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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -  『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第二話

第二話 天秤棒の三吉


「その話、最初から聞かせてもらおう」


 小室泰六に促され、三吉は背筋を伸ばした。


 もっとも、天秤棒を担いだままでは、どうにも格好がつかない。三吉は肩から棒を下ろし、魚籠を両脇に置くと、進一の顔を見上げた。


「旦那方、ほんとうに聞いてくださるんで?」


「君が話したいのならね」


 和田進一は、穏やかに答えた。


「ただし、見たことと、人から聞いたことは分けて話してくれると助かる」


「へえ。見たことと、聞いたこと……」


 三吉は、口の中でその言葉を繰り返した。


「おいら、魚を売るときゃ、いつもそうしておりやす。自分で見た魚と、人から聞いた魚の値段は、違いますからね」


 進一は思わず笑った。


「なるほど。商売の心得だね」


「魚は嘘をつきやせんから」


「魚が?」


「へえ。腐ってりゃ、ちゃんと臭いやす」


 泰六が小さく咳払いをした。


「人間も、そうであれば話は早いのだがね」


 三吉は、その言葉の意味がよく分からなかったらしい。首を傾げたあと、気を取り直して話し始めた。


     *


 三吉は、朝早くから町を歩いて魚を売っていた。


 天秤棒の両端には魚籠があり、朝のうちは鯵や鰯、少しばかりの鯖などが入っている。仕入れた魚を売り切れば、その日の商いは終わりだ。


 売り先は決まっていた。


 長屋の女房たち、料理屋の板前、煮売り屋の主人。日によっては、芝居小屋の裏方からも声がかかる。


「三吉、今日は鯵があるか」


「へえ、ありますとも! 今朝、入ったばかりでさあ!」


 そう言って籠から魚を取り出すと、相手は一匹を手に取って目を確かめる。


「ふむ。悪くないな。二匹もらおう」


「毎度あり!」


 魚を売り、銭を受け取り、次の家へ向かう。


 三吉にとって、町は大きな帳面のようなものだった。


 どこの家に何人住んでいるか。どの店が朝早くから開いているか。どの路地を通れば近道になるか。雨の日には、どこの軒先を借りられるか。


 そういうことを、三吉は自然に覚えていた。


 大人たちは、子どもが何を見ているかなど、いちいち気にしない。


 だから、三吉の目に入るものは、案外多かった。


「昨日も、いつもどおり魚を売っていたんでございます」


 三吉は、泰六たちに話した。


「昼過ぎに、芝居小屋から声がかかりやした。裏方のお人が、魚を少し欲しいって」


「芝居小屋には、何を届けたのかね」


「鯵でさあ。煮つけにするって言っておりやした」


「何匹?」


「ええと……」


 三吉は指を折った。


「五匹でございます」


「代金は受け取ったのか」


「へえ。銭をいただきやした」


 泰六は、うなずいた。


「そのとき、何か変わったことはあったかね」


「いえ、いつもどおりで……。ただ、裏口のところに、見慣れねえ男が立っておりやした」


「どんな男だ?」


「背が高くて、黒っぽい着物で……」


「顔は見たか」


「横顔を、ちらっと。けど、よくは分かりやせん」


「年齢は?」


「旦那より少し若いくらい……いや、もっと若かったかもしれねえ」


 泰六は、すぐには返事をしなかった。


 証言というものは、問い詰めれば問い詰めるほど、確かになるとは限らない。むしろ、答えようとする者が、覚えていない部分まで想像で埋めてしまうこともある。


「分からないことは、分からないままでよい」


 泰六は言った。


「無理に思い出そうとしなくていい。確かに覚えていることだけを話したまえ」


 三吉は、ほっとしたように息をついた。


「へえ。じゃあ、顔はよく分かりやせん。でも、そいつが持っていたものは覚えておりやす」


「何を持っていた?」


「細長い包みでございます。布で巻いてあって……人の腕くらいの長さがありやした」


 進一が、泰六と顔を見合わせた。


「刀のようなもの、というのはそれかい?」


「へえ。けど、刀かどうかは分かりやせん。木の棒だったかもしれねえし、何かの道具だったのかもしれねえ」


「その男は、どこへ行った?」


「裏口から出て、路地の向こうへ。おいらは魚籠を担いで、反対の方へ行きやした」


「そのとき、何時ごろだったかね」


「日が傾き始めたころでございます」


 泰六は、三吉の言葉を頭の中で整理した。


 まだ、それだけでは何も分からない。


 細長い包みを持った男。芝居小屋の裏口。夕暮れ。


 その三つがつながっているようにも思えるが、つながっていない可能性もある。


「それで、今朝になって男が倒れていたと聞いたのだね」


「へえ」


 三吉の声が、少し小さくなった。


「今朝、魚を売りに行ったら、町の人が話しておりやした。芝居小屋の近くで、男が傷を負って倒れていたって」


「君は、その男を見たのか」


「いいえ。人だかりができていて、近づけなかったんでございます」


「では、倒れていた男が、昨日の包みを持った男と同じ人物かどうかは分からない」


「……へえ」


 三吉は、うつむいた。


 自分の話が役に立たないのではないかと、心配になったのだろう。


 進一は、そんな三吉に声をかけた。


「いや、話してくれて助かったよ。君が見たことを、ひとつずつ確かめていけばいいんだ」


「ほんとうでございますか?」


