小室泰六(SHERLOCK) - 甲斐の國から来た、蕎麦屋【後編】 改訂版
【後編】 甲府の密事
その夜、神田の蕎麦屋台には、客がひとりもいなかった。
表通りを行く人影も、いつもより少ない。
風が吹くたび、屋台の軒に吊るした提灯が揺れ、明かりが店主の顔を半分ずつ照らした。
小室泰六は、冷めかけた蕎麦を箸で持ち上げたまま、店主を見ていた。
和田進一は、すでに箸を置いている。
先ほどから、店主が何度も、屋台の後ろを振り返るからだった。
「ご主人」
泰六が言った。
「甲府の屋敷で、あなたが最後に見たものを、もう一度聞かせていただきたい」
店主は、返事をしなかった。
湯気の消えかけた蕎麦の丼を見つめ、両手を膝の上で組んでいる。
「白い女だったのですか。それとも、白い着物を着た人間だったのですか」
「……わかりません」
「顔は見ましたか」
「見たような気がします」
「目は?」
「目……」
店主の喉が、小さく動いた。
「目だけは、見えなかったように思います」
進一は、店主の横顔を見た。
「それなのに、女だと思ったのですか」
「髪が、長かったんです。白いものの肩から、黒い髪が垂れていて……」
店主は、そこで言葉を切った。
「いや。違う。髪だったかどうかも、今となっては、よくわからんのです」
泰六は箸を置いた。
「人間は、暗闇の中で見たものを、あとから記憶の中で作り直すことがあります。白い布を見て、白い着物を思い浮かべる。黒い影を見て、長い髪を思い浮かべる。恐怖が強ければ強いほど、見たものと、見たと思ったものの境目は曖昧になる」
「では、あれは、ただの見間違いだったと?」
「まだ、そうとは言っていません」
泰六は、店主をまっすぐに見た。
「ただし、あなたが何を見たのかを知るには、あなたが何を恐れていたのかも、知らねばならない」
その言葉を聞いた瞬間、店主の顔から血の気が引いた。
進一は、その変化を見逃さなかった。
店主が恐れているのは、白い影だけではない。
もっと別のものが、ある。
それは、甲府の古い屋敷に置いてきた、誰かの声だった。
*
翌日、泰六と進一は、ふたたび長谷川を訪ねた。
長谷川は、かつて甲府の旧家で使い走りをしていた男である。
屋敷を離れてから年月がたち、今は小さな貸家で、ひとり静かに暮らしていた。
戸を開けた長谷川は、ふたりを見るなり、驚いたように眉を上げた。
「また、あの屋敷の話ですか」
「ええ」
泰六は、遠慮なく答えた。
「あなたは、あの娘が衰弱していた頃、屋敷に出入りしていた。娘の部屋の戸締まりについても、知っているそうですね」
「知っていると言っても、何年も前の話です」
「それで結構です」
長谷川は、ふたりを家の中へ通した。
薄暗い部屋には、古い帳面と、欠けた茶碗が置かれていた。壁際には、使い古した竹の物差しが立てかけられている。
泰六は、その物差しに目を留めたが、何も言わなかった。
「先日、あなたはこう言いましたね。娘の部屋の戸に横木がかかっていたとしても、それだけで、誰も近づけなかった証拠にはならない、と」
「ええ」
「その意味を、詳しく聞きたい」
長谷川は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あの屋敷では、戸に横木を渡しておけば、部屋は閉ざされたものと考えられていました。外からは開けられない。だから、横木がかかっていれば、誰も入れなかったはずだ、と」
「しかし、あなたは、そうではないと言う」
「私は、戸が閉まっているところを見ただけです。誰も入れなかったところを、見たわけではありません」
泰六の目が細くなった。
「つまり、戸が閉まっていた時間を、誰も確かめていなかった」
「そういうことです」
進一は、身を乗り出した。
「娘さんが襲われたとされる夜、誰かがずっと部屋の前にいたわけではないのですね」
「ええ。家の者は、夜になるとそれぞれの部屋へ引き上げました。娘の部屋の前に人を置くことは、病人を見張るようで気の毒だと、奥さまがおっしゃったのです」
「それでは、戸が閉まっていたという証言は、夜の間ずっと閉まっていたことを意味しない」
泰六が言った。
「朝になって、閉まっているのを見た。それだけの可能性がある」
長谷川は、うなずいた。
「そうです」
「では、もうひとつ。犬は、何に向かって吠えていたのですか」
長谷川は、今度こそ、顔をこわばらせた。
