小室泰六(SHERLOCK) - 甲斐の國から来た、蕎麦屋【中編】
【中編】 閉ざされた部屋と、語られなかった証言
翌日の夕刻、小室泰六は、神田の事務所で一枚の紙を前にしていた。
紙には、昨夜、甲斐の國から来た蕎麦屋の主人が語ったことが、短い箇条書きで記されている。
夜ごと血を失う娘。
首筋に残された二つの小さな傷。
内側から閂の掛かった部屋。
庭に現れた白い影。
そして、離れに向かって吠え続けた犬。
泰六は最後の一行に、鉛筆で丸をつけた。
「同じ夜を見た者たちが、同じものを見ていない、か」
向かいの椅子で、和田進一が茶をすすった。
「昨夜の店主は、ずいぶん怯えていましたね。化け物を見たからというより、何かを思い出すのを恐れているようでした」
「人間は、恐ろしいものを見たときばかり怯えるわけではない」
泰六は鉛筆を置いた。
「自分が見たものの意味を、後になって知ったときにも怯える」
「つまり、店主は白い女の正体を知っている?」
「そこまでは分からん。知っているのかもしれないし、知りたくないだけなのかもしれない」
泰六は紙を指で叩いた。
「だが、今の話だけで吸血鬼を持ち出す必要はない。娘が弱っていたこと、首に傷があったこと、白いものを見たということ。それぞれを別の事実として扱うべきだ」
「全部が、一つの原因から起きたとは限らないということですね」
「その通りだ。病気の娘がいて、誰かが傷をつけ、別の誰かが白い影を見た。そういう可能性だってある。人間は、別々の出来事を一つの怪談にまとめるのが好きだからな」
進一は、昨夜の店主の顔を思い出した。
娘は何かを言おうとした。
だが、家の者が入ってきた途端に口を閉ざした。
あの一瞬だけは、白い影の話よりも、はるかに現実的で、はるかに恐ろしかった。
「泰六さん。もし、娘が誰かに助けを求めようとしていたのなら、屋敷の中に、娘が信頼できない人間がいたことになります」
「あるいは、助けを求めること自体が、娘にとって危険だったのかもしれん」
泰六は立ち上がった。
「もう一度、店主に会おう」
*
その夜、二人が神田の通りへ出ると、蕎麦屋の屋台は、昨夜と同じ場所にあった。
主人は二人を見ると、わずかに肩をこわばらせた。
「昨夜の続きですかい」
「差し支えなければ」
泰六は、屋台の脇に立った。
「あなたが甲府の屋敷へ食べ物を届けたときのことを、もう少し詳しく聞きたい」
主人は、しばらく黙っていた。
「……話しても、何かが変わるとは思えませんが」
「変わるかどうかは、話を聞いてから考えましょう」
主人は小さく息を吐き、鍋の火を見つめた。
「私が行ったのは、昼過ぎでした。屋敷の門をくぐると、女中さんが出てきましてね。家の中は静かでした。人が住んでいるのに、誰も息をしていないような、そんな静けさで」
「娘の部屋へは、誰が案内したのです」
「年配の女中です。長く屋敷に仕えている人だと聞きました」
「その女中は、娘について何か言っていたか」
「『お嬢様は、お気の毒なことになりました』と。それだけです」
「お気の毒、か」
泰六は、その言葉を繰り返した。
「病気だと聞いていたのなら、病気をお気の毒と言ったのかもしれませんね」
進一が言った。
「もちろん、その可能性はある」
泰六はうなずいた。
「だが、言葉は、その場の様子と一緒に考える必要がある」
主人は話を続けた。
「娘さんは、窓のそばの寝床にいました。顔は青白く、唇も乾いていた。私が食べ物を置くと、娘さんは、ありがとうございます、と小さな声で言ったんです」
「そのとき、傷は見えたのですか」
「首の襟元から、少しだけ。二つ並んでいました」
「傷の周囲は赤くなっていたか」
「そこまでは覚えておりません」
「血は?」
「そのときは、見ませんでした」
泰六はうなずき、次の質問へ移った。
「娘の部屋には、ほかに誰がいた?」
「年配の女中です。それから、少しして、男の方が一人入ってきました」
「屋敷の主人か」
「いえ。主人より若い方でした。親戚筋の方だと聞いています」
「その男が入ってきたとき、娘はどうした」
主人は、眉を寄せた。
「顔を伏せました」
「何か言ったか」
「いいえ。私に話しかけたときとは、まるで別人のように、黙ってしまったんです」
進一が口を開いた。
「怖がっていたのですね」
「そう見えました。けれど、私はよそ者です。家の事情も知りません。余計なことを聞いて、迷惑を掛けるわけにもいきませんでした」
主人は自分の手を見つめた。
「今でも、ときどき思うんです。あのとき、もう少し何かを聞いていれば、と」
進一は、すぐには答えなかった。
「聞かなかったことを、悔やんでいらっしゃるのですか」
「ええ」
「それとも、聞いてしまうことを恐れていたのでしょうか」
主人は、はっと顔を上げた。
進一は、責めるような口調ではなかった。
「人は、誰かが苦しんでいると分かっていても、事情を知らないからと、何もできないことがあります。けれど、本当は、何が起きているのか知るのが怖い。そういうこともあるのではありませんか」
主人は、答えなかった。
鍋の中で湯が鳴っていた。
「……私は、何もできませんでした」
やがて、主人はそう言った。
「娘さんは、あのあと、どうなったのでしょう」
進一が尋ねた。
