小室泰六(SHERLOCK) - 神田の止まった時計、鳴らなかった十三時の鐘【後編】
神田の止まった時計、鳴らなかった十三時の鐘
【後編】
萬時堂の修理台には、三つの時計が並んでいた。
・壁の大時計は十一時四十分。
・帳場の置時計は正午。
・修理台の小型時計は十二時二十分。
そして、引き出しから見つかった小さな銀色の金属片。
小室泰六は、それらを順に眺めていた。
「先生。何か分かりましたか」
和田進一が尋ねた。
「分かったことと、まだ分からないことがある」
「では、分かったことから教えてください」
「三つの時計が、同じ時刻に止まったとは限らないということだ」
泰六は壁の大時計を見上げた。
「この時計は、一昨日の夕方に巻き上げたと藤吉さんは言っていた。帳場の置時計は昨日の朝。そして修理台の時計は、調整の途中だった」
「つまり、止まった理由も、それぞれ違うかもしれない」
「その通りだ。三つの時計が止まっていたというだけで、盗難の時刻を推定することはできない」
藤吉は、落ち着かない様子で手を組んでいた。
「ですが、先生。三つとも止まっていたのです。誰かが、わざと止めたのではありませんか」
「その可能性はあります。しかし、可能性と証拠は別です」
泰六は修理台の時計を手前に引いた。
「まず、この時計から調べましょう」
裏蓋は開いたままだった。
泰六は、時計の内部をのぞき込んだ。歯車の一つが、わずかに動きにくくなっている。彼は工具を取り出し、部品を傷つけないよう慎重に位置を確かめた。
「藤吉さん。この時計は、どこを修理していたのですか」
「遅れが出るので、歯車のかみ合わせを調べていました」
「では、調整の途中で止まっていたとしても、不思議ではありませんね」
「ええ」
「この時計が十二時二十分を指していることに、特別な意味があるとは限らない」
藤吉は黙った。
泰六は次に帳場の置時計を調べた。
裏蓋を開け、動力を伝える部分を確かめる。部品には長年の使用による摩耗があった。
「こちらも、止まった原因を一つに絞ることはできません。少なくとも、三つの時計の針だけを見て、事件の時刻を決めるのは危険です」
進一は、三つの文字盤を見比べた。
「すると、三つの時計が示す時刻は、犯人が残した暗号ではないかもしれないのですね」
「そうだ。意味があるように見えるものほど、意味があると決めつけてはいけない」
泰六は、机の上に紙を置いた。
そこへ三つの時刻を書き記す。
十一時四十分。
正午。
十二時二十分。
その下に、もう一つ書き加えた。
正午の鐘、鳴らず。
「しかし、鐘が鳴らなかったことには、別の問題がある」
進一が顔を上げた。
「新吉さんが、時計台の仕組みに木片を挟んだことですね」
「彼は、鐘を止めたことを認めた。だが、懐中時計を盗んだことは認めていない」
「彼が鐘を止めた理由は、時計の仕組みを学ぶためだと言っていました」
「それが本当かどうかも、確かめる必要がある。ただ、鐘を止めたことと、時計を盗んだことを同じ罪として扱うわけにはいかない」
泰六は紙を折り、懐にしまった。
「進一。新吉さんをもう一度、呼んでくれ」
*
新吉は、修理台の前に立っていた。
泰六が声をかけると、彼は不安そうに振り返った。
「新吉さん。時計台の鐘を止めたことについて、もう少し聞かせてください」
「はい」
「あなたは、鐘の仕組みを学ぶために木片を挟んだと言いましたね」
「その通りです」
「では、なぜ、正午の鐘を止めようと思ったのですか」
新吉は、目を伏せた。
「……鐘が鳴る仕組みを、自分の目で確かめたかったのです。管理人さんに頼んでも、詳しいところまでは見せてもらえませんでした」
「それで、勝手に時計台へ入った」
「はい」
「危険なことをしたね」
「分かっています」
新吉は、唇をかんだ。
「親方には、まだ一人前ではないと言われています。ですが、私はもっと時計を学びたかった。いつか、自分で時計を修理できるようになりたかったのです」
進一は、その言葉を静かに聞いていた。
「新吉さん。あなたが時計を学びたいと思うこと自体は、悪いことではありません。ただ、他人のものを勝手に触れば、信頼を失ってしまう」
「はい……」
「それでも、鐘を止めたことと、懐中時計を盗んだことは別です。あなたは、銀の懐中時計を見ていませんか」
