小室泰六(SHERLOCK) - 下宿屋主人の困り事 【前編】 改訂版
【本作あらすじ】
下宿屋主人の困り事
明治の東京、神田。
下宿屋を営む田辺夫人のもとに、奇妙な相談事が持ち込まれたわけではない。困り事を抱えていたのは、彼女自身だった。
半月ほど前から、二階の一室に泊まっている謎の客。顔を見せず、部屋から出ることもなく、食事は扉の隙間から受け取る。名前も素性もわからないまま、前金だけはきちんと支払われていた。
ところが、ある朝、食事の盆が戻らなくなった。
部屋の前に残された新聞の切り抜きには、赤い輪。そして、その裏には「窓を開けるな」という不穏な言葉が記されていた。
小室泰六は、奇妙な足跡と窓越しの合図に目を留める。一方、和田進一は、怯える下宿屋主人の言葉の奥に、まだ語られていない事情があることを感じ取っていた。
扉の向こうには、いったい誰がいるのか。
赤い輪は、何を意味するのか。
神田の片隅に潜む秘密は、やがて二人の探偵を、姿の見えない脅威へと導いていく。
明治の神田で始まった、奇妙な下宿屋の事件。
その輪の内側にいるのは、誰なのか――。
【登場人物紹介】
◾️小室泰六
鋭い観察眼と冷静な論理を持つ探偵。
何気ない言葉や、誰も気に留めない小さな痕跡から、事件の構造を読み解こうとする。今回も、姿を見せない宿泊客の謎に挑む。
◾️和田進一
泰六とともに事件を追う相棒。
論理だけでは捉えきれない人間の感情や、証言の裏に隠された事情に目を向ける。怯える田辺夫人の言葉を受け止めながら、扉の向こうにいる人物の真実を探る。
◾️田辺夫人
神田で下宿屋を営む女主人。
身元のわからない客を半月ほど泊めているが、顔を見たことは一度もない。客を信じたい気持ちと、得体の知れない恐怖との間で揺れている。
◾️謎の宿泊客
二階の一室に閉じこもり、姿を見せない人物。
食事は受け取るものの、誰とも顔を合わせようとしない。部屋の中で何が起きているのか、そして何から身を隠しているのかは、まだ誰にもわからない。
◾️黒い外套の男
下宿の窓の外に現れた謎の男。
赤い紙片を手に、こちらの動きを確かめるように姿を見せた。宿泊客と、どのような関係にあるのだろうか。
【前編】 扉の向こうの客
神田の町では、秘密というものは、たいてい表通りを歩いていない。
表通りを歩くのは、商売人と学生と、急ぎの用事を抱えた役人である。秘密は、その脇を抜ける細い路地へ入り、洗濯物の垂れ下がった軒下をくぐり、昼なお薄暗い長屋の奥へと身を潜める。
そして、ひとたび下宿屋の一室に入り込んだ秘密は、家主にとって、家賃よりも厄介なものになる。
その日の午後、私は小室泰六とともに、神田の古書店を訪ねるつもりであった。
泰六は朝から、英国の雑誌に載っていた犯罪記事について、私にひとしきり講釈をしていた。外国の事件であろうと、神田の路地で起きた揉め事であろうと、人間が何かを隠そうとするときに見せる癖は、そう変わらないというのである。
「人間は、隠し事をするとき、口を閉じるとは限らない」
泰六は、歩きながら言った。
「むしろ、余計なことを喋る。相手が尋ねてもいないことまで説明し、誰も疑っていない事柄について、必要以上に潔白を主張する。そういう人間は、己の言葉で自分を守ろうとしているのだ」
「しかし、口数の少ない人間が、必ずしも隠し事をしているわけではないだろう」
「もちろんだ。無口な人間は、ただ無口なだけかもしれん。だからこそ、言葉だけを見てはいけない」
泰六は、通りの向こうに目を向けた。
「言葉と行動が、どこで食い違うか。それを見るのだ」
私は、なるほどとうなずいた。
もっとも、そのときの私は、まさか数分後に、言葉どころか姿さえ見せない人物の話を聞かされることになるとは思っていなかった。
*
古書店へ向かう角を曲がったところで、ひとりの女が私たちの前に立ちはだかった。
年の頃は五十を少し越えたあたりであろうか。着物は質素だが、襟元はきちんと整えられている。手には小さな風呂敷包みを抱え、何度も私たちの顔を見比べていた。
「あのう……小室先生でいらっしゃいますか」
女は、泰六に向かって尋ねた。
「そうだが」
