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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -  『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』第一話

『安針町 白鷺城の月、天守に消えた女』


【あらすじ】


明治の日本橋安針町、界隈。


小室泰六と和田進一は、評判の芝居を見物するため、芝居小屋へ足を運んだ。


舞台で演じられていたのは、芝居小屋付きの脚本家・宗二郎が書き下ろした新作『白鷺城の月』。


月夜の天守に現れる謎の女。己の城を守ろうとする城主。裏切りと復讐、そして刀を交える者たち――。剣戟の迫力と幻想的な物語は観客を熱狂させ、芝居は大当たりを取っていた。


幕が下り、二人が芝居の余韻に浸っていたそのとき、天秤棒を担いだ小さな魚売りの子ども、三吉が駆け寄ってくる。


「旦那、お願いでございます! おいらの話を聞いておくんなさい!」


芝居小屋の裏手で、ある男が傷を負って倒れていたという。事件の前夜、その男は城主役の人気役者や脚本家の宗二郎とも接触していたらしい。


舞台の上なら、刀で斬られた役者も、幕が下りれば立ち上がる。


だが、現実の傷はそうはいかない。


泰六は小道具の刀、役者の足運び、舞台裏の動線を調べ、進一は事件に関わった人々の言葉に耳を傾ける。そして、町を歩いて魚を売る三吉の記憶が、思いがけない手掛かりとなって浮かび上がる。


果たして、舞台の幻想と現実の事件を結びつけるものは何なのか。


芝居の筋書きに隠された秘密。脚本家・宗二郎が胸に秘めた思い。そして、天守の女が見つめていたものとは――。


明治の日本橋を舞台に、泰六の鋭い推理と進一の人情が、幕の裏に隠された真実を追う。


「幕が下りても、人の心には、まだ解けない謎が残っている。」



【 登場人物紹介】


◾️小室泰六(こむろ・たいろく)

観察眼と論理を武器とする探偵。

芝居を楽しみながらも、舞台上の立廻りや役者の足運びに不自然な点を見逃さない。華やかな演出の陰に潜む、物理的な矛盾を一つずつ解き明かしていく。



◾️和田進一(わだ・しんいち)

泰六と行動をともにする青年。

人々の言葉や表情に目を向け、事件に関わった者たちの事情を理解しようとする。犯人の行為を見逃すことなく、それでも一つの罪だけで人間のすべてを決めつけない。



◾️三吉(さんきち)

天秤棒の両端に魚籠を下げ、町を歩いて魚を売る子ども。小柄で元気いっぱい。

毎日の商いで覚えた路地や店、人々の顔が、事件の重要な手掛かりにつながっていく。大人たちが見落とした小さな変化を、三吉は覚えていた。



◾️宗二郎(そうじろう)

芝居小屋付きの脚本家。

新作『白鷺城の月』を手がけ、剣戟と幻想、人情を織り交ぜた物語で観客の心をつかんだ職人肌の男。芝居を愛し、客を喜ばせることに誇りを持っている。だが、芝居小屋の裏で起きた事件は、彼の創作と無関係ではないように見えた。



◾️ 城主役の人気役者

豪快な立廻りと、天守の女を前にした繊細な演技で観客を魅了する役者。

舞台では何度も斬られる役を演じるが、芝居の外で起きた事件によって、舞台と現実の境目に立たされる。



◾️天守の女

『白鷺城の月』に登場する謎の女。

月明かりの天守に姿を現し、城主の運命を左右する。人間なのか、亡霊なのか。彼女の正体と願いは、物語の幻想的な余韻を担う。

第一話 芝居小屋、白鷺城の月



 明治の東京には、まだ江戸の夢が残っていた。


 煉瓦造りの建物が少しずつ町の景色を変え、洋服を着た男たちが人力車で行き交う一方、路地を曲がれば、軒先に吊るされた提灯が風に揺れ、魚売りの声が長屋の奥まで響いている。


 新しい時代は、古い時代を一度に追い払ったわけではない。


 人々は相変わらず芝居を楽しみ、弁当を買い、誰かの噂を語り、明日の暮らしを心配していた。


 日本橋の界隈も、そんな町の一つである。


「泰六さん。今日は本当に、芝居だけでよろしいんですね?」


 和田進一は、隣を歩く小室泰六に尋ねた。


「芝居を見に行くのに、芝居以外の用事が必要なのかね」


「いえ、そういう意味ではありません。ただ、あなたが何の目的もなく出かけるというのが、少々珍しいものですから」


「失敬な。私にも娯楽を楽しむ権利はある」


 泰六は、何食わぬ顔で答えた。


「もっとも、芝居の仕掛けが物理的に成立していなければ、その場で考え込むかもしれんがね」


「ほら、やっぱり」


 進一が笑った。


 二人が向かっているのは、日本橋界隈の芝居小屋だった。


 近頃、評判の演目がかかっているという。


 題して――『白鷺城の月』。


 芝居小屋付きの脚本家、宗二郎が書き下ろした新作である。


 城主と天守の女。家臣の裏切り。夜陰に紛れて忍び込む刺客。そして、刀を交える武士たち。


 なかでも評判なのは、月夜の天守で、城主と女が向かい合う場面だった。


 女は白い衣をまとい、長い黒髪を垂らしている。人間なのか、亡霊なのか。城主に何を求めているのか。芝居が進むにつれて、観客の疑問は深まっていく。


 そして、その幻想的な場面のあとには、必ず激しい立廻りが待っている。


 客を泣かせ、驚かせ、最後には胸のすくような剣戟で沸かせる。


 その評判は、芝居好きの進一の耳にも届いていた。


「どうやら、相当な人気らしいですね」


 芝居小屋の近くまで来ると、進一は人だかりを見て言った。


 入口には、芝居の絵看板が掲げられていた。


 月を背にした天守閣。その欄干に立つ白衣の女。刀を抜き、女を見上げる城主。背後には、黒装束の刺客が三人、屋根の上に身を伏せている。


 絵看板だけでも、いかにも面白そうだった。


「絵がいいですねえ。あの女の顔など、何とも言えない」


「絵師は、客が何を見たがっているかを心得ているのだろう」


 泰六は看板を眺めた。


「ただし、屋根の上の三人は、ずいぶんと足場が悪そうだ。あの姿勢で刀を抜けば、一人くらいは瓦を落とすのではないかな」


「泰六さん。まだ芝居も始まっていませんよ」


「だから、想像しているのだ」


 進一は苦笑した。


 芝居小屋の中は、外の人だかりに負けぬほどの熱気に包まれていた。


 客席には商人らしい男もいれば、職人風の若者もいる。着物姿の女たちは、連れ立って腰を下ろし、開演を待ちながら小声で話していた。


 舞台の上では、黒衣の者たちが手早く道具を整えている。


 客席のざわめきが、やがて一つの大きな期待へと変わった。


 太鼓が鳴った。


 拍子木が、乾いた音を立てる。


 幕が開いた。


 物語は、白鷺城の奥座敷から始まった。


 城主・白鷺主膳は、先代から受け継いだ城と領地を守るため、家臣たちに厳しく当たっていた。


 城内では、何者かが密かに兵糧蔵の鍵を盗み、敵方に通じているという噂が流れている。


 主膳は家臣たちを一人ずつ問い詰めるが、誰も真実を語らない。


 やがて、夜が訪れる。


 月明かりが障子を透かし、奥座敷の影を青白く染めた。


 そのとき、誰もいないはずの天守から、女の声が響いた。


「殿。今宵も、あなたは人をお疑いになるのですね」


 客席のざわめきが消えた。


 舞台の上段に、白衣の女が現れたのである。


 女は欄干に手を添え、静かに城主を見下ろしていた。


「何者だ!」


 主膳が刀に手をかける。


「あなたが忘れた者にございます」


「名を申せ!」


「名を知れば、あなたは私を斬るのでしょう」


 女は微笑んだ。


 その笑みが、悲しいのか、恐ろしいのか、進一には分からなかった。


 ただ、目を離すことができなかった。


「……うまいものですね」


 進一が小声で言った。


「何がだね」


「女の台詞です。あれだけで、いったい何があったのだろうと考えたくなる」


「確かに、続きを聞きたくなる台詞ではある」


 泰六は舞台から目を離さずに答えた。


「だが、あの女が何者なのか、今のところ判断する材料はない」


「芝居の中の女ですよ」


「芝居の中だからといって、観察をやめる理由にはならん」


 進一は、もう何も言わなかった。


 舞台では、城主が女を捕らえようと、家臣たちに命じていた。


 しかし、女の姿は天守から消えてしまう。


 次の瞬間、場面が変わった。


 城の中庭である。


 松明の明かりが揺れ、黒装束の刺客たちが塀を越えて現れた。


「殿の首を取れ!」


 叫び声とともに、刀が抜かれた。


 主膳は、長い刀を手に刺客たちを迎え撃つ。


 刃と刃が打ち合わされ、火花こそ散らぬものの、金属音を思わせる鋭い効果音が客席まで響いた。


 一人目の刺客が斬られ、二人目が倒れる。


 三人目は背後から斬りかかったが、主膳は振り返りざまに刀を受け、相手の懐へ踏み込んだ。


 客席から、どっと歓声が上がった。


「おおっ!」


 進一も、思わず膝を乗り出した。


 主膳の刀が大きく弧を描く。


 刺客の刀が宙を舞い、男は舞台の上に倒れた。


 さらに別の刺客が現れ、主膳と激しく斬り結ぶ。


 舞台の左右から黒衣の者が走り込み、目にも留まらぬ早さで場面を転換させていく。


 その動きに無駄がなかった。


 観客は、すっかり物語の中へ引き込まれていた。


「これは、評判になるはずですね」


 進一が言った。


 泰六は、しばらく黙って舞台を見つめていた。


 やがて、ぽつりとつぶやく。


「なるほど。あの男は、斬られる直前に、右足を半歩引いている」


「え?」


「相手の刀が届くより先に、身体を逃がしているのだ。斬られることを知っている者の動きだな」


「……役者ですからね」


「そう。役者だからこそ、そう見せる必要がある。だが、見せるための動きにも、理屈はある」


 泰六は、ほんのわずかに目を細めた。


「よくできた立廻りだ」


 その言葉には、珍しく素直な感心が含まれていた。


 やがて、物語は終盤へと進んだ。


 主膳は、城を裏切った家臣を追い詰める。しかし、最後の一太刀を浴びせようとした瞬間、天守の女が再び現れた。


「お待ちなさいませ」


 女の声が、舞台に響いた。


「その者を斬れば、あなたは一生、真実を知ることができませぬ」


「黙れ! 何ゆえ、裏切り者を庇う!」


「裏切ったのは、誰にございましょう」


 女は一歩、欄干から身を乗り出した。


「殿は、かつて一人の者と約束をなさいました。その約束をお忘れになったのは、いったい誰でございますか」


 主膳の刀が止まった。


 客席の誰もが息を呑んだ。


 その瞬間、背後から刺客が飛び出した。


「殿!」


 進一が、思わず声を上げた。


 主膳は振り向いた。


 刀が交差した。


 そして、主膳の身体が大きく揺れ、ゆっくりと膝をついた。


 舞台の上に、静寂が落ちた。


 天守の女が、そっと目を伏せる。


「これで、ようやくお休みになれますね」


 太鼓が鳴った。


 幕が下りた。


 一瞬の沈黙のあと、客席から大きな拍手が湧き上がった。


 進一も、手が痛くなるほど拍手をした。


「いやあ、見事でした。最後は、ああなるのですね」


「なかなかの構成だ」


 泰六も、満足そうにうなずいた。


「もっとも、主膳が最後に斬られた理由は、まだ説明が足りない。あの女が何を知っていたのかも、結局は曖昧なままだ」


「そこが、いいのではありませんか?」


「そういう楽しみ方もあるだろう」


 泰六は、少しだけ笑った。


「すべてを説明すれば、芝居がよくなるというものでもない」


 進一は、意外そうに相棒を見た。


「泰六さんが、そんなことをおっしゃるとは」


「私は、謎を解くのが好きなのだ。謎が残ることそのものを、嫌っているわけではない」


 その言葉を聞いて、進一はもう一度、舞台の方を振り返った。


 幕の向こうでは、役者たちが次の興行に向けて道具を片づけているのだろう。


 天守の女も、白鷺城の城主も、もうそこにはいない。


 けれど、あの女の声だけは、まだ耳の奥に残っていた。


     *


 芝居小屋を出ると、夕暮れの日本橋には、昼とは違う賑わいが広がっていた。


 人力車の車輪が石畳を鳴らし、店先では職人たちが暖簾を下ろし始めている。どこかの店から、醤油と焼いた魚の香ばしい匂いが流れてきた。


「泰六さん、少し早いですが、何か食べていきませんか」


「賛成だ。芝居は腹が減る」


「それは、初めて聞く理屈です」


「初めて聞いたなら、覚えておきたまえ」


 二人は、近くの弁当屋で弁当を買った。


 竹の皮に包まれた飯と、焼き魚、煮物。派手ではないが、丁寧に作られた弁当だった。


 通りの邪魔にならぬ場所を見つけ、二人は腰を下ろした。


 進一は、焼き魚を口に運びながら、再び芝居の話を始めた。


「宗二郎という脚本家は、なかなかの腕ですね。あの女の正体を、最後まで明かさないとは」


「明かさないことと、決めていないことは違う」


「と、言いますと?」


「作者が正体を決めたうえで、観客にだけ明かさないのであれば、謎になる。作者自身が決めていないのであれば、それは曖昧さだ」


 泰六は、煮物を一口食べた。


「もっとも、宗二郎がどちらなのかは、私には分からんがね」


「では、今度、本人に会ってみますか」


「機会があればな」


 そのときだった。


「旦那あ! 旦那、ちょいと聞いておくんなさい!」


 威勢のよい声が、二人の会話を遮った。


 振り向くと、ひとりの子どもが、天秤棒を担いで駆けてくるところだった。


 棒の両端には、魚を入れた籠が下がっている。子どもは小柄だったが、足取りは軽く、息を切らしながらも、こちらへまっすぐ向かってきた。


 籠の中から、魚の尾が一本、ぴょこんとはみ出している。


「おや、魚売りか」


 進一が声をかけた。


「へえ、そうでございます! おいら、三吉と申しやす!」


 三吉は、二人の前でぴたりと立ち止まった。


「旦那方、探偵さんだと聞きやした。人さまの困り事を、見つけてくださるんでしょう?」


「誰から聞いたのかね」


 泰六が尋ねた。


「そいつは……まあ、町を歩いてりゃ、いろいろ耳に入るもんで」


 三吉は、少しだけ口ごもった。


 その顔から、先ほどまでの威勢のよさが消えていた。


「実は、おいら、困ってるんでございます」


 進一は、弁当を脇へ置いた。


「どうしたんだい。魚が売れなかったのか?」


「いえ、魚なら売れます。今朝だって、ちゃんと売れやした」


 三吉は、天秤棒を肩から下ろした。


 籠が、地面に軽く触れて揺れた。


「でも……昨日の晩、芝居小屋の裏で、妙なことがあったんでございます」


 泰六の目が、わずかに細くなった。


「妙なこと?」


「へえ。おいら、魚を届けに行った帰りだったんです。そしたら、裏口のところで……」


 三吉は、周囲を気にするように、ちらりと振り返った。


「人が、刀みてえなものを持って、走っていくのを見たんでございます」


 進一の表情が変わった。


「刀?」


「へえ。でも、芝居で使う刀なのか、本物なのか、おいらには分かりやせん。ただ……」


 三吉は、唇を噛んだ。


「今朝、その人と同じような着物を着た男が、傷を負って倒れていたって聞いたんです」


 泰六は、ゆっくりと弁当を包み直した。


 先ほどまで、舞台の上で斬られていた男は、幕が下りれば立ち上がった。


 しかし、三吉の話が本当なら、現実の世界ではそうはいかなかったのかもしれない。


「三吉君」


 泰六は、静かに言った。


「その話、最初から聞かせてもらおう」


 三吉は、こくりとうなずいた。


 夕暮れの町を、風が吹き抜けた。


 芝居小屋の方角から、次の興行を知らせる呼び込みの声が聞こえてくる。


 舞台の上では、今夜も白鷺城の月が昇るだろう。


 天守の女は現れ、城主は刀を抜き、観客は息を呑む。


 だが、現実の町では、誰かが本当に傷ついている。


 そして、その事件の幕は、まだ上がったばかりだった。

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