新吉は、すぐに答えなかった。
やがて、小さく首を振った。
「見ました。親方が、いつも大切にしていたものです。でも、盗んではいません」
泰六は、新吉の顔をしばらく見つめていた。
「分かりました。今のところ、あなたの言葉を否定する証拠はありません」
新吉は、驚いたように顔を上げた。
「先生、私は……」
「ただし、君が鐘を止めたことは、きちんと償わなければならない。時計の仕組みを学ぶなら、まず、職人として守るべき約束を学ぶことだ」
「はい」
新吉は、深く頭を下げた。
彼が店の奥へ戻ると、進一は泰六に尋ねた。
「先生は、新吉さんを信じるのですか」
「信じるかどうかを決める前に、確かめるべきことがある」
「それは?」
「銀の懐中時計が、本当に店の外へ持ち出されたのかどうかだ」
進一は、はっとした。
「店の中に、まだあるかもしれないということですか」
「その可能性を調べていない。盗まれたと聞いたからといって、盗まれたと決めてはいけない」
泰六は、帳場へ向かった。
*
藤吉は、引き出しの前に座っていた。
「藤吉さん。銀の懐中時計は、いつもこの引き出しに入れていたのですね」
「ええ」
「最後に見たのは、昨夜の夕方」
「そうです」
「そのあと、引き出しを開けた人は?」
「新吉が戸締まりをする前に、帳場の片づけをしていたはずです。ですが、引き出しには鍵を掛けていませんでした」
「つまり、店の鍵を持っている人でなくても、時計に手を伸ばすことはできた」
藤吉は、うなずいた。
泰六は、引き出しの内側をもう一度調べた。
古い擦り傷が幾筋も走っている。引き出しを長年使ってきた跡だった。
その奥には、前に見つけた小さな銀色の金属片があった。
「藤吉さん。この金属片は、何だと思いますか」
老人は目を細めた。
「銀時計の部品ではないでしょうか」
「その可能性はあります。ですが、これだけでは断定できません」
泰六は金属片を布に包んだ。
「懐中時計がなくなったことは確かです。しかし、いつ、誰が、どのように持ち出したのかは、まだ分かっていない」
進一が尋ねた。
「では、次に何を調べるのですか」
「銀の懐中時計が、どのような品だったかだ」
泰六は藤吉に向き直った。
「その時計を、もう少し詳しく説明していただけますか。大きさ、形、蓋の傷、そして、どこか修理したことがあるかどうか」
藤吉は、懐かしむように目を細めた。
「銀の蓋に、細い傷が一本あります。女房が若いころ、落としてつけた傷だそうです。中の機械は古いものですが、まだよく動きました」
「裏蓋を開けたことは?」
「何度もあります。私は時計職人ですから、時折、油を差し、歯車の具合を確かめておりました」
「最近では?」
「先月、一度だけ」
「そのとき、何か異常はありませんでしたか」
藤吉は考え込んだ。
「……いいえ。いつも通りでした」
泰六は、うなずいた。
「分かりました。では、その時計が店にあったことを確認できる人は、ほかにいますか」
「柴崎さんです。彼は、先週、店に来たとき、時計を見ております」
進一が顔を上げた。
「柴崎さんが?」
「ええ。時計の修理部品を届けに来たのです。そのとき、私が懐中時計を取り出して見せました」
泰六は、しばらく黙っていた。
「進一。柴崎さんに、もう一度来てもらおう」
*
柴崎が萬時堂へやってきたのは、その日の午後だった。
泰六は、彼を帳場の前に座らせた。
「柴崎さん。あなたは先週、この店に来たとき、藤吉さんの銀の懐中時計を見たそうですね」
「ええ。確かに見ました」
「そのとき、時計の蓋に傷があることも知っていましたか」
柴崎は、少し考えてから答えた。
「はい。細い傷が一本ありました」
「その傷は、どの位置にありましたか」
「……そこまでは、覚えておりません」
泰六は、彼を見つめた。
「そうですか」
柴崎は落ち着かない様子で膝の上の手を組み替えた。
「先生、私は何も盗んでおりません。私は、事件を知らせに来ただけです」
「ええ。あなたが知らせに来たことは承知しています」
泰六は、机の上に紙を置いた。
「では、もう一つ。昨夜、あなたは何時ごろ、どこにいましたか」
「店には来ておりません。家におりました」
「それを確かめられる人は?」
「家族がいます」
「なるほど」
泰六は、そこで質問を止めた。
進一は、柴崎の顔を見ていた。