「突然、申し訳ございません。私、近くで下宿屋をしております、田辺と申します。知り合いから、小室先生は、少々変わった困り事でも相談に乗ってくださると聞きまして……」
「少々変わった困り事、か」
泰六は、女の風呂敷包みに目を落とした。
「警察へ届けるほどではない。けれど、放っておくには気味が悪い。そんなところかな」
田辺という女は、目を丸くした。
「まあ……どうして、おわかりになるのです」
「あなたは、私に助けを求めている。しかし、警察へ行くべきかどうか、まだ決めかねている。風呂敷を両手で抱え、何度も結び目を確かめている。落ち着かないのだろう。それに、先ほどから、通りの向こうを気にしている」
女は、はっとしたように振り返った。
通りには、荷車を引く男と、豆腐を売る声があるだけだった。
「……見られているような気がするのです」
女は、小さな声で言った。
「誰に?」
「それが、わからないのです」
泰六は、私を一瞥した。
私は、その目を見て、古書店行きがしばらく延期になることを悟った。
「詳しく話してください」
私が言うと、田辺はようやく、胸に抱えていた風呂敷包みを少し緩めた。
「実は、うちの下宿に、妙なお客が泊まっておりまして……」
*
田辺の下宿屋は、神田の表通りから二筋ほど奥へ入った場所にあった。
表には「田辺下宿」と墨書きした木札が掛かっている。建物は古いが、手入れは行き届いていた。玄関の上がり框は磨かれ、傘立てには傘がきちんと揃えられている。庭と呼ぶには狭い空地には、鉢植えの南天が一つ置かれていた。
女主人は、私たちを奥の小座敷へ案内した。
茶を出し、障子を閉め、それからしばらく、何をどこから話すべきか迷っていた。
「そのお客が来たのは、いつです」
泰六が尋ねた。
「半月ほど前でございます。正確には、十月の初めでした」
「紹介状は?」
「ございません」
「身元を示す書付は?」
「ございません」
「名前は?」
田辺は、唇を結んだ。
「……それも、はっきりとは」
私は思わず身を乗り出した。
「名前もわからない人を、泊めているのですか」
「はい。もちろん、最初はお断りするつもりでした。けれど、その方は前金をきちんと払われましたし、身なりも粗末ではありませんでした。言葉遣いも丁寧で、こちらを脅かすようなところはなかったのです」
「男ですか、女ですか」
泰六の問いに、田辺はすぐには答えなかった。
「……男の方だと思います」
「思う?」
「最初にお会いしたときは、男の方だと思いました。背丈も、それくらいでしたし、声も……ただ、よくわからないのです」
泰六は、茶碗に手を伸ばさなかった。
「顔を見たのですか」
「いいえ」
「一度も?」
「一度も、でございます」
私は、田辺が冗談を言っているのではないかと思った。
顔を見たこともない人間を、半月も下宿に置いている。しかも、男か女かさえ確かでないという。
「では、どうやって部屋を貸したのです」
「玄関で、声を掛けられたのです。宿を探している、と。私はそのとき、台所におりました。玄関へ出ますと、廊下の向こうに人影が見えました。顔は、帽子の陰になっていたのか、よく覚えておりません」
「部屋は?」
「二階の突き当たりです。六畳の部屋で、窓は裏庭に面しております」
「荷物は?」
「小さな鞄が一つ。それだけです」
泰六は、ようやく茶を一口飲んだ。
「その人物は、半月ものあいだ、部屋から出てこないのですか」
「はい」
「食事は?」
「お運びしております」
「誰が?」
「私が」
「毎食?」
「毎食でございます」
「部屋へ入って?」
「いいえ」
田辺は、膝の上で両手を握り合わせた。
「扉の外へ置いておきますと、しばらくして、食器だけが戻されるのです」
部屋の中へは、一度も入っていない。
顔も見ていない。
それでも食事は出ていき、食器は戻ってくる。
私は、ようやくこの相談が、単なる風変わりな客の話ではないと理解し始めた。
「なぜ、そんな状態を半月も続けているのです」
泰六が尋ねた。
田辺は、うつむいた。
「最初は、病気なのだと思いました。人に顔を見られたくない病気もあるでしょう。あるいは、何か事情があって、ひとりになりたいのかもしれない。私は、そう考えようとしました」
