小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第四話
第四話 魚籠が見た裏口の影
翌日の昼下がり、神田の町には、煮魚の匂いと、濡れた土の匂いが漂っていた。
小室泰六と和田進一は、昨日に引き続き、芝居小屋の近くを訪れていた。
道具方の源吉から借りた帳面には、稽古と本番の段取りが書きつけられていた。役者の名、舞台へ出る順番、小道具を用意する時刻。ところどころ墨が滲み、急いで書いたらしい文字もあったが、少なくとも、誰がいつ小屋にいたかを考える手掛かりにはなりそうだった。
ただし、帳面には刀の一本一本を数えた記録はない。
「結局、帳面だけでは決められないね」
進一が言った。
「最初から、帳面だけで決めるつもりはない」
泰六は、手帳を閉じた。
「記録に書かれているのは、記録をつけた者が必要だと思ったことだけだ。書かれなかったことが、存在しなかったことにはならぬ」
「では、次は三吉君だね」
「ああ。あの少年が見たものを、もう一度確かめる」
そのとき、二人の背後から、威勢のよい声が飛んできた。
「お二人さん! 魚はいらねえかい!」
振り返ると、三吉が天秤棒を担いで立っていた。
両端の魚籠には、鯵や鰯が並んでいる。まだ幼さの残る顔には、町を歩き回る者らしい快活さがあった。声は大きいが、客の懐具合を見て値を加減する知恵も持っている。
「三吉君、今日は何を売っているんだい」
進一が尋ねる。
「鯵と鰯だよ。鰯は朝のうちならもっと安かったんだけど、昼になっちまったからねえ」
「売れ残ったのか?」
「売れ残りじゃねえや。まだ売り先があるんだ。あそこの煮売り屋が、夕方に買ってくれるって約束だからな」
そう言って、三吉は魚籠を少し持ち上げた。
「それより、探偵さん。昨日の話の続きかい?」
「そうだ。君が見たという男について、もう少し詳しく聞きたい」
泰六は、三吉の目をまっすぐに見た。
「覚えていることだけを話してくれればよい。見たことと、あとから聞いたことを、混ぜないようにな」
「分かってるよ。魚だって、腐ったのと新しいのを一緒に売っちゃいけねえからな」
「人の話にも、鮮度があるというわけか」
「そうそう。昨日の話を今日聞いた奴は、もう昨日の話じゃねえんだ。誰かがひとつ足して、誰かがひとつ引いてるかもしれねえ」
泰六は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「君は、なかなか商売人らしい考え方をする」
「魚を売ってりゃ、そうなるさ」
進一は笑った。
「それで、三吉君。昨日、あの裏口で何を見たのかな」
三吉は、天秤棒を地面に下ろした。
「魚を届けに行った帰りだった。芝居小屋の裏の道を通ったんだ。そしたら、背の高い男がいた」
「顔は?」
「よく見えなかった。こっちを向いてなかったし、影になってたからさ」
「服装は?」
「黒っぽい着物だったと思う。派手な柄じゃなかった。頭には笠をかぶってたかもしれねえけど……そこは、ちょっと自信がねえな」
「手には何を持っていた?」
「長い包みだよ。布でぐるぐる巻いてあった。腕より少し長いくらいだったかな」
「それが刀だと思ったのかい?」
進一が尋ねた。
「最初はね。でも、刀かどうかは分からねえ。木の棒かもしれないし、道具かもしれない。布で巻いてあるから、形もはっきり見えなかった」
「男は、どこへ行った?」
「裏口の方へ歩いていった。でも、中へ入ったかどうかまでは見てねえんだ。俺は魚籠を担ぎ直して、別の客のところへ行かなきゃならなかったから」
「そのとき、誰かほかにいたか」
三吉は、少し考えた。
「裏口の近くに、もう一人いたような気もする。けど、そっちは人影が見えただけだ。男だったか女だったかも、よく分からねえ」
「二人が話しているところは見たのか?」
「いや。話してたかどうかも分からねえ」
泰六は、うなずいた。
「よろしい。分からぬことを、分かったように言わないのは大切だ」
三吉は、少し得意そうに胸を張った。
「俺だって、見てねえものを見たとは言わねえよ」
「では、その男が何かをしたところは見たか?」
「何かをした?」
