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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -  甲斐の國から来た、蕎麦屋【前編】 改訂版

【本作あらすじ】

明治の東京、神田。

夜鳴き蕎麦の屋台に立ち寄った小室泰六と和田進一は、甲斐の國から上京してきた蕎麦屋の店主から、故郷・甲府で起きた奇妙な事件を聞かされる。


ある旧家の娘が、夜ごと血を失い、衰弱していくという。首筋には二つの小さな傷。閉ざされた部屋。庭に現れる白い影。そして、何かに怯えるように吠え続ける犬。


村人たちは、吸血鬼の仕業だと噂した。

果たして、甲府の夜に現れたものは、本当に人ならざる怪異だったのか。


泰六は、証言の細部に潜む矛盾を見逃さない。進一は、事件の陰に隠された人々の思いに目を向ける。


蕎麦の湯気の向こうから語られる、甲斐の國の不思議な話。


論理で解き明かされる謎と、人の心に残る怪談の余韻。明治神田の名探偵コンビが、一夜の蕎麦屋台から奇怪な事件へと挑む。




【登場人物紹介】

◾️小室泰六(こむろ・たいろく)

東京神田で探偵を始めた男。鋭い観察眼と冷静な論理を武器に、不可解な事件の真相を追う。幽霊や吸血鬼の噂にも頭から飛びつかず、まずは目の前にある事実を確かめようとする。



◾️和田進一(わだ・しんいち)

泰六の相棒。人の言葉だけでなく、その表情や沈黙にも目を向ける。事件の仕掛けを解くことと、そこに関わった人間を理解することは別だと考えている。



◾️蕎麦屋の店主

甲斐の國から東京へ出てきた男。神田の夜に蕎麦屋台を営む。故郷の甲府で耳にした奇妙な事件を二人に語るが、その話には、彼自身が長く胸にしまってきた恐れもにじんでいる。



◾️甲府の旧家の娘

夜ごと衰弱し、首筋に奇妙な傷を残す若い娘。屋敷の人々から吸血鬼に取り憑かれたのではないかと恐れられている。彼女の身に何が起きているのかが、事件の中心となる。



◾️旧家の人々

娘の異変を目の当たりにし、恐怖と疑念に揺れる人々。それぞれの証言には食い違いがあり、屋敷に隠された事情が事件を複雑にしていく。


【前編】 甲府の旧家に現れた白い影


 

 明治の東京、神田。


 夜の帳が下りると、昼間は人と荷車で賑わう通りも、別の顔を見せる。


 店先の暖簾は下ろされ、格子戸の向こうからは、家族の団欒を思わせる声が漏れていた。人力車の車輪が遠ざかり、軒下の提灯が風に揺れる。


 その夜、小室泰六と和田進一は、仕事帰りに一軒の夜鳴き蕎麦の屋台を見つけた。


「親方、かけを二つ」


 進一が声をかけると、屋台の主人は、へい、と応じた。


 主人は四十を少し越えたくらいの男だった。日に焼けた頬には深い皺が刻まれ、蕎麦を茹でる手つきには無駄がない。だが、客の顔を見るときだけ、どこか落ち着かない目をした。


 泰六は、その目に気づいたが、何も言わなかった。


「お二人さんは、この辺りの方で?」


「神田で暮らしている」


 泰六が答えた。


「そうですか。私は、こっちへ出てきて、まだ何年にもなりませんで」


 主人は蕎麦を椀に盛りながら言った。


「甲斐の國から来たんでございます。甲府の生まれで」


「甲斐ですか」


 進一が顔を上げた。


「ええ。山の景色はよろしいが、冬は冷えます。東京の寒さとは、また違うんで」


 主人は、そこで一度言葉を切った。


「ところで、お二人さん。怪談というものは、お好きですかい」


 進一は思わず泰六を見た。


「怪談?」


「へえ。故郷で、どうにも説明のつかねえ出来事がございましてね。人に話すと、たいてい笑われる。けれど、私には、笑い話にすることができねえんです」


「説明のつかないことがあれば、説明を試みればよい」


 泰六は、蕎麦の椀を受け取りながら言った。


「ただし、説明がつかないことと、説明する気がないことは、別ですからな」


 主人の手が止まった。


 それから、まるで腹を決めたように、声を低くした。


「……吸血鬼でございます」


 進一が箸を持つ手を止めた。


「吸血鬼?」


「ええ。娘の血を、夜ごと吸う化け物が出たというんで」


 主人は通りを振り返った。夜風が吹き抜け、提灯の火が細く揺れた。


「今から十年ばかり前のことです。甲府の町外れに、古いお屋敷がありました。土地の者なら、誰でも知っている旧家でね。広い庭に蔵がいくつもあり、門構えも立派だったそうです。ところが、そこの一人娘が、ある時から、ひどく弱り始めた」