「それで?」
「三日目の夜、部屋の中から、妙な音がしたのです」
「どんな音です」
「何かを引きずるような音でした。それから、窓を開ける音。しばらくして、また窓を閉める音がしました」
「窓は裏庭に面しているのでしょう」
「はい」
「外から入ることはできる?」
「雨樋はありますが、人が登るのは難しいと思います。裏庭には塀もございます」
「その夜、誰かが裏庭にいたのですか」
「わかりません。ただ、翌朝、庭の土に、見慣れない跡が残っておりました」
「足跡ですか」
「はい。大きな足跡が一つ。それから、すぐ横に、小さな足跡が二つ」
泰六の目が、わずかに細くなった。
「三人分?」
「そう思いました。けれど、妙なのです」
「何が?」
「小さな足跡は、塀のほうから部屋の窓の下まで続いておりました。ところが、大きな足跡は、窓の下から始まっていたのです。まるで、そこから突然、人が現れたように」
私は、背中に冷たいものを感じた。
「それは……」
「幽霊ではありません」
泰六が、淡々と言った。
「足跡が不自然だからといって、幽霊を持ち出す必要はない。土の状態、足跡の深さ、歩いた順序。それを確かめればよいのです」
「しかし、小室先生……」
「まだ、何もわかっていない。わかっていないことを、恐ろしいもののせいにするのは簡単だ」
泰六は、茶碗を置いた。
「田辺さん。ほかにも、何かありましたね」
女主人は、ぎくりとした。
「どうして……」
「あなたは、足跡の話をするときより、食事の話をするときのほうが、ずっと怯えている。足跡は、あなたが見たものだ。しかし、食事については、見ていないものがあるのではありませんか」
田辺は、しばらく黙っていた。
やがて、風呂敷包みを解き、中から一枚の紙を取り出した。
「これを、見ていただきたいのです」
それは、新聞の切り抜きだった。
外国の新聞から転載された記事らしく、活字は細かく、紙の端が黄ばんでいる。記事の上には、赤い鉛筆で、円が一つ描かれていた。
円の内側には、何も書かれていない。
ただ、赤い輪だけが、紙の上に残っていた。
「これは、いつ、どこで手に入れたものですか」
泰六の声が、少し低くなった。
「昨日の朝です。部屋の前に、落ちておりました。私は、食事を運んだときには見ておりません。戻ってきたとき、廊下の真ん中に落ちていたのです」
「宿泊客が落とした?」
「そう思いました。でも、拾い上げようとしたとき、裏に文字があることに気づいたのです」
泰六は、紙を裏返した。
そこには、鉛筆で短い言葉が書かれていた。
――窓を開けるな。
私は、思わず田辺を見た。
「その方に、危険が迫っているということでしょうか」
「わかりません」
田辺は、かすれた声で答えた。
「ただ、昨夜から、部屋の中で音がしなくなったのです」
泰六は、紙を窓の光にかざした。
「田辺さん。最後に食事を運んだのは、いつですか」
「昨日の夕方です」
「食器は戻ってきた?」
「はい。いつもどおり、扉の前に置かれておりました」
「中身は?」
「空でした」
「今朝は?」
「朝食を持っていきました。でも、食器が戻ってきませんでした」
泰六は、立ち上がった。
「では、今すぐ、その部屋を見せていただきましょう」
*
二階へ続く階段は、狭く、急だった。
私たちが上がるたび、古い板が低く軋んだ。廊下の壁には、学生らしい青年たちの書き付けが貼られている。試験の日付、講義の覚え書き、故郷から届いた手紙の封筒。下宿屋の暮らしが、そこにはあった。
突き当たりの部屋の前で、田辺は足を止めた。
扉は、閉まっていた。
その下には、朝食の盆が置かれている。蓋をした椀と、冷えた飯。箸は揃えられたまま、手つかずだった。
「朝食を運んだのは、何時です」
「七時でございます」
「今は?」
「昼を少し過ぎたところです」
「五時間以上、盆がそのままか」
泰六は、しゃがみ込んだ。
扉の下には、わずかな隙間がある。畳の縁が、その隙間に沿って黒ずんでいた。
「この盆は、いつも同じ場所に置くのですか」
「はい」
「誰かが、盆を動かしたことは?」
「ございません」
泰六は、盆を少し持ち上げた。
その下の板には、浅い擦り傷が何本も走っていた。新しいものもあれば、古いものもある。