「分かりません。私が屋敷を訪ねたのは、その一度きりです。何日かして、甲府の町で噂を聞きました。白い女が出た。犬が吠えた。娘さんの血が吸われた。噂は、聞くたびに恐ろしい話になっていきました」
「娘が何を話したか、という噂は?」
「それは……聞きませんでした」
進一は、そっと目を伏せた。
白い女の話は、町じゅうに広まった。
だが、娘自身が何を恐れ、何を訴えようとしていたのか。それを知ろうとした者が、どれほどいたのだろう。
*
「さて」
泰六は、話題を変えた。
「白い影について、もう一つ聞きたいことがある」
主人の顔が強張った。
「あなたは、帰り道で白い女を見たと言った。屋敷の塀の向こうに立ち、あなたを見ていた、と」
「ええ」
「そのとき、女はどちらを向いていた?」
「私の方を」
「屋敷の方ではなく?」
「……はい」
「女は、あなたを見ていた。そう思ったのですね」
「確かに、そう見えました」
「女は、何か身につけていたか。手に何かを持っていたとか」
「いいえ。白い着物のようなものが見えただけです」
「顔は?」
「はっきりとは」
「声は聞いたか」
「何も」
泰六は、しばらく考え込んだ。
「あなたは、女が塀の陰へ消えたと言った。だが、走り去る足音は聞かなかった?」
「聞いておりません」
「足音もなく、姿だけが消えた」
「そうです」
「それを、あなたは、女が人間ではなかった証拠だと思ったのですか」
主人は答えに詰まった。
「……そのときは、そう思いました」
「そのときは、か」
泰六は、主人の言葉をそのまま受け取った。
「今は違うのですか」
「分かりません。十年も経ちました。自分が本当に見たものが何だったのか、時々、分からなくなるんです」
「記憶というものは、時間とともに変わることがある。特に、恐ろしい出来事はね」
泰六は、主人を責めなかった。
「だが、変わった記憶を、最初から嘘だったと決めつける必要もない」
主人は、意外そうに泰六を見た。
「あなたは、私の話を信じてくださるのですか」
「私は、あなたが何かを見たとおっしゃっていることを信じている。その何かが何だったのかは、別の問題です」
主人は、しばらく何も言わなかった。
やがて、深くうなずいた。
*
屋台を離れた二人は、神田の裏通りを歩いていた。
「泰六さんは、何に気づいたのですか」
進一が尋ねた。
「まだ、何も断定できん」
「それにしては、ずいぶん細かく聞きましたね」
「細かく聞くのは、細かいことが重要だからだ。だが、細かいことを集めただけで、真相が見えるわけでもない」
泰六は、立ち止まった。
「進一。昨夜の話と今夜の話を比べてみろ」
「昨夜は、娘が白い影を見た。屋敷の主人は白い女を見た。店主もまた、白い女を見た。今夜は、娘が男を恐れていた可能性が出てきました」
「それから?」
「店主は、娘が助けを求めようとしたと考えている。けれど、何を言おうとしたのかは分からない」
「そうだ。分からないことを、分からないままにしておけ」
泰六は、静かな声で言った。
「推理というものは、空白を想像で埋めることではない。空白がどこにあるのかを、正確に知ることから始まる」
進一は、うなずいた。
そのとき、通りの向こうから、男が一人歩いてきた。
年の頃は五十前後。着物の上に羽織を着て、手には小さな包みを持っている。男は二人の前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
「失礼ですが……小室泰六先生ではありませんか」
泰六は、男を見た。
「そうですが、あなたは?」
男は、進一にも目を向けた。
「和田進一先生も、ご一緒でしたか」
「何のご用です」
泰六が尋ねると、男は周囲を確かめるように見回した。
「実は、昨夜から、あの蕎麦屋の主人を探しておりました」
二人は顔を見合わせた。
「甲府の事件について、お話ししたいことがございます」
男は声を落とした。
「私は、あの屋敷で、長年、出入りの仕事をしていた者です」
進一は息をのんだ。
「それなら、娘さんのこともご存じなのですか」
男は、しばらく黙っていた。
「ええ。お嬢様が夜ごと血を失っていたことも、白い女が出たという噂も」
「では、白い女を見たのですか」
泰六の問いに、男は首を横に振った。
「いいえ。私は、白い女を見ておりません」
「見ていないのに、事件について話したいと?」
「はい。私が知っているのは、白い女のことではありません」
男は、包みを持つ手に力を込めた。
「お嬢様の部屋の閂についてです」
泰六の目が、わずかに細くなった。
「閂?」
「ええ。あの部屋は、内側から閂が掛かっていた。誰も入れなかった。皆、そう言っておりました」
男は、一度、息を整えた。
「けれど、私は知っております。あの閂は――」
男は、そこで口を閉じた。
通りの向こうで、夜鳴き蕎麦の呼び声が聞こえた。
泰六は、男の顔を見つめた。
「続きを聞かせていただきましょう」
男は、ゆっくりとうなずいた。
「ただし、先生方。私の話を聞いたら、もう、あの屋敷を単なる怪談として片づけることはできなくなるでしょう」
神田の夜風が、三人の間を通り抜けた。
閉ざされた部屋。
内側から掛けられた閂。
そして、誰も見たことがないはずの白い女。
泰六は、まだ何も言わなかった。
だが、彼の目には、初めて事件の輪郭が浮かび始めていた。