「……それは、私にもわかりません」
「本当に?」
「犬が吠えていたのは、庭の奥でした。娘の部屋の窓とは、反対側です。私は、白いものが庭を横切るのを見たことがあります」
「白いもの?」
「人の背丈ほどありました。しかし、歩いていたのか、風に吹かれていたのか、わからない。塀の向こうへ消えたと思ったら、次の瞬間には、もうどこにもいないのです」
進一の背中に、冷たいものが走った。
「それは、いつのことですか」
「娘さんが、初めて首の傷を見つけたという夜です」
長谷川は、そこで声を落とした。
「私は、あの夜、犬が吠えるのを聞いて庭へ出ました。すると、犬は、井戸の前で立ち止まっていた。毛を逆立てて、井戸の底をのぞき込むようにしていたんです」
「井戸の底を?」
「ええ。私は、犬を引き戻しました。すると、井戸の中から……」
長谷川は、口を閉じた。
泰六は、急かさなかった。
「水の音がしたんです」
長谷川は、ようやく続けた。
「誰も水を汲んでいないのに、井戸の底から、ぽちゃん、と」
部屋の中が、しんと静まり返った。
外を通る人力車の音が、遠くで聞こえた。
「井戸の中に、何かあったのですか」
進一が尋ねた。
「翌朝、覗いてみました。水はありました。何もありませんでした。ただ……」
「ただ?」
「井戸の縁に、白い糸が一本、引っかかっていたんです」
長谷川は、指先で自分の袖をつまんだ。
「細くて、長い糸でした。まるで、誰かの着物が引っかかったように」
泰六は、すぐには答えなかった。
それから、静かに言った。
「その糸は、残っていませんか」
「捨てました」
「なぜです」
「気味が悪かったからです」
長谷川は、苦笑した。
「今思えば、捨てなければよかった」
泰六は立ち上がった。
「いいえ。糸が残っていたとしても、真相そのものが残っていたとは限りません」
そう言いながら、彼は戸口へ向かった。
進一は、その背中を追った。
家を出る直前、長谷川が呼び止めた。
「探偵さん」
泰六が振り返る。
「あの娘さんは、最後まで、吸血鬼がいるとは言いませんでした」
「そうですか」
「ただ、一度だけ、私にこう言ったんです」
長谷川は、唇を噛んだ。
「『夜になると、あの人が、私の名前を呼ぶんです』と」
進一の足が止まった。
「誰の名前を、ですか」
「娘さん自身の名前です。しかも、戸の外からではなく、部屋の中から聞こえるのだと」
長谷川は、両手を膝の上に置いた。
「私には、それが、いちばん怖かった」
*
その晩、神田の蕎麦屋台に、あの店主は現れなかった。
泰六は、屋台の主人に頼んで、甲府の屋敷について聞いたことを、もう一度、ひとつずつ並べてみた。
「娘の衰弱。首筋の二つの傷。閉ざされた部屋。犬の吠え声。白い影。そして、娘自身の名前を呼ぶ声」
進一が言った。
「それぞれを別の出来事と考えるのですか」
「そうだ。すべてを一つの怪異の仕業と考えるから、吸血鬼という結論に飛びつく」
「でも、娘さんが弱っていたのは事実です。首に傷があったのも」
「そのとおり。事実は、噂によって消えるものではない」
泰六は、指を折った。
「しかし、事実がいくつも並んだからといって、それらが同じ原因から生じたとは限らない」
彼は、ひとつめの指を立てた。
「娘の衰弱。これは、実際に起きていたことだ。食事を十分に取れず、夜も眠れず、強い恐怖にさらされていた。衰弱する理由は、吸血鬼でなくとも存在する」
ふたつめ。
「首の二つの傷。これも、吸血鬼の証拠ではない。小さな傷は、人間の手でも作れる。問題は、誰が、何のために、それを作ったかだ」
みっつめ。
「戸の横木。夜の間ずっと、誰かが見張っていたわけではない。朝になって戸が閉まっていたというだけで、夜の間に誰も入らなかったと断定することはできない」
よっつめ。
「犬と白い影。犬は、何かの気配に反応した。だが、それが幽霊だったのか、人間だったのか、あるいは、犬にしかわからない何かだったのか。それは、まだ決まっていない」
進一は、黙って聞いていた。
「では、名前を呼ぶ声は?」
「それが、最も重要だ」
泰六は、目を伏せた。
「娘は、部屋の中で、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。長谷川は、そう証言した。ならば、声を聞いたとき、娘はひとりだったのか。そこを確かめなければならない」