「食器を引き込むときに、擦れた跡でしょうか」
私が尋ねると、泰六は首を横に振った。
「盆を引き込むなら、傷は扉に対して平行につくはずだ。しかし、これは斜めだ。しかも、同じ場所に集中している」
「では、何の跡です?」
「まだわからん」
泰六は、扉の取っ手に触れた。
「鍵は?」
「内側から掛けられる錠がございます。外からは開けられません」
「合鍵は?」
「ありません。古い錠で、鍵は宿泊客に渡しました」
「では、鍵が内側にあるかどうかも、わからないわけですね」
「はい」
泰六は、扉に耳を近づけた。
私たちも息を潜めた。
何も聞こえない。
人の呼吸も、衣擦れも、畳を踏む音もない。
ただ、建物の奥から、台所の鍋が小さく鳴る音が聞こえた。
「田辺さん」
泰六は、扉から離れた。
「この部屋の窓は、外から見えますか」
「裏庭からなら、見えます」
「裏庭へ回りましょう」
*
裏庭は、思ったより狭かった。
井戸の脇に桶が置かれ、塀の近くには薪が積まれている。二階の窓は、庭の奥に面していた。窓の格子は古く、塗装がところどころ剥がれている。
泰六は、まず塀を調べた。
上端には、古い瓦が並べられている。乗り越えようとすれば、どこかに手を掛けなければならない。だが、瓦には新しい欠けも、土の付着も見られなかった。
次に、雨樋を見た。
雨樋の根元には、錆びた針金が巻かれていた。古い補修の跡らしい。人が登るには、心許ない。
「この庭に、夜中に誰かが入ってきたとしたら、どこからでしょうね」
私が言うと、泰六は地面を見つめたまま答えた。
「入ってきたと決めつけるのは早い。出ていった者がいるのかもしれん」
「出ていった?」
「あるいは、最初から庭にいた者が、別の場所へ移っただけかもしれない」
私は、彼の言葉を考えた。
庭には、確かに奇妙な足跡が残っていた。
大きな足跡は、窓の下で途切れている。小さな足跡は、塀のほうへ向かっている。だが、雨が降ったせいか、輪郭は曖昧だった。
泰六は、しゃがみ込んで土を指で触った。
「この足跡は、昨日の夜についたものではないな」
「どうしてわかるのです」
「土の乾き方が違う。大きな足跡の底には、細かな砂が浮いている。小さな足跡には、それがない。雨が降る前と後、あるいは踏まれた時刻が違うのだろう」
田辺が、口元を押さえた。
「では、あの方は、部屋から出ていったのでしょうか」
「まだ何とも言えません」
泰六は、窓を見上げた。
窓は閉まっていた。
しかし、その内側のガラスに、何かが貼りついているように見えた。
「進一、あれを見ろ」
私は目を凝らした。
窓の下端、格子の影に隠れるように、小さな紙片が挟まっていた。
泰六は、田辺に断ってから、細い棒を使ってそれを取り出した。
紙片には、赤い線が一本引かれていた。
その線は、途中で途切れ、再び始まっている。
文字はなかった。
ただ、赤い線だけが、窓の内側から外へ向かって引かれていた。
「これは、誰かへの合図でしょうか」
私が尋ねると、泰六はすぐには答えなかった。
彼は紙片を裏返し、表に戻し、もう一度、窓の位置を確かめた。
「合図かもしれん。だが、誰が誰に送ったものか、それが問題だ」
そのときだった。
二階の窓の向こうで、何かが動いた。
ほんの一瞬、白いものが、ガラスの奥を横切ったのである。
田辺が、息を呑んだ。
「い、今……!」
私は窓を見つめた。
何もいない。
泰六は、庭の中央へ一歩出た。
「田辺さん。部屋の中に、誰かがいる」
「でも、音が……」
「音がしないことと、人がいないことは同じではありません」
泰六は、窓から目を離さなかった。
「そして、誰かがいるなら、なぜ食事を取らなくなったのか。それを確かめなければならない」
*
私たちは、再び二階へ戻った。
今度は、泰六が扉の前に立ち、私がその後ろに控えた。
「中にいる方。聞こえているなら、返事をしてください」
泰六の声が、廊下に響いた。
返事はなかった。
「私は小室泰六という。あなたを責めるために来たのではない。話を聞きたいだけだ」
沈黙。
「扉を開けられない事情があるのなら、それを言ってほしい」
やはり、何も聞こえなかった。