「たとえば、包みを誰かに渡したとか、地面に置いたとか」
「いや、そこまでは見てねえ」
「分かった」
泰六は手帳を開き、短く書きつけた。
背の高い男。黒っぽい着物。長い布包み。顔は不明。裏口へ向かったが、入ったかどうかは不明。近くに別の人影があった可能性。
書き終えると、泰六は手帳を閉じた。
「三吉君。君が見たことは、今のところ、それだけだな」
「そうだよ」
「では、次に、君が見ていないことを聞こう」
三吉は目を丸くした。
「見てねえことを聞くのかい?」
「君が直接見ていないことを、誰から聞いたのか。それを確かめるのだ」
三吉は、なるほどという顔をした。
「怪我をした男の話なら、朝、魚を届けに行った店で聞いたよ。芝居小屋の近くで男が倒れてたって。誰が見つけたのかは知らねえ」
「その男が、昨日見た長い包みの男だという話は?」
「聞いてねえよ。俺がそうかもしれないって思っただけだ」
進一は、泰六を見た。
「つまり、二人が同じ人物だという証拠は、まだないんだね」
「そういうことだ」
泰六は、三吉に向き直った。
「君が見た男と、怪我をした男が同一人物かどうか。君が見た包みと、事件に使われたものが関係しているかどうか。どちらも、今は分からない」
「でも、何か関係があるかもしれねえだろ?」
「もちろん、可能性はある。だから調べるのだ」
三吉は納得したようにうなずいた。
しばらく沈黙が続いたあと、彼はふと思い出したように言った。
「そういえばさ、あのとき、地面に白いものが落ちてた気がする」
泰六の目が動いた。
「白いもの?」
「うん。紙みたいなものだったかな。いや、布だったかもしれねえ。夕方で暗くなりかけてたし、魚籠が重くて、ちゃんと見なかったんだ」
「それは、どこに落ちていた?」
「裏口のすぐ近く。壁際だったと思う」
「拾ったのか?」
「拾ってねえよ。魚を届ける途中だったからな」
「それが何だったのか、確かめたいとは思わなかったのかい?」
進一が尋ねると、三吉は肩をすくめた。
「落とし物なんて、町にはいくらでもあるよ。いちいち拾ってたら、魚が売れなくなっちまう」
それは、もっともな話だった。
泰六は、三吉の言葉をそのまま手帳に記した。
「白いものが落ちていた。紙か布かは不明。位置は裏口の壁際と思われる。拾っていない。これでよいな」
「ああ」
「ただし、君が見たものが、昨日の事件と関係しているとは限らない。風で飛んできた紙かもしれぬし、誰かが捨てた布切れかもしれぬ」
「分かってるよ。でも、見たことは言っといた方がいいだろ?」
「その通りだ」
泰六は、はっきりとうなずいた。
「小さなことでも、確かに見たのなら、話しておく価値はある。ただし、それをどう解釈するかは、別の問題だ」
三吉は、満足そうに魚籠を担ぎ直した。
「じゃあ、俺はもう行くぜ。鰯が待ってる客がいるんだ」
「ありがとう、三吉君」
進一が礼を言うと、少年は手を振って歩き出した。天秤棒の両端で魚籠が揺れ、魚の尾が時折、籠の縁に当たって小さな音を立てる。
その背中を見送りながら、進一は言った。
「三吉君は、町をよく見ているね」
「見ているというより、見ざるを得ないのだろう。魚を売るには、誰が何を買い、どこに住み、いつ家にいるかを覚えておく必要がある」
「大人が見落とすことを、あの子は覚えているのかもしれない」
「そうかもしれぬ。だが、記憶が細かいことと、記憶が正確なことは同じではない」
泰六は、裏口の方を見た。
「もう一度、あの場所を調べよう」
二人は芝居小屋の裏へ回った。
壁際には、木箱が二つ積まれていた。片方は空で、もう片方には古い布や縄が入っている。地面は踏み固められ、ところどころに泥が乾いてこびりついていた。
泰六は、まず木箱の位置を確かめた。
「この箱は、いつからここに?」
近くで道具を運んでいた男に尋ねると、男は首をひねった。
「さあねえ。昨日もあったと思いますが、毎日動かすもんで、いつからと言われても」
「昨夜、ここに白い紙や布が落ちていたのを見ませんでしたか」
「いや、気づきませんでしたな」
男はそれだけ言うと、仕事へ戻っていった。
泰六は、壁際にしゃがみ込んだ。
白いものは見当たらなかった。地面には紙屑らしきものも、布の切れ端も残っていない。風で飛んだのか、誰かが片づけたのか、そもそも三吉の見間違いだったのか。それさえ分からなかった。
「何か見つかった?」
進一が尋ねた。
「いや。今のところは何も」
「三吉君の記憶違いかな」
「そうと決めるのも早い。彼は白いものを見た気がすると言った。紙か布かも分からず、場所も壁際だったと思う、という話だ。曖昧ではあるが、嘘だと判断する材料もない」
泰六は、壁と地面の境目をじっと見た。
そこには、木箱を引きずったような擦れ跡がいくつもあった。だが、どれも新しいものとは言い切れない。人の足跡も入り交じり、誰のものかを特定することはできなかった。
「ここで何かが起きたとしても、痕跡が残っているとは限らない。人が通れば消えるものもあるし、最初から痕跡などつかないこともある」
「では、ここを調べるだけでは分からない?」
「そうだ。だから、ほかの場所とも照らし合わせる」
進一は、芝居小屋の壁を見上げた。
舞台の上では、白い衣の女が天守に現れる。観客は、その女の登場に意味を探し、台詞の一つ一つから秘密を読み取ろうとする。
しかし、現実の町で見つかる白いものには、初めから意味があるとは限らない。
意味を与えるのは、見た者の想像かもしれない。
「泰六君。あの長い包みを持った男は、刀を持っていたのかな」
「まだ分からぬ」
「では、裏口の白いものは?」
「それも分からぬ」
「何も分からないね」
「分からないことが、少しずつ分かってきた」
泰六は、手帳を懐にしまった。
「少なくとも、三吉は男の顔を見ていない。包みの中身も知らない。怪我をした男との関係も知らない。そして、白いものについても、確かなことは言えない」
「それだけでも、整理する意味はあるんだね」
「大いにある。分からないことを分からないままにしておけば、あとで確かめることができる。分かったつもりになれば、間違いを真実だと思い込む」
二人が表通りへ戻ろうとしたとき、芝居小屋の横手から、宗二郎が出てきた。
彼は手に小さな紙片を持ち、周囲を見回していた。
進一は足を止めた。
「宗二郎さん?」
宗二郎は、はっとしたように振り返った。手にしていた紙片を、すばやく袖の中へ隠す。
「……お二人でしたか」
「何を探していたのです?」
泰六が尋ねた。
宗二郎は、答えなかった。
その顔には、昨日と同じ緊張が浮かんでいた。しかし、昨日よりも深い疲れが滲んでいるようにも見えた。
「大切なものです」
やがて、宗二郎はそう言った。
「それは、なくなった小道具ですか」
「違います」
返事は早かった。
泰六は、彼の袖口を見た。白い紙片の端が、ほんのわずかに覗いている。
「では、何を探しているのか、教えていただけますか」
「……今は、まだ」
宗二郎は視線を落とした。
「申し訳ありません」
そう言うと、彼は二人の脇を通り、小屋の中へ戻っていった。
進一は、その背中を見送った。
「何か、事件に関係があるのかな」
「関係があるかもしれぬ。だが、彼が探しているものが何かも、まだ分からない」
「彼は、僕たちに隠しているね」
「そうだろう。しかし、人が何かを隠す理由は一つではない」
泰六は、宗二郎が消えた戸口を見つめた。
「罪を隠しているのかもしれぬ。恥を隠しているのかもしれぬ。誰かを守ろうとしている可能性もある」
進一は、黙ってうなずいた。
犯人を見つけることと、その人間を理解することは同じではない。
そのことを、進一はいつも忘れないようにしていた。
だが、理解しようとすることと、疑いを捨てることも、また同じではない。
夕暮れの空に、薄い雲が流れていた。
白鷺城の天守に月が昇るまで、まだ時間がある。
その月の下で、誰かが何かを待っているのだろうか。
それとも、誰かが、見つかることを恐れているのだろうか。
泰六は、歩きながら静かに言った。
「次は、宗二郎の脚本を調べよう。あの芝居に何が書かれ、何が書かれていないのか。舞台の上の秘密と、舞台の外の秘密が、同じものとは限らぬがね」
進一は、もう一度、芝居小屋を振り返った。
裏口の影は、夕闇の中へ沈みつつあった。
そこに何があったのか。
誰が何を見て、何を見落としたのか。
まだ、答えはどこにもなかった。