「でも、部屋は閉ざされていた」
「閉ざされていたのは、いつだ?」
泰六は、進一を見た。
「そこを、混同してはいけない」
進一は、ようやく理解しかけていた。
屋敷の人々は、夜の間に何が起きたのかを見ていない。
見ていないのに、朝になって戸が閉まっていたことを理由に、誰も入れなかったのだと考えた。
そして、娘の傷を見て、吸血鬼が来たのだと考えた。
その方が、楽だったのかもしれない。
人間の誰かが、娘を苦しめていると認めるよりも。
*
翌日、蕎麦屋の主人が、屋台へ戻ってきた。
顔色は悪く、目の下には濃い隈ができていた。
「探偵さん」
彼は、泰六と進一を見るなり、深く頭を下げた。
「私は、嘘をついていたのかもしれません」
「嘘をついたと、ご自分でお思いですか」
泰六が尋ねた。
「見たことを、全部話していなかった。いえ、話せなかったんです」
店主は、屋台の柱に手を置いた。
「娘さんの首に傷があった日、私は、あの屋敷へ食べ物を届けました。娘さんは、布団の中で震えていた。私が声をかけると、娘さんは、私の袖をつかんだんです」
「何か、言いましたか」
進一が尋ねた。
「『帰らないで』と」
店主の声が、かすれた。
「そのとき、若い男が部屋へ入ってきました。娘さんの親類だと聞いていた男です。男は、私に出ていけと言いました」
「あなたは、出ていった」
「ええ」
店主は、目を閉じた。
「娘さんは、私を見ていた。助けてくれ、と言っているように見えました。けれど私は、ただの蕎麦屋です。旧家の事情に口を出せる立場ではないと思った」
「それで、何も言わずに帰ったのですか」
「そうです」
進一は、責める言葉を探さなかった。
店主がその場で何を恐れたのか、想像できたからである。
身分の違い。家の力。自分が口を出したところで、娘を救えるのかという迷い。
そして、何もできなかった自分を、あとから正当化したい気持ち。
「その夜、あなたは白い影を見たのですね」
泰六が言った。
「はい」
「それは、屋敷の庭でしたか」
「庭の向こう、井戸のそばです。白いものが、こちらを向いて立っていました。顔は見えませんでした。ただ、私が近づくと、すっと消えた」
「そのとき、犬は吠えていましたか」
「いいえ」
店主は、はっとしたように顔を上げた。
「……そうです。犬は、吠えていなかった」
泰六は、うなずいた。
「犬が吠えた夜と、あなたが白い影を見た夜は、同じではなかったのかもしれない」
「では、あれは……」
「まだ、決めつけるべきではありません」
泰六は、いつもの冷静な声で言った。
「ただ、あなたが見たものが人間だったとしても、あなたが恐怖を感じたことまで、嘘になるわけではない」
店主は、両手で顔を覆った。
「私は、あの娘さんを助けられなかった」
「あなたは、今になっても、あの娘さんのことを忘れていない」
進一が言った。
「それは、何も感じなかった人間にはできないことです」
店主は、声を殺して泣いた。
泰六は、しばらく何も言わなかった。
やがて、立ち上がった。
「甲府へ行きましょう」
*
甲府の旧家は、町の外れにあった。
門の両脇には、背の高い木が並んでいる。枝は互いに絡み合い、昼間だというのに、門の内側は薄暗かった。
庭の石畳には、苔が生えていた。
古い井戸は、屋敷の裏手にある。
井戸の周りだけ、草が生えていなかった。
泰六は、井戸の縁にしゃがみ込み、石の表面を指でなぞった。
「最近、誰かが使った跡がある」
「水を汲んでいたのでしょうか」
進一が尋ねた。
「そうかもしれない。しかし、ここを使う必要があった人間が、屋敷にいたということでもある」
泰六は、井戸の中を覗き込んだ。
底の方で、水がわずかに揺れている。
そのときだった。
屋敷の奥から、犬の吠える声が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
そして、突然、止んだ。
進一は、思わず振り返った。
「今の犬は……」
「ええ」
泰六は立ち上がった。
「何かを見たのでしょう」
ふたりは、屋敷の中へ入った。
案内に出てきた女中は、ふたりが娘の部屋へ向かうと知ると、あからさまに顔をこわばらせた。
「その部屋は、今でも使っておりません」
「なぜですか」
「……奥さまが、そうお決めになりました」
女中は、廊下の先を見ようとしなかった。
娘の部屋の戸は、古びた木製だった。
