小室泰六(SHERLOCK) - 下宿屋主人の困り事 【後編】
【後編】 内に於いて
七時を告げる鐘が、神田の町に響いた。
朝の光は、まだ薄かった。
長屋の屋根には夜露が残り、路地の石畳には、夜のうちに降った霧雨が黒い染みを作っていた。表通りからは荷車の軋む音が聞こえ、どこかの店先では、店主が戸板を外し始めている。
しかし、田辺下宿の二階だけは、町の朝から切り離されたように静まり返っていた。
襖の向こうに、誰かがいる。
昨夜、進一が確かに聞いた声。
――助けて。
あの声は、夢ではなかった。
「鍵を」
小室泰六が言った。
田辺夫人は、帯の間に差していた鍵束を取り出した。しかし、手が震えていた。鍵同士が触れ合い、小さな金属音が廊下に響いた。
「先生。本当に、開けてよろしいのでしょうか」
「よろしいかどうかを決めるために、開けるのです」
泰六は、鍵束を受け取らなかった。
「ただし、私が合図するまで、誰も扉に触れないでください」
「何か危険が?」
「危険があるかどうかも、まだ分かりません。分からないことを、分かったつもりで扱うのが一番危険なのです」
進一は、泰六の横顔を見た。
いつもの顔だった。
謎に出会ったときの泰六は、まるで目の前に置かれた品物の寸法を測る職人のようになる。人の顔色に惑わされず、恐怖にも同情にも引きずられず、ただ、そこにあるものを見ようとする。
けれども、今朝の彼は、いつもより慎重だった。
扉の前に立つと、泰六はまず、敷居を見た。
それから、錠前。
次に、扉の下。
そして、蝶番。
「進一君」
「はい」
「昨夜、君がこの廊下で聞いた足音は、何時ごろでしたか」
「二時を少し回ったころです。廊下を歩く音がして、私が戸を開けたときには、もう誰もいませんでした」
「そのとき、音はどちらへ向かっていましたか」
「階段のほうから、こちらへ来たように聞こえました。けれど、私が戸を開けると、音は止まっていました」
「足音は、何歩でしたか」
「そこまでは……」
「では、音の間隔は?」
進一は、しばらく考えた。
「急いでいるようではありませんでした。むしろ、こちらに誰かいるかどうか、確かめながら歩いているような」
「なるほど」
泰六は、扉の下を指した。
「この紙片を見てください」
昨夜、進一が拾った短い黒糸が、廊下の板目に残っていた。糸のすぐそばには、紙の端が擦れたような白い跡がある。
「紙を扉の下から差し入れた。その際、何かが引っかかったのでしょう」
「黒糸のついた衣服が、扉に触れたということですか」
「可能性はあります。しかし、それだけでは決められません。黒糸が衣服から落ちたのか、糸そのものを運んできたのかも分からない」
泰六は、懐中時計を取り出した。
「田辺夫人。昨夜、最後にこの部屋へ食事を運んだのは、何時ですか」
「午後六時でございます」
「そのとき、膳はどうなりました」
「いつものように、扉の前へ置きました。今朝、見に参りましたら、膳はなくなっておりました」
「空になっていたのですか」
「いいえ。食事は、ほとんど手をつけられていませんでした」
泰六は、顔を上げた。
「それは、いつものことですか」
「はい。お客様は、たいへん少食で……」
「田辺夫人」
泰六の声が、わずかに低くなった。
「あなたは、この部屋の客が、食事を取っているところを一度でもご覧になりましたか」
夫人は答えなかった。
進一は、その沈黙に気づいた。
「まさか、膳を下げているのは……」
「誰かが、食べたように見せている。あるいは、食べていないように見せている。どちらも、まだ考えられます」
泰六は、扉の前に置かれた鍵穴へ目を向けた。
「まずは、扉を開けます」
鍵が回った。
かちり、と音がした。
泰六は、すぐには扉を押さなかった。
「中の方。お聞こえでしたら、返事をしてください」
沈黙。
「私たちは、あなたを捕らえに来たのではありません。事情を伺いに来たのです」
沈黙は、なお続いた。
やがて、扉の向こうで、小さな物音がした。
――こつ。
――こつ。
――こつ。
三度。
中編の最後に聞いた音と同じだった。
進一の背中に、冷たいものが走った。
泰六は、扉に手を添えた。
「今度は、こちらから開けます」
ゆっくりと扉が動いた。
部屋の中には、誰もいなかった。
*
窓は閉じられていた。
寝台の上には、布団がきちんと畳まれている。小さな卓の上には、冷めた茶碗が一つ。壁際には、男物の外套と帽子が掛けられていた。
部屋の中央には、昨夜まで食事を運んでいた膳が置かれている。
膳の上には、手つかずの飯と汁。
そして、その横に、赤い輪を描いた紙片が一枚。
「誰もいない……」
進一は、部屋の奥を見回した。
押し入れ。寝台の下。箪笥の陰。
隠れられそうな場所は、いくつもあった。しかし、どこにも人の気配はない。
「泰六さん。窓から逃げたのでしょうか」
「窓は、内側から閉じられています」
「それなら、屋根へ?」
「屋根へ出るには、窓を開けなければなりません」
「しかし、昨夜、向かいの屋根に黒い外套の男が……」
「その男が、この部屋の人間だったとは限りません」
泰六は、窓へ近づいた。
窓枠には、確かに小さな針穴があった。
針穴の周囲には、木の表面がわずかに削れた跡がある。
「進一君。君は中編で、針が内側から打ち込まれたように見える、と言いましたね」
「はい。紙を窓に留めるために使ったのではないかと」
「その推測は、半分正しい」
泰六は、窓枠を指でなぞった。
「針は、紙を留めるために使われた。しかし、紙を留めたのは、部屋の中の人間とは限りません」
「外から、ですか」
「この窓枠の下をご覧なさい」
窓枠の木材には、細い溝があった。
泰六は懐中時計の鎖を外し、その先端を溝に差し入れた。
かすかな音がした。
「これは、紙を挟み込むための隙間です。窓枠の内側に、薄い紙を差し込み、外から針を通す。針は木に浅く食い込み、紙を留める。紙を引き抜けば、針穴だけが残る」
「では、針穴が内側にあるように見えたのは……」
「針の向きを、見誤ったのです。針穴は、内側から打たれた証拠にはなりません」
進一は、窓枠を見つめた。
窓の外から紙を留めることができる。
それなら、昨夜の赤い紙も、誰かが屋根から窓へ近づき、取り付けたのかもしれない。
「しかし、屋根からこの窓へ来るには、危険ではありませんか」
「危険でしょう。だからこそ、誰もができることではない。足場を知っている者か、あるいは、慣れている者でしょうね」
泰六は、窓の外を見た。
向かいの屋根には、もう誰もいない。
「黒い外套の男は、何かを伝えに来たのかもしれません。あるいは、誰かがそこにいると、私たちに思わせたかったのかもしれない」
「つまり、男の姿そのものが、手掛かりではなく、仕掛けだったと?」
「その可能性があります」
泰六は、卓の上の赤い紙片を手に取った。
表には、赤い輪。
裏には、短い文字。
――七時に来るのは、私ではない。
「進一君。この文を書いた者は、誰だと思いますか」
「昨夜、向かいの屋根にいた男でしょうか」
「なぜ?」
「自分ではない、と書いているのですから。七時に来る者を知っている人間が、書いたのではないかと」
「それなら、なぜ、わざわざ『私ではない』と書いたのでしょう」
進一は、言葉に詰まった。
「誰かが、自分の名を騙っている。あるいは、自分が来ると思わせたい者がいる。そのどちらかかもしれません」
「では、もう一つ考えてください」
泰六は、紙片を卓に置いた。
「この文は、誰に向けて書かれたのでしょう」
進一は、紙を見た。
七時。
来るのは、私ではない。
昨夜、彼はこの紙を見て、黒い外套の男が来るのではないかと考えた。
だが、紙には男の名など書かれていない。
「……私たち、ですか」
「そうです。私たちが、黒い外套の男を追うように仕向けるための文だった可能性もある」
泰六は、赤い輪の中央を指先で押さえた。
「この輪は、ただの印ではありません。見る者に、ある特定のことを思い出させる印なのです」
*
「先生」
背後から声がした。
振り返ると、佐々木新吉が立っていた。
顔色は悪く、昨夜から一睡もしていないように見えた。
「何か、分かったのでしょうか」
「まだ、すべては分かりません」
泰六は答えた。
「しかし、君に聞きたいことがあります」
「はい」
「横浜で、君が見た赤い輪の紙。あれは、誰が持っていましたか」
新吉の顔がこわばった。
「……男です」
「どんな男ですか」
「背が高くて、黒い外套を着ていました。顔は、帽子の陰になって、よく見えませんでした」
「その男は、紙を誰に渡しましたか」
「誰にも渡していません。壁に貼りつけて、すぐに立ち去りました」
「紙の裏には、何が書かれていましたか」
新吉は、唇を噛んだ。
「……『見た者は、黙れ』と」
進一は息をのんだ。
「そんなことが書かれていたのか」
「はい」
「なぜ、それを今まで言わなかったのです」
「言えば、また……」
新吉は、言葉を切った。
「また、あの男が来ると思ったのです」
泰六は、責めるような顔をしなかった。
「恐怖を感じたとき、人は、目の前の危険だけを考えます。先のことを考える余裕がなくなる。それは不思議なことではありません」
新吉は、うつむいた。
「ですが、私は、黙ってしまいました。誰かが困っていると知りながら、見なかったことにしたのです」
「君は、見なかったことにしたのですか。それとも、見たことを、誰にも言えなかったのですか」
新吉は、答えなかった。
「この二つは、似ているようで違います」
泰六は、静かに言った。
「どちらも、結果として誰かを孤立させることはある。しかし、同じものとして扱ってしまえば、なぜ人が沈黙するのか、考えることをやめてしまう」
進一は、新吉の肩に手を置いた。
「もう、話していいんだ。今度は、私たちが聞くから」
新吉は、ようやく顔を上げた。
「横浜の男は、紙を貼ったあと、こう言ったのです」
「何と?」
「『赤い輪が見えたら、窓を閉めろ。窓が閉じていたら、誰も中を覗くな』と」
泰六の目が細くなった。
「窓を閉めろ……」
「はい」
「そして、君は、この下宿でも、同じ赤い輪を見た」
「そうです」
「ならば、君が見た二つの赤い輪は、同じ意味だったのでしょうか」
新吉は、首を傾げた。
「同じ印なのですから、同じ意味では……」
「そこです」
泰六は、卓の紙片を指した。
「同じ形をしていることと、同じ意味を持つことは、別なのです」
*
泰六は、田辺夫人を呼んだ。
「夫人。あの客が初めてここへ来た日のことを、もう一度、思い出してください」
「初めて……でございますか」
「誰が連れて来たのですか」
「ご本人がお一人で」
「名前は?」
「聞きました。しかし、はっきり聞き取れなかったのです」
「男でしたか、女でしたか」
夫人は、困ったように眉を寄せた。
「それが……男のようにも、女のようにも聞こえました」
「声は?」
「低い声でした。でも、ひどく疲れているようで……」
「手袋をしていた、と言いましたね」
「はい」
「手袋を外したところを見ましたか」
「いいえ」
「では、顔は?」
「帽子を深くかぶっておりましたので、よくは……」
泰六は、しばらく黙っていた。
「夫人。あなたは、その客が男だと、誰から聞きましたか」
「誰から、と申されましても……」
「客が男だと、あなた自身が確かめたことはありますか」
夫人は、口を開いたまま、答えられなかった。
進一は、胸の中で何かが崩れる音を聞いた気がした。
この半月、誰もが、部屋の中に男がいると思っていた。
男物の外套。
男物の帽子。
低い声。
手袋。
そして、食事を運ぶたびに閉じられた扉。
しかし、そのどれもが、決定的な証拠ではなかった。
「……女なのですか」
夫人が、かすれた声で尋ねた。
「その可能性が高い。ですが、まだ断定はしません」
泰六は、部屋の隅に掛けられた外套を見た。
「衣服は、人の性別を証明しません。声も、顔も、名前も、場合によっては、真実を隠すために使われる」
進一は、昨夜のおはなの言葉を思い出した。
――人は、逃げているだけでも、悪い人だと思われるのでしょうか。
あの問いは、単なる不安ではなかったのかもしれない。
「泰六さん。おはなさんを呼びましょう」
「そうですね」
泰六は、短く答えた。
「彼女は、何かを知っている。そして、何かを恐れている」
*
おはなは、ほどなくして二階へ上がってきた。
彼女は部屋の中を見るなり、顔を青ざめさせた。
「……開けてしまったのですね」
「はい」
進一が答えた。
「中には誰もいませんでした」
おはなは、目を閉じた。
安堵したようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「おはなさん」
泰六が言った。
「あなたは、この部屋の客を知っていますね」
「……知りません」
「では、なぜ、扉が開いたことを恐れているのですか」
「それは……」
「あなたが知らない相手のために、そこまで怯える理由は何ですか」
おはなは、両手を握りしめた。
「私には……言えません」
「誰かに、口止めされているのですか」
彼女は答えなかった。
「あなたは、昨夜、こう尋ねましたね。逃げているだけでも、悪い人だと思われるのか、と」
進一が、そっと言った。
「おはなさん。私たちは、あなたを責めに来たのではありません」
「でも、もし、私が話したら……」
「誰かが傷つく?」
おはなは、小さく頷いた。
「話さなければ、誰かが傷つくかもしれない。話せば、別の誰かが傷つくかもしれない。そういうことですね」
彼女の目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
泰六は、しばらく彼女を見ていた。
「では、事実だけを話してください。誰が正しいか、誰が悪いかは、そのあとで考えればよい」
おはなは、唇を震わせた。
「この部屋にいる方は……女の方です」
田辺夫人が、小さく息をのんだ。
「やはり……」
「名前は、榊原志津さんとおっしゃいます。以前、横浜の商館で帳簿をつけていらした方です」
「帳簿?」
進一が聞き返した。
「はい。商館では、外国から来た品物だけでなく、船で働く人たちの契約書も扱っていたそうです」
「契約書に、何か問題があったのですか」
おはなは、頷いた。
「働く人たちが、受け取ったはずの賃金が、帳簿から消えていたのです。船に乗った人の名前も、帰ってきた人の名前も、書き換えられていました」
泰六の表情が変わった。
「志津さんは、それを見つけた」
「はい。そして、帳簿の写しを取ったのです」
「そのために、追われているのですか」
「そうです」
おはなは、涙をぬぐった。
「志津さんは、悪いことをした人ではありません。けれど、あの帳簿を見た人たちは、志津さんが帳簿を盗んだのだと言っています」
「帳簿を盗んだのではなく、帳簿の写しを取った」
「はい」
「その写しは、今どこに?」
おはなは、答えなかった。
泰六は、すぐに追及しなかった。
「分かりました。今は、その質問には答えなくてよい」
進一は、意外そうに泰六を見た。
「泰六さん、聞かないのですか」
「聞くべき時があります。聞いてはいけない時もある」
泰六は、おはなに向き直った。
「ただ、一つだけ確認します。志津さんは、この部屋から逃げたのですか」
「……いいえ」
「では、今、どこにいるのです」
おはなは、窓を見た。
そして、ようやく言った。
「この家の中です」
*
部屋の外で、階段が軋んだ。
誰かが上がってくる。
進一は、廊下へ出た。
そこに立っていたのは、黒い外套を着た男だった。
帽子を深くかぶり、右手には、赤い輪を描いた紙片を握っている。
「……君か」
男は、進一を見た。
「小室泰六先生に、お会いしたい」
「どちら様ですか」
「その前に、伝えなければならないことがある」
男は、部屋の中を見た。
「志津さんは、どこです」
泰六が、ゆっくりと廊下へ出てきた。
「あなたこそ、どなたですか」
「榊原志津の兄です。榊原宗一と申します」
進一は、男の顔を見た。
年は三十代半ばほど。頬はこけ、目の下には深い隈がある。疲れきった顔だったが、その目には、はっきりとした焦りがあった。
「妹を迎えに来ました」
「昨夜、向かいの屋根にいたのも、あなたですか」
男は、しばらく黙っていた。
「はい」
「なぜ、屋根に?」
「部屋の窓を見張っていたのです」
「誰から守るために?」
宗一は、答えなかった。
泰六は、彼の手元を見た。
「その紙を見せてください」
宗一は、赤い輪の紙片を差し出した。
表には、赤い輪。
裏には、こう書かれていた。
――七時に来るのは、私ではない。
「これは、あなたが書いたものですか」
「いいえ」
「では、誰が?」
「妹です」
進一は、驚いて宗一を見た。
「志津さんが?」
「はい。妹は、私がここへ来ることを知っていました。しかし、私が来ると分かれば、私を見張っている者も来る。だから、私ではない、と書いたのです」
「では、昨夜、あなたが屋根にいたのは?」
「妹に合図を送るためです」
宗一は、懐から短い赤い糸を取り出した。
「赤い糸を窓から垂らす。それが、妹との約束でした。窓の向こうに誰かがいるか、無事かどうか、それだけを確かめる」
「しかし、窓には紙が貼られていました」
「ええ。私が貼ったのではありません」
「では、誰が?」
「私を追ってきた男です」
宗一は、唇を噛んだ。
「私が屋根に上がったとき、すでに窓には赤い紙が貼られていました。私は、妹が危険を知らせているのだと思った。だから、紙を取り外そうとしたのです。しかし、その瞬間、向かいの路地に男がいるのが見えた」
「男は、あなたを見ていたのですか」
「分かりません。けれど、私が屋根から降りると、男も姿を消しました」
泰六は、静かに尋ねた。
「あなたは、妹を救うために来た。しかし、あなた自身も、誰かに追われている」
「そうです」
「そして、あなたは、妹がこの下宿にいることを、追っ手に知られたくない」
「その通りです」
「それなら、なぜ、あなたは昨夜、屋根の上で姿を見せたのですか」
宗一は、顔をしかめた。
「妹が、合図を送ったからです」
「赤い糸を?」
「はい」
「しかし、私たちが見たのは、赤い糸だけではありません。黒い外套の男も見た」
「私です」
「あなたは、黒い外套を着ていた。だが、あなたが見張っていた相手も、黒い外套を着ていた可能性があります」
宗一の顔が、強張った。
「……そういうことですか」
泰六は、頷いた。
「黒い外套の男が二人いた。あるいは、一人の男が、別の人間に自分の姿を見せた。どちらにせよ、目撃した姿だけでは、人物を特定できない」
進一は、昨夜の光景を思い出した。
屋根の上の男。
黒い外套。
赤い紙。
そして、折り畳まれた紙片。
あれは、何かを伝えるための合図だった。
しかし、誰に向けられた合図だったのか。
誰が、誰を見ていたのか。
その関係が、まだ分からない。
「宗一さん」
泰六が言った。
「あなたは、妹さんがどこに隠れているか、ご存じだったのですね」
「はい」
「ならば、なぜ、今まで部屋へ入らなかったのですか」
宗一は、答えるまでに時間がかかった。
「妹が、私を信じていなかったからです」
その言葉は、思いのほか静かだった。
「私は、妹を助けるために、商館の帳簿を持ち出そうとしました。しかし、そのとき、追っ手に見つかった。私は逃げるしかなかった。妹を置いて、逃げたのです」
彼は、目を伏せた。
「妹は、私が自分を見捨てたと思っている。私が迎えに来ても、信じないでしょう」
「だから、紙に『あの男を信じるな』と書かせたのですか」
「いいえ」
宗一は、首を横に振った。
「あれは、私が書いたものではありません」
進一は、息をのんだ。
「では、誰が?」
「……商館の男です」
*
泰六は、卓の上にある紙片を並べた。
――あの男を信じるな。
――彼女を、信じてくれ。
――七時に来るのは、私ではない。
三枚の紙。
三つの文。
それぞれが、別の方向を指しているように見えた。
「進一君」
「はい」
「この三枚の紙を、書いた者が同じだと考えたら、どうなりますか」
「同じ人間が、矛盾したことを書いたことになります」
「そうです。では、書いた者が違うとしたら?」
「それぞれの文が、別の人間の意思を表していることになります」
「では、三枚の紙を、誰が書いたのか。考えてみましょう」
泰六は、一枚目を指した。
「『あの男を信じるな』。この男とは、誰でしょう」
「宗一さんでしょうか」
「そう考える理由は?」
「志津さんが、兄を信じていないから……」
「それは、おはなさんの話から推測したことです。紙を書いた者の意図を証明するものではありません」
進一は、口を閉じた。
泰六は、二枚目を指した。
「『彼女を、信じてくれ』。これは誰に向けられた文でしょう」
「私に、でしょうか」
「なぜ、君に?」
「昨夜、私がこの廊下にいたことを、誰かが知っていたのかもしれません」
「そうです。では、その誰かは、君が志津さんを助けようとしていると、どうして知ったのでしょう」
進一は、考えた。
自分は、志津を見たことがない。
彼女の顔も、声も、知らない。
ただ、扉の向こうから聞こえた声を聞き、助けを求められたように感じただけだ。
「……私が、田辺夫人に話を聞いていたからでしょうか」
「可能性はあります。しかし、もう一つあります」
泰六は、廊下の床を指した。
「君が、夜中に戸を開けたことです。誰かが、君の部屋から出てくるのを見た。あるいは、君が扉の前に立っていたのを見た。その者は、君がこの件に関わり始めたと考えたのでしょう」
進一は、黒い糸を見た。
「それなら、黒い糸は……」
「誰かが、君の部屋の前を通った証拠かもしれません。しかし、糸だけでは、誰が通ったのかまでは分からない」
泰六は、三枚目の紙を取り上げた。
「『七時に来るのは、私ではない』。これは、志津さんが書いたと、宗一さんは言いました」
「はい」
「しかし、彼女はなぜ、兄が来ることを、わざわざ否定するような書き方をしたのでしょう」
宗一は、顔を上げた。
「追っ手に、私が来ると思わせないためです」
「その通りです。しかし、追っ手がその紙を見たとき、何を考えるでしょう」
「……宗一が来ない、と」
「では、追っ手は安心するでしょうか。それとも、別の人間が来ることを警戒するでしょうか」
宗一は、答えられなかった。
泰六は、静かに言った。
「紙は、真実を伝えるためにも使われます。しかし、誰かに何かを思い込ませるためにも使われる。重要なのは、紙に何が書いてあるかだけではありません。それを読んだ者が、どう動くことを期待されているか、です」
進一は、三枚の紙を見た。
赤い輪。
それは、合図だった。
けれど、合図とは、何かを伝えるだけのものではない。
誰かを動かすためのものでもある。
*
「先生」
宗一が、低い声で言った。
「妹に、会わせていただけませんか」
「会いたいのであれば、会わせます。しかし、その前に、一つだけ答えてください」
「何でしょう」
「あなたは、帳簿の写しを持っていますか」
宗一は、黙った。
「持っていないのですね」
「……はい」
「では、志津さんが持っている」
宗一は、顔を上げた。
「なぜ、そう思われるのですか」
「あなたがここへ来た目的は、妹を連れ出すことだけではない。帳簿の写しを取り戻すことでもある。違いますか」
宗一は、長い沈黙のあと、頷いた。
「私は……あの帳簿を公にしたいのです」
「それなら、なぜ、妹さんが写しを持っていることを、ここで認めなかったのですか」
「妹が、誰かに聞かれているかもしれないからです」
「誰に?」
「商館の者に。あるいは、私を追っている男に」
泰六は、窓を見た。
「この部屋にいる者を、誰も信用できない。そういう状況だったのですね」
「はい」
「では、志津さんは、なぜあなたを信じられないのでしょう」
宗一は、苦しそうに答えた。
「私が、彼女を置いて逃げたからです」
「それだけですか」
「……それだけではありません」
宗一は、手を握りしめた。
「私は、妹に、帳簿の写しを渡すよう頼みました。自分が持って逃げるから、と。けれど、妹は拒みました。彼女は、帳簿に名前がある人たちのために、写しを残したいと言ったのです」
「それで、あなたは?」
「私は、彼女に、そんなことをしても無駄だと言いました。商館には力がある。役人にも、金を渡している。たった一人の女が、何を言っても変わらない、と」
宗一は、うつむいた。
「……私は、妹を守るつもりで、妹の決意を踏みにじったのです」
進一は、何も言えなかった。
兄は、妹を救いたい。
妹は、帳簿に名前を残された人々を救いたい。
どちらも、守ろうとしていた。
しかし、守ろうとするものが違うために、互いを信じられなくなった。
泰六は、静かに言った。
「宗一さん。あなたが妹さんを愛していることと、あなたの判断が正しかったことは、同じではありません」
宗一は、顔を上げた。
「……はい」
「そして、あなたが一度、妹さんを置いて逃げたことと、あなたが今、妹さんを救おうとしていることも、矛盾しません」
宗一の目が揺れた。
「人は、一つの行為だけで、すべてを決められるものではない。ですが、過去の行為が消えるわけでもありません。あなたが妹さんに信じてもらいたいのなら、信じろと要求するのではなく、なぜ信じられなくなったのかを、聞く必要があるのでしょう」
宗一は、唇を震わせた。
「……分かりました」
泰六は、頷いた。
「では、会いましょう」
*
おはなが、部屋の隅にある箪笥へ向かった。
「志津さん。もう、出てきても大丈夫です」
返事はなかった。
おはなは、箪笥の前に膝をついた。
引き出しを一つ、開ける。
中には、畳んだ着物と、古い帳面が入っていた。
おはなは、帳面を取り出し、底板を押した。
小さな隙間が開いた。
そこから、細い手が現れた。
進一は、思わず息を止めた。
手袋をしていた。
指先は、ひどく痩せていた。
やがて、箪笥の奥から、一人の女が姿を現した。
年は二十代半ばほどだろうか。顔色は青白く、頬はこけていた。しかし、目だけは、驚くほどはっきりしていた。
女は、宗一を見た。
兄は、妹を見た。
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
「……志津」
宗一が、ようやく言った。
志津は、答えなかった。
「迎えに来た」
「どうして」
「君を、ここから連れ出すために」
「それだけ?」
宗一は、言葉を失った。
志津は、兄を見つめた。
「帳簿が欲しいのでしょう」
「違う」
「嘘をつかないで」
その声は、かすれていた。
「あなたは、私を守りたいと言った。けれど、あなたが守りたかったのは、私ではなく、私が持っている帳簿だった」
「志津……」
「私は、あなたを信じたかった。あなたが、私を置いて逃げたときも、何か理由があったのだと思いたかった。けれど、あなたは、私に何も説明しなかった」
志津の目に、涙が浮かんだ。
「私は、あなたが戻ってくるのを待っていた。毎日、窓を見ていた。赤い糸を垂らせば、あなたが見つけてくれると思っていた」
宗一は、うつむいた。
「……すまなかった」
「謝れば、元に戻るの?」
「戻らない」
宗一は、顔を上げた。
「戻らないことは分かっている。それでも、謝りたかった」
志津は、しばらく兄を見つめていた。
「私は、帳簿を渡さない」
「分かった」
「私を連れて逃げることも、あなたには決めさせない」
「分かった」
「私は、自分で決める」
宗一は、静かに頷いた。
「……そうしてくれ」
志津の肩が、小さく震えた。
進一は、その場から目をそらした。
誰かが謝る場面を、他人が見ていてはいけないこともある。
けれど、泰六は目をそらさなかった。
彼は、二人の言葉を、最後まで聞いていた。
*
「志津さん」
泰六が、声をかけた。
「あなたが、この部屋に隠れていた理由は分かりました。ですが、まだ分からないことがあります」
「何でしょう」
「赤い輪です」
志津は、目を伏せた。
「あなたが、紙に赤い輪を描いたのですね」
「はい」
「それは、何を意味するのですか」
志津は、しばらく黙っていた。
「私たちが、商館で使っていた印です」
「商館の印?」
「帳簿の中で、確認が必要な記録につけていました。赤い輪がついた記録は、もう一度、元の書類と照合しなければならない。そういう決まりでした」
「つまり、赤い輪は、警告だった」
「はい」
「では、なぜ、窓に赤い輪を描いたのです」
志津は、窓を見た。
「私は、兄に合図を送りたかったのです。赤い輪が見えたら、窓を閉める。窓が閉じていたら、誰も中を覗かない。そう決めていました」
「しかし、紙には『窓を開けるな』と書かれていました」
「それは、私が書いたものではありません」
進一は、驚いて志津を見た。
「では、誰が?」
「商館の男です。私がこの下宿にいると知って、窓に紙を貼ったのです。私が逃げ出すのを防ぐために」
「赤い輪を、あなたの合図と同じ形にして?」
「はい。私が、自分の合図だと思って窓を開ければ、外にいる男に見つかる。そういう仕掛けでした」
泰六は、頷いた。
「なるほど。赤い輪は、あなたにとっては助けを求める印。しかし、追っ手にとっては、あなたを誘い出すための印だった」
「そうです」
「同じ形でも、意味は違う。見る者によって、役割が変わるのですね」
志津は、目を伏せた。
「私は、兄が赤い輪を見れば、必ず助けに来てくれると思っていました。でも、追っ手も同じ印を知っていた。だから、私は、何を信じればよいのか分からなくなったのです」
進一は、胸が痛んだ。
合図を送る。
返事を待つ。
誰かが来ると信じる。
その信頼を利用されれば、次に誰かを信じることが、どれほど難しくなるだろう。
「では、紙に『彼女を、信じてくれ』と書いたのも、あなたですか」
泰六が尋ねた。
志津は、頷いた。
「はい。進一さんが、廊下で私の声を聞いたことを、おはなさんから聞きました。あなたが、私を助けようとしているとも」
「しかし、あなたは、私たちが誰なのか知らなかった」
「ええ。だから、あの紙を扉の下から差し入れました。私を信じてほしい、と」
「それでは、『あの男を信じるな』と書いた紙は?」
志津は、首を横に振った。
「私ではありません」
宗一が、低い声で言った。
「それは、商館の男が書いたものだ」
「なぜ、そう思うのですか」
「妹を孤立させるためです。私を信じるな、と書けば、妹は私に助けを求めなくなる。私が妹を救いに来れば、妹は、私が帳簿を奪いに来たと思う。そうなれば、妹は誰にも助けを求められない」
泰六は、静かに頷いた。
「つまり、追っ手は、志津さんを見つけることだけが目的ではなかった。彼女が誰かを信じることを、妨げようとしていたのですね」
「はい」
志津は、小さく答えた。
「私が一人になれば、帳簿を渡すしかなくなる。そう考えていたのだと思います」
泰六は、赤い輪の紙片を見た。
「赤い輪は、誰かを守るための合図だった。しかし、その合図が知られたことで、誰かを追い詰める道具にもなった」
彼は、紙を静かに置いた。
「印そのものに、善悪はありません。使う人間が、何をしようとするか。それが問題なのです」
*
「では、最後に一つ」
泰六は、志津に尋ねた。
「あなたは、どうやって、この部屋から出入りしていたのですか」
志津は、顔を上げた。
「……出入り?」
「この半月、食事の膳は毎晩、扉の前に置かれていた。しかし、今朝、膳は部屋の中にあった。あなたが食事を取ったのであれば、膳を部屋の中へ運んだはずです」
「それは……」
「また、昨夜、廊下には黒い糸が落ちていた。扉の前には、紙片が差し込まれていた。窓には針穴があり、屋根には足跡があった。これらは、別々の出来事に見えます。しかし、同じ仕掛けの一部だったのではありませんか」
志津は、しばらく考えたあと、頷いた。
「おはなさんが、食事を運んでくれていました」
「では、膳を下げたのも、おはなさんですか」
「はい」
おはなが、静かに頷いた。
「私は、扉の前に膳を置き、志津さんが中から引き入れたあと、夜になってから、また下げていました」
「扉は、どうやって開けたのです」
「開けていません。扉の下に、細い板を差し込んで、膳を手前へ引き寄せるのです」
泰六は、扉の下を見た。
「なるほど。だから、敷居に擦れた跡が残っていた」
「はい」
「では、足跡は?」
おはなは、答えた。
「庭へ回ったのは、私です。志津さんが窓から出たように見せるために、足跡をつけました」
進一は、目を見開いた。
「窓から出たように見せる?」
「はい。追っ手が庭を調べたとき、志津さんが逃げたと思わせたかったのです。だから、大きな足跡を一つ、小さな足跡を二つ、別々の方向へつけました」
「それで、足跡が三種類あったのか」
「ええ。けれど、私たちの足跡だけでは、不自然になる。だから、庭師の古い長靴を借りて、大きな足跡をつけたのです」
泰六は、頷いた。
「つまり、足跡は逃走の証拠ではなく、逃走したように見せるための偽装だった」
「はい」
「では、黒い糸は?」
おはなは、志津を見た。
「私の外套から落ちたものです。昨夜、進一さんの部屋の前を通ったとき、扉の金具に引っかかってしまったのです」
「なぜ、進一君の部屋の前を?」
「進一さんが、志津さんの声を聞いたと知っていたからです。何かあれば、助けを求めようと思っていました」
進一は、驚きながらも、ようやく理解した。
夜中の足音。
黒い糸。
扉の下の紙片。
それらは、誰かが部屋を出入りした証拠ではあった。
しかし、それは志津ではなかった。
彼女を守ろうとした、おはなの足跡だったのだ。
「では、窓の針は?」
泰六が尋ねた。
「それは、追っ手が打ち込んだものです。私たちは、窓を開けていません。追っ手が、外から紙を留めたのです」
「そして、屋根の上の宗一さんは、妹に合図を送っていた」
「はい」
宗一が頷いた。
「私は、妹が無事かどうかを確かめるために、屋根へ上がりました。けれど、そこには追っ手もいた。私の姿を見た者は、私が妹を連れ出そうとしていると思ったでしょう」
「実際、そうだったのですか」
「……そうです。しかし、妹が出てくるかどうかは、妹自身が決めることでした」
泰六は、満足したように頷いた。
「ようやく、すべてが一つにつながりました」
進一は、思わず言った。
「泰六さん。では、志津さんは、半月もの間、一度もこの部屋から出ていなかったのですか」
「そうではありません」
泰六は、首を振った。
「彼女は、箪笥の奥に隠れていた。食事を運ぶ者が、膳を下げる者が、庭に足跡をつける者がいた。彼女は、誰かに見つからないように、家の中で場所を移していたのです」
「けれど、部屋の中には誰もいなかった」
「私たちが扉を開けたときには、すでに箪笥の奥へ移っていた。だから、部屋は空だったのです」
泰六は、箪笥を見た。
「人がいないように見える部屋と、本当に人がいない部屋は違う。私たちは、空っぽの部屋を見て、そこに人がいないと判断した。しかし、それは、私たちが見た範囲に人がいなかったというだけのことでした」
進一は、深く息を吐いた。
「……なるほど」
謎は、奇妙な力によって解かれたのではない。
紙片も、足跡も、糸も、針も。
すべては、人間が何かを隠そうとした結果だった。
そして、隠されたものの中には、悪意だけでなく、誰かを守りたいという願いもあった。
*
そのとき、階下から、乱暴に戸を叩く音がした。
どん、どん、どん。
「田辺さん! いるのは分かっている!」
男の声だった。
宗一の顔が、一瞬で強張った。
「来た……」
志津は、帳面を抱きしめた。
おはなは、進一の袖を掴んだ。
「先生……」
泰六は、階段のほうを見た。
「進一君。田辺夫人を、奥へ」
「はい」
「新吉君は、玄関を開けないように」
「分かりました」
泰六は、宗一に向き直った。
「あなたは、妹さんのそばに」
「しかし、追っ手が……」
「だからこそです。今度は、逃げるかどうかを、妹さん自身に決めてもらいなさい」
宗一は、志津を見た。
志津は、兄の手を取らなかった。
けれど、逃げもしなかった。
泰六は、ゆっくりと階段を下りていった。
玄関の外には、背広姿の男が二人立っていた。どちらも、身なりは整っていたが、目つきには余裕がなかった。
「何の用ですか」
泰六が尋ねた。
「この下宿に、盗まれた帳簿を持った女がいるはずだ」
「帳簿を盗んだというのは、誰の話ですか」
「商館の者から聞いた」
「その商館の者の名前は?」
男は、一瞬、言葉に詰まった。
「そんなことは、どうでもいい」
「どうでもよくはありません。人を犯罪者と呼ぶのであれば、誰が、何を根拠に、そう判断したのかを明らかにする必要があります」
「小賢しいことを言うな。女を出せ」
泰六は、動かなかった。
「ここには、あなた方が探しているという女がいるかもしれません。しかし、あなた方が彼女を連れていく権利があるかどうかは、別の問題です」
「我々は、商館の代理人だ」
「ならば、なおさらです。帳簿の所有権について争いがあるのであれば、正式な手続きで申し立てればよい。ここで、他人の住居に押し入り、住人を連れ出す必要はありません」
男の顔が赤くなった。
「お前は、誰の味方だ」
泰六は、静かに答えた。
「私は、事実の味方です」
男たちは、互いに目を合わせた。
その一瞬、泰六は、二人の足元を見た。
靴の泥。
片方の男の袖口に付いた、黒い糸。
そして、もう一人の男の手に握られた、小さな紙片。
赤い輪が描かれていた。
「あなた方が、窓に紙を貼ったのですね」
泰六が言った。
二人の男は、顔を見合わせた。
「何の話だ」
「赤い輪の紙です。窓に貼り、志津さんを誘い出そうとした。彼女が自分の合図だと思って窓を開ければ、そこに待ち構えていたあなた方が、彼女を連れ出すつもりだった」
「証拠はあるのか」
「あります」
泰六は、二人の靴を指した。
「あなた方の靴には、庭の湿った土が付いている。今朝、庭を通って窓の下へ回ったのでしょう。窓枠には、紙を留めるための針穴が残っている。そして、あなたの袖口には、黒い糸が引っかかっている」
男の一人が、反射的に袖口を押さえた。
「その糸は、この下宿の廊下に落ちていたものと同じ種類です。おはなさんの外套から落ちた糸が、扉の金具に引っかかっていた。あなたは、廊下を歩いたとき、その糸を拾ったのかもしれません。あるいは、あなた自身の衣服から落ちたものかもしれない」
「そんなものが証拠になるか!」
「糸だけでは、なりません」
泰六は、淡々と言った。
「しかし、糸だけを見ているわけではありません。窓の紙、針穴、庭の足跡、あなた方の靴についた泥、そして、今、あなたが袖口を隠したこと。これらを一つずつ確かめれば、あなた方が何をしようとしたのか、説明していただく必要があるでしょう」
男たちは、黙り込んだ。
泰六は、玄関の外を見た。
「なお、私たちは、すでにあなた方の行動を記録しています。今ここで立ち去るのであれば、正式な手続きを通じて、話を聞くことにしましょう。しかし、無理に押し入るのであれば、話は別です」
しばらくして、男たちは後ずさった。
「覚えていろ」
捨て台詞を残し、二人は路地の向こうへ去っていった。
泰六は、すぐには玄関を閉めなかった。
男たちの姿が角を曲がり、見えなくなるまで、じっと見送っていた。
*
二階へ戻ると、志津は、まだ帳面を抱きしめていた。
「先生……」
「彼らは、ひとまず帰りました。しかし、これで終わったわけではありません」
「はい」
「帳簿の写しを、公にするつもりですか」
志津は、迷わず頷いた。
「はい。そこに名前がある人たちが、何をされたのか、知ってもらいたいのです」
「そのためには、あなた自身も、証言しなければならないかもしれません」
「分かっています」
「あなたが望むのであれば、協力します。ただし、危険がなくなると約束することはできません」
志津は、少しだけ笑った。
「それで、十分です」
泰六は、進一を見た。
「進一君。記録を取ってください」
「はい」
進一は、帳面を開いた。
志津は、ゆっくりと話し始めた。
商館の帳簿に、何が書かれていたのか。
誰の賃金が消され、誰の名前が書き換えられたのか。
船に乗った人々が、どこへ連れていかれたのか。
そして、彼女がなぜ、その記録を残そうとしたのか。
進一は、一言も聞き漏らすまいと、筆を走らせた。
話の途中、志津は何度も言葉を止めた。
そのたびに、宗一が妹を見た。
けれど、彼は、代わりに答えようとはしなかった。
志津が、自分の言葉で話し終えるのを、ただ待っていた。
それが、兄にできる、最初の償いだったのかもしれない。
*
昼過ぎ、下宿の前を、秋風が吹き抜けた。
田辺夫人は、台所で新しい茶を淹れていた。新吉は、玄関の戸を修理している。おはなは、志津のために、温かい粥を用意した。
志津は、今度こそ、膳を自分の手で受け取った。
「ありがとうございます」
おはなは、首を振った。
「私こそ、ごめんなさい。あなたを守ろうとして、あなたのために、いろいろなことを決めてしまった」
「いいえ」
志津は、粥の湯気を見つめた。
「私も、あなたに頼りすぎていました。自分で決めると言いながら、あなたに危険なことをさせてしまった」
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、おはなが、そっと言った。
「これから、どうするのですか」
「帳簿を、公にします」
「怖くありませんか」
「怖いです」
志津は、正直に答えた。
「でも、怖くないふりをするのは、もうやめようと思います」
おはなは、微笑んだ。
「それなら、私も、一緒に行きます」
志津は、驚いたように顔を上げた。
「あなたまで?」
「ええ。私も、見たことを話します。あなたが一人で話すより、二人で話したほうが、きっとよいでしょう」
志津は、しばらくおはなを見つめたあと、静かに頷いた。
「……ありがとう」
その言葉は、小さかった。
しかし、半月もの間、閉ざされていた部屋の扉を開けるには、十分な言葉だった。
*
夕方、泰六と進一は、神田の路地を歩いていた。
夕陽が、瓦屋根を赤く染めている。
「泰六さん」
「何です」
「今回の事件で、私は、ずいぶん多くのことを見誤りました」
「具体的には?」
「赤い輪を、単なる合図だと思いました。黒い外套の男を、一人だと思いました。空の部屋を見て、誰もいないと思いました。そして、志津さんが逃げているのは、誰かを恐れているからだと思いました」
「それぞれ、完全に間違っていたわけではありません」
泰六は、歩きながら答えた。
「赤い輪は、確かに合図でした。黒い外套の男も、確かにいました。部屋には、私たちが見たとき、誰もいませんでした。志津さんも、誰かを恐れていた」
「けれど、それだけでは、真実には届かなかった」
「そうです。事実は、嘘の反対側にあるとは限りません。事実の一部だけを見せることで、人は、もっともらしい嘘を作ることができる」
進一は、考え込んだ。
「では、私たちは、何を信じればよいのでしょう」
泰六は、足を止めた。
「信じる前に、確かめることです」
「確かめる……」
「そして、確かめた結果、間違っていたと分かったなら、考えを改めることです。人間は、最初から正しい答えを持っているわけではありません。だからこそ、観察し、疑い、問い直す必要がある」
泰六は、夕暮れの空を見上げた。
「ただし、忘れてはいけません。疑うことと、相手を傷つけることは、同じではない」
進一は、泰六を見た。
「志津さんは、兄を疑っていました。宗一さんは、妹を守ろうとしていました。おはなさんは、二人を助けようとしていた。しかし、それぞれが相手の事情を知らなかったために、互いを傷つけてしまった」
「そうです」
「犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではないのですね」
泰六は、わずかに目を細めた。
「君も、少しは探偵らしくなってきましたね」
「少しだけですか」
「まだまだです」
進一は、笑った。
「厳しいですね、泰六さん」
「探偵という仕事は、甘くありませんから」
二人は、再び歩き始めた。
路地の向こうで、鐘が鳴った。
夕方の七時ではない。
それでも、進一は、あの朝の鐘を思い出した。
七時に来るのは、私ではない。
あの文は、誰かを惑わせるための言葉だった。
けれど、その裏側には、志津が兄に伝えたかった願いがあった。
――私は、ここにいる。
――見つけてほしい。
――けれど、私の代わりに、私の人生を決めないでほしい。
進一は、歩きながら、そっと息を吐いた。
人は、誰かに助けてほしいと思う。
同時に、自分の足で立ちたいとも思う。
その二つは、矛盾しているようで、矛盾していない。
助けるとは、相手の代わりにすべてを決めることではない。
相手が自分で決められるように、そばにいることなのかもしれない。
*
数日後。
田辺下宿の二階に、赤い輪の紙片は、もう貼られていなかった。
志津と宗一は、正式な手続きを通じて、帳簿の写しを関係者へ提出する準備を進めていた。すぐにすべてが解決するわけではない。商館は、彼らの証言を否定するだろう。記録の改ざんを認めない者もいるだろう。
それでも、志津は、もう一人ではなかった。
宗一は、妹に何度も謝った。
志津は、そのたびに、すぐには許さなかった。
しかし、兄が何を言うかではなく、これから何をするかを見ようとしていた。
おはなは、二人の証言に協力することを決めた。新吉も、横浜で見たものを、正式に話すと約束した。
田辺夫人は、あの部屋を新しい客に貸す前に、窓枠を修理した。
針穴は、木片で埋められた。
扉の下に残っていた擦り傷も、板を張り替えて見えなくなった。
それでも、あの部屋で起きたことが、なかったことになるわけではない。
ある日の午後、進一は、泰六とともに、再び田辺下宿を訪れた。
志津は、窓辺に立っていた。
「先生方。あのときは、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことはしていません」
泰六は、いつもの調子で答えた。
「私たちは、あなたが話せるようになるまで、待っただけです」
「それが、ありがたかったのです」
志津は、微笑んだ。
「誰かに、早く話せと言われると、何を話してよいのか分からなくなることがあります。でも、先生は、私が自分で決めるのを待ってくださいました」
泰六は、答えなかった。
進一が、代わりに言った。
「志津さん。あなたが自分で話すと決めたことが、一番大切だったのだと思います」
志津は、頷いた。
そして、窓の外を見た。
そこには、赤い輪の紙片はない。
ただ、秋の空が広がっている。
「もう、窓を開けてもよいのでしょうか」
志津が尋ねた。
進一は、泰六を見た。
泰六は、窓の鍵を確かめた。
「窓を開けるかどうかは、あなたが決めればよい。ただし、外に危険がないかどうかは、確かめたほうがよいでしょう」
志津は、小さく笑った。
「はい」
彼女は、自分の手で、窓を開けた。
秋の風が、部屋に入ってきた。
長い間、閉ざされていた部屋に、外の空気が流れ込む。
その風は、特別なものではなかった。
どこにでもある、秋の風だった。
けれど、志津は、目を閉じて、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
もう、誰かの合図を待つ必要はない。
自分で窓を開けることができる。
そのことが、彼女にとって、何よりも大切だった。
*
帰り道、神田の表通りは、夕暮れの人波で賑わっていた。
店先からは、焼き魚の匂いが漂ってくる。荷車が行き交い、子どもたちが走り回っている。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが急ぎ足で家路をたどっていた。
町は、何事もなかったかのように動いていた。
「泰六さん」
「何です」
「赤い輪は、これからも使われるのでしょうか」
「使われるかもしれませんね」
「また、誰かを苦しめるために?」
「あるいは、誰かを助けるために」
泰六は、歩みを緩めなかった。
「印そのものが、何かを決めるわけではありません。紙に書かれた言葉も、同じです。言葉は、真実を伝えることもあれば、真実を隠すこともある」
「では、探偵は、何をすればよいのでしょう」
「言葉を鵜呑みにせず、しかし、言葉を捨てもしない。観察し、確かめ、矛盾を見つける。そして、その矛盾の向こうに、誰が、何をしようとしていたのかを考える」
泰六は、進一を見た。
「ただし、最後に一つ。人間は、矛盾を抱えて生きています。だから、矛盾があるというだけで、その人間を嘘つきだと決めつけてはいけない」
進一は、深く頷いた。
志津は、兄を信じられなくなった。
宗一は、妹を守るために逃げた。
おはなは、志津を守るために嘘をついた。
新吉は、恐怖から沈黙した。
誰もが、完全に正しかったわけではない。
誰もが、完全に間違っていたわけでもない。
けれど、その中で、誰かを傷つけようとした者がいた。
その行為を見逃すことはできない。
同時に、その行為だけで、人間のすべてを決めつけることもできない。
それが、今回の事件で、進一が学んだことだった。
神田の空に、夕闇が降り始めていた。
泰六は、懐中時計を取り出した。
「さて、進一君。次の事件が待っています」
「もうですか」
「探偵という仕事は、暇を与えてくれませんからね」
「せめて、夕飯くらいは食べさせてください」
「それは、君の自由です」
進一は、笑った。
泰六も、ほんのわずかに口元を緩めた。
二人は、人波の中へ消えていった。
その背後で、田辺下宿の窓が、静かに閉じられた。
今度は、誰かに命じられたからではない。
夜が来たから、閉じたのだ。
明日の朝になれば、また開けることができる。
赤い輪は、もう窓にはない。
しかし、赤い輪が残した問いは、神田の町のどこかに、まだ残っている。
誰かを信じるとは、どういうことなのか。
疑うことと、傷つけることは、どこが違うのか。
そして、人を救うとは、相手の人生を代わりに決めることなのか。
答えは、紙片の裏には書かれていない。
それを見つけるのは、これからも、私たち自身なのだろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回の事件では、赤い輪という一つの印が、助けを求める合図にも、相手を誘い出す罠にもなりました。
同じ言葉、同じ行動、同じ沈黙であっても、その背後にある事情は一つとは限りません。
だからこそ、探偵は事実を確かめる必要がある。
そして、事実を確かめたあとも、人間を理解する努力をやめてはいけないのだと思います。
犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではない。
小室泰六の論理と、和田進一のまなざしを通して、これからも、謎解きの快感と、人間の不器用さへの眼差しを、一緒に描いていけたらと思います。
そして。皆様に聞いてみたくなりました。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品を、どれくらい読まれたことがありますか?
① 原作をほとんど読んだことがない。ドラマや映画で知っている程度。
② 有名な作品や短編を、いくつか読んだことがある。
③ 長編も短編も、かなり読んだ。ほぼ一通り読破した。
よろしければ、コメント欄に
「①」「②」「③」
の数字だけでも残していただけるとうれしいです。
もちろん、原作をご存知ない方も、大歓迎です。
原作をご存じの方には、ドイル作品へのオマージュや違いを。
初めての方には、明治の神田で起こる事件と、
小室泰六・和田進一の物語を。
それぞれの楽しみ方で読んでいただけたら、作者冥利に尽きます。
さて、皆様は何番でしょうか?
次の事件でも、どうぞ神田の街へお越しください。




