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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -   下宿屋主人の困り事 【後編】

【後編】 内に於いて


 七時を告げる鐘が、神田の町に響いた。


 朝の光は、まだ薄かった。


 長屋の屋根には夜露が残り、路地の石畳には、夜のうちに降った霧雨が黒い染みを作っていた。表通りからは荷車の軋む音が聞こえ、どこかの店先では、店主が戸板を外し始めている。


 しかし、田辺下宿の二階だけは、町の朝から切り離されたように静まり返っていた。


 襖の向こうに、誰かがいる。


 昨夜、進一が確かに聞いた声。


 ――助けて。


 あの声は、夢ではなかった。


「鍵を」


 小室泰六が言った。


 田辺夫人は、帯の間に差していた鍵束を取り出した。しかし、手が震えていた。鍵同士が触れ合い、小さな金属音が廊下に響いた。


「先生。本当に、開けてよろしいのでしょうか」


「よろしいかどうかを決めるために、開けるのです」


 泰六は、鍵束を受け取らなかった。


「ただし、私が合図するまで、誰も扉に触れないでください」


「何か危険が?」


「危険があるかどうかも、まだ分かりません。分からないことを、分かったつもりで扱うのが一番危険なのです」


 進一は、泰六の横顔を見た。


 いつもの顔だった。


 謎に出会ったときの泰六は、まるで目の前に置かれた品物の寸法を測る職人のようになる。人の顔色に惑わされず、恐怖にも同情にも引きずられず、ただ、そこにあるものを見ようとする。


 けれども、今朝の彼は、いつもより慎重だった。


 扉の前に立つと、泰六はまず、敷居を見た。


 それから、錠前。


 次に、扉の下。


 そして、蝶番。


「進一君」


「はい」


「昨夜、君がこの廊下で聞いた足音は、何時ごろでしたか」


「二時を少し回ったころです。廊下を歩く音がして、私が戸を開けたときには、もう誰もいませんでした」


「そのとき、音はどちらへ向かっていましたか」


「階段のほうから、こちらへ来たように聞こえました。けれど、私が戸を開けると、音は止まっていました」


「足音は、何歩でしたか」


「そこまでは……」


「では、音の間隔は?」


 進一は、しばらく考えた。


「急いでいるようではありませんでした。むしろ、こちらに誰かいるかどうか、確かめながら歩いているような」


「なるほど」


 泰六は、扉の下を指した。


「この紙片を見てください」


 昨夜、進一が拾った短い黒糸が、廊下の板目に残っていた。糸のすぐそばには、紙の端が擦れたような白い跡がある。


「紙を扉の下から差し入れた。その際、何かが引っかかったのでしょう」


「黒糸のついた衣服が、扉に触れたということですか」


「可能性はあります。しかし、それだけでは決められません。黒糸が衣服から落ちたのか、糸そのものを運んできたのかも分からない」


 泰六は、懐中時計を取り出した。


「田辺夫人。昨夜、最後にこの部屋へ食事を運んだのは、何時ですか」


「午後六時でございます」


「そのとき、膳はどうなりました」


「いつものように、扉の前へ置きました。今朝、見に参りましたら、膳はなくなっておりました」


「空になっていたのですか」


「いいえ。食事は、ほとんど手をつけられていませんでした」


 泰六は、顔を上げた。


「それは、いつものことですか」


「はい。お客様は、たいへん少食で……」


「田辺夫人」


 泰六の声が、わずかに低くなった。


「あなたは、この部屋の客が、食事を取っているところを一度でもご覧になりましたか」


 夫人は答えなかった。


 進一は、その沈黙に気づいた。


「まさか、膳を下げているのは……」


「誰かが、食べたように見せている。あるいは、食べていないように見せている。どちらも、まだ考えられます」


 泰六は、扉の前に置かれた鍵穴へ目を向けた。


「まずは、扉を開けます」


 鍵が回った。


 かちり、と音がした。


 泰六は、すぐには扉を押さなかった。


「中の方。お聞こえでしたら、返事をしてください」


 沈黙。


「私たちは、あなたを捕らえに来たのではありません。事情を伺いに来たのです」


 沈黙は、なお続いた。


 やがて、扉の向こうで、小さな物音がした。


 ――こつ。


 ――こつ。


 ――こつ。


 三度。


 中編の最後に聞いた音と同じだった。


 進一の背中に、冷たいものが走った。


 泰六は、扉に手を添えた。


「今度は、こちらから開けます」


 ゆっくりと扉が動いた。


 部屋の中には、誰もいなかった。


     *


 窓は閉じられていた。


 寝台の上には、布団がきちんと畳まれている。小さな卓の上には、冷めた茶碗が一つ。壁際には、男物の外套と帽子が掛けられていた。


 部屋の中央には、昨夜まで食事を運んでいた膳が置かれている。


 膳の上には、手つかずの飯と汁。


 そして、その横に、赤い輪を描いた紙片が一枚。


「誰もいない……」


 進一は、部屋の奥を見回した。


 押し入れ。寝台の下。箪笥の陰。


 隠れられそうな場所は、いくつもあった。しかし、どこにも人の気配はない。


「泰六さん。窓から逃げたのでしょうか」


「窓は、内側から閉じられています」


「それなら、屋根へ?」


「屋根へ出るには、窓を開けなければなりません」


「しかし、昨夜、向かいの屋根に黒い外套の男が……」


「その男が、この部屋の人間だったとは限りません」


 泰六は、窓へ近づいた。


 窓枠には、確かに小さな針穴があった。


 針穴の周囲には、木の表面がわずかに削れた跡がある。


「進一君。君は中編で、針が内側から打ち込まれたように見える、と言いましたね」


「はい。紙を窓に留めるために使ったのではないかと」


「その推測は、半分正しい」


 泰六は、窓枠を指でなぞった。


「針は、紙を留めるために使われた。しかし、紙を留めたのは、部屋の中の人間とは限りません」


「外から、ですか」


「この窓枠の下をご覧なさい」


 窓枠の木材には、細い溝があった。


 泰六は懐中時計の鎖を外し、その先端を溝に差し入れた。


 かすかな音がした。


「これは、紙を挟み込むための隙間です。窓枠の内側に、薄い紙を差し込み、外から針を通す。針は木に浅く食い込み、紙を留める。紙を引き抜けば、針穴だけが残る」


「では、針穴が内側にあるように見えたのは……」


「針の向きを、見誤ったのです。針穴は、内側から打たれた証拠にはなりません」


 進一は、窓枠を見つめた。


 窓の外から紙を留めることができる。


 それなら、昨夜の赤い紙も、誰かが屋根から窓へ近づき、取り付けたのかもしれない。


「しかし、屋根からこの窓へ来るには、危険ではありませんか」


「危険でしょう。だからこそ、誰もができることではない。足場を知っている者か、あるいは、慣れている者でしょうね」


 泰六は、窓の外を見た。


 向かいの屋根には、もう誰もいない。


「黒い外套の男は、何かを伝えに来たのかもしれません。あるいは、誰かがそこにいると、私たちに思わせたかったのかもしれない」


「つまり、男の姿そのものが、手掛かりではなく、仕掛けだったと?」


「その可能性があります」


 泰六は、卓の上の赤い紙片を手に取った。


 表には、赤い輪。


 裏には、短い文字。


 ――七時に来るのは、私ではない。


「進一君。この文を書いた者は、誰だと思いますか」


「昨夜、向かいの屋根にいた男でしょうか」


「なぜ?」


「自分ではない、と書いているのですから。七時に来る者を知っている人間が、書いたのではないかと」


「それなら、なぜ、わざわざ『私ではない』と書いたのでしょう」


 進一は、言葉に詰まった。


「誰かが、自分の名を騙っている。あるいは、自分が来ると思わせたい者がいる。そのどちらかかもしれません」


「では、もう一つ考えてください」


 泰六は、紙片を卓に置いた。


「この文は、誰に向けて書かれたのでしょう」


 進一は、紙を見た。


 七時。


 来るのは、私ではない。


 昨夜、彼はこの紙を見て、黒い外套の男が来るのではないかと考えた。


 だが、紙には男の名など書かれていない。


「……私たち、ですか」


「そうです。私たちが、黒い外套の男を追うように仕向けるための文だった可能性もある」


 泰六は、赤い輪の中央を指先で押さえた。


「この輪は、ただの印ではありません。見る者に、ある特定のことを思い出させる印なのです」


     *


「先生」


 背後から声がした。


 振り返ると、佐々木新吉が立っていた。


 顔色は悪く、昨夜から一睡もしていないように見えた。


「何か、分かったのでしょうか」


「まだ、すべては分かりません」


 泰六は答えた。


「しかし、君に聞きたいことがあります」


「はい」


「横浜で、君が見た赤い輪の紙。あれは、誰が持っていましたか」


 新吉の顔がこわばった。


「……男です」


「どんな男ですか」


「背が高くて、黒い外套を着ていました。顔は、帽子の陰になって、よく見えませんでした」


「その男は、紙を誰に渡しましたか」


「誰にも渡していません。壁に貼りつけて、すぐに立ち去りました」


「紙の裏には、何が書かれていましたか」


 新吉は、唇を噛んだ。


「……『見た者は、黙れ』と」


 進一は息をのんだ。


「そんなことが書かれていたのか」


「はい」


「なぜ、それを今まで言わなかったのです」


「言えば、また……」


 新吉は、言葉を切った。


「また、あの男が来ると思ったのです」


 泰六は、責めるような顔をしなかった。


「恐怖を感じたとき、人は、目の前の危険だけを考えます。先のことを考える余裕がなくなる。それは不思議なことではありません」


 新吉は、うつむいた。


「ですが、私は、黙ってしまいました。誰かが困っていると知りながら、見なかったことにしたのです」


「君は、見なかったことにしたのですか。それとも、見たことを、誰にも言えなかったのですか」


 新吉は、答えなかった。


「この二つは、似ているようで違います」


 泰六は、静かに言った。


「どちらも、結果として誰かを孤立させることはある。しかし、同じものとして扱ってしまえば、なぜ人が沈黙するのか、考えることをやめてしまう」


 進一は、新吉の肩に手を置いた。


「もう、話していいんだ。今度は、私たちが聞くから」


 新吉は、ようやく顔を上げた。


「横浜の男は、紙を貼ったあと、こう言ったのです」


「何と?」


「『赤い輪が見えたら、窓を閉めろ。窓が閉じていたら、誰も中を覗くな』と」


 泰六の目が細くなった。


「窓を閉めろ……」


「はい」


「そして、君は、この下宿でも、同じ赤い輪を見た」


「そうです」


「ならば、君が見た二つの赤い輪は、同じ意味だったのでしょうか」


 新吉は、首を傾げた。


「同じ印なのですから、同じ意味では……」


「そこです」


 泰六は、卓の紙片を指した。


「同じ形をしていることと、同じ意味を持つことは、別なのです」


     *


 泰六は、田辺夫人を呼んだ。


「夫人。あの客が初めてここへ来た日のことを、もう一度、思い出してください」


「初めて……でございますか」


「誰が連れて来たのですか」


「ご本人がお一人で」


「名前は?」


「聞きました。しかし、はっきり聞き取れなかったのです」


「男でしたか、女でしたか」


 夫人は、困ったように眉を寄せた。


「それが……男のようにも、女のようにも聞こえました」


「声は?」


「低い声でした。でも、ひどく疲れているようで……」


「手袋をしていた、と言いましたね」


「はい」


「手袋を外したところを見ましたか」


「いいえ」


「では、顔は?」


「帽子を深くかぶっておりましたので、よくは……」


 泰六は、しばらく黙っていた。


「夫人。あなたは、その客が男だと、誰から聞きましたか」


「誰から、と申されましても……」


「客が男だと、あなた自身が確かめたことはありますか」


 夫人は、口を開いたまま、答えられなかった。


 進一は、胸の中で何かが崩れる音を聞いた気がした。


 この半月、誰もが、部屋の中に男がいると思っていた。


 男物の外套。


 男物の帽子。


 低い声。


 手袋。


 そして、食事を運ぶたびに閉じられた扉。


 しかし、そのどれもが、決定的な証拠ではなかった。


「……女なのですか」


 夫人が、かすれた声で尋ねた。


「その可能性が高い。ですが、まだ断定はしません」


 泰六は、部屋の隅に掛けられた外套を見た。


「衣服は、人の性別を証明しません。声も、顔も、名前も、場合によっては、真実を隠すために使われる」


 進一は、昨夜のおはなの言葉を思い出した。


 ――人は、逃げているだけでも、悪い人だと思われるのでしょうか。


 あの問いは、単なる不安ではなかったのかもしれない。


「泰六さん。おはなさんを呼びましょう」


「そうですね」


 泰六は、短く答えた。


「彼女は、何かを知っている。そして、何かを恐れている」


     *


 おはなは、ほどなくして二階へ上がってきた。


 彼女は部屋の中を見るなり、顔を青ざめさせた。


「……開けてしまったのですね」


「はい」


 進一が答えた。


「中には誰もいませんでした」


 おはなは、目を閉じた。


 安堵したようにも、悲しんでいるようにも見えた。


「おはなさん」


 泰六が言った。


「あなたは、この部屋の客を知っていますね」


「……知りません」


「では、なぜ、扉が開いたことを恐れているのですか」


「それは……」


「あなたが知らない相手のために、そこまで怯える理由は何ですか」


 おはなは、両手を握りしめた。


「私には……言えません」


「誰かに、口止めされているのですか」


 彼女は答えなかった。


「あなたは、昨夜、こう尋ねましたね。逃げているだけでも、悪い人だと思われるのか、と」


 進一が、そっと言った。


「おはなさん。私たちは、あなたを責めに来たのではありません」


「でも、もし、私が話したら……」


「誰かが傷つく?」


 おはなは、小さく頷いた。


「話さなければ、誰かが傷つくかもしれない。話せば、別の誰かが傷つくかもしれない。そういうことですね」


 彼女の目に、涙が浮かんだ。


「……はい」


 泰六は、しばらく彼女を見ていた。


「では、事実だけを話してください。誰が正しいか、誰が悪いかは、そのあとで考えればよい」


 おはなは、唇を震わせた。


「この部屋にいる方は……女の方です」


 田辺夫人が、小さく息をのんだ。


「やはり……」


「名前は、榊原志津さんとおっしゃいます。以前、横浜の商館で帳簿をつけていらした方です」


「帳簿?」


 進一が聞き返した。


「はい。商館では、外国から来た品物だけでなく、船で働く人たちの契約書も扱っていたそうです」


「契約書に、何か問題があったのですか」


 おはなは、頷いた。


「働く人たちが、受け取ったはずの賃金が、帳簿から消えていたのです。船に乗った人の名前も、帰ってきた人の名前も、書き換えられていました」


 泰六の表情が変わった。


「志津さんは、それを見つけた」


「はい。そして、帳簿の写しを取ったのです」


「そのために、追われているのですか」


「そうです」


 おはなは、涙をぬぐった。


「志津さんは、悪いことをした人ではありません。けれど、あの帳簿を見た人たちは、志津さんが帳簿を盗んだのだと言っています」


「帳簿を盗んだのではなく、帳簿の写しを取った」


「はい」


「その写しは、今どこに?」


 おはなは、答えなかった。


 泰六は、すぐに追及しなかった。


「分かりました。今は、その質問には答えなくてよい」


 進一は、意外そうに泰六を見た。


「泰六さん、聞かないのですか」


「聞くべき時があります。聞いてはいけない時もある」


 泰六は、おはなに向き直った。


「ただ、一つだけ確認します。志津さんは、この部屋から逃げたのですか」


「……いいえ」


「では、今、どこにいるのです」


 おはなは、窓を見た。


 そして、ようやく言った。


「この家の中です」


     *


 部屋の外で、階段が軋んだ。


 誰かが上がってくる。


 進一は、廊下へ出た。


 そこに立っていたのは、黒い外套を着た男だった。


 帽子を深くかぶり、右手には、赤い輪を描いた紙片を握っている。


「……君か」


 男は、進一を見た。


「小室泰六先生に、お会いしたい」


「どちら様ですか」


「その前に、伝えなければならないことがある」


 男は、部屋の中を見た。


「志津さんは、どこです」


 泰六が、ゆっくりと廊下へ出てきた。


「あなたこそ、どなたですか」


「榊原志津の兄です。榊原宗一と申します」


 進一は、男の顔を見た。


 年は三十代半ばほど。頬はこけ、目の下には深い隈がある。疲れきった顔だったが、その目には、はっきりとした焦りがあった。


「妹を迎えに来ました」


「昨夜、向かいの屋根にいたのも、あなたですか」


 男は、しばらく黙っていた。


「はい」


「なぜ、屋根に?」


「部屋の窓を見張っていたのです」


「誰から守るために?」


 宗一は、答えなかった。


 泰六は、彼の手元を見た。


「その紙を見せてください」


 宗一は、赤い輪の紙片を差し出した。


 表には、赤い輪。


 裏には、こう書かれていた。


 ――七時に来るのは、私ではない。


「これは、あなたが書いたものですか」


「いいえ」


「では、誰が?」


「妹です」


 進一は、驚いて宗一を見た。


「志津さんが?」


「はい。妹は、私がここへ来ることを知っていました。しかし、私が来ると分かれば、私を見張っている者も来る。だから、私ではない、と書いたのです」


「では、昨夜、あなたが屋根にいたのは?」


「妹に合図を送るためです」


 宗一は、懐から短い赤い糸を取り出した。


「赤い糸を窓から垂らす。それが、妹との約束でした。窓の向こうに誰かがいるか、無事かどうか、それだけを確かめる」


「しかし、窓には紙が貼られていました」


「ええ。私が貼ったのではありません」


「では、誰が?」


「私を追ってきた男です」


 宗一は、唇を噛んだ。


「私が屋根に上がったとき、すでに窓には赤い紙が貼られていました。私は、妹が危険を知らせているのだと思った。だから、紙を取り外そうとしたのです。しかし、その瞬間、向かいの路地に男がいるのが見えた」


「男は、あなたを見ていたのですか」


「分かりません。けれど、私が屋根から降りると、男も姿を消しました」


 泰六は、静かに尋ねた。


「あなたは、妹を救うために来た。しかし、あなた自身も、誰かに追われている」


「そうです」


「そして、あなたは、妹がこの下宿にいることを、追っ手に知られたくない」


「その通りです」


「それなら、なぜ、あなたは昨夜、屋根の上で姿を見せたのですか」


 宗一は、顔をしかめた。


「妹が、合図を送ったからです」


「赤い糸を?」


「はい」


「しかし、私たちが見たのは、赤い糸だけではありません。黒い外套の男も見た」


「私です」


「あなたは、黒い外套を着ていた。だが、あなたが見張っていた相手も、黒い外套を着ていた可能性があります」


 宗一の顔が、強張った。


「……そういうことですか」


 泰六は、頷いた。


「黒い外套の男が二人いた。あるいは、一人の男が、別の人間に自分の姿を見せた。どちらにせよ、目撃した姿だけでは、人物を特定できない」


 進一は、昨夜の光景を思い出した。


 屋根の上の男。


 黒い外套。


 赤い紙。


 そして、折り畳まれた紙片。


 あれは、何かを伝えるための合図だった。


 しかし、誰に向けられた合図だったのか。


 誰が、誰を見ていたのか。


 その関係が、まだ分からない。


「宗一さん」


 泰六が言った。


「あなたは、妹さんがどこに隠れているか、ご存じだったのですね」


「はい」


「ならば、なぜ、今まで部屋へ入らなかったのですか」


 宗一は、答えるまでに時間がかかった。


「妹が、私を信じていなかったからです」


 その言葉は、思いのほか静かだった。


「私は、妹を助けるために、商館の帳簿を持ち出そうとしました。しかし、そのとき、追っ手に見つかった。私は逃げるしかなかった。妹を置いて、逃げたのです」


 彼は、目を伏せた。


「妹は、私が自分を見捨てたと思っている。私が迎えに来ても、信じないでしょう」


「だから、紙に『あの男を信じるな』と書かせたのですか」


「いいえ」


 宗一は、首を横に振った。


「あれは、私が書いたものではありません」


 進一は、息をのんだ。


「では、誰が?」


「……商館の男です」


     *


 泰六は、卓の上にある紙片を並べた。


 ――あの男を信じるな。


 ――彼女を、信じてくれ。


 ――七時に来るのは、私ではない。


 三枚の紙。


 三つの文。


 それぞれが、別の方向を指しているように見えた。


「進一君」


「はい」


「この三枚の紙を、書いた者が同じだと考えたら、どうなりますか」


「同じ人間が、矛盾したことを書いたことになります」


「そうです。では、書いた者が違うとしたら?」


「それぞれの文が、別の人間の意思を表していることになります」


「では、三枚の紙を、誰が書いたのか。考えてみましょう」


 泰六は、一枚目を指した。


「『あの男を信じるな』。この男とは、誰でしょう」


「宗一さんでしょうか」


「そう考える理由は?」


「志津さんが、兄を信じていないから……」


「それは、おはなさんの話から推測したことです。紙を書いた者の意図を証明するものではありません」


 進一は、口を閉じた。


 泰六は、二枚目を指した。


「『彼女を、信じてくれ』。これは誰に向けられた文でしょう」


「私に、でしょうか」


「なぜ、君に?」


「昨夜、私がこの廊下にいたことを、誰かが知っていたのかもしれません」


「そうです。では、その誰かは、君が志津さんを助けようとしていると、どうして知ったのでしょう」


 進一は、考えた。


 自分は、志津を見たことがない。


 彼女の顔も、声も、知らない。


 ただ、扉の向こうから聞こえた声を聞き、助けを求められたように感じただけだ。


「……私が、田辺夫人に話を聞いていたからでしょうか」


「可能性はあります。しかし、もう一つあります」


 泰六は、廊下の床を指した。


「君が、夜中に戸を開けたことです。誰かが、君の部屋から出てくるのを見た。あるいは、君が扉の前に立っていたのを見た。その者は、君がこの件に関わり始めたと考えたのでしょう」


 進一は、黒い糸を見た。


「それなら、黒い糸は……」


「誰かが、君の部屋の前を通った証拠かもしれません。しかし、糸だけでは、誰が通ったのかまでは分からない」


 泰六は、三枚目の紙を取り上げた。


「『七時に来るのは、私ではない』。これは、志津さんが書いたと、宗一さんは言いました」


「はい」


「しかし、彼女はなぜ、兄が来ることを、わざわざ否定するような書き方をしたのでしょう」


 宗一は、顔を上げた。


「追っ手に、私が来ると思わせないためです」


「その通りです。しかし、追っ手がその紙を見たとき、何を考えるでしょう」


「……宗一が来ない、と」


「では、追っ手は安心するでしょうか。それとも、別の人間が来ることを警戒するでしょうか」


 宗一は、答えられなかった。


 泰六は、静かに言った。


「紙は、真実を伝えるためにも使われます。しかし、誰かに何かを思い込ませるためにも使われる。重要なのは、紙に何が書いてあるかだけではありません。それを読んだ者が、どう動くことを期待されているか、です」


 進一は、三枚の紙を見た。


 赤い輪。


 それは、合図だった。


 けれど、合図とは、何かを伝えるだけのものではない。


 誰かを動かすためのものでもある。


     *


「先生」


 宗一が、低い声で言った。


「妹に、会わせていただけませんか」


「会いたいのであれば、会わせます。しかし、その前に、一つだけ答えてください」


「何でしょう」


「あなたは、帳簿の写しを持っていますか」


 宗一は、黙った。


「持っていないのですね」


「……はい」


「では、志津さんが持っている」


 宗一は、顔を上げた。


「なぜ、そう思われるのですか」


「あなたがここへ来た目的は、妹を連れ出すことだけではない。帳簿の写しを取り戻すことでもある。違いますか」


 宗一は、長い沈黙のあと、頷いた。


「私は……あの帳簿を公にしたいのです」


「それなら、なぜ、妹さんが写しを持っていることを、ここで認めなかったのですか」


「妹が、誰かに聞かれているかもしれないからです」


「誰に?」


「商館の者に。あるいは、私を追っている男に」


 泰六は、窓を見た。


「この部屋にいる者を、誰も信用できない。そういう状況だったのですね」


「はい」


「では、志津さんは、なぜあなたを信じられないのでしょう」


 宗一は、苦しそうに答えた。


「私が、彼女を置いて逃げたからです」


「それだけですか」


「……それだけではありません」


 宗一は、手を握りしめた。


「私は、妹に、帳簿の写しを渡すよう頼みました。自分が持って逃げるから、と。けれど、妹は拒みました。彼女は、帳簿に名前がある人たちのために、写しを残したいと言ったのです」


「それで、あなたは?」


「私は、彼女に、そんなことをしても無駄だと言いました。商館には力がある。役人にも、金を渡している。たった一人の女が、何を言っても変わらない、と」


 宗一は、うつむいた。


「……私は、妹を守るつもりで、妹の決意を踏みにじったのです」


 進一は、何も言えなかった。


 兄は、妹を救いたい。


 妹は、帳簿に名前を残された人々を救いたい。


 どちらも、守ろうとしていた。


 しかし、守ろうとするものが違うために、互いを信じられなくなった。


 泰六は、静かに言った。


「宗一さん。あなたが妹さんを愛していることと、あなたの判断が正しかったことは、同じではありません」


 宗一は、顔を上げた。


「……はい」


「そして、あなたが一度、妹さんを置いて逃げたことと、あなたが今、妹さんを救おうとしていることも、矛盾しません」


 宗一の目が揺れた。


「人は、一つの行為だけで、すべてを決められるものではない。ですが、過去の行為が消えるわけでもありません。あなたが妹さんに信じてもらいたいのなら、信じろと要求するのではなく、なぜ信じられなくなったのかを、聞く必要があるのでしょう」


 宗一は、唇を震わせた。


「……分かりました」


 泰六は、頷いた。


「では、会いましょう」


     *


 おはなが、部屋の隅にある箪笥へ向かった。


「志津さん。もう、出てきても大丈夫です」


 返事はなかった。


 おはなは、箪笥の前に膝をついた。


 引き出しを一つ、開ける。


 中には、畳んだ着物と、古い帳面が入っていた。


 おはなは、帳面を取り出し、底板を押した。


 小さな隙間が開いた。


 そこから、細い手が現れた。


 進一は、思わず息を止めた。


 手袋をしていた。


 指先は、ひどく痩せていた。


 やがて、箪笥の奥から、一人の女が姿を現した。


 年は二十代半ばほどだろうか。顔色は青白く、頬はこけていた。しかし、目だけは、驚くほどはっきりしていた。


 女は、宗一を見た。


 兄は、妹を見た。


 二人の間に、長い沈黙が落ちた。


「……志津」


 宗一が、ようやく言った。


 志津は、答えなかった。


「迎えに来た」


「どうして」


「君を、ここから連れ出すために」


「それだけ?」


 宗一は、言葉を失った。


 志津は、兄を見つめた。


「帳簿が欲しいのでしょう」


「違う」


「嘘をつかないで」


 その声は、かすれていた。


「あなたは、私を守りたいと言った。けれど、あなたが守りたかったのは、私ではなく、私が持っている帳簿だった」


「志津……」


「私は、あなたを信じたかった。あなたが、私を置いて逃げたときも、何か理由があったのだと思いたかった。けれど、あなたは、私に何も説明しなかった」


 志津の目に、涙が浮かんだ。


「私は、あなたが戻ってくるのを待っていた。毎日、窓を見ていた。赤い糸を垂らせば、あなたが見つけてくれると思っていた」


 宗一は、うつむいた。


「……すまなかった」


「謝れば、元に戻るの?」


「戻らない」


 宗一は、顔を上げた。


「戻らないことは分かっている。それでも、謝りたかった」


 志津は、しばらく兄を見つめていた。


「私は、帳簿を渡さない」


「分かった」


「私を連れて逃げることも、あなたには決めさせない」


「分かった」


「私は、自分で決める」


 宗一は、静かに頷いた。


「……そうしてくれ」


 志津の肩が、小さく震えた。


 進一は、その場から目をそらした。


 誰かが謝る場面を、他人が見ていてはいけないこともある。


 けれど、泰六は目をそらさなかった。


 彼は、二人の言葉を、最後まで聞いていた。


     *


「志津さん」


 泰六が、声をかけた。


「あなたが、この部屋に隠れていた理由は分かりました。ですが、まだ分からないことがあります」


「何でしょう」


「赤い輪です」


 志津は、目を伏せた。


「あなたが、紙に赤い輪を描いたのですね」


「はい」


「それは、何を意味するのですか」


 志津は、しばらく黙っていた。


「私たちが、商館で使っていた印です」


「商館の印?」


「帳簿の中で、確認が必要な記録につけていました。赤い輪がついた記録は、もう一度、元の書類と照合しなければならない。そういう決まりでした」


「つまり、赤い輪は、警告だった」


「はい」


「では、なぜ、窓に赤い輪を描いたのです」


 志津は、窓を見た。


「私は、兄に合図を送りたかったのです。赤い輪が見えたら、窓を閉める。窓が閉じていたら、誰も中を覗かない。そう決めていました」


「しかし、紙には『窓を開けるな』と書かれていました」


「それは、私が書いたものではありません」


 進一は、驚いて志津を見た。


「では、誰が?」


「商館の男です。私がこの下宿にいると知って、窓に紙を貼ったのです。私が逃げ出すのを防ぐために」


「赤い輪を、あなたの合図と同じ形にして?」


「はい。私が、自分の合図だと思って窓を開ければ、外にいる男に見つかる。そういう仕掛けでした」


 泰六は、頷いた。


「なるほど。赤い輪は、あなたにとっては助けを求める印。しかし、追っ手にとっては、あなたを誘い出すための印だった」


「そうです」


「同じ形でも、意味は違う。見る者によって、役割が変わるのですね」


 志津は、目を伏せた。


「私は、兄が赤い輪を見れば、必ず助けに来てくれると思っていました。でも、追っ手も同じ印を知っていた。だから、私は、何を信じればよいのか分からなくなったのです」


 進一は、胸が痛んだ。


 合図を送る。


 返事を待つ。


 誰かが来ると信じる。


 その信頼を利用されれば、次に誰かを信じることが、どれほど難しくなるだろう。


「では、紙に『彼女を、信じてくれ』と書いたのも、あなたですか」


 泰六が尋ねた。


 志津は、頷いた。


「はい。進一さんが、廊下で私の声を聞いたことを、おはなさんから聞きました。あなたが、私を助けようとしているとも」


「しかし、あなたは、私たちが誰なのか知らなかった」


「ええ。だから、あの紙を扉の下から差し入れました。私を信じてほしい、と」


「それでは、『あの男を信じるな』と書いた紙は?」


 志津は、首を横に振った。


「私ではありません」


 宗一が、低い声で言った。


「それは、商館の男が書いたものだ」


「なぜ、そう思うのですか」


「妹を孤立させるためです。私を信じるな、と書けば、妹は私に助けを求めなくなる。私が妹を救いに来れば、妹は、私が帳簿を奪いに来たと思う。そうなれば、妹は誰にも助けを求められない」


 泰六は、静かに頷いた。


「つまり、追っ手は、志津さんを見つけることだけが目的ではなかった。彼女が誰かを信じることを、妨げようとしていたのですね」


「はい」


 志津は、小さく答えた。


「私が一人になれば、帳簿を渡すしかなくなる。そう考えていたのだと思います」


 泰六は、赤い輪の紙片を見た。


「赤い輪は、誰かを守るための合図だった。しかし、その合図が知られたことで、誰かを追い詰める道具にもなった」


 彼は、紙を静かに置いた。


「印そのものに、善悪はありません。使う人間が、何をしようとするか。それが問題なのです」


     *


「では、最後に一つ」


 泰六は、志津に尋ねた。


「あなたは、どうやって、この部屋から出入りしていたのですか」


 志津は、顔を上げた。


「……出入り?」


「この半月、食事の膳は毎晩、扉の前に置かれていた。しかし、今朝、膳は部屋の中にあった。あなたが食事を取ったのであれば、膳を部屋の中へ運んだはずです」


「それは……」


「また、昨夜、廊下には黒い糸が落ちていた。扉の前には、紙片が差し込まれていた。窓には針穴があり、屋根には足跡があった。これらは、別々の出来事に見えます。しかし、同じ仕掛けの一部だったのではありませんか」


 志津は、しばらく考えたあと、頷いた。


「おはなさんが、食事を運んでくれていました」


「では、膳を下げたのも、おはなさんですか」


「はい」


 おはなが、静かに頷いた。


「私は、扉の前に膳を置き、志津さんが中から引き入れたあと、夜になってから、また下げていました」


「扉は、どうやって開けたのです」


「開けていません。扉の下に、細い板を差し込んで、膳を手前へ引き寄せるのです」


 泰六は、扉の下を見た。


「なるほど。だから、敷居に擦れた跡が残っていた」


「はい」


「では、足跡は?」


 おはなは、答えた。


「庭へ回ったのは、私です。志津さんが窓から出たように見せるために、足跡をつけました」


 進一は、目を見開いた。


「窓から出たように見せる?」


「はい。追っ手が庭を調べたとき、志津さんが逃げたと思わせたかったのです。だから、大きな足跡を一つ、小さな足跡を二つ、別々の方向へつけました」


「それで、足跡が三種類あったのか」


「ええ。けれど、私たちの足跡だけでは、不自然になる。だから、庭師の古い長靴を借りて、大きな足跡をつけたのです」


 泰六は、頷いた。


「つまり、足跡は逃走の証拠ではなく、逃走したように見せるための偽装だった」


「はい」


「では、黒い糸は?」


 おはなは、志津を見た。


「私の外套から落ちたものです。昨夜、進一さんの部屋の前を通ったとき、扉の金具に引っかかってしまったのです」


「なぜ、進一君の部屋の前を?」


「進一さんが、志津さんの声を聞いたと知っていたからです。何かあれば、助けを求めようと思っていました」


 進一は、驚きながらも、ようやく理解した。


 夜中の足音。


 黒い糸。


 扉の下の紙片。


 それらは、誰かが部屋を出入りした証拠ではあった。


 しかし、それは志津ではなかった。


 彼女を守ろうとした、おはなの足跡だったのだ。


「では、窓の針は?」


 泰六が尋ねた。


「それは、追っ手が打ち込んだものです。私たちは、窓を開けていません。追っ手が、外から紙を留めたのです」


「そして、屋根の上の宗一さんは、妹に合図を送っていた」


「はい」


 宗一が頷いた。


「私は、妹が無事かどうかを確かめるために、屋根へ上がりました。けれど、そこには追っ手もいた。私の姿を見た者は、私が妹を連れ出そうとしていると思ったでしょう」


「実際、そうだったのですか」


「……そうです。しかし、妹が出てくるかどうかは、妹自身が決めることでした」


 泰六は、満足したように頷いた。


「ようやく、すべてが一つにつながりました」


 進一は、思わず言った。


「泰六さん。では、志津さんは、半月もの間、一度もこの部屋から出ていなかったのですか」


「そうではありません」


 泰六は、首を振った。


「彼女は、箪笥の奥に隠れていた。食事を運ぶ者が、膳を下げる者が、庭に足跡をつける者がいた。彼女は、誰かに見つからないように、家の中で場所を移していたのです」


「けれど、部屋の中には誰もいなかった」


「私たちが扉を開けたときには、すでに箪笥の奥へ移っていた。だから、部屋は空だったのです」


 泰六は、箪笥を見た。


「人がいないように見える部屋と、本当に人がいない部屋は違う。私たちは、空っぽの部屋を見て、そこに人がいないと判断した。しかし、それは、私たちが見た範囲に人がいなかったというだけのことでした」


 進一は、深く息を吐いた。


「……なるほど」


 謎は、奇妙な力によって解かれたのではない。


 紙片も、足跡も、糸も、針も。


 すべては、人間が何かを隠そうとした結果だった。


 そして、隠されたものの中には、悪意だけでなく、誰かを守りたいという願いもあった。


     *


 そのとき、階下から、乱暴に戸を叩く音がした。


 どん、どん、どん。


「田辺さん! いるのは分かっている!」


 男の声だった。


 宗一の顔が、一瞬で強張った。


「来た……」


 志津は、帳面を抱きしめた。


 おはなは、進一の袖を掴んだ。


「先生……」


 泰六は、階段のほうを見た。


「進一君。田辺夫人を、奥へ」


「はい」


「新吉君は、玄関を開けないように」


「分かりました」


 泰六は、宗一に向き直った。


「あなたは、妹さんのそばに」


「しかし、追っ手が……」


「だからこそです。今度は、逃げるかどうかを、妹さん自身に決めてもらいなさい」


 宗一は、志津を見た。


 志津は、兄の手を取らなかった。


 けれど、逃げもしなかった。


 泰六は、ゆっくりと階段を下りていった。


 玄関の外には、背広姿の男が二人立っていた。どちらも、身なりは整っていたが、目つきには余裕がなかった。


「何の用ですか」


 泰六が尋ねた。


「この下宿に、盗まれた帳簿を持った女がいるはずだ」


「帳簿を盗んだというのは、誰の話ですか」


「商館の者から聞いた」


「その商館の者の名前は?」


 男は、一瞬、言葉に詰まった。


「そんなことは、どうでもいい」


「どうでもよくはありません。人を犯罪者と呼ぶのであれば、誰が、何を根拠に、そう判断したのかを明らかにする必要があります」


「小賢しいことを言うな。女を出せ」


 泰六は、動かなかった。


「ここには、あなた方が探しているという女がいるかもしれません。しかし、あなた方が彼女を連れていく権利があるかどうかは、別の問題です」


「我々は、商館の代理人だ」


「ならば、なおさらです。帳簿の所有権について争いがあるのであれば、正式な手続きで申し立てればよい。ここで、他人の住居に押し入り、住人を連れ出す必要はありません」


 男の顔が赤くなった。


「お前は、誰の味方だ」


 泰六は、静かに答えた。


「私は、事実の味方です」


 男たちは、互いに目を合わせた。


 その一瞬、泰六は、二人の足元を見た。


 靴の泥。


 片方の男の袖口に付いた、黒い糸。


 そして、もう一人の男の手に握られた、小さな紙片。


 赤い輪が描かれていた。


「あなた方が、窓に紙を貼ったのですね」


 泰六が言った。


 二人の男は、顔を見合わせた。


「何の話だ」


「赤い輪の紙です。窓に貼り、志津さんを誘い出そうとした。彼女が自分の合図だと思って窓を開ければ、そこに待ち構えていたあなた方が、彼女を連れ出すつもりだった」


「証拠はあるのか」


「あります」


 泰六は、二人の靴を指した。


「あなた方の靴には、庭の湿った土が付いている。今朝、庭を通って窓の下へ回ったのでしょう。窓枠には、紙を留めるための針穴が残っている。そして、あなたの袖口には、黒い糸が引っかかっている」


 男の一人が、反射的に袖口を押さえた。


「その糸は、この下宿の廊下に落ちていたものと同じ種類です。おはなさんの外套から落ちた糸が、扉の金具に引っかかっていた。あなたは、廊下を歩いたとき、その糸を拾ったのかもしれません。あるいは、あなた自身の衣服から落ちたものかもしれない」


「そんなものが証拠になるか!」


「糸だけでは、なりません」


 泰六は、淡々と言った。


「しかし、糸だけを見ているわけではありません。窓の紙、針穴、庭の足跡、あなた方の靴についた泥、そして、今、あなたが袖口を隠したこと。これらを一つずつ確かめれば、あなた方が何をしようとしたのか、説明していただく必要があるでしょう」


 男たちは、黙り込んだ。


 泰六は、玄関の外を見た。


「なお、私たちは、すでにあなた方の行動を記録しています。今ここで立ち去るのであれば、正式な手続きを通じて、話を聞くことにしましょう。しかし、無理に押し入るのであれば、話は別です」


 しばらくして、男たちは後ずさった。


「覚えていろ」


 捨て台詞を残し、二人は路地の向こうへ去っていった。


 泰六は、すぐには玄関を閉めなかった。


 男たちの姿が角を曲がり、見えなくなるまで、じっと見送っていた。


     *


 二階へ戻ると、志津は、まだ帳面を抱きしめていた。


「先生……」


「彼らは、ひとまず帰りました。しかし、これで終わったわけではありません」


「はい」


「帳簿の写しを、公にするつもりですか」


 志津は、迷わず頷いた。


「はい。そこに名前がある人たちが、何をされたのか、知ってもらいたいのです」


「そのためには、あなた自身も、証言しなければならないかもしれません」


「分かっています」


「あなたが望むのであれば、協力します。ただし、危険がなくなると約束することはできません」


 志津は、少しだけ笑った。


「それで、十分です」


 泰六は、進一を見た。


「進一君。記録を取ってください」


「はい」


 進一は、帳面を開いた。


 志津は、ゆっくりと話し始めた。


 商館の帳簿に、何が書かれていたのか。


 誰の賃金が消され、誰の名前が書き換えられたのか。


 船に乗った人々が、どこへ連れていかれたのか。


 そして、彼女がなぜ、その記録を残そうとしたのか。


 進一は、一言も聞き漏らすまいと、筆を走らせた。


 話の途中、志津は何度も言葉を止めた。


 そのたびに、宗一が妹を見た。


 けれど、彼は、代わりに答えようとはしなかった。


 志津が、自分の言葉で話し終えるのを、ただ待っていた。


 それが、兄にできる、最初の償いだったのかもしれない。


     *


 昼過ぎ、下宿の前を、秋風が吹き抜けた。


 田辺夫人は、台所で新しい茶を淹れていた。新吉は、玄関の戸を修理している。おはなは、志津のために、温かい粥を用意した。


 志津は、今度こそ、膳を自分の手で受け取った。


「ありがとうございます」


 おはなは、首を振った。


「私こそ、ごめんなさい。あなたを守ろうとして、あなたのために、いろいろなことを決めてしまった」


「いいえ」


 志津は、粥の湯気を見つめた。


「私も、あなたに頼りすぎていました。自分で決めると言いながら、あなたに危険なことをさせてしまった」


 二人は、しばらく黙っていた。


 やがて、おはなが、そっと言った。


「これから、どうするのですか」


「帳簿を、公にします」


「怖くありませんか」


「怖いです」


 志津は、正直に答えた。


「でも、怖くないふりをするのは、もうやめようと思います」


 おはなは、微笑んだ。


「それなら、私も、一緒に行きます」


 志津は、驚いたように顔を上げた。


「あなたまで?」


「ええ。私も、見たことを話します。あなたが一人で話すより、二人で話したほうが、きっとよいでしょう」


 志津は、しばらくおはなを見つめたあと、静かに頷いた。


「……ありがとう」


 その言葉は、小さかった。


 しかし、半月もの間、閉ざされていた部屋の扉を開けるには、十分な言葉だった。


     *


 夕方、泰六と進一は、神田の路地を歩いていた。


 夕陽が、瓦屋根を赤く染めている。


「泰六さん」


「何です」


「今回の事件で、私は、ずいぶん多くのことを見誤りました」


「具体的には?」


「赤い輪を、単なる合図だと思いました。黒い外套の男を、一人だと思いました。空の部屋を見て、誰もいないと思いました。そして、志津さんが逃げているのは、誰かを恐れているからだと思いました」


「それぞれ、完全に間違っていたわけではありません」


 泰六は、歩きながら答えた。


「赤い輪は、確かに合図でした。黒い外套の男も、確かにいました。部屋には、私たちが見たとき、誰もいませんでした。志津さんも、誰かを恐れていた」


「けれど、それだけでは、真実には届かなかった」


「そうです。事実は、嘘の反対側にあるとは限りません。事実の一部だけを見せることで、人は、もっともらしい嘘を作ることができる」


 進一は、考え込んだ。


「では、私たちは、何を信じればよいのでしょう」


 泰六は、足を止めた。


「信じる前に、確かめることです」


「確かめる……」


「そして、確かめた結果、間違っていたと分かったなら、考えを改めることです。人間は、最初から正しい答えを持っているわけではありません。だからこそ、観察し、疑い、問い直す必要がある」


 泰六は、夕暮れの空を見上げた。


「ただし、忘れてはいけません。疑うことと、相手を傷つけることは、同じではない」


 進一は、泰六を見た。


「志津さんは、兄を疑っていました。宗一さんは、妹を守ろうとしていました。おはなさんは、二人を助けようとしていた。しかし、それぞれが相手の事情を知らなかったために、互いを傷つけてしまった」


「そうです」


「犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではないのですね」


 泰六は、わずかに目を細めた。


「君も、少しは探偵らしくなってきましたね」


「少しだけですか」


「まだまだです」


 進一は、笑った。


「厳しいですね、泰六さん」


「探偵という仕事は、甘くありませんから」


 二人は、再び歩き始めた。


 路地の向こうで、鐘が鳴った。


 夕方の七時ではない。


 それでも、進一は、あの朝の鐘を思い出した。


 七時に来るのは、私ではない。


 あの文は、誰かを惑わせるための言葉だった。


 けれど、その裏側には、志津が兄に伝えたかった願いがあった。


 ――私は、ここにいる。


 ――見つけてほしい。


 ――けれど、私の代わりに、私の人生を決めないでほしい。


 進一は、歩きながら、そっと息を吐いた。


 人は、誰かに助けてほしいと思う。


 同時に、自分の足で立ちたいとも思う。


 その二つは、矛盾しているようで、矛盾していない。


 助けるとは、相手の代わりにすべてを決めることではない。


 相手が自分で決められるように、そばにいることなのかもしれない。


     *


 数日後。


 田辺下宿の二階に、赤い輪の紙片は、もう貼られていなかった。


 志津と宗一は、正式な手続きを通じて、帳簿の写しを関係者へ提出する準備を進めていた。すぐにすべてが解決するわけではない。商館は、彼らの証言を否定するだろう。記録の改ざんを認めない者もいるだろう。


 それでも、志津は、もう一人ではなかった。


 宗一は、妹に何度も謝った。


 志津は、そのたびに、すぐには許さなかった。


 しかし、兄が何を言うかではなく、これから何をするかを見ようとしていた。


 おはなは、二人の証言に協力することを決めた。新吉も、横浜で見たものを、正式に話すと約束した。


 田辺夫人は、あの部屋を新しい客に貸す前に、窓枠を修理した。


 針穴は、木片で埋められた。


 扉の下に残っていた擦り傷も、板を張り替えて見えなくなった。


 それでも、あの部屋で起きたことが、なかったことになるわけではない。


 ある日の午後、進一は、泰六とともに、再び田辺下宿を訪れた。


 志津は、窓辺に立っていた。


「先生方。あのときは、ありがとうございました」


「礼を言われるほどのことはしていません」


 泰六は、いつもの調子で答えた。


「私たちは、あなたが話せるようになるまで、待っただけです」


「それが、ありがたかったのです」


 志津は、微笑んだ。


「誰かに、早く話せと言われると、何を話してよいのか分からなくなることがあります。でも、先生は、私が自分で決めるのを待ってくださいました」


 泰六は、答えなかった。


 進一が、代わりに言った。


「志津さん。あなたが自分で話すと決めたことが、一番大切だったのだと思います」


 志津は、頷いた。


 そして、窓の外を見た。


 そこには、赤い輪の紙片はない。


 ただ、秋の空が広がっている。


「もう、窓を開けてもよいのでしょうか」


 志津が尋ねた。


 進一は、泰六を見た。


 泰六は、窓の鍵を確かめた。


「窓を開けるかどうかは、あなたが決めればよい。ただし、外に危険がないかどうかは、確かめたほうがよいでしょう」


 志津は、小さく笑った。


「はい」


 彼女は、自分の手で、窓を開けた。


 秋の風が、部屋に入ってきた。


 長い間、閉ざされていた部屋に、外の空気が流れ込む。


 その風は、特別なものではなかった。


 どこにでもある、秋の風だった。


 けれど、志津は、目を閉じて、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。


 もう、誰かの合図を待つ必要はない。


 自分で窓を開けることができる。


 そのことが、彼女にとって、何よりも大切だった。


     *


 帰り道、神田の表通りは、夕暮れの人波で賑わっていた。


 店先からは、焼き魚の匂いが漂ってくる。荷車が行き交い、子どもたちが走り回っている。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが急ぎ足で家路をたどっていた。


 町は、何事もなかったかのように動いていた。


「泰六さん」


「何です」


「赤い輪は、これからも使われるのでしょうか」


「使われるかもしれませんね」


「また、誰かを苦しめるために?」


「あるいは、誰かを助けるために」


 泰六は、歩みを緩めなかった。


「印そのものが、何かを決めるわけではありません。紙に書かれた言葉も、同じです。言葉は、真実を伝えることもあれば、真実を隠すこともある」


「では、探偵は、何をすればよいのでしょう」


「言葉を鵜呑みにせず、しかし、言葉を捨てもしない。観察し、確かめ、矛盾を見つける。そして、その矛盾の向こうに、誰が、何をしようとしていたのかを考える」


 泰六は、進一を見た。


「ただし、最後に一つ。人間は、矛盾を抱えて生きています。だから、矛盾があるというだけで、その人間を嘘つきだと決めつけてはいけない」


 進一は、深く頷いた。


 志津は、兄を信じられなくなった。


 宗一は、妹を守るために逃げた。


 おはなは、志津を守るために嘘をついた。


 新吉は、恐怖から沈黙した。


 誰もが、完全に正しかったわけではない。


 誰もが、完全に間違っていたわけでもない。


 けれど、その中で、誰かを傷つけようとした者がいた。


 その行為を見逃すことはできない。


 同時に、その行為だけで、人間のすべてを決めつけることもできない。


 それが、今回の事件で、進一が学んだことだった。


 神田の空に、夕闇が降り始めていた。


 泰六は、懐中時計を取り出した。


「さて、進一君。次の事件が待っています」


「もうですか」


「探偵という仕事は、暇を与えてくれませんからね」


「せめて、夕飯くらいは食べさせてください」


「それは、君の自由です」


 進一は、笑った。


 泰六も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 二人は、人波の中へ消えていった。


 その背後で、田辺下宿の窓が、静かに閉じられた。


 今度は、誰かに命じられたからではない。


 夜が来たから、閉じたのだ。


 明日の朝になれば、また開けることができる。


 赤い輪は、もう窓にはない。


 しかし、赤い輪が残した問いは、神田の町のどこかに、まだ残っている。


 誰かを信じるとは、どういうことなのか。


 疑うことと、傷つけることは、どこが違うのか。


 そして、人を救うとは、相手の人生を代わりに決めることなのか。


 答えは、紙片の裏には書かれていない。


 それを見つけるのは、これからも、私たち自身なのだろう。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回の事件では、赤い輪という一つの印が、助けを求める合図にも、相手を誘い出す罠にもなりました。


同じ言葉、同じ行動、同じ沈黙であっても、その背後にある事情は一つとは限りません。


だからこそ、探偵は事実を確かめる必要がある。

そして、事実を確かめたあとも、人間を理解する努力をやめてはいけないのだと思います。


犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではない。


小室泰六の論理と、和田進一のまなざしを通して、これからも、謎解きの快感と、人間の不器用さへの眼差しを、一緒に描いていけたらと思います。


そして。皆様に聞いてみたくなりました。


コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品を、どれくらい読まれたことがありますか?



① 原作をほとんど読んだことがない。ドラマや映画で知っている程度。



② 有名な作品や短編を、いくつか読んだことがある。



③ 長編も短編も、かなり読んだ。ほぼ一通り読破した。



よろしければ、コメント欄に

「①」「②」「③」

の数字だけでも残していただけるとうれしいです。


もちろん、原作をご存知ない方も、大歓迎です。


原作をご存じの方には、ドイル作品へのオマージュや違いを。


初めての方には、明治の神田で起こる事件と、

小室泰六・和田進一の物語を。


それぞれの楽しみ方で読んでいただけたら、作者冥利に尽きます。


さて、皆様は何番でしょうか?



次の事件でも、どうぞ神田の街へお越しください。

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