横木を渡すための受け金具が、内側に取り付けられている。戸の下には、長年の開閉で削れた跡があった。
泰六は、戸の前に立ち、しばらく黙っていた。
「この戸を、夜の間、誰かが見張っていたことはありますか」
「ございません」
女中は答えた。
「では、夜の間、誰も出入りしなかったと断言できますか」
「それは……」
「できないでしょう」
泰六は、横木の受け金具を調べた。
「この部屋は、夜の間ずっと閉ざされていたのではない。少なくとも、それを証明できる者はいない」
進一は、部屋の中へ目を向けた。
障子は閉められ、畳には薄い埃が積もっている。
部屋の隅には、小さな鏡台があった。
鏡は布で覆われていた。
「鏡まで隠しているのですね」
進一が言うと、女中はうつむいた。
「娘さんが、鏡を見るのを嫌がったのです」
「なぜ?」
「……自分の顔が、怖いと」
その言葉を聞いた瞬間、進一の胸が痛んだ。
首に傷がある。
身体は弱っている。
夜になると、自分の名前を呼ぶ声がする。
そのうえ、鏡に映る自分の顔さえ、恐ろしくなっていた。
娘は、いったい、どんな夜を過ごしていたのだろう。
泰六は、鏡台の前に立った。
「布を取っても?」
女中は、ためらったあと、うなずいた。
泰六が布を取ると、鏡には、薄暗い部屋と、三人の姿が映った。
進一は、鏡の中を見た。
女中がいる。
泰六がいる。
自分もいる。
そして、その後ろに――
白いものが、立っていた。
進一は、息を呑んだ。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
白いものは、消えていた。
「どうしました」
泰六が尋ねた。
「いえ……」
進一は、唇を湿らせた。
「何か、見えたような気がしたのです」
「何が?」
「白い……人影のようなものが」
女中が、小さく悲鳴を上げた。
泰六は、鏡を覗き込んだ。
何も映っていない。
彼は、鏡の角度を変え、窓の位置を確かめた。
「光の反射かもしれません。廊下の障子から差し込んだ光が、布の影を作った可能性もある」
そう言いながらも、泰六は、鏡を覆っていた布をすぐには戻さなかった。
進一は、鏡の中に映ったものを、もう一度思い出そうとした。
白い肩。
黒い髪。
そして、顔のあるはずの場所に、何もなかったこと。
それは、ほんの一瞬のことだった。
だが、あの一瞬だけは、光の反射だと考えようとしても、考えきれなかった。
*
その日の夕方、長谷川が屋敷へやってきた。
泰六から呼び出されたのである。
長谷川は、屋敷の門をくぐるなり、足を止めた。
「……まだ、あの井戸があるのですね」
「ええ」
泰六が言った。
「あなたは、井戸の近くで白い糸を見たそうですね」
「はい」
「その糸が、何の糸だったか、考えたことはありますか」
「着物の糸ではないかと」
「それだけですか」
長谷川は、しばらく考えた。
「……いいえ。あれは、ただの糸ではありませんでした。少し、硬かった。細い縄のような感触がありました」
泰六は、進一を見た。
「なるほど」
「何かわかったのですか」
進一が尋ねた。
「まだ、確定はできません。しかし、白い影が井戸の近くに現れたことと、娘の部屋の戸が閉まっていたことは、分けて考える必要がある」
泰六は、長谷川に向き直った。
「あなたは、あの夜、娘の部屋の中に誰かがいたと考えていますか」
「私は……」
長谷川は、答えに迷った。
「娘さんは、誰かに怯えていました。あの若い男が来ると、声を出さなくなった。私が見たのは、それだけです」
「では、あなたは、娘が何を恐れていたのか、確かめなかった」
「……はい」
長谷川は、深く頭を下げた。
「私も、見ないふりをしました」
その言葉には、店主と同じ後悔があった。
泰六は、責めなかった。
「人間は、目の前の出来事を、見なかったことにできる。しかし、見なかったことにした出来事が、なくなるわけではありません」
彼は、屋敷の奥を見た。
「この家には、吸血鬼はいなかったのかもしれない。だが、吸血鬼よりも恐ろしいものが、いた可能性はあります」
そのとき、廊下の奥から、女の声がした。
「……お帰りください」
女中だった。
その声は、ひどく震えていた。
「この話は、もう終わりにしてください」
泰六は、彼女を見た。
「なぜですか」
「娘は、もう戻ってきません」
「ええ」
進一が静かに答えた。