彼は不安そうだったが、それだけで嘘をついているとは言えない。
泰六も、すぐに結論を口にしなかった。
「柴崎さん。最後に一つだけ、教えてください。藤吉さんが銀の懐中時計を大切にしていることを、あなたは知っていましたね」
「もちろんです。亡くなった奥様の形見だと聞いていましたから」
「それなら、時計がなくなったと聞いて、心配されたでしょう」
「それは……もちろんです」
柴崎は目をそらした。
泰六は、彼を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「柴崎さん。あなたは、時計のことを心配しているようには見えません。むしろ、時計が見つかることを恐れているように見えます」
柴崎の顔から、血の気が引いた。
「何をおっしゃるのです」
「まだ、あなたが盗んだと決めたわけではありません。ただ、あなたには、何か隠していることがあるように思えるのです」
柴崎は、立ち上がろうとした。
しかし、泰六が静かに言った。
「どうか、もう少しだけ、お話を聞かせてください」
柴崎は、ゆっくりと椅子に座り直した。
*
「……私は、時計を盗んではいません」
柴崎は、しばらくしてから言った。
「ですが、昨夜、萬時堂へ来たことはあります」
藤吉が驚いて顔を上げた。
「柴崎さん、あなたは来ていないと言ったではありませんか」
「申し訳ありません」
柴崎はうつむいた。
「私は、藤吉さんに頼まれていた部品を届けに来たのです。店の戸は閉まっていましたが、裏口の鍵を預かっていましたから、そこから入りました」
「なぜ、最初に言わなかったのですか」
進一が尋ねた。
「店に入ったことを知られれば、疑われると思ったからです」
柴崎は、苦しそうに続けた。
「私は、店の帳簿を見せてもらうために来たのです。部品の代金が、まだ支払われていなかったので」
泰六は、静かに聞いていた。
「昨夜、銀の懐中時計を見ましたか」
「……見ました」
柴崎は、とうとう答えた。
「帳場の引き出しが開いていたので、そこにあるのを見たのです」
「それで?」
「私は、時計を手に取りました」
藤吉が声を上げた。
「柴崎さん!」
「ですが、盗んではいません。私は、すぐに元へ戻しました」
柴崎は、額を押さえた。
「私は、借金のことで頭がいっぱいでした。藤吉さんに代金を払ってもらえなければ、私の商売も立ち行かなくなる。そんなことばかり考えていたのです」
進一は、柴崎を見つめた。
「それで、時計を売ろうと思ったのですか」
「いいえ。そんなつもりはありませんでした。ただ、銀の時計なら、いくらかの値打ちがあるだろうと……一瞬、考えてしまったのです」
「しかし、持ち出さなかった」
「はい。私は、時計を引き出しに戻しました」
泰六は、机の上の銀色の金属片を見た。
「では、この金属片は、そのときに落ちたものかもしれませんね」
柴崎は、目を見開いた。
「……分かりません。私は、時計を戻しただけです」
「そうですか」
泰六は、金属片を手に取った。
「この金属片が、銀の懐中時計の部品であるかどうかは、まだ確かめられていません。しかし、あなたが昨夜、引き出しを開け、時計を手に取ったことは分かりました」
柴崎は、うつむいたまま黙っていた。
「あなたは、時計を盗んでいないかもしれない。ですが、店に入ったことを隠し、疑いが新吉さんへ向かうようにしてしまった」
「私は、そんなつもりでは……」
「つもりがなかったとしても、結果は変わりません」
進一が、静かに言った。
「新吉さんは、鐘を止めたことを隠していました。そのために疑われた。しかし、あなたもまた、自分の行動を隠していたのです」
柴崎は、何も言い返せなかった。
藤吉は、深く息を吐いた。
「では、時計はどこへ行ったのです。柴崎さんが盗んでいないのなら、誰が持ち出したのですか」
泰六は、三つの時計を見渡した。
「それを、これから確かめるのです」
*
泰六は、修理台の小型時計を手に取った。
「藤吉さん。この時計は、昨夜、どこに置いてありましたか」
「ここです。修理台の上に」
「新吉さんが、最後に触れたのも?」
「そうです」
泰六は、時計を裏返した。
「この時計は、修理の途中だった。裏蓋は開いており、歯車の一部は調整されていた。つまり、普段の時計とは違い、内部に手を入れることができる状態だったわけです」