泰六は、田辺を振り返った。
「最後に、この部屋から声がしたのはいつです」
「三日前でございます。夜中に、誰かが低い声で何かを言っておりました。言葉は聞き取れませんでしたが、確かに声でした」
「一人の声ですか」
「……二人のように聞こえました」
私たちは顔を見合わせた。
「二人?」
「はい。ひとりが何かを尋ね、もうひとりが答えているような……。でも、声はとても小さくて」
泰六は、しばらく扉を見つめていた。
「田辺さん。あなたは、この宿泊客が一人だと思っていたのですね」
「はい」
「しかし、部屋の中に二人いた可能性がある」
「そんな……」
「あるいは、声を出していたのが別の場所の人間だった可能性もある。今の段階では、どちらも捨てられません」
私は、扉の下の隙間を見た。
朝食の盆は、まだ手つかずのままだった。
冷えた飯の表面が、乾き始めている。
そのとき、扉の向こうから、かすかな音がした。
――こつ。
小さく、硬いものが床に触れた音だった。
田辺が、私の袖を掴んだ。
もう一度。
――こつ、こつ。
今度は、扉のすぐ内側から聞こえた。
泰六は、身じろぎひとつしなかった。
「中にいる方」
彼は、静かに言った。
「あなたが無事であるなら、扉の下へ何かを出してください。紙でも、布でも構わない」
しばらく、何も起こらなかった。
やがて、扉の下の隙間に、白い紙の端が現れた。
紙は、ゆっくりと外へ押し出されてきた。
田辺が小さく悲鳴を上げた。
紙には、震える文字で、こう書かれていた。
――窓の外を見ろ。
私たちは、一斉に窓のほうを振り返った。
廊下の端にある窓からは、裏庭の一部が見える。
塀の向こうに、細い路地が伸びていた。
その路地の入口に、黒い外套を着た男が立っていた。
男は、こちらを見上げていた。
顔は、影に隠れている。
だが、その右手には、赤い紙片が握られていた。
男は、私たちが気づいたことを確かめるように、ゆっくりと手を上げた。
赤い紙片が、風に揺れた。
次の瞬間、男は路地の奥へ身を翻し、姿を消した。
*
私は、階段を駆け下りようとした。
「進一、待て!」
泰六の声が、私を止めた。
「追いかけないのか」
「今、追えば、相手の思うつぼかもしれん」
「しかし、あの男は……」
「こちらが窓を見ることを、最初から知っていたように見えた。あれは、見せるために現れた可能性がある」
泰六は、赤い紙片を手の中で広げた。
「見せるために?」
「我々が、何を恐れ、何を追いかけるか。それを試しているのかもしれない」
彼は、紙片を光にかざした。
そこには、円の一部が描かれていた。
完全な輪ではない。
ほんの一か所、切れ目がある。
「赤い輪……」
私が呟くと、泰六はうなずいた。
「輪には、内側と外側がある。そして、切れ目があるなら、そこから出入りすることもできる」
「それは、どういう意味です?」
「まだわからん」
泰六は、珍しく言葉を切った。
「だが、この事件は、ただの奇妙な宿泊客の話ではなくなった」
彼は、階段の上を見た。
扉の向こうには、姿を見せない人間がいる。
窓の外には、こちらを試すような男がいた。
そして、新聞の切り抜きには、赤い輪が描かれている。
私は、その三つを頭の中で結びつけようとした。
けれど、まだ何も見えなかった。
そのとき、二階から、田辺の声がした。
「小室先生! 和田さん!」
私たちは、階段を駆け上がった。
田辺は、宿泊客の部屋の前に立ち尽くしていた。
先ほどまで、扉の下に置かれていた朝食の盆が、消えていたのである。
扉は、閉じたままだった。
錠も、動いた様子はない。
ただ、盆があった場所には、濡れたような丸い跡が残っていた。
その中央に、赤い紙片が一枚、置かれていた。
紙片には、たった一言だけ書かれていた。
――まだ、ひとりではない。
私は、息を止めた。
泰六は紙片を拾い上げ、しばらく見つめていた。
それから、低い声で言った。
「進一。今夜、この下宿を離れるわけにはいかなくなったな」
私は、うなずいた。
扉の向こうの客は、何者なのか。
赤い輪は、誰を囲んでいるのか。
そして、ひとりではない、とは――。
神田の夕暮れが、ゆっくりと下宿屋の窓を暗くしていった。