「だからこそ、あの夜に何があったのか、知る必要があるのではありませんか」
女中は、目を伏せた。
長い沈黙のあと、彼女は、ぽつりと言った。
「……あの子は、最後まで、誰の名前も言いませんでした」
「名前を言えば、何かが変わったのでしょうか」
進一が尋ねた。
女中は答えなかった。
ただ、両手を強く握りしめた。
その沈黙こそが、屋敷の人々が長い間、守り続けてきたものだった。
*
夜、泰六と進一は、屋敷の離れにある小さな部屋で、家の者たちから聞き取った証言を整理した。
若い男は、娘の親類であり、屋敷の財産を管理する立場にあった。
娘が衰弱し始めた頃から、彼は、娘の部屋へ頻繁に出入りしていた。
しかし、家の者は、誰もそれを不審に思わなかった。
親類なのだから。
病人を見舞っているのだから。
家の事情なのだから。
そう言って、誰もが自分を納得させていた。
「首の傷は、彼が作ったのでしょうか」
進一が尋ねた。
「可能性は高い」
泰六は答えた。
「二つの小さな傷は、吸血鬼の牙を思わせる。しかし、牙である必要はない。細い道具で、二つの傷をつけることはできる」
「では、娘さんが弱っていたのは?」
「傷から失われた血だけで説明するのは無理がある。彼女は、夜ごと恐怖にさらされ、食事も睡眠も十分ではなかった。さらに、誰かが彼女の自由を奪っていたなら、衰弱は進む」
進一は、拳を握った。
「それなら、白い影は?」
「人間が、白い衣をまとって庭を歩いた可能性がある。夜の闇の中で、顔が見えなければ、誰であるかはわからない。犬が吠えたのも、見知らぬ姿に反応したのだろう」
「でも、井戸の糸は?」
「白い衣の一部かもしれない。あるいは、井戸の近くで何かを運ぶために使われた細い縄かもしれない。長谷川の証言だけでは、断定はできない」
「では、名前を呼ぶ声は?」
泰六は、しばらく考えていた。
「娘が、誰かに名前を呼ばれたと感じた。あるいは、実際に誰かが呼んだ。その声が部屋の中から聞こえたのなら、少なくとも、娘は声の主が近くにいると感じていたのだろう」
「それでは、娘さんは、毎晩、誰かが部屋に入ってくることを恐れていた?」
「そう考えるのが自然だ」
泰六は、証言をまとめた紙を置いた。
「しかし、まだ一つ、わからないことがある」
「何ですか」
「なぜ、家の者たちは、吸血鬼の噂を否定しなかったのか」
進一は、はっとした。
確かにそうだ。
もし、娘が病気で衰弱しているだけなら、家の者たちは医者を呼び、療養させればよかった。
もし、誰かが娘を脅していたなら、その人物を問いただせばよかった。
だが、彼らはそうしなかった。
吸血鬼という噂を恐れながら、同時に、その噂を利用していたのではないか。
「人間のしたことを、怪異のせいにできれば……」
進一がつぶやいた。
「人間を責めずに済む」
泰六は、うなずいた。
「そして、娘自身の訴えも、恐怖に怯えた病人の言葉として片づけられる」
そのとき、廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。
からん。
小さな金属音だった。
ふたりは、同時に顔を上げた。
進一が廊下へ出る。
誰もいない。
床には、古い鍵が落ちていた。
「これは……」
進一が拾い上げようとした瞬間、泰六が制した。
「触るな」
泰六は、鍵のそばにしゃがみ込んだ。
鍵は、娘の部屋のものだった。
だが、鍵穴は、戸の外側にしかない。
泰六は、ゆっくりと顔を上げた。
「この屋敷の者は、娘の部屋を、横木で閉ざしていたと言った。しかし、鍵も使っていたのかもしれない」
「では、誰が鍵を持っていたのですか」
「家の者に聞こう」
泰六が立ち上がった、その瞬間だった。
廊下の奥から、声が聞こえた。
「……お帰りなさい」
女の声だった。
進一は、息を止めた。
それは、誰かを迎える声のようでもあり、誰かを呼び戻す声のようでもあった。
「今の声は、どこから?」
進一が振り向いたときには、もう何も聞こえなかった。
泰六は、廊下の奥を見つめていた。
そして、低い声で言った。
「この家では、誰かが帰ってくるのを、待っているのかもしれない」
*
翌朝、泰六は、家の者たちを集めた。
若い男も、その場にいた。
男は、整った身なりをしていた。顔色は悪かったが、態度は落ち着いている。
「何の用ですか」
男は、泰六に言った。
「この家で起きたことについて、確認したいことがあります」
「何年も前の話でしょう。今さら、何を」
「娘さんの首にあった二つの傷についてです」
男の目が、わずかに動いた。
「吸血鬼の仕業だと、皆が言っていたはずです」
「皆がそう言ったからといって、事実になるわけではありません」
泰六は、男の前に一枚の紙を置いた。
「あなたは、娘さんの部屋へ何度も出入りしていた。娘さんが衰弱していた時期と、あなたが屋敷の財産を管理し始めた時期は、重なっている」
「親類なのだから、見舞いに行くのは当然でしょう」
「ええ。だから、出入りしたことだけで、あなたを責めるつもりはありません」
泰六は、淡々と続けた。
「しかし、娘さんは、あなたが部屋へ入ると、口を閉ざした。蕎麦屋の主人に助けを求めたときも、あなたが現れると、何も言わなくなった。長谷川も、あなたが来ると、娘さんが怯えていたと証言している」
男は、口元を歪めた。
「病人は、気分が不安定になるものです」
「そうかもしれません」
泰六は、あっさりと認めた。
「しかし、病人が怯えているからといって、その恐怖を作った者がいないとは限らない」
男の表情が、固まった。
「あなたは、娘さんを恐怖に陥れた。夜の間に部屋へ入り、彼女の首に傷をつけた。そして、白い衣をまとって庭を歩き、吸血鬼の噂が広がるように仕向けた」
「証拠は?」
男は、鋭く言った。
「そのようなことをした証拠が、どこにあるのです」
泰六は、すぐには答えなかった。
進一が、男を見つめた。
「あなたは、娘さんが誰にも助けを求められなくなることを、望んでいたのではありませんか」
「何を言う!」
「吸血鬼がいるという噂が広がれば、娘さんの訴えは、怪異に怯えた病人の言葉として片づけられる。誰かが夜に部屋へ入ってきたと言っても、誰も信じない。首に傷があると言っても、吸血鬼の仕業だと思われる。あなたは、人間のしたことを、怪談の中へ隠したのではありませんか」
男は立ち上がった。
「くだらない!」
その声は、屋敷中に響いた。
だが、誰も男を止めなかった。
家の者たちは、うつむいている。
男は、彼らを見回した。
「お前たちも、そう思っているのか!」
誰も答えない。
その沈黙が、男の怒りをいっそう深くした。
「私は、この家を守ってきたのだ。あの娘は、家のことを何も知らない。自分の立場も、わきまえない。あの娘が余計なことを言えば、この家がどうなるか、誰も考えなかったのか!」
泰六は、男を見た。
「家を守るために、娘さんを恐怖に閉じ込めたのですか」
「違う!」
「では、なぜ、彼女はあなたを恐れていたのです」
男は、答えられなかった。
泰六は、静かに言った。
「あなたは、吸血鬼ではありません。しかし、吸血鬼の噂を利用した。人間の手で作った傷を、怪異の証拠に見せかけた。娘さんが弱っていくことを、誰も不審に思わないようにした」
「私は……」
男の声が、急に小さくなった。
「私は、あの娘を、殺そうとしたわけではない」
進一は、目を伏せた。
「人を苦しめることと、殺すことは、同じではありません。でも、殺そうと思っていなかったからといって、苦しめた事実が消えるわけでもない」
男は、何も言わなかった。
泰六は、さらに問い詰めることをしなかった。
ここで必要なのは、男の口から、都合のよい告白を引き出すことではない。
必要なのは、誰もが怪異のせいにしてきた出来事を、人間の行為として、もう一度見直すことだった。
その日、屋敷の者たちは、初めて、娘が何を恐れていたのかを話し始めた。
誰かが、夜中に戸の外で足音を聞いたこと。
誰かが、庭を横切る白い影を見たこと。
誰かが、娘の部屋から、すすり泣く声を聞いたこと。
そして、誰もが、そのことを口にしなかったこと。
それらは、ひとつずつ、怪談の衣を脱いでいった。
だが、すべてが明らかになったわけではなかった。
誰が、最初に吸血鬼の噂を言い出したのか。
誰が、夜の庭に白い衣を置いたのか。
そして、娘が最後に聞いたという、部屋の中から自分の名前を呼ぶ声は、誰のものだったのか。
それらについては、確かな証言が得られなかった。
男は、最後まで、白い衣を着たことを認めなかった。
長谷川も、店主も、娘の部屋へ誰が入ったのかを、直接見たわけではなかった。
泰六は、それ以上、断定しなかった。
推理とは、空白を想像で埋めることではない。
わからないことを、わからないまま残す勇気も、また必要なのだ。
*
甲府を発つ日の夕方、進一は、屋敷の庭を歩いていた。
古い井戸の前で足を止める。
水面は、静かだった。
風もない。
進一は、井戸の底を覗き込んだ。
暗い水の中に、自分の顔が映っている。
その顔の後ろに、白いものが見えた。
進一は、息を呑んだ。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、井戸を覗く。
水面には、自分の顔だけが映っていた。
「進一」
背後から、泰六の声がした。
「何をしている」
「いえ……」
進一は、井戸から離れた。
「何か、見えたような気がしたのです」
「何が?」
「白い影です」
泰六は、井戸を覗き込んだ。
「水面に映った光かもしれない。あるいは、木の枝の影だろう」
「そうですね」
進一は、うなずいた。
だが、彼は、もう一度だけ井戸を振り返った。
そのとき、井戸の底から、小さな音がした。
ぽちゃん。
まるで、誰かが、水の中へ小石を落としたような音だった。
泰六も、聞いていた。
ふたりは、顔を見合わせた。
「風でしょうか」
進一が言った。
「風で水音がすることはある」
泰六は答えた。
しかし、彼は、井戸の縁から目を離さなかった。
水面には、波紋が広がっていた。
中央から、ゆっくりと。
まるで、底から何かが浮かび上がってきたかのように。
ふたりは、しばらく、その波紋を見つめていた。
やがて、波紋は消えた。
水面は、再び静かになった。
「帰ろう」
泰六が言った。
進一は、うなずいた。
だが、屋敷の門を出る直前、彼は、もう一度だけ振り返った。
井戸のそばに、白いものが立っていた。
人の背丈ほどの、白い影。
顔は見えない。
黒い髪のようなものが、肩から垂れている。
進一は、目をこすった。
次の瞬間には、もう何もなかった。
彼は、泰六を呼ぼうとした。
しかし、やめた。
もし、今のものを泰六に話したら、彼はきっと、光の反射か、木の影か、目の錯覚だと説明するだろう。
それは、正しいのかもしれない。
だが、進一には、ひとつだけ、確かなことがあった。
あの白い影は、こちらを見ていた。
顔がなかったはずなのに。
確かに、こちらを見ていたのだ。
*
神田へ戻った夜、蕎麦屋の主人は、ふたりに温かい蕎麦を出した。
「どうでしたか」
主人が尋ねた。
泰六は、箸を取った。
「吸血鬼が人を襲ったという証拠は、ありませんでした」
「では……」
「人間が、怪異の噂を利用した可能性が高い。娘さんは、人間の手で作られた恐怖の中に閉じ込められていたのでしょう」
主人は、目を閉じた。
「そうですか……」
しばらくして、進一が言った。
「ただ、すべてのことが、わかったわけではありません」
主人は、顔を上げた。
「どういうことです」
「白い影については、説明できる部分もあります。しかし、私たちが見たもの、聞いたもののすべてを、ひとつの説明にまとめることはできませんでした」
泰六は、進一を見たが、否定しなかった。
「人間のしたことを、怪異のせいにしてはいけない。それは確かです」
進一は、続けた。
「けれど、怪異のように感じられたものを、すべて見間違いだったと決めつけることも、できないのかもしれません」
蕎麦屋の主人は、黙っていた。
やがて、丼の縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「私は、あの娘さんの声を、今でも夢に見ます」
「どんな声ですか」
進一が尋ねた。
「私の名前を呼ぶんです」
主人は、顔を上げた。
「助けてくれ、と。あの夜と同じ声で」
泰六は、何も言わなかった。
主人は、目を伏せた。
「夢の中で、私は、いつも屋敷の廊下を歩いています。娘さんの部屋の前まで行く。戸は閉まっている。中から、声がする。私は、戸を開けようとする。でも、横木がかかっていて、開かない」
主人の手が震えた。
「それで、私は、いつも目を覚ますんです」
進一は、静かに聞いていた。
「でも、昨夜は違いました」
「違った?」
「ええ。昨夜の夢では、戸が開いていたんです」
主人は、喉を鳴らした。
「部屋の中には、誰もいませんでした。ただ、鏡台の前に、白い布が一枚、置いてあった」
店主は、両手で顔を覆った。
「その布の下から、娘さんの声が聞こえたんです」
屋台の提灯が、風もないのに、かすかに揺れた。
「『どうして、帰ったの』と」
誰も、言葉を発しなかった。
湯気が、三人の間をゆっくりと流れていった。
やがて、泰六が、静かに言った。
「夢は、過去に起きたことを、別の形で見せることがあります」
「そうでしょうね」
主人は、うなずいた。
「そうであってほしいと思います」
その声には、安堵よりも、深い悲しみがあった。
進一は、蕎麦をひと口すすった。
温かい汁が、喉を通っていく。
その温かさが、今は、ひどくありがたかった。
人は、恐ろしいものを見たとき、怪異の名を与えることがある。
そうすれば、恐怖の正体がわかったような気がするからだ。
だが、本当に恐ろしいのは、怪異の名を与えられないものなのかもしれない。
助けを求める声を聞きながら、聞こえなかったことにする。
目の前で誰かが怯えているのに、家の事情だからと目をそらす。
誰かが傷ついているのに、怪談のせいにして、真実を探そうとしない。
そうした人間の沈黙は、どんな幽霊よりも長く、その場所に残る。
泰六は、丼を置いた。
「ご主人。あの屋敷に、もう一度行くつもりはありますか」
主人は、ゆっくりと首を横に振った。
「ありません」
そして、少しだけ間を置いて、続けた。
「ただ、いつか、あの娘さんに謝りたいとは思っています」
進一は、何も言わなかった。
謝罪が届くかどうかは、わからない。
許されるかどうかも、わからない。
それでも、謝りたいと思う気持ちまで、否定する必要はない。
その夜、ふたりは蕎麦屋台を後にした。
神田の通りには、夜の冷気が満ちていた。
遠くで、犬が一度だけ吠えた。
泰六は、歩みを止めなかった。
進一も、何も言わなかった。
ただ、ふたりが角を曲がる直前、蕎麦屋台の提灯の下に、白いものがひとつ、揺れていた。
風は、吹いていなかった。
翌朝、主人が屋台を開けると、軒先には、見覚えのない白い糸が一本、結ばれていた。
細く、長い糸だった。
主人は、それをほどこうとした。
その瞬間、耳元で、女の声がした。
――お帰りなさい。
主人は、動けなかった。
顔を上げても、誰もいない。
通りには、朝の人々が行き交っている。
湯を沸かす音がする。
蕎麦の出汁の匂いがする。
いつもの神田の朝だった。
主人は、白い糸を、そっと屋台の柱から外した。
そして、誰にも見られないように、懐へしまった。
その日から、彼は、夜の蕎麦屋台を閉める前に、必ず一度、軒先を見上げるようになった。
白い糸が、また結ばれていないかを確かめるために。
そして、誰かが、自分の名前を呼んでいないかを聞くために。
――甲斐の國から来た、蕎麦屋の噺。
それは、吸血鬼の噺だったのか。
それとも、誰かを救えなかった人間の、長い懺悔だったのか。
泰六ならば、こう言うだろう。
「証拠がないものを、真実だと決めつけるわけにはいかない」と。
進一ならば、こう答えるかもしれない。
「けれど、証拠がないからといって、恐怖までなかったことにはできない」と。
そして、もし読者が、夜中にふと目を覚まし、部屋の隅に白い影を見たとしても――。
どうか、すぐには振り返らないでほしい。
それが、ただの衣服の影なのか。
窓から差し込んだ月の光なのか。
それとも、長いあいだ、誰かに気づいてもらえるのを待っていたものなのか。
確かめるのは、朝になってからでも、遅くはないのだから。
皆様は、ホームズをどれくらい読まれましたか。
いつも『東京神田のシャーロック』をお読みくださり、ありがとうございます。
ふと、皆様に聞いてみたくなりました。
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品を、どれくらい読まれたことがありますか?
① 原作をほとんど読んだことがない。ドラマや映画で知っている程度。
② 有名な作品や短編を、いくつか読んだことがある。
③ 長編も短編も、かなり読んだ。ほぼ一通り読破した。
よろしければ、コメント欄に
「①」「②」「③」
の数字だけでも残していただけるとうれしいです。
もちろん、原作をご存知ない方も、大歓迎です。
原作をご存じの方には、ドイル作品へのオマージュや違いを。
初めての方には、明治の神田で起こる事件と、
小室泰六・和田進一の物語を。
それぞれの楽しみ方で読んでいただけたら、作者冥利に尽きます。
さて、皆様は何番でしょうか?
これからも『東京神田のシャーロック』を、どうぞよろしくお願いいたします。