進一は、時計をのぞき込んだ。
「先生、何か見つけたのですか」
「まだ、確かなことは言えない。しかし、ここにある時計は、単に時間を示す道具ではない。誰かが何かを隠すために利用できる場所でもある」
泰六は、時計の内部を慎重に調べた。
歯車の陰に、薄い布の切れ端が挟まっていた。
それを取り出すと、藤吉が息をのんだ。
「その布は……」
「何か、見覚えがありますか」
「銀の懐中時計を包んでいた布袋と、同じような色です」
泰六は、布の切れ端を、布袋のほつれた部分に近づけた。
色合いも、織り目も、よく似ていた。
「これだけで、同じ布だとは断定できません。しかし、少なくとも、懐中時計がこの修理台の時計の近くにあった可能性は高い」
進一は、修理台の周囲を見回した。
「では、銀の懐中時計は、店の中にあるのでしょうか」
「その可能性がある。だが、どこにあるのかは、まだ分からない」
泰六は、壁の大時計へ目を向けた。
「三つの時計が示す時刻に、何か特別な意味があると思い込んでいた。しかし、時計の針は、ただ止まった場所を示しているだけかもしれない」
「では、事件の鍵は、時刻ではなく、時計そのものにあるのですね」
「そうだ。時計の仕組みを知る者なら、時計を止めることも、内部に何かを隠すこともできる」
泰六は新吉を呼んだ。
「新吉さん。修理台の時計を、最後に調整したのはいつですか」
「昨夜です」
「そのとき、裏蓋を開けたままにしていましたね」
「はい」
「では、そのあと、誰かがこの時計に触れた可能性はありますか」
新吉は考え込んだ。
「……私が店を閉める前、柴崎さんが来ていたのなら、可能性はあります」
柴崎が顔を上げた。
「私は、時計には触れていません」
「それを確かめる方法は、まだありません」
泰六は静かに言った。
「だからこそ、決めつけずに調べる必要があるのです」
*
その日の夕方、泰六と進一は、萬時堂の店内をもう一度調べた。
帳場の引き出し。
修理台。
壁の時計の裏側。
棚に並ぶ時計の箱。
しかし、銀の懐中時計は見つからなかった。
「先生。やはり、店の外へ持ち出されたのでしょうか」
進一が尋ねた。
「そうかもしれない。だが、まだ諦めるのは早い」
泰六は、修理台の時計を持ち上げた。
裏蓋の内側には、古い刻印があった。
時計職人が修理を行った日付や、部品を交換した記録を残すためのものだった。
「藤吉さん。この時計は、いつから使っているのですか」
「先代のころからです。もう二十年以上になります」
「では、内部の部品も、何度か交換されているはずですね」
「ええ」
泰六は、時計の底を指で軽く押した。
すると、内部から、かすかな音がした。
金属が、木の板に触れるような音だった。
泰六は、動きを止めた。
「進一。今の音を聞いたかい」
「はい。何かが、中で動いたような……」
泰六は、時計の内部をもう一度調べた。
歯車の奥、普段なら見えない場所に、小さな空間があった。
そこに、布で包まれたものが押し込まれていた。
泰六は、慎重に取り出した。
布を開くと、銀色の蓋が現れた。
細い傷が一本、表面を走っている。
藤吉が、息をのんだ。
「それは……私の時計です!」
老人は、両手で顔を覆った。
「よかった……。女房の時計が、戻ってきた……」
進一は、銀の懐中時計を見つめた。
「では、誰かがこの時計を、修理台の時計の中に隠したのですね」
「そのようだ」
泰六は、布を元に戻した。
「だが、誰が、何のために隠したのか。それを確かめなければならない」
藤吉は、新吉を見た。
新吉は、首を横に振った。
「私は、知りません。時計を盗んでいません」
泰六は、修理台の時計を元の位置に置いた。
「この時計を内部に隠すには、裏蓋を開け、歯車の位置を確かめる必要がある。時計の構造を知る者でなければ、簡単にはできないでしょう」
新吉は、うつむいた。
「私は、時計の仕組みを学んでいます。でも、親方の時計を盗むようなことはしていません」
泰六は、しばらく考え込んだ。
「新吉さん。あなたは、時計を隠したのではないかもしれない」
「先生……」
「しかし、誰かが時計を隠したことは確かです。そして、その人物は、修理台の時計を利用できる立場にあった」
泰六は、柴崎を見た。
柴崎は、青ざめていた。
「柴崎さん。あなたは昨夜、店に入り、引き出しから懐中時計