小室泰六(SHERLOCK) - 下宿屋主人の困り事 【中編】
【中編】 研機
その夜、神田の町には、秋の冷え込みが早くも忍び寄っていた。
昼間は人いきれで汗ばむほどだった往来も、日が落ちると別の顔を見せる。蕎麦屋の暖簾は夜風に揺れ、店先の行灯が石畳に細長い影を落としている。荷車を引く馬の蹄が遠くで響き、どこかの長屋からは、夫婦喧嘩とも芝居の稽古ともつかぬ怒鳴り声が聞こえた。
明治の東京は、古いものと新しいものが、まだ互いの居場所を決めかねている町だった。
人力車が走り、電信線が空を横切り、洋服姿の役人が威張って歩く。その一方で、井戸端には共同の手桶が並び、魚屋の呼び声は江戸の頃とさして変わらない。
文明開化という言葉は、何でも明るく照らしてくれるように聞こえる。
だが、明るくなった町にも、暗がりは残る。
むしろ、灯りが増えたぶんだけ、人は暗がりの存在を忘れやすくなるのかもしれなかった。
田辺夫人の下宿屋は、まさにそんな場所に建っていた。
表通りから少し入ったところにある、二階建ての木造家屋。玄関脇には小さな植木鉢が三つ並び、格子戸の内側には、古びた傘立てが置かれている。下宿人は全部で六人。役所勤めの男が二人、帝国大学へ通う学生が一人、帳場で働く若い男が一人、地方から出てきた裁縫師の女が一人、そして、二階の奥に姿を見せない客が一人。
最後の客だけが、この家の暮らしから切り離されていた。
いや、正確に言えば、切り離されているように見せかけていた。
そのことに、和田進一は、まだ確信を持てずにいた。
*
「今夜は、こちらでお待ちになるおつもりですか」
田辺夫人が、声をひそめて尋ねた。
居間の卓上には、湯気の薄くなった茶が二つ並んでいる。障子の向こうでは、風が庭木の葉をこすり合わせていた。
「ええ」
小室泰六は、茶碗には手を伸ばさず、机の上に置かれた新聞の切り抜きを見ていた。
「少なくとも、あの部屋の客が、今夜も同じ行動を取るかどうかを確かめる必要があります」
「ですが……」
夫人は、膝の上で両手を組み合わせた。
「先ほどの、あの男が」
「黒い外套の男ですか」
「はい。あの人が、また来たらどうしましょう」
「来るでしょうね」
泰六は、まるで明日の天気でも答えるように言った。
夫人の顔から血の気が引いた。
「来ると……お分かりなのですか」
「少なくとも、彼はこの家の様子を知りたがっている。今夜、我々がここにいると知れば、なおさらです」
「それでは、どうして、そんなに落ち着いていられるのです」
「落ち着いているのではありません。まだ、彼が何を知っているのか分からないだけです」
泰六は新聞の切り抜きを指先で押さえた。
赤い輪。
粗い紙面の上に、鉛筆で描かれた円が一つ。
その円の内側には、何もない。
記事の本文は、外国の港で起きた小さな騒動について書かれたものだった。船荷の紛失、税関の調査、関係者の証言。事件そのものは、東京の下宿屋と何の関係もないように見える。
しかし、記事の中央に描かれた赤い輪は、明らかに本文とは無関係だった。
「田辺さん」
進一が言った。
「この切り抜きは、いつ、どこで見つかったのですか」
「例の部屋の前です。朝、掃除をしようとしたら、廊下に落ちておりました」
「部屋の中から出てきたのですか」
「それは……分かりません。昨夜は、確かにありませんでした」
「誰かが廊下を通った様子は」
「下宿人は皆、通ります。私も通りますし、食事を運ぶときには、あの部屋の前を必ず通ります」
「そのとき、紙はありませんでしたか」
「ございません」
進一は、夫人の顔を見た。
夫人は、嘘をついているようには見えなかった。
だが、人は恐ろしいことに出会うと、見たものだけでなく、見なかったものまで確信してしまうことがある。
進一はそれを知っていた。
「田辺さん。お尋ねしにくいことですが、あの部屋の客から、家賃は受け取っていらっしゃいますか」
「はい。前払いで、ひと月分を」
「誰からですか」
「本人です」
「お顔を見たのですか」
「いえ……。最初に契約したときは、帳場でお会いしました。帽子を深くかぶっていらっしゃいましたが、お顔は見えました。声も聞きました。ただ、その後は一度も」
「最初に会ったとき、何か変わったところはありましたか」
夫人はしばらく考えた。
「……手袋をしておりました」
「手袋?」
「はい。室内でしたのに、両手に手袋を。ひどく寒い日ではありませんでした。それから、契約書に書くお名前を、何度も書き直しておいででした」
「お名前を?」
「ええ。最後には、今の名前を書かれましたが……」
泰六の指が、新聞の端で止まった。
「その名前を、お聞きしても?」
夫人は答えた。
その名は、下宿人名簿にも記されている、ごくありふれた名前だった。
泰六は、すぐには何も言わなかった。
ただ、机の端に置かれていた鉛筆を手に取り、名簿の写しを一瞥した。
「この名前は、本人が口頭で告げたものですか。それとも、本人が書いたものですか」
「ご本人が書かれました」
「書き直す前の名前は?」
「覚えておりません。いえ……覚えているのですが、もう、はっきりとは」
夫人は、苦しそうに眉を寄せた。
「最初は、確か、外国人のような名前だった気がいたします。けれども、私が聞き違えたのかもしれません」
泰六は鉛筆を置いた。
「人間は、名前を変えることがあります」
彼は淡々と言った。
「借金から逃れるため、過去を隠すため、あるいは、誰かから逃げるために。しかし、名前を変えた人間が、必ずしも悪人とは限りません」
進一は、泰六の横顔を見た。
その言葉は、いつもの泰六らしい冷静な一般論にも聞こえた。
だが、最後の一節だけは、わざわざ付け加えたようにも思えた。
「問題は、なぜ、この家を選んだかです」
泰六は続けた。
「そして、なぜ、誰にも顔を見せない必要があるのか」
*
午後九時。
下宿屋の表戸が閉じられ、家の中から少しずつ生活の音が消えていった。
帳場の若い男が帳簿をしまい、二階の学生が咳をしながら階段を上がる。奥の部屋では、裁縫師の女が針箱を閉じた。
やがて、家全体が静かになった。
ただし、完全な静寂ではない。
古い家は、人間が黙っていても音を立てる。
梁がきしみ、柱が鳴り、どこかの建具が風に押されて小さく震える。屋根裏を走る鼠の足音は、時として子供の囁きにも聞こえた。
進一は、二階の廊下に立っていた。
目の前には、問題の部屋の扉がある。
扉の下には、細い隙間があった。
廊下の灯りは低い位置にある行灯だけで、部屋の中を覗くことはできない。扉の表面には、古い木目が幾筋も走っている。そのうち一筋だけが、取っ手のすぐ下で不自然に削れていた。
進一は腰をかがめた。
削れた箇所は、木の色が周囲よりも明るい。
最近、何かがこすれたのだろう。
「そこを、いつまで眺めているつもりです」
背後から泰六の声がした。
「いや、ここの傷が気になりまして」
「傷そのものではなく、傷の向きでしょう」
泰六は進一の隣にしゃがんだ。
「下から上へ、斜めにこすれている。扉を開けるときについた傷ではない。何かが床から持ち上げられ、扉に当たったのかもしれません」
「食事の盆でしょうか」
「可能性はあります。しかし、盆なら、もっと低い位置に別の傷ができるでしょう。これは、盆の縁より高い」
「では、何が?」
「今のところは、分かりません」
泰六は、傷の下に指を置いた。
「分からないものを、分かったことにしない。それが最初の規則です」
進一は、苦笑した。
「あなたは、いつも規則を作りますね」
「規則がなければ、推理はただの思いつきになります」
そのときだった。
扉の向こうで、何かが動いた。
かすかな音。
布が床を擦るような音だった。
進一は息を止めた。
泰六も動かなかった。
しばらくして、今度は、硬いものが床に置かれる音がした。
ことり。
それきり、音は止まった。
「中に、人がいますね」
進一が囁いた。
「少なくとも、何かが動いた」
「人間以外の可能性も?」
「この場合は、あまり考えなくてよいでしょう」
泰六は立ち上がった。
扉を叩こうとはしなかった。
彼は、取っ手を見つめていた。
「田辺夫人の話では、食事は扉の前に置き、しばらくしてから盆を回収する。ところが、今朝は盆が消えていた」
「はい」
「それを、どう考えますか」
「部屋の中の人が、扉を開けて取り込んだ」
「そうでしょう。では、どうやって?」
「普通に扉を開けて……」
「その場合、廊下に音が残るはずです。古い扉ですから、蝶番も鳴る。夫人が気づかなかったとしても、隣室の者が気づいた可能性がある」
「それでは、扉を少しだけ開けて、音を立てないようにしたのでは?」
「もちろん、その可能性もある」
泰六は、扉の下の隙間を指した。
「しかし、盆が通るには狭い」
進一は、床に目を落とした。
たしかに、隙間は指一本分にも満たない。
「盆のほうを傾ければ……」
「汁物がこぼれますね。今朝の膳には味噌汁があったと、夫人は言っていました」
「では、盆を消したのは、別の誰か?」
「その可能性もあります」
泰六は、あっさりとうなずいた。
「だが、別の誰かが入ったのなら、どうやって入ったのかを考えねばならない。鍵は夫人が持っている。窓は外から見える位置にある。しかも、庭側の窓には、内側から閉めたように見える掛け金がある」
「掛け金があるように見える?」
進一は、先ほどの言葉を聞き逃さなかった。
「どういう意味です」
「まだ、確かめていません」
泰六は、廊下の奥を見た。
「今夜、もう一度、庭を調べましょう」
*
庭へ降りる階段は、家の裏手にあった。
狭い通路を抜けると、井戸と物干し台があり、その先に小さな庭が広がっている。庭といっても、立派な木が植えられているわけではない。踏み固められた土に、南天が一本、枯れかけた菊が数株。塀の近くには、雨水を受ける古い桶が置かれていた。
月は雲に隠れていた。
泰六は、手提げの小さな灯りを低く掲げた。
「足元に気をつけてください」
「ええ」
進一は、昼間に見た足跡の場所へ向かった。
そこには、まだ跡が残っていた。
庭の土は乾いているところと湿っているところがあり、靴底の形がはっきり出ている場所もあれば、輪郭が崩れている場所もある。
進一は、膝をついた。
「こちらは大きな足跡です。窓の下から、庭の中央へ向かっている」
「そして、こちらは小さい」
泰六が灯りを動かした。
塀の根元から、窓へ向かって二列の跡が伸びている。
「二人分、でしょうか」
「そう考えるのが自然です。ただし、足跡の大きさだけで、男女を決めることはできません」
「分かっています」
進一は答えたが、心の中では、別のことを考えていた。
二人。
扉の向こうには、一人しかいないはずだった。
夫人が見たのも一人。家賃を払ったのも一人。食事を受け取っているのも、一人と考えられていた。
それなのに、庭には二人分の足跡がある。
「泰六さん」
「何です」
「もし、あの部屋に二人いるとしたら……」
「あり得ます」
泰六は、あまりにも平然と答えた。
「一人が表に出られず、もう一人が窓から出入りしている。あるいは、一人が部屋の中にいて、もう一人が外から合図を送っている。どちらも、今のところは仮説です」
「それなら、どうして、夫人には一人だと説明したのでしょう」
「それこそが、我々の知らない事情です」
泰六は、窓の下にしゃがんだ。
木枠の下端に、細い擦り傷がいくつもあった。
「ここを見てください」
進一は灯りを近づけた。
傷は、窓枠の内側ではなく、下端の外側に集中していた。
「何かを引っ掛けた跡でしょうか」
「おそらく。紐か、細い金具か」
「窓から荷物を出し入れした?」
「その可能性があります」
泰六は、窓の下の土を指先で少し掘った。
湿った土の中から、小さな黒い繊維が出てきた。
彼はそれを拾い、灯りにかざした。
「布ですね」
「外套の切れ端でしょうか」
「そうかもしれません。だが、黒い布など、東京にはいくらでもあります」
泰六は繊維を紙に包んだ。
「色だけで人間を特定するのは、推理ではありません」
進一は、少しだけ笑った。
「分かっています。あなたの規則ですね」
「覚えていただけて何よりです」
その瞬間、塀の向こうで音がした。
小石を踏む音。
二人は同時に顔を上げた。
塀の向こう側は、細い路地である。
人が一人通れるほどの幅しかなく、夜になると、近所の者でさえあまり歩かない。
もう一度、音がした。
今度は、はっきりと。
誰かが立ち止まったのだ。
泰六は灯りを消した。
庭が闇に沈んだ。
進一は、思わず息を潜めた。
塀の向こうから、男の声が聞こえた。
「……まだか」
低い声だった。
日本語だが、言葉の終わりに、聞き慣れない響きがあった。
返事はない。
「今夜のうちに、確かめろと言ったはずだ」
男は、誰かに話しかけているらしかった。
だが、相手の声は聞こえない。
やがて、衣擦れの音がした。
男が塀に手をかけたのかもしれない。
進一は、思わず一歩踏み出しかけた。
泰六の手が、その腕をつかんだ。
強くはなかった。
しかし、進一を止めるには十分だった。
数秒後、塀の向こうの足音が遠ざかっていった。
二人は、しばらく動かなかった。
やがて泰六が、灯りを再び点けた。
「追わないのですか」
進一が尋ねた。
「追って、何が得られます」
「少なくとも、誰なのか分かるかもしれません」
「顔を見たわけではありません。追いかければ、相手にこちらの存在を知らせることになる」
「すでに、知らせているのでは?」
「そうかもしれません。しかし、相手が我々の存在をどこまで知っているのかは、まだ分からない」
泰六は、塀を見た。
「進一さん。今の男は、こちらに向かって話していたと思いますか。それとも、別の誰かに?」
進一は考えた。
「塀の向こうに、もう一人いたのではないでしょうか」
「なぜ?」
「返事を待つような間がありました。独り言にしては、言葉が途切れすぎていた」
「なるほど」
泰六はうなずいた。
「私も、そう考えます」
「では、あの部屋の中にいるのは、一人ではないということですか」
「まだ断定できません」
泰六は、足跡の列をもう一度見た。
「ただ、少なくとも、この家の外にも、何かを知っている者がいる」
彼は言った。
「そして、その者たちは、我々が思っている以上に、この家を注意深く見ているようです」
*
居間に戻ると、田辺夫人が待っていた。
二人の顔を見るなり、夫人は立ち上がった。
「何か、分かりましたか」
「少しだけ」
泰六が答えた。
「田辺さん。今夜は、下宿人を全員、なるべく一階に集めておいてください」
「どうしてです?」
「誰かが勝手に外へ出たり、二階へ上がったりしないようにするためです」
「そんな……。まさか、うちの者の中に?」
「まだ、誰も疑ってはいません」
泰六は、夫人の目を見た。
「しかし、疑わないことと、確かめないことは別です」
夫人は唇を結んだ。
「分かりました。皆には、私から話します」
「それから、明日の朝まで、二階の奥の部屋には近づかないでください」
「食事はどうすれば……」
「いつもどおり、扉の前に置いてください。ただし、置いた時刻を正確に記録すること。盆を回収した時刻もです」
「もし、盆がまた消えたら?」
「そのときは、誰も触れずに、我々を呼んでください」
進一は、夫人の不安そうな顔を見て、言葉を添えた。
「田辺さん。怖いのは、よく分かります。ですが、今のところ、あなたに危害を加えようとした者がいるとは限りません。私たちがそばにおりますから、どうか一人で抱え込まないでください」
夫人は、何度もうなずいた。
「ありがとうございます、和田さん」
その声には、わずかに安堵が混じっていた。
泰六はそれを見ていたが、何も言わなかった。
進一は、ときどき、泰六の無言が気になった。
彼は人間の感情を軽視しているわけではない。むしろ、感情が証拠を歪めることを知っているからこそ、簡単には慰めの言葉を口にしないのだろう。
だが、慰めがなければ、人は証言を続けられないこともある。
真実を知るためには、事実を見抜く眼だけでなく、事実を語る人間が、語り続けられる場所も必要なのだ。
進一はそう考えていた。
*
午後十時を回ったころ、帳場の若い男が居間に呼ばれた。
名は、佐々木新吉という。
二十歳を少し過ぎたばかりで、地方から上京してきたばかりだという。下宿屋では帳簿の整理や買い出しを手伝い、空いた時間には夜学へ通っている。
新吉は、泰六と進一の前に座ると、落ち着かない様子で帽子を膝の上に置いた。
「何か、私に用でしょうか」
「少し尋ねたいことがあるだけです」
進一が言った。
「難しいことではありません。いつもどおりに答えてください」
「はい」
「今朝、二階の奥の部屋の前にあった食事の盆を、あなたは見ましたか」
新吉の目が、一瞬だけ動いた。
「……はい。見ました」
「何時ごろですか」
「朝の七時半くらいだったと思います」
「そのとき、盆はありましたか」
「ありました。田辺さんが置いたのを見ましたから」
「その後は?」
「私は帳場におりました」
「二階へ上がりましたか」
「いいえ」
新吉は、即座に答えた。
その答え方が、進一には少し気になった。
質問が終わる前から、否定する準備をしていたように見えたのである。
「新吉さん」
進一は、声を柔らかくした。
「あなたを責めているわけではありません。ただ、家の中で起きていることを、できるだけ正確に知りたいのです」
「分かっています」
新吉は、膝の上で帽子を握った。
「でも、私は何もしていません」
「ええ。そうであれば、何も心配する必要はありません」
進一は一度、言葉を切った。
「ところで、あの部屋の客と、話をしたことはありますか」
「ありません」
「声を聞いたことは?」
「……ありません」
今度は、返事が少し遅れた。
泰六が、初めて口を開いた。
「新吉さん。あなたは、この下宿屋に来て、どのくらいになりますか」
「三か月です」
「それ以前は?」
「横浜の商店で働いていました」
「外国人と接する機会はありましたか」
「商店には、外国のお客も来ました」
「英語は?」
「少しだけ」
泰六は、新吉の顔をじっと見た。
「では、これを読めますか」
彼は懐から、紙片を取り出した。
前編で見つかった、新聞の切り抜きの裏側に書かれていた文字である。
新吉は紙片を受け取った。
その瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
進一は、見逃さなかった。
「どうしました」
「いえ……」
新吉は紙片を返そうとした。
「読めません。外国語でしょう」
「まだ、何も書いていませんよ」
泰六は言った。
「これは、紙の裏側です。文字は日本語です」
新吉は、手を止めた。
紙片には、たしかに日本語で、短くこう書かれていた。
――窓を開けるな。
「読めるかどうかを聞いただけです」
泰六は紙片を受け取った。
「あなたは、読めないと答えた。だが、何かに驚いたように見えました」
「そんなことは……」
「では、なぜ、手が震えているのです」
新吉は、唇を噛んだ。
沈黙が落ちた。
進一は、泰六を見た。
問い詰めるのは簡単だ。
しかし、ここで新吉を追い詰めれば、彼は本当に知っていることまで口にできなくなるかもしれない。
「新吉さん」
進一は、机の上に両手を置いた。
「あなたが何かを知っているのなら、話してほしい。ただし、知らないことまで答える必要はありません。誰かをかばっているのなら、その事情も聞きます」
「私は……」
新吉の喉が動いた。
「私は、あの人を見たことがあります」
泰六の目が細くなった。
「どこで?」
「この家の中ではありません。横浜です」
「横浜?」
「三か月前、私が働いていた店に、外国人の男が来ました。店主と話をしていて、私は荷物を運んでいました。そのとき、男が一枚の紙を落としたんです」
「それが、赤い輪の紙ですか」
新吉は、はっきりとはうなずかなかった。
「似ていました。紙に赤い円が描かれていたんです」
「男は、何と言っていましたか」
「分かりません。英語ではなかったので……。ただ、店主は、その男を見ると、急に顔色を変えました」
「その男が、この下宿屋の客だと?」
「最初は、そう思いませんでした。顔も、はっきり覚えていません。ただ……」
新吉は声を落とした。
「先週、二階の部屋の前を通ったとき、扉の向こうから、同じ声が聞こえたんです」
「どんな声でしたか」
「低い声です。外国の言葉で、誰かと話しているようでした」
「一人で話していたのでは?」
「いいえ。返事がありました」
進一と泰六は、互いに目を合わせた。
「二人いたのですね」
進一が言った。
「……はい」
新吉は、うつむいた。
「私は、田辺さんに話そうと思いました。でも、怖かったんです。あの部屋の客が何者なのか、分からなかったから」
「それだけですか」
泰六が尋ねた。
新吉は答えなかった。
「新吉さん。あなたは、まだ何か隠していますね」
「隠しているわけでは……」
「ならば、思い出してください。横浜で見た男と、ここで聞いた声。その二つを結びつけた理由は、ほかにもあるはずです」
新吉の肩が震えた。
やがて、彼は小さく言った。
「赤い輪の紙を持っていた男は、私にこう言ったんです」
「何と?」
「――見なかったことにしろ、と」
居間の空気が、急に冷たくなったように感じられた。
「誰が、あなたに?」
「その男です。私が紙を拾ったとき、背後から声をかけられました。顔を上げると、男が立っていました。私は紙を返しました。男は、それを受け取って、何事もなかったように店を出ていったんです」
「その男の顔を覚えていますか」
「……いいえ。帽子を深くかぶっていました」
進一は、先ほど田辺夫人が語った言葉を思い出した。
手袋をした客。
帽子を深くかぶった男。
そして、赤い輪。
「新吉さん」
進一は、慎重に尋ねた。
「横浜でその男に会ったことを、誰かに話しましたか」
「誰にも」
「本当に?」
「……一人だけ」
「誰です」
新吉は、答えをためらった。
そのとき、二階で大きな音がした。
どん、と床を踏み鳴らすような音。
続いて、何かが倒れる音がした。
新吉は椅子から飛び上がった。
「来た!」
彼は、思わず叫んだ。
進一が立ち上がる。
「誰が来たのです」
新吉は、二階を見つめていた。
「分かりません……でも、あの音は……」
彼は唇を震わせながら、言葉を続けた。
「三か月前、横浜で聞いた音と同じです」
*
泰六は、誰よりも早く階段へ向かった。
「進一さん。新吉さんをお願いします」
「分かりました」
進一は新吉の肩に手を置いた。
「落ち着いてください。ここにいてください」
「ですが……」
「大丈夫です。今は、あなたが見たことを思い出すほうが大切です」
進一が言い終える前に、泰六の足音は二階へ消えていた。
進一も、すぐに後を追った。
廊下には、行灯の灯りが揺れていた。
奥の部屋の扉は、閉じたままだった。
だが、先ほどまでとは違う。
扉の下の隙間から、細い光が漏れている。
室内に灯りがともったのだ。
泰六は扉の前に立ち、耳を澄ませていた。
「中に誰かいますか」
進一が囁いた。
「いるでしょうね」
「今度は、はっきり音がしました」
「ええ。しかし、音がしたことと、何が起きたかは別です」
泰六は、扉に手を触れた。
木の表面は冷たかった。
彼は、取っ手を回さず、扉の縁を注意深く見た。
「鍵は、かかっていますか」
進一が尋ねた。
「分かりません」
「取っ手を回してみては」
「いいえ」
泰六は首を振った。
「こちらから開ければ、相手が扉を開けなかった理由を失ってしまう」
「理由?」
「もし、相手が誰かから身を隠しているのなら、我々が扉を開けることで、その隠れ場所を奪うことになります」
進一は、思わず泰六を見た。
「では、危険なのは、こちらではなく、中の人間かもしれないと?」
「可能性の一つです」
泰六は扉から手を離した。
「そして、もう一つ。中の人間は、我々がここにいることを知っているかもしれない」
彼は、扉に向かって言った。
「我々は、田辺夫人に依頼されて調査をしています。あなたを傷つけるつもりはありません。話をする意思があるなら、返事をしてください」
返事はなかった。
数秒。
十秒。
やがて、扉の向こうで、かすかな音がした。
紙を床に滑らせる音だった。
扉の下から、一枚の紙片が現れた。
泰六はすぐには拾わなかった。
まず、紙がどのように動いたかを確かめるように、目を細めた。
紙は扉の下から半分ほど出たところで止まっていた。
進一が、そっと拾い上げる。
そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。
――あの男を信じるな。
進一は顔を上げた。
「誰のことです?」
扉の向こうは、沈黙したままだった。
泰六は紙片を受け取ると、灯りの下へ持っていった。
文字は日本語だった。
だが、書き手は日本語を母語とする者ではないのかもしれない。文字の形がぎこちなく、線の運びに不自然な癖があった。
「この男、とは……」
進一が言いかけたとき、階段の下から声がした。
「先生!」
新吉だった。
彼は、階段の途中に立っていた。顔は青ざめ、片手で手すりを握りしめている。
「どうしたのです」
進一が尋ねた。
新吉は、奥の部屋を見たまま答えた。
「今、窓の外に……」
「何が見えたのです」
「男です」
泰六が振り向いた。
「黒い外套の男ですか」
「分かりません。顔は見えませんでした。でも、窓の外に立って、こちらを見ていました」
「どこから見たのです」
「一階の廊下です。庭に面した窓から……」
新吉は、言葉を詰まらせた。
「それから、男は、何かを窓に貼りつけたんです」
泰六の表情が変わった。
「何を?」
「赤い紙です」
*
三人は階段を駆け下りた。
庭に面した窓の外には、誰もいなかった。
ただ、ガラスの内側に、赤い紙片が一枚、貼りつけられていた。
紙片の中央には、例の赤い輪が描かれている。
今度は、新聞の切り抜きとは違った。
輪の内側に、小さな文字が書かれていた。
泰六は、窓に近づいた。
「触らないでください」
彼は進一と新吉を制し、窓の外側を確かめた。
紙片は、外から貼られていた。
糊の跡は見えない。
代わりに、紙の四隅には、ごく小さな穴が開いていた。
「針で留めたのでしょうか」
進一が言った。
「そのようです」
泰六は、紙の端を注意深く見た。
「窓枠に細い針を打ち、紙を固定した。風で飛ばないようにしたのでしょう」
「それほど手間をかけて、何のために?」
「見せるためです」
泰六は、短く答えた。
「誰かに、確実に見せる必要があった」
彼は紙片を外し、灯りの下に置いた。
赤い輪の内側には、二つの文字があった。
――七時。
「明日の七時でしょうか」
進一が尋ねた。
「朝か、夜か。あるいは、別の日付を指しているのかもしれません」
泰六は紙片を裏返した。
裏側には、さらに小さな文字があった。
――一人で来い。
新吉が、喉の奥で小さく声を上げた。
「やはり……」
進一が振り返った。
「新吉さん。何か知っているのですか」
「いえ……ただ、横浜でも、同じような紙を見ました」
「そこにも、赤い輪が?」
「はい。ただ、文字は違いました」
「何と書いてあったのです」
新吉は目を閉じた。
まるで、記憶の中の光景を見直しているようだった。
「……『沈黙を守れ』と」
泰六は、紙片をじっと見た。
「赤い輪は、単なる印ではないようですね」
「合図でしょうか」
「合図であり、命令であり、脅しでもあるのかもしれません」
泰六は、紙片を懐にしまった。
「問題は、誰が命令しているのか。そして、誰が命令を恐れているのかです」
*
夜は、さらに深まった。
田辺夫人は、下宿人たちを一階の居間に集めていた。
誰もが不安そうな顔をしていたが、夫人は事情を詳しく話さなかった。ただ、二階へ上がらないこと、外へ出るときは必ず声をかけることを伝えた。
その中に、裁縫師のおはなという女がいた。
二十代半ばで、神田の仕立物屋に勤めている。普段は口数が少なく、食事のときも、ほかの下宿人たちの話を静かに聞いていることが多かった。
進一は、彼女の様子が気になった。
皆が騒いでいる間も、おはなだけは、赤い紙片の話を聞いてから、ずっと自分の手元を見つめていたのである。
「おはなさん」
進一は、彼女の近くへ行った。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか」
「……私に、ですか」
「ええ。無理にとは申しません」
おはなは、しばらくためらった後、静かにうなずいた。
二人は居間の隅へ移った。
「今夜、赤い輪の紙が見つかりました。あれを見て、何か思い当たることはありませんか」
「いいえ」
おはなは、すぐに答えた。
だが、その声は少し硬かった。
「本当に?」
「……私は、知りません」
進一は、彼女を見つめた。
嘘をついているのかもしれない。
だが、恐怖から何かを隠している人間に、いきなり真実を吐き出させることはできない。
「おはなさん。もし、あなたが何かを知っているとしても、すぐにすべてを話す必要はありません。ただ、今夜、この家の中で誰かが危険にさらされているなら、できるだけ早く知らせてほしいのです」
おはなは、顔を上げた。
その目には、涙こそなかったが、強い不安が浮かんでいた。
「和田さん」
「はい」
「人は……逃げているだけでも、悪い人だと思われるのでしょうか」
進一は、答えを急がなかった。
「事情によると思います」
「誰かから逃げている人がいたら、その人は、何か悪いことをしたのでしょうか」
「必ずしも、そうとは限りません」
おはなは、唇をかんだ。
「でも、皆は、そう考えます。隠れているのなら、悪いことをしたに違いない。名前を変えたのなら、何かを隠しているに違いない。姿を見せないのなら、後ろ暗いことがあるに違いない……」
彼女の声が、少しずつ震え始めた。
「本当は、誰かに見つかるのが怖いだけかもしれないのに」
進一は、何も言わなかった。
おはなは、はっとしたように口を閉じた。
「申し訳ありません。変なことを言いました」
「いいえ」
進一は、静かに答えた。
「大切なことをおっしゃったと思います」
おはなは、うつむいた。
そのとき、居間の向こうから、泰六の声がした。
「進一さん。こちらへ」
進一が振り返ると、泰六は庭に面した窓のそばに立っていた。
手には、小さな紙片がある。
「何か見つかりましたか」
「ええ。こちらの窓枠に、紙片を留めた針が残っていました」
「先ほどの紙を留めたものですか」
「おそらく。ただし、妙なことがあります」
泰六は針を指先でつまんだ。
「この針は、外から打ち込まれたのではありません」
「えっ?」
「内側から打ち込まれています」
進一は、窓枠を見た。
針穴は、たしかに室内側から外へ向かって開いていた。
「では、紙を貼ったのは、外の男ではなく……」
「この家の中にいた者かもしれません」
泰六は、居間にいる人々を見回した。
その視線が、おはなのところで一瞬止まった。
おはなは、顔を上げなかった。
新吉もまた、手を握りしめたまま、何も言わなかった。
進一は、二人の様子を見て、胸の奥に冷たいものを感じた。
この家には、誰かを守ろうとしている者がいる。
そして、誰かを追い詰めようとしている者もいる。
だが、それぞれが、同じ赤い輪を見ているとは限らない。
*
深夜零時。
泰六は、田辺夫人の許しを得て、二階の奥の部屋の前に再び立った。
今度は、扉の向こうから何の音もしなかった。
進一は、手にした灯りを床に置き、扉の下を見た。
光は漏れていない。
「部屋の灯りが消えたようですね」
「そう見えます」
泰六は、扉の取っ手を見つめていた。
「進一さん。あなたは、あの部屋の人間が、我々に助けを求めていると思いますか」
「そう思いたいところですが……」
「思いたい、ですか」
「はい。あの紙片には、『あの男を信じるな』と書いてありました。誰かに追われている人が、助けを求めているようにも見えます」
「では、誰が、その男なのでしょう」
「黒い外套の男かもしれません」
「あるいは、新吉さんが横浜で会った男かもしれない」
「同一人物ではないのですか」
「まだ分かりません」
泰六は、扉の前にしゃがみ込んだ。
「この家には、少なくとも三つの意思があるように見えます。一つは、姿を隠す者。一つは、外からその者を探す者。そして、もう一つは……」
「その両方を知っている者?」
「あるいは、そのどちらにも属していない者です」
泰六は、床の傷を指でなぞった。
「今朝、盆が消えた。庭には二人分の足跡があった。窓枠には、内側から打たれた針の跡がある。そして、扉の向こうからは、複数の声が聞こえたという証言がある」
「それらが、すべて同じ事件につながっているのでしょうか」
「つながっていると考えるのが自然です。しかし、すべてが同じ人物の行動とは限らない」
泰六は立ち上がった。
「謎を解くとき、我々は、ばらばらの事実を一つの筋書きにまとめたくなります。だが、都合よくまとまりすぎる筋書きほど、危険なものはありません」
進一は、深くうなずいた。
そのとき。
扉の向こうから、かすかな音がした。
今度は、はっきりとした音だった。
何かが、床を三度叩いたのである。
とん。
とん。
とん。
二人は動かなかった。
しばらくして、また三度。
とん。
とん。
とん。
「合図でしょうか」
進一が囁いた。
泰六は、耳を澄ませた。
「規則的ですね」
彼は、扉を三度、軽く叩いた。
とん。
とん。
とん。
返事はなかった。
代わりに、扉の下から、もう一枚の紙が滑り出てきた。
進一が拾い上げた。
そこには、短い一文が書かれていた。
――明日の七時、窓を見ろ。
進一は紙片を泰六に渡した。
「先ほどの赤い紙と同じ時刻です」
「ええ」
「これは、部屋の中の人が書いたのでしょうか」
「その可能性は高いでしょう」
泰六は、紙片を灯りにかざした。
文字の線は、先ほどの紙片よりも整っていた。
同じ人間が書いたのかどうかは、まだ分からない。
ただ、最後の「ろ」の字だけが、妙に深く紙に食い込んでいた。
書き手は、急いでいたのかもしれない。
あるいは、怒りに任せて筆を押しつけたのか。
「明日の七時」
進一が繰り返した。
「そこで、何かが起きるのでしょうか」
「起きるかもしれません」
泰六は、紙片を懐にしまった。
「しかし、我々が待つべきなのは、事件そのものではありません」
「では、何を?」
「誰が、何を恐れているのかです」
泰六は、閉ざされた扉を見つめた。
「人間は、恐怖を隠そうとするとき、必ず何かを残します。足跡、傷、言葉、沈黙……。そして、ときには、誰にも気づかれないと思っていた小さな行動が、すべてを語ってしまう」
彼は進一に向き直った。
「明日の朝、七時。窓の外に何が現れるか、確かめましょう」
*
その夜、進一はほとんど眠れなかった。
与えられた客間の布団に横になっても、目を閉じるたびに、あの赤い輪が浮かんだ。
輪の内側には、何もない。
ただの円である。
しかし、円は閉じている。
どこにも入口がなく、出口もない。
その中にいる者は、外へ出られないのだろうか。
それとも、外にいる者こそが、円の内側へ入れないのだろうか。
進一は、寝返りを打った。
廊下の向こうから、時計の音が聞こえる。
かち、かち、かち。
古い時計は、時間を正確に刻んでいるはずだった。
それなのに、今夜は、時間そのものが誰かの手によって少しずつ削られていくように感じられた。
午前二時。
廊下で、足音がした。
進一は目を開けた。
足音は、ゆっくりと近づいてくる。
一歩。
また一歩。
そして、彼の部屋の前で止まった。
進一は、布団の中で息を潜めた。
扉の向こうに、誰かが立っている。
気配がある。
だが、声はしない。
数秒後、足音は再び動き始めた。
遠ざかっていく。
進一は、そっと起き上がった。
扉を開けるべきか。
迷っているうちに、足音は階段の方へ消えてしまった。
進一は、扉に近づき、そっと開けた。
廊下には誰もいない。
行灯の灯りが、壁に揺れている。
ただ、足元に、小さなものが落ちていた。
黒い糸だった。
進一は拾い上げた。
細く、短い。
先ほど庭で泰六が拾った繊維と、よく似ていた。
進一はそれを懐にしまい、廊下を見回した。
奥の部屋の扉は、閉じたままだった。
だが、扉の下に、何か白いものが見えた。
紙だ。
進一は近づき、膝をついた。
紙片は、扉の内側から差し出されている。
彼は、そっと引き抜いた。
そこには、今までのものとは違う文字が書かれていた。
――彼女を、信じてくれ。
進一は、息を呑んだ。
彼女。
それは、田辺夫人のことなのか。
おはなのことなのか。
あるいは、扉の向こうに隠れている、誰か別の女なのか。
進一は、紙片を握りしめた。
その瞬間、部屋の中から、かすかな声が聞こえた。
今度は、日本語だった。
「……助けて」
進一は扉に手をついた。
「誰です。あなたは、誰なのです」
返事はなかった。
ただ、扉の向こうで、誰かが泣いているような音がした。
進一は、扉を開けたくなった。
今すぐ鍵を壊し、隠れている者を外へ出してやりたかった。
しかし、その手を止めたのは、泰六の言葉だった。
――扉を開ければ、相手が扉を開けなかった理由を失ってしまう。
進一は、拳を握りしめた。
「分かりました」
彼は、扉の向こうに向かって言った。
「今は、無理に開けません。しかし、あなたの声は聞きました。明日の朝まで、どうか、持ちこたえてください」
部屋の中から、返事はなかった。
進一は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、彼はゆっくりと自室へ戻った。
夜明けまで、あと五時間。
七時まで、あと五時間。
その五時間のあいだに、誰かが逃げるかもしれない。
誰かが捕まるかもしれない。
そして、誰かが、二度と声を上げられなくなるかもしれない。
進一は、もう一度、布団に横になった。
今度は、目を閉じても眠れなかった。
*
翌朝、午前六時四十分。
泰六は、すでに庭に立っていた。
手には、小さな望遠鏡を持っている。
進一が降りてくると、泰六は振り向いた。
「眠れましたか」
「いいえ。あなたは?」
「必要な分だけ」
「それは、眠れなかったという意味ですね」
「そう解釈しても構いません」
泰六は、庭の窓を見上げた。
二階の奥の部屋の窓は、閉じたままだった。
カーテンも、障子も、動かない。
「あと二十分です」
進一は、昨夜の紙片を取り出した。
「泰六さん。昨夜、部屋の中から声が聞こえました」
「何と?」
「助けて、と」
泰六は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、扉を開けなかったのですね」
「はい」
「よく我慢しました」
進一は、苦笑した。
「褒められるようなことではありません。正直、開けたくて仕方がなかった」
「その気持ちは、間違っていません」
泰六は、静かに言った。
「ただし、助けたいという気持ちだけで扉を開ければ、その人を危険にさらすこともある」
進一はうなずいた。
その言葉は、冷たい規則ではなかった。
誰かを助けるために、何をしてはいけないのか。
それを考えることもまた、人を守ることなのだ。
午前六時五十九分。
庭の外で、鳥が鳴いた。
遠くから、荷車の音が聞こえる。
町が、少しずつ目を覚ましていく。
そして、七時。
何も起こらなかった。
窓は閉じたまま。
誰も現れない。
泰六は望遠鏡を下ろした。
「……妙ですね」
「約束の時刻を間違えたのでしょうか」
「あるいは、約束をした者が、ここにいない」
泰六は、庭の塀を見た。
そのとき、二階の窓の障子が、ほんのわずかに動いた。
白い指が、隙間から現れた。
指先には、赤い糸が巻かれていた。
それは、窓枠の外へ、ゆっくりと垂らされた。
赤い糸の先には、小さな紙片が結ばれている。
紙片は、風に揺れながら、窓の外へ降りてきた。
泰六は、すぐには動かなかった。
進一も、息を止めて見つめていた。
やがて、糸がぴんと張った。
紙片は、窓の下で止まった。
泰六は、庭を横切り、窓の真下へ向かった。
紙片を取ろうとした、その瞬間。
向かいの屋根の上に、人影が現れた。
黒い外套。
深くかぶった帽子。
男は、こちらを見ていた。
そして、右手を上げた。
手には、赤い紙が一枚、握られていた。
男は、紙をゆっくりと二つに折った。
次の瞬間、屋根の向こうへ姿を消した。
「泰六さん!」
進一が叫んだ。
泰六は、紙片を手にしたまま、男が消えた屋根を見上げていた。
彼の顔から、いつもの余裕が消えていた。
「進一さん」
泰六は、低い声で言った。
「我々は、間違えていたのかもしれません」
「何をです?」
泰六は、手の中の紙片を開いた。
そこには、たった一行だけ、文字が書かれていた。
――七時に来るのは、私ではない。
進一は、紙片を見つめた。
では、誰が来るはずだったのか。
誰が、来なかったのか。
そして、今、屋根の上に現れた男は、何を伝えようとしたのか。
泰六は、二階の窓を見上げた。
そこには、もう、白い指も赤い糸もなかった。
ただ、閉じた障子の向こうに、誰かが立っているような気配だけが残っていた。
「進一さん」
泰六は、静かに言った。
「今夜まで待つつもりでしたが、その必要はなくなりました」
「どうするのです」
「部屋の中の人間に、直接、話を聞きます」
泰六は、玄関へ向かって歩き出した。
「田辺夫人に、鍵を持ってきてもらってください」
進一は、その背中を追いながら、胸の中に一つの疑問を抱いていた。
扉の向こうにいる者は、本当に助けを求めているのだろうか。
それとも、誰かを守るために、我々をここへ引き留めているのだろうか。
そして、赤い輪の内側にいるのは、誰なのか。
逃げる者か。
追う者か。
あるいは、その両方から逃げようとしている、もう一人の人間なのか。
泰六が階段を上がっていく。
進一は、その後ろ姿を見つめた。
扉の向こうから、また、かすかな音がした。
とん。
とん。
とん。
今度は、助けを求める合図ではないように思えた。
何かを、止めようとしている音だった。
まるで、扉の向こうの人間が、こちらに向かって叫んでいるかのように。
――開けてはいけない。
進一は、階段の途中で足を止めた。
泰六は、まだ気づいていない。
彼は、扉の前へ向かっている。
その先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。
ただ一つ確かなことがあった。
この下宿屋では、誰もが何かを隠している。
そして、その秘密は、もう、扉一枚では守りきれなくなっていた。




