小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第五話
第五話 天守の女は誰を待つ
芝居小屋の稽古場には、昼の光が細く差し込んでいた。
舞台の幕は半分だけ開かれ、板の上には昨夜の立ち回りで使われた刀や、塗りの剥げた箱が置かれている。客席から見れば華やかな世界も、幕の裏側では、汗と埃と、使い込まれた道具の匂いに満ちていた。
小室泰六と和田進一は、脚本家の宗二郎と向かい合っていた。
「昨日から、何度もお邪魔して申し訳ありません」
進一が言った。
「いえ。事件のことを調べていらっしゃるのでしょう。こちらも、落ち着かないのは確かです」
宗二郎は、机の上に置いた原稿を指で揃えた。
その動作には、妙な几帳面さがあった。紙の端を合わせ、少しでもずれれば、もう一度揃え直す。書き手としての癖なのか、それとも気持ちを落ち着かせるためなのか、進一には分からなかった。
泰六は、机の上の原稿を見た。
「『白鷺城の月』の台本ですね」
「ええ。初演のときから、何度か手を入れています。役者の動きに合わせて、台詞を変えることもありますから」
「その変更は、すべて記録しているのですか」
「大きな変更なら、別の紙に書き残します。小さな言い回しの変更までは、いちいち記録しませんが」
泰六は、原稿の表紙に目を落とした。
「では、最初の台本と今の台本では、違うところがあるのですね」
「あります」
「見せていただけますか」
宗二郎は、少し考えてから、机の脇に置いてあった古い束を取り出した。
「こちらが、最初に書いたものです。今のものとは、いくつか違います」
泰六は原稿を受け取り、ページをめくった。
物語の骨組みは、現在の芝居と同じだった。
白鷺城の城主、白鷺主膳。裏切りの疑いをかけられた家臣。月夜の天守に現れる白衣の女。そして、最後に訪れる刃の一瞬。
だが、台詞の一部は違っていた。
現在の台本では、女は主膳に向かってこう告げる。
――あなたが忘れた者にございます。
古い台本では、その言葉が少し違っていた。
――あなたが、忘れたと思い込んだ者にございます。
進一は、二つの台詞を読み比べた。
「意味が、少し違いますね」
「ええ」
宗二郎は答えた。
「最初は、主膳が誰かを忘れてしまったという話にしていました。しかし、それでは主膳があまりに鈍い男に見える。そこで、忘れたのではなく、忘れたと思い込んでいたのだ、という形に変えたのです」
「忘れたことと、忘れたと思い込むことは違う」
進一は呟いた。
「そうです。人は、忘れたくないことを忘れたふりをすることもある。反対に、忘れてはいけないことを、本当に忘れてしまうこともある」
宗二郎は、そこで言葉を切った。
その顔には、脚本家として自分の作品を語るときの熱が、ようやく戻り始めていた。
「私は、天守の女をただの幽霊にしたくなかったのです。人を恨むために現れるだけなら、物語は簡単になる。けれど、女が本当に待っているのは、復讐の相手なのか。それとも、誰かが自分を覚えているという証なのか。そこを、観客に考えてもらいたかった」
進一は、古い台本をそっと閉じた。
「だから、あの女は、最後まで自分の名を名乗らないのですね」
「ええ。名を名乗れば、観客はその名を手掛かりにして、正体を考えるでしょう。それも一つの楽しみです。しかし私は、名が分かればすべてが分かる、という物語にはしたくなかった」
泰六は、宗二郎の話を黙って聞いていた。
やがて、彼は一つの頁を指で押さえた。
「この場面です。主膳が刀を抜き、女が天守の欄干へ下がる。ここで女は、なぜ逃げないのですか」
「逃げる必要がないからです」
「主膳が斬るかもしれないのに?」
「女は、主膳が斬れないと知っているのです」
宗二郎は、即座に答えた。
「主膳は、女を恐れている。幽霊だからではありません。女が、自分の忘れたものを知っているからです。斬ってしまえば、その答えも消える。だから、刀を抜いても振り下ろせない」
泰六は、しばらく頁を見つめていた。
「なるほど。刀を抜くことと、斬ることは同じではない」
「そういうことです」
進一は、昨夜の舞台を思い出した。
白い衣の女が、月明かりの中で主膳を見つめていた。主膳は刀を抜いたが、その腕は震え、最後まで振り下ろすことができなかった。客席からは、女の正体を知りたいという息遣いが伝わってきた。
あの場面は、単なる恐怖ではなかった。
斬ることのできない理由が、男の胸の中にあったのだ。
「宗二郎さん」
泰六が静かに言った。
「あなたは、昨日、探し物をしていたそうですね」
宗二郎の表情が固まった。
「……三吉から聞いたのですか」
「ええ。あなたが、裏口の近くを探していたと」
「それは……」
宗二郎は、机の上の原稿へ目を落とした。
「脚本に関わるものです」
「昨日、見当たらなくなったという小道具とは別のものですね」
「はい」
「何を探していたのです?」
宗二郎は、すぐには答えなかった。
稽古場の奥では、役者たちが次の公演に向けて台詞を読み合わせている。誰かが言い間違え、別の者が笑った。舞台の外では、いつもの仕事が続いていた。
その声を聞きながら、宗二郎はようやく口を開いた。
「一枚の紙です」
「紙?」
「古い原稿の切れ端です。台本に使うつもりで、別に書き留めておいたものなのですが……なくなってしまった」
「どのような内容が書かれていたのですか」
「台詞ではありません。物語の背景についての覚え書きです」
泰六は、目を細めた。
「それがなくなると、困るのですか」
「困るというより……人に読まれたくなかった」
宗二郎は、言ってしまってから、唇を噛んだ。
進一は、すぐに問い詰めなかった。
「誰かに読まれると、あなたが困るようなことが書かれていたのですか」
「……そうです」
「事件に関係することですか」
「分かりません」
宗二郎は顔を上げた。
「本当に、分からないのです。私は、あの紙を失くしたくなかった。けれど、それが今回の事件と関係しているかどうかは、私にも分かりません」
その言葉には、先ほどまでの脚本家らしい自信がなかった。
泰六は、しばらく宗二郎を見つめたあと、ゆっくりとうなずいた。
「では、その紙がなくなったことを、いつ気づいたのですか」
「一昨日の夕方です。机の上に置いていたはずなのに、見当たらなくなっていた。それで、裏口や稽古場を探しました」
「そのとき、誰かに尋ねましたか」
「いいえ。自分で探しました」
「なぜ、誰にも話さなかったのです?」
宗二郎は、答えに詰まった。
「……人に知られたくなかったからです」
「その紙は、あなた一人が読める場所に置いてあったのですか」
「机の引き出しに入れていました。鍵はかけていませんでしたが、勝手に開ける者はいないと思っていました」
泰六は、手帳を開いた。
「その引き出しに触れることができた者を、思い出せるだけ挙げてください」
宗二郎は、ゆっくりと名前を挙げ始めた。
道具方の源吉。舞台の準備を手伝う者たち。役者の何人か。そして、脚本の相談に来ることがあった人物。
名前が出るたび、泰六は一つずつ書き留めた。
それは、まだ容疑者の一覧ではなかった。
ただ、紙に触れることのできた人間を、事実として整理しているだけだった。
「宗二郎さん」
進一が尋ねた。
「その紙には、誰かの名前が書かれていたのですか」
宗二郎は、顔を伏せた。
「……名前は、書いていません」
「では、誰かを思わせるような記述が?」
「それも、はっきりとは」
「はっきりとは、というのは?」
宗二郎は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「昔、ある人から聞いた話が書いてありました。その人が、誰かを待ち続けていたという話です」
進一は、思わず顔を上げた。
「誰を待っていたのですか」
「それが、分からないのです」
宗二郎は苦笑した。
「話してくれた人は、待っていた相手の名を言いませんでした。ただ、その人は、いつか戻ってくると信じていた。戻ってこなかったとしても、待つことをやめなかった。私は、その話を聞いて、天守の女を思いついたのです」
進一は、しばらく何も言えなかった。
復讐のために現れた女だと思っていた。
しかし、宗二郎の話を聞くと、あの女は誰かを罰するためだけに天守に立っていたのではないのかもしれない。
待つこと。
忘れられないこと。
そして、自分が待たれていたことを、相手に知ってほしいと願うこと。
そうした思いが、物語の奥に隠れていた。
「その人は、今も生きているのですか」
進一が尋ねると、宗二郎は首を横に振った。
「分かりません。私が話を聞いたのは、ずいぶん前のことですから」
「その話を、ほかの人にもしましたか」
「いいえ。あの紙に書き留めただけです」
泰六は、そこで初めて原稿から顔を上げた。
「宗二郎さん。その紙がなくなったことを、あなたは警察に届けましたか」
「いいえ」
「なぜです?」
「ただの紙です。盗まれたと決まったわけでもありません。それに、内容を知られたくなかった」
泰六は、静かにうなずいた。
「分かりました。あなたがその紙を探していた理由は、理解できます。ただし、その紙が誰かに持ち去られたのか、どこかへ紛れ込んだのか、それとも別の理由で見当たらなくなったのか。それは、まだ分かりません」
「はい」
「そして、負傷者の件との関係も、まだ分からない」
「……はい」
宗二郎の肩から、わずかに力が抜けたように見えた。
進一は、その様子を見て思った。
宗二郎は何かを隠している。
けれど、隠していることがあるからといって、彼が人を傷つけたと決まるわけではない。
人には、誰にも知られたくない記憶がある。
それが誰かを傷つけるための秘密なのか、誰かを守るための秘密なのか。外から見ただけでは、まだ分からない。
泰六は古い台本を宗二郎に返した。
「この台本を、しばらくお借りすることはできますか」
「構いませんが、事件と関係があるのでしょうか」
「今のところ、関係があるとは言えません。ただ、台本に手を入れた時期と、あなたの覚え書きがなくなった時期を整理しておきたいのです」
宗二郎は、少し迷ったあと、うなずいた。
「分かりました。お貸しします」
泰六は台本を丁寧に包み、懐へしまった。
稽古場を出ると、外の光は少し傾いていた。
「泰六君」
進一が言った。
「宗二郎さんは、あの紙に書かれた話を、天守の女に重ねていたんだね」
「そうらしい」
「誰かを待ち続ける人の話か……。あの女は、誰かを恨んでいるように見えたけれど、本当は、ただ覚えていてほしかったのかもしれない」
「それは、物語の解釈としては成り立つだろう」
「現実の事件にも、そういう思いがあるのかな」
「あるかもしれぬ。だが、今はまだ分からない」
泰六は、歩みを止めなかった。
「物語と現実を混同してはならない。芝居の女が待っている相手と、事件に関わった人物が同じだという保証はない。宗二郎の覚え書きがなくなったことも、負傷者が出たことも、別々の出来事かもしれぬ」
「それでも、調べる価値はある」
「そうだ。だから調べる」
二人は、夕暮れの通りを歩いていった。
芝居小屋の方から、また呼び込みの声が聞こえた。
「今宵も『白鷺城の月』、開幕でございます!」
人々は足を止め、看板を見上げ、夜の楽しみを求めて小屋へ向かっていく。
舞台の上では、白い衣の女が、今夜も天守に現れるのだろう。
彼女は、誰を待っているのか。
なぜ、名を名乗らないのか。
そして、彼女の物語を生んだ一枚の紙は、いったいどこへ消えたのか。
泰六は、懐に収めた台本の重みを確かめるように、着物の上からそっと手を添えた。
「和田君」
「何だい?」
「次は、負傷した男の身元を確かめよう。誰が傷つき、どこで見つかり、何を持っていたのか。それが分かれば、ようやく舞台の外の話が始まる」
進一は、うなずいた。
天守の女が誰を待っているのか。
その答えは、まだ台本の中にも、二人の手帳の中にもなかった。




