時が来るかもしれません」
泰六はそれ以上、問い詰めなかった。
進一も、宗二郎の顔に浮かんだ苦しさを見て、言葉を飲み込んだ。
人には、話せない事情がある。
しかし、話せない事情があることと、罪があることは同じではない。
*
芝居小屋を出ると、夕方の風が吹いていた。
進一は、歩きながら言った。
「源次さんの包みと、宗二郎先生の紙。どちらも消えていますね」
「そうだな」
「長い包みを持った男が、源次さんの包みを持っていたのでしょうか」
「それは、まだ証明されていない」
「では、白いものは?」
「それも、何であったかはわからん」
進一は少し黙った。
「こうして並べてみると、何もかもがつながっているように見えます。けれど、実際には、まだつながっていない」
「その通りだ」
泰六は足を止めた。
「人間の頭は、ばらばらのものを一つの物語にまとめたがる。長い包み、白い紙、消えた小道具、傷を負った男。それらを並べれば、いかにも一つの事件に見える」
「しかし、それは我々が作った物語かもしれない」
「そうだ。事件が語る物語と、我々が作る物語は、同じとは限らん」
泰六は、芝居小屋の屋根を見上げた。
「まず、源次が届けようとした品物を受け取るはずだった者を探す。次に、傷を負った場所と時刻を、できる限り確かめる。そして、宗二郎の失くした紙が何を意味するのか、本人にもう一度話してもらう」
「三つの道を、別々にたどるのですね」
「別々にたどった道が、同じ場所へ出ることもある。だが、最初から同じ場所へ出ると決めて歩いてはならん」
進一はうなずいた。
そのとき、背後から小さな声がした。
「先生!」
三吉だった。天秤棒を担いだまま、息を切らして駆けてくる。
「どうした」
進一が尋ねた。
三吉は、二人の前で立ち止まった。
「思い出したことがあるんです。白いもののことじゃありません。あの長い包みを持った男のことです」
泰六の目が鋭くなった。
「何を思い出した」
三吉は、少し不安そうに言った。
「男が歩いていたとき、包みを持つ手を、何度も替えていたんです。重かったのか、持ちにくかったのか……。それで、包みの端が、布の中から少しだけ出ていたような気がします」
「何が出ていた?」
「それが……わからないんです。木の色だったような、金色だったような。でも、はっきりとは覚えていません」
泰六は、すぐには答えなかった。
新しい証言が、真相を近づけるとは限らない。
記憶は、時間とともに変わることもある。思い出そうとするほど、後から聞いた話が混じることもある。
それでも、三吉が何かを思い出したという事実を、捨てるわけにもいかなかった。
「三吉」
泰六は静かに言った。
「その記憶が正しいかどうかは、これから確かめる。だから、今はそれ以上、無理に思い出そうとしなくていい」
「はい」
「そして、誰かに話を聞かれても、見たことと、思い出したことと、想像したことを分けて話すのだ」
三吉は、まっすぐにうなずいた。
「わかりました」
少年は再び天秤棒を担ぎ、夕暮れの町へ戻っていった。
その小さな背中を見送りながら、進一は思った。
大人たちは、正しい答えを早く欲しがる。
犯人の名を知り、理由を知り、事件を終わらせたい。
けれど、三吉はまだ、何も知らない。
知らないからこそ、見たものを見たままに差し出そうとしている。
泰六が言った。
「進一。事件を解くために必要なのは、すべてを知っている名探偵ではない」
「では、何でしょう」
「自分が知らないことを、知らないと認められる者だ」
進一は、ゆっくりとうなずいた。
芝居小屋の中では、明日の公演に向けて、役者たちが支度を始めているだろう。
白鷺城の天守には、また白い女が現れる。
観客は彼女の正体を知りたがり、白鷺主膳の行く末を見届けようとする。
だが、現実の路地では、まだ誰も答えを知らない。
消えた包み。
失くした紙。
刀を見なかった男。
そして、包みの端に見えたかもしれない、木とも金ともつかぬ色。
それらは、まだ一つの物語にはなっていなかった。
幕が下りても、月は残る。
そして、月明かりの下には、まだ見えていないものがある。
泰六は歩き出した。
進一も、その隣を歩いた。
二人の前には、まだ解かれていない謎があった。
そして、その謎の向こうには、罪を犯した者の姿だけでなく、何かを失い、何かを守ろうとした人間の姿が、静かに隠れているように思われた。




