小室泰六(SHERLOCK) - 『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第三話
第三話 舞台の刀、現実の傷
芝居小屋の裏口は、表の華やかさが嘘のように、ひっそりとしていた。
客席から聞こえていた拍手も、役者たちの声も、壁一枚を隔てると遠い波音のように薄れている。そこには、木箱や古びた幕、使い終えた小道具が積み重ねられ、足元には細かな木屑が散っていた。
小室泰六は、裏口の敷居の前で立ち止まった。
「和田君。まず、ここを見ておこう」
「何か分かるのかい?」
「分かるかどうかを確かめるために見るのだよ」
進一は苦笑した。
「相変わらず、答えを教えてくれないね」
「答えを持たぬ者が、答えを教えられるものか」
泰六はしゃがみ込み、敷居の端を眺めた。そこには幾筋もの擦れ跡があった。荷車が通ったのか、木箱を引きずったのか、それとも日々の出入りによって自然についたものか。古い傷と新しい傷を、目だけで区別することは難しい。
「ここを誰かが通ったのは確かだろう。しかし、昨日のものかどうかは分からない」
「三吉が見たという男も、ここを通ったのかな」
「可能性はある。だが、目撃された場所と、実際に通った場所が同じとは限らぬ」
泰六は立ち上がり、裏口の内側へ視線を移した。
そのとき、奥から一人の男が姿を現した。
年の頃は三十を少し越えたあたり。細身で、袖をまくり上げ、指先には墨のような汚れがついている。目の下には薄い隈があり、眠りを十分に取れていない顔だった。
「あなた方が、探偵さんですか」
「小室泰六です。こちらは和田進一。昨日から今朝にかけて、この近くで負傷者が見つかった件について、少しお話を伺いたい」
男の眉がわずかに動いた。
「……その話ですか」
進一は、その反応を見逃さなかった。しかし、すぐに問い詰めることはしなかった。
「あなたは?」
「宗二郎。この小屋で脚本を書いております」
芝居『白鷺城の月』を書いた人物だった。
泰六は、宗二郎の顔をしばらく見つめた。
「お忙しいところ、失礼します。昨日の夕方、この裏口で、長い包みを持った男を見たという話がありましてね」
「長い包み……」
宗二郎は、無意識に自分の指を握り込んだ。
「心当たりがおありですか」
「いえ。ここには役者も出入りしますし、道具方もおります。刀を包んで運ぶことだってあります」
「なるほど。では、芝居で使う刀を見せていただけますか」
宗二郎は一瞬ためらったが、やがて奥へ向かって声をかけた。
「源吉さん。舞台の刀を何本か、こちらへ持ってきてくれませんか」
ほどなくして、道具方の源吉という男が現れた。日に焼けた顔に、太い腕。年季の入った職人らしく、歩き方にも無駄がない。
「刀ですかい。そりゃあ、いくらでもありますがね」
「昨日、何かなくなったものはありませんか」
泰六が尋ねると、源吉は首をひねった。
「なくなった? いや、今のところ、そういう話は聞いておりませんな。もっとも、芝居の道具は数が多い。一本一本、毎日数えちゃいません」
「では、刀を使った後は、誰が片づけるのです?」
「役者が舞台から戻せば、道具方がまとめて片づけます。場合によっちゃ、役者が自分で持って帰ることもある。稽古の都合もありますからね」
「誰でも自由に持ち出せるのですか」
「自由ってほどじゃありませんが、鍵のかかった蔵にしまうようなものでもありません。芝居の最中は、皆が忙しいんで」
源吉は、大小さまざまな刀を並べた。
柄の塗りが剥げたもの。鞘に金色の飾りがついたもの。細身で軽そうなもの。どれも舞台の上では本物らしく見えるだろうが、手に取れば、それぞれに違いがある。
泰六は、まず一本を手にした。
「これは?」
「木刀です。立ち回りの稽古に使います」
次の一本は、金属の刀身を持っていたが、刃はついていなかった。
「こちらは?」
「舞台用のものです。刃はありません。照明の当たり方で、遠目には本物に見えます」
「斬られたように見せるには、どうするのです?」
源吉は、少し得意げに笑った。
「役者の腕ですよ。斬る役が刀を振り、斬られる役が間合いを読んで身を引く。刀が当たる寸前に体をひねる。そこへ血糊を仕込んだ衣装や、倒れる動きを合わせりゃ、客席からは見事に斬られたように見えるんです」
進一は、昨夜の舞台を思い出した。
白鷺城の天守で、白い衣の女が刀を振るう。男がよろめき、胸を押さえて倒れる。客席からは悲鳴が上がり、次の瞬間には拍手が沸いた。
「あの場面も、こうして作られていたんですね」
「そうですとも。あれは宗二郎先生の見せ場ですからな」
源吉は誇らしげに言った。
泰六は、刀身の根元を指先で確かめた。
「舞台用の刀で、実際に人を傷つけることはできますか」
「できますよ。刃がなくたって、硬いもので叩けば怪我をします。先が尖ったものなら、なおさらです。もっとも、使い方を誤れば役者自身が怪我をしますから、立ち回りは慎重にやらなきゃならん」
「では、本物の刀を舞台に持ち込む者がいたら?」
「そりゃあ危ねえ。そんなことをする馬鹿はいないでしょう」
源吉は即座に答えた。
泰六は、その言葉にうなずきも否定もしなかった。
「そうであればよいのですが」
彼は並べられた刀を一本ずつ見た。どれも使い込まれている。だが、今のところ、一本がなくなったという証拠も、どれかが事件に使われたという証拠もなかった。
進一は宗二郎の方を向いた。
「昨日、何か変わったことはありませんでしたか。道具が見当たらなかったとか、誰かが揉めていたとか」
宗二郎は答えるまでに、少し時間を置いた。
「……大きな揉め事はありませんでした。ただ、舞台の準備が遅れて、少し慌ただしかったのは確かです」
「何の準備です?」
「小道具の確認です。芝居の途中で使う品が、一つ見当たらなくなりまして」
泰六の目が、すっと細くなった。
「何が見当たらなかったのです?」
「それは……」
宗二郎は、言葉を探すように目を伏せた。
「小さなものです。刀ではありません。芝居の筋に関わる品でして、代わりのものを用意しました」
「その品は、あとで見つかりましたか」
「いいえ。まだ」
進一は、宗二郎の顔を見た。
彼の表情には、何かを隠しているような緊張があった。だが、それが事件への関わりから生じたものなのか、芝居の大切な道具を失った脚本家の焦りなのか、進一には判断できなかった。
「宗二郎さん。私たちは、あなたを疑うために来たわけではありません。何が起きたのかを、順番に確かめたいだけです」
「……分かっています」
宗二郎は小さく答えた。
泰六は、床に並ぶ刀から視線を上げた。
「その見当たらなくなった品について、あとで詳しく聞かせてください。いつ、誰が最後に見たのか。誰が触れる場所にあったのか。それが分かれば、調べる手がかりになります」
宗二郎はうなずいたものの、すぐには答えなかった。
その沈黙を破ったのは、源吉だった。
「ところで、探偵さん。怪我をした男というのは、うちの者なんですかい?」
「まだ分かっていません」
泰六は、きっぱりと言った。
「名前も、怪我をした場所も、詳しい状況も、私たちが直接確かめたわけではない。人から聞いた話だけで、この小屋の者だと決めつけるわけにはいきません」
「そうですか……」
源吉は口を閉じた。
進一は、裏口から外を眺めた。人が行き来する町の道は、今もいつも通りだった。魚を売る声が聞こえ、荷車が軋み、どこかの店先では客と主人が値段のことで言い合っている。
その日常のすぐ隣で、一人の男が傷ついていた。
舞台の上では、刀が人を斬る。けれど、客はそれが芝居だと知っているから、安心して悲鳴を上げ、拍手を送ることができる。
現実の傷には、幕がない。
「泰六君」
進一が静かに呼んだ。
「舞台の刀が本物に見えるのは、役者が間合いを守っているからなんだね」
「そうだ。互いに約束を守るからこそ、危険な動きが芸になる」
「その約束が破られたら?」
「芝居では済まなくなる」
泰六は、短く答えた。
彼は再び刀を見渡し、源吉に尋ねた。
「昨日、舞台の刀を使った役者と、その後に片づけた者を、全員教えていただけますか。記憶が曖昧でも構いません。分からないことは、分からないとおっしゃってください」
「へえ。分かりました。帳面があれば、出入りした者も確かめられるでしょう」
「帳面があるのですか」
「道具の貸し出しを細かく記したものじゃありませんが、稽古や本番の段取りを書いた帳面ならありますよ」
「それを見せていただきたい」
源吉が奥へ引っ込むと、宗二郎は黙って二人を見ていた。
進一は、その視線に気づいた。
「宗二郎さん。もう一つだけ。昨日、裏口のあたりを探していたと、三吉君が話していました。何か落とし物でも?」
宗二郎の顔から、ほんの一瞬、血の気が引いたように見えた。
しかし、彼はすぐに表情を整えた。
「……ええ。少し、探し物をしていました」
「それは、先ほどの小道具ですか」
「いえ。別のものです」
答えは短かった。
進一は、それ以上追及しなかった。ここで問いを重ねれば、宗二郎は口を閉ざすかもしれない。何より、彼が何を隠しているのか、まだ分からないのだ。
泰六は、静かに進一へ目配せした。
今は、先を急ぐときではない。
舞台用の刀は何本もあった。誰がどれを使い、誰が片づけたのかは、まだ確かめられていない。小道具が一つ見当たらなくなっていたことも、宗二郎が別の探し物をしていたことも、事件とつながるとは限らなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
芝居の筋書きは、脚本家が書く。
だが、現実に起きたことを、誰か一人の筋書きだけで決めるわけにはいかない。
小屋を出ると、夕暮れの風が二人の頬を撫でた。
「次は、怪我をした男のことを調べるのかな」
進一が尋ねた。
「その前に、帳面だ。誰が刀を使ったか、誰が片づけたか。人の記憶は揺れるが、記録には記録の癖がある」
「記録が嘘をつくこともあるだろう?」
「もちろんだ。だから、人の話と照らし合わせる」
泰六は歩きながら言った。
「三吉の目撃も、宗二郎の沈黙も、今のところは手がかりにすぎぬ。手がかりを証拠に変えるには、まだ調べなければならないことが多い」
遠くで、芝居小屋の呼び込みが声を張り上げた。
「今宵も『白鷺城の月』、開幕でございます!」
進一は、振り返った。
白鷺城の天守に現れる女は、いったい誰を待っているのか。
舞台の上では、すでに答えが用意されているのかもしれない。
しかし、現実の事件には、まだ誰も知らない幕の裏があった。