「病気だったのではないか」


 泰六が尋ねた。


「最初は、皆そう思ったそうです。熱が出る日もあれば、顔色が紙のように白くなる日もある。食べ物もろくに喉を通らず、しまいには寝床から起き上がることも難しくなった。医者も何度も呼ばれましたが、原因が分からなかった」


「医者が分からなかったからといって、化け物がいることにはならない」


「おっしゃる通りでございます」


 主人は、意外なほど素直にうなずいた。


「私も、初めはそう思いました。けれど、娘の首筋に傷があったんです」


 主人は、自分の首を指で示した。


「針で突いたような、小さな傷が二つ。朝になると、そこに血が滲んでいることがあった。娘は、夜中に何かが首に触れた、と言ったそうです」


「何か、とは?」


「それが分からねえ。目を開けると、部屋の隅に白いものが立っていた、と言うばかりで」


 進一は、椀を置いた。


「人影だったのでしょうか」


「娘は、女のようだった、と」


 主人の声がかすれた。


「それから屋敷の者たちは、夜になると娘の部屋の前で見張るようになったそうです。誰かが起きていれば、化け物も寄りつかないだろう、と。けれど、不思議なことに、皆が起きて見張っている晩には何も起きない。疲れて誰かが居眠りをした晩に限って、娘が悲鳴を上げるんです」


「部屋の戸は、どうなっていた?」


「内側から閂が掛かっていたそうです。窓も閉まっていた。少なくとも、家の者はそう言っておりました」


「少なくとも、か」


 泰六は、その言葉だけを繰り返した。


 主人は、聞こえなかったふりをした。


 進一は主人の顔を見た。恐ろしい話をしているというより、何かを思い出さないようにしながら、それでも話さずにはいられない。そんな表情だった。


「それで、吸血鬼だという噂になったのですか」


「最初は、誰もそんなことは言わなかったそうです。ところが、傷は消えねえ。娘は弱る。夜には白い影が出る。そして、ある晩、庭の犬が吠え立てたんでございます」


 主人は、両手を椀の脇に置いた。


「ただ吠えたというのではありません。狂ったように吠え続けた。屋敷の者が何人も飛び起きて庭へ出ると、犬は離れの方を向いて、歯を剥き出しにしていたそうです」


「離れ?」


「娘の部屋から少し離れたところにあった建物です。昔は書物を置いていたそうですが、その頃はほとんど使われていなかったとか」


「犬は、何を見ていたのだろうな」


 泰六がつぶやいた。


「屋敷の主人は、見たと言っております」


「何を?」


「白い女を」


 主人は一度、唾を飲み込んだ。


「月明かりの下、庭の向こうに白い着物の女が立っていた。そう証言したそうです。顔までは見えなかったが、こちらを見ていた、と」


「その主人のほかにも、女を見た者がいたのですか」


「それが、話がまちまちでしてね。白い影を見たという者もいれば、何も見なかったという者もいる。犬が吠えたことだけは、誰もが認めていたそうです」


「犬は、いつ吠えたのです」


「夜半を過ぎたころ、と聞いております」


「娘が悲鳴を上げたのと、同じ時刻か」


「そこまでは分かりません。ただ、白い影が出た夜には、娘の具合も悪くなった、と」


「なるほど」


 泰六は、それ以上、質問を重ねなかった。


 進一には、かえってそれが気になった。


 泰六が怪談を信じたわけではない。むしろ、何かが引っかかっているのだろう。しかし、彼はその違和感を、まだ言葉にしようとはしなかった。


「その後、どうなったのです」


 進一が尋ねた。


「屋敷の主人は寺へ相談し、祈祷も頼んだそうです。けれど、娘は良くならない。とうとう家の者たちの間で、誰かが夜中に娘の血を吸っているんじゃないか、という話が出た」


「人間が、ですか」


「初めは、そんな馬鹿なと笑われたそうです。けれど、誰かが部屋へ忍び込んだのなら、どうやって入ったのか。戸には閂が掛かっている。窓も閉まっている。では、壁を抜けて入る化け物しかねえ。そんな具合に話が転がっていったんです」


「話というものは、便利な道を選ぶものですね」


 泰六は、蕎麦をすすりながら言った。


「分からないことを分からないままにしておくのは、案外、難しいものですから」


 主人は答えなかった。


 しばらくして、彼は思い切ったように話を続けた。


「実は、私も、その屋敷へ行ったことがございます」


「あなたが?」


 進一が聞き返した。


「事件が噂になった、すぐ後です。屋敷の近くで商いをしていた知り合いに頼まれましてね。食べ物を届けてくれ、と。娘さんは、ほとんど何も食べられなくなっていた。家の者たちも疲れ果てていました」