「もちろん。ただし、まだ分からないことを、分かったことにしてはいけない。それは泰六さんの教えでもあるからね」


「私の教えにするな。事実を扱う者の基本だ」


 泰六は、少しばかり不服そうに言った。


 三吉は、二人の顔を交互に見て、それから小さく笑った。


     *


「ところで、三吉君」


 泰六が尋ねた。


「芝居小屋には、普段から魚を届けているのかね」


「へえ。毎日じゃありやせんが、頼まれりゃ届けます」


「誰に渡す?」


「裏方のお人でさあ。名前までは知りやせん。いつも受け取ってくれる人が何人かおりやす」


「脚本家の宗二郎という男は知っているか」


「宗二郎先生!」


 三吉の顔が、ぱっと明るくなった。


「知っておりやすとも! あの『白鷺城の月』を書いたお人でしょう?」


「会ったことがあるのか」


「へえ。何度か。いつも忙しそうにしておりやすが、魚を届けると、たまに声をかけてくれます」


「どんなことを?」


「『三吉、今日は何がうまい』って」


 進一が笑った。


「脚本家らしい質問だね」


「魚の味まで、台詞の種にするのかもしれんな」


 泰六が言った。


「それで、宗二郎は何と答えたのかね」


「おいらが『鯵でさあ』って言うと、『では、鯵にしよう』って。そんな具合でございます」


「気さくな男なのだね」


「へえ。けど、昨日は少し違いやした」


 三吉は、急に声を落とした。


「昨日、魚を届けたとき、宗二郎先生が裏口の近くに立っておりやした。いつもなら、何か声をかけてくれるんですが、その日は、こっちを見ても、何も言わなかったんでございます」


「それは、いつごろだ?」


「昼過ぎでさあ。鯵を届けたときです」


「宗二郎は、誰かと一緒だったか」


「いえ、一人だったと思いやす。けど……」


 三吉は、眉を寄せた。


「先生、何かを探しているように見えやした」


「何を探していた?」


「分かりやせん。裏口の脇を見たり、地面を見たり……。おいらが声をかけたら、急に顔を上げて、『気をつけて帰れ』って」


 泰六は、しばらく考えていた。


 宗二郎が何かを探していた。


 それが事件に関係するのかどうかは、まだ分からない。


 だが、三吉がわざわざ思い出して話すほど、普段とは違う様子だったのだろう。


「そのことは、ほかの誰かにも話したかね」


「いいえ。今、初めて話しやした」


「そうか」


 泰六は、静かにうなずいた。


「では、次に宗二郎本人に会って話を聞く必要がありそうだ」


     *


 そのとき、通りの向こうから、魚を売る声が聞こえた。


「鰯だよ、鰯! 今朝の鰯だよ!」


 三吉は、はっとして振り向いた。


「あっ、いけねえ!」


「どうした?」


「まだ、魚が残っておりやした!」


 泰六は、目を丸くした。


「君は、魚を売っている最中だったのかね」


「へえ! 話に夢中になっちまって……」


 三吉は、慌てて天秤棒を担ぎ直した。


「旦那方、すいやせん! おいら、これを売ってこなきゃなりやせん。また、何か思い出したら、お知らせしやす!」


「待ちたまえ」


 泰六が呼び止めた。


 三吉は、足を止めた。


「明日も、この辺りを通るのかね」


「へえ。朝から歩きます」


「では、また話を聞かせてもらおう」


「分かりやした!」


 三吉は、にっこり笑った。


 天秤棒の両端で、魚籠が揺れた。


「さかなァ、さかなァ! 今朝の魚だよォ!」


 元気な声が、夕暮れの町へ遠ざかっていった。


     *


 三吉の姿が見えなくなると、進一は泰六に尋ねた。


「どう思われます?」


「何についてだね」


「宗二郎です。何かを探していたという話が、気になります」


「私も気にはなる。だが、それだけで疑うことはできん」


「そうですね」


 進一は、うなずいた。


「脚本家が何かを探していた。細長い包みを持った男がいた。そして、芝居小屋の近くで、傷を負った男が倒れていた」


「今のところ、それぞれ別の事実だ」


 泰六は、指を一本ずつ立てた。


「同じ場所に関わっているからといって、すべてが一つの事件につながっているとは限らない。そこを間違えれば、推理はただの思い込みになる」


「では、まず芝居小屋へ?」


「そうだ。宗二郎にも、裏方にも話を聞く。それから、倒れていた男について調べる」


 泰六は、立ち上がった。


「舞台の上では、刀を振るう者も、斬られる者も、あらかじめ決まっている。だが、現実の事件では、誰が何をしたのか、最初から決まっているわけではない」


 進一は、先ほどの芝居を思い出した。


 白鷺城の天守に立つ女。


 城主の刀が止まった瞬間。


 そして、背後から現れた刺客。


 芝居の中では、すべてが筋書きどおりに進んでいた。


 しかし、現実の世界では、誰かが筋書きを書いてくれるわけではない。


「泰六さん」


「何だね」


「今度は、芝居小屋の裏側を見られるわけですね」


「そういうことになるな」


「少し、楽しみです」


「君は、何でも楽しめる性分だな」


「泰六さんと一緒にいると、退屈する暇がありませんから」


 泰六は、返事をしなかった。


 ただ、口元がほんの少し緩んでいた。


 二人は、夕暮れの日本橋を歩き出した。


 芝居小屋の灯が、遠くに見えている。


 その灯の向こうには、宗二郎がいる。


 そして、まだ誰も知らない真実が、舞台の裏に静かに隠れていた。

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