小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第六話
第六話 斬られた男、斬れなかった真実
日本橋の朝は、魚の匂いと、荷車の軋む音と、人々の忙しない足音で始まる。
芝居小屋の前を通る者は、昨夜の『白鷺城の月』の評判を口にしていた。
「天守に現れた白い女、あれは何者なんだろうな」
「白鷺主膳を恨んでいるのか、それとも待っているのか」
「宗二郎先生の芝居は、刀を振るう場面より、あの女が黙って立っているところが怖い」
泰六は、そうした声に耳を傾けるでもなく、芝居小屋の裏手へ回った。
進一が隣を歩いている。
「芝居の話ばかりですね」
「芝居の話をしている者は、芝居の外で起きたことを知らぬ。あるいは、知っていても芝居の話に紛らせたいのかもしれん」
「どちらでしょう」
「それを決めるのは、まだ早い」
泰六は足を止めた。
裏口から少し離れた路地の壁際に、古い染みが残っていた。雨に洗われ、土埃にまみれ、今ではそれが何の跡だったのか、ひと目ではわからない。
ここで男が倒れていた。
そう聞かされている場所だった。
「傷を負った男は、まだ生きているそうですね」
進一が言った。
「ああ。生きているからこそ、話を聞ける。だが、本人が話したいことと、実際に起きたことは、同じとは限らん」
「記憶が混乱していることもありますからね」
「恐怖の中で見たものは、恐怖の形に変わる。だから、証言だけで事件を組み立てるわけにはいかん」
泰六は路地の地面を見下ろした。
土は踏み固められ、幾つもの足跡が重なっている。事件の夜から時間が経ち、荷車も人も通ったのだろう。今となっては、どれが当夜の跡なのかを区別することはできなかった。
「ここで何か見つかりますか」
「見つからんかもしれん。だが、何も見つからないという事実にも、意味はある」
泰六は壁に手を触れず、少し離れた位置から眺めた。
「この壁にも、地面にも、事件を語らせるには時間が経ちすぎた。ならば、今度は人間に尋ねる」
*
男が運ばれた先は、近くの医師の診療所だった。
戸口には、薬草を煎じる匂いが漂っていた。進一が名を告げると、奥から医師が出てきた。年配の、口数の少ない男である。
「例の怪我人のことですか。命は助かりました。まだ起き上がるのは難しいですが、話はできるでしょう」
「傷について、伺いたいのです」
泰六が言うと、医師は一度、二人の顔を見比べた。
「役人の方ではないようですが」
「事件の事情を調べております。もちろん、診療の秘密に関わることを、無理に聞き出すつもりはありません」
進一が穏やかに付け加えた。
医師は少し考え、それから二人を奥へ案内した。
寝台には、顔色の悪い男が横たわっていた。年の頃は三十代半ば。頬はこけ、唇には血の気がない。肩から脇にかけて包帯が巻かれている。
男は二人を見ると、身を起こそうとした。
「そのままで結構です」
進一が近づき、声を落とした。
「お加減はいかがですか」
「よくはありません。だが、死なずに済んだ。それだけで、ありがたいと思わねばなりませんな」
男は苦笑した。
泰六は寝台の脇に立った。
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか」
「久保田源次と申します。芝居小屋の者ではありません。道具や小間物を扱う商いをしております」
「芝居小屋へは、何をしに?」
源次の顔から、かすかに笑みが消えた。
「品物を届けに行ったのです。以前から、あそこの裏方とは付き合いがありました」
「何を届けたのですか」
「細工に使う金具や、飾りに使うものです。芝居の道具には、そういう小物がいくらでも要りますから」
泰六は、男の表情を見た。
「刀ではないのですね」
「刀?」
源次は眉を寄せた。
「私は刀など扱いません。刃物を商う者でもない」
「では、事件の夜、刀を持った人物を見ましたか」
源次はすぐには答えなかった。
目が、寝台の脇に置かれた水差しへ向いた。水を飲みたいのかと思い、進一が手を伸ばしかけたが、源次は小さく首を振った。
「……暗かったのです」
ようやく彼は言った。
「裏口の近くで、誰かが動いた。何か長いものを持っていたようにも思います。けれど、顔は見ていません。あれが刀だったのかどうかも、わかりません」
「その人物に、斬られたのですか」
泰六の問いに、源次は目を閉じた。
「それが……」
声がかすれた。
「よく、わからないのです」
進一は、源次の顔を見つめた。
「覚えている範囲で構いません。無理に思い出そうとなさらなくても結構です」
源次はしばらく黙っていた。
「裏口へ向かっていたのです。届けた品のことで、確認したいことがありました。すると、誰かが近づいてきた。声を聞いたような気もしますが、何と言ったのかは覚えていません」
「その後は?」
「何かが当たった。いや……当たったというより、体の横を強く押されたような……」
源次は苦しそうに息を吐いた。
「そのあと、熱いものが流れた。自分が血を流しているのだと気づいたときには、もう立っていられなかった」
進一が、思わず泰六を見た。
斬られた、と源次は言わなかった。
少なくとも、最初の言葉はそうではなかった。
「傷を負った瞬間、刃を見ましたか」
泰六が尋ねた。
「見ていません」
「刃が体に触れた感覚は?」
「……それも、はっきりしません」
「では、誰かが刀を振り下ろしたところを見たわけではない」
「ええ」
源次は悔しそうに唇を噛んだ。
「ですが、私は傷を負ったのです。誰かがやったに決まっている」
「それは、もちろんです」
進一が静かに言った。
「あなたが傷を負ったことを疑っているのではありません。ただ、何が起きたのかを確かめたいのです」
源次は進一を見た。
その目に、疑われたことへの怒りと、自分でも説明できないことへの不安が混じっていた。
「……すみません。私も、何が起きたのか知りたいのです」
泰六は医師の方へ向き直った。
「傷の具合を伺っても?」
「命に関わるほど深い傷でした。しかし、刃が骨に達したわけではありません。傷口は細長く、肩の後ろから脇にかけて斜めに走っています」
「刀による傷と考えられますか」
「刃物による傷であることは間違いないでしょう。ただし、刀か、別の刃物か。傷だけで断定することはできません」
「傷の幅は?」
「場所によって違います。衣服も裂けていましたから、布の裂け方だけで刃の種類を決めることもできません」
泰六はうなずいた。
「つまり、刀で斬られたと断定する材料は、まだない」
「そういうことです」
医師は包帯の端を確かめながら答えた。
「ただ、これほどの傷を負ったのです。相手に強い力があったのか、被害者が動いたのか、あるいはその両方なのか。それも傷だけではわかりません」
泰六は源次に向き直った。
「あなたが倒れたあと、誰かの声を聞きましたか」
「遠くで人の声がした気がします。けれど、助けを呼んだ声だったのか、芝居小屋の者が話していたのか……」
「ほかに、何か落としたものは?」
源次は目を開いた。
今度は、すぐに答えた。
「包みです」
「包み?」
「届ける品を入れた包みを持っていました。倒れたとき、手から離れたと思います。目を覚ましたときには、そばにありませんでした」
泰六の目が、わずかに細くなった。
「包みの中身は?」
「金具と、小さな細工道具です。高価なものではありません。ですが、届ける約束の品でした」
「それがなくなったことは、誰かに伝えましたか」
「まだです。まずは、この傷をどうにかしなければならなかった」
進一は、男の言葉を胸の内で繰り返した。
長い包みを持った男を見たという三吉の証言。
刀を見ていないという源次の証言。
そして、現場から消えた届け物。
それぞれが関係しているのか、別々の出来事なのか。まだ、何も決まってはいない。
*
診療所を出ると、表通りの人声が急に大きく聞こえた。
進一は歩きながら、泰六に尋ねた。
「源次さんは、刀で斬られたのではないかもしれませんね」
「そう考える余地はある」
「では、別の刃物を使ったのでしょうか」
「それも、まだわからん」
「……何も決まっていませんね」
「決まっていないことを、決まったことにするのが、推理の最初の過ちだ」
泰六は足を止め、芝居小屋の方角を見た。
「我々は、芝居の刀を見た。舞台で使われる刀は、人を斬るためのものではない。だが、舞台の外で起きた傷を、舞台の刀のせいだと考える根拠もない」
「それでも、三吉が見た長い包みは気になります」
「当然だ。だが、長い包みが刀だったとは限らん。棒かもしれん。道具かもしれん。あるいは、別のものを隠していたのかもしれん」
進一は、三吉の小さな顔を思い浮かべた。
あの子は、見たものを見たと言い、見なかったものを見なかったと言った。大人ならば、つい補ってしまうところを、彼は補わなかった。
「三吉に、もう一度話を聞きましょうか」
「その前に、源次が届けた品について調べる。芝居小屋の帳面に記録があるかもしれん」
「宗二郎先生のなくした紙とも、関係があるのでしょうか」
「それも、まだ決められん」
泰六は、わずかに歩調を速めた。
「ただし、ひとつわかったことがある」
「何です?」
「我々は、これまで事件を『刀で斬られた男』として考えてきた。だが、本人は刀を見ていない。医師も、刀による傷とは断定していない」
泰六は進一を見た。
「ならば、問いを変えなければならん。誰が刀を振るったのか、ではない」
「では……?」
「何が、源次の体を傷つけたのか。そして、なぜ彼の包みが消えたのか」
その二つの問いは、同じ答えへ向かうのだろうか。
進一には、まだわからなかった。
芝居小屋の屋根の向こうに、昼の空が広がっている。
昨夜、舞台の天守に立っていた白い女は、刀を振るう男を見つめながら、こう言った。
――あなたが忘れた者にございます。
あの言葉は、誰に向けられたものだったのか。
そして、現実の路地で傷を負った男は、何を忘れ、何を失ったのか。
泰六は答えを口にしなかった。
まだ、答えを出すには早すぎた。
事件は、ようやくその形を変え始めたばかりだった。