「娘を見たのか」


「ええ。顔色はひどく悪く、布団から起き上がることもできませんでした。首筋には、確かに小さな傷が二つあった」


 主人は、そこで言葉を切った。


「けれど、何かあったのか」


 進一が静かに尋ねた。


「娘さんは、私に何かを言おうとしたんです」


「何と?」


「分かりません。家の者が入ってきた途端、口を閉じてしまった。あれは、ただ病気で苦しんでいる人の顔じゃなかった。何かを怖がっている顔でした」


 屋台の外を、夜風が吹き抜けた。


 主人は、鍋の火を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「その晩、帰り道で、私は見たんです」


「何を」


「白い女を」


 主人は、今度こそ、はっきりと言った。


「屋敷の塀の向こうに、白い着物を着た女が立っていた。月明かりの中で、じっとこちらを見ていたんです。声を掛けようとした瞬間、女は塀の陰へ消えました。追いかけたが、どこにもいなかった」


「顔は見ましたか」


 泰六が尋ねた。


「……見た、と思います」


「思います?」


「白い影の中に、顔らしいものがあった。ただ、それが誰の顔だったのか、今でも分からねえんです」


 主人は唇を湿らせた。


「それから何年も経ちました。私は甲府を離れ、東京へ出てきた。あの屋敷がどうなったのか、娘さんがどうなったのか、詳しいことは知りません。けれど、夜になると、時々思い出すんです。あの白い女が、何を見ていたのかを」


 三人の間に沈黙が落ちた。


 進一は、主人の話を笑う気にはなれなかった。白い女が本当にいたかどうか。それだけが問題ではないように思えた。


 病床の娘が何かを訴えようとし、誰かが入ってきた途端に口を閉ざした。その場面の方が、進一の心に残っていた。


 一方、泰六は主人をじっと見つめていた。


「親方」


「へい」


「あなたは、最初に娘が見たものを、白い影とおっしゃった」


「ええ」


「ところが、屋敷の主人は白い女を見たと言い、あなたもまた、白い女を見たとおっしゃる」


「……同じことでございましょう」


「本当に、そうでしょうか」


 泰六は椀を置いた。


「娘は、女のようだったと言った。屋敷の主人は、白い着物の女を見たと言った。そして、あなたは、顔らしいものまで見たとおっしゃる」


 主人の顔から、血の気が引いた。


「それが、何か……」


「いえ。今は、まだ何も」


 泰六は、静かに首を振った。


「ただ、同じものを見たという人々が、なぜこれほど違う話をするのか。それが気になっただけです」


 主人は返事をしなかった。


 提灯の火が風に揺れ、屋台の影が石畳の上で細長く伸びた。


 進一は、主人の手が小さく震えていることに気づいた。


「親方。あなたは、なぜ今になって、その話を私たちに?」


 主人は、進一を見た。


 何かを言おうと、唇が動いた。


 だが、声は出なかった。


 やがて彼は、震える手で椀を片づけ始めた。


「……もう、十年も前の話でございます。忘れちまえばよかったんです。けれど、どうしても忘れられねえ」


「何を、です」


 泰六が尋ねた。


 主人は、顔を上げた。


「娘さんのことです」


 それだけ言うと、彼は再び口を閉ざした。


 その先を話せば、何かが壊れてしまう。そんな恐れが、彼の顔には浮かんでいた。


 泰六は、無理に続きを促さなかった。


 蕎麦の湯気は、いつの間にか薄くなっていた。


 夜の神田を、冷たい風が通り抜ける。


 甲斐の國の旧家に現れた白い影。


 夜ごと血を失った娘。


 閉ざされた部屋と、離れに向かって吠え続けた犬。


 そして、同じ夜を語りながら、少しずつ違うものを見ていた人々。


 泰六は、代金を屋台の板の上に置いた。


「親方。もし、もう少し思い出したことがあれば、また聞かせてください」


 主人は、代金を受け取らず、泰六の顔を見た。


「……お二人さんは、化け物なんぞ、信じちゃいねえんでしょう」


「信じるかどうかは、調べてから決めることです」


 泰六は立ち上がった。


「それまでは、白い影も、白い女も、ただの証言にすぎません」


 進一も立ち上がり、主人へ軽く頭を下げた。


 二人が屋台を離れても、主人はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 やがて、遠ざかる二人の背中に向かって、かすかな声を投げた。


「先生方……」


 泰六と進一が振り返る。


 主人は、言うべきかどうか迷っているようだった。


「もし、あの娘さんが……本当に、誰かに助けを求めていたんだとしたら」


 そこまで言って、主人は口を閉じた。


 泰六は何も答えなかった。


 ただ、主人の顔を一度だけ、深く見つめた。


 その眼差しには、すでに一つの疑問が宿っていた。


 ――この男は、甲府の屋敷で何を見たのか。


 そして、何を見なかったことにしたのか。


 神田の夜は、静かに更けていった。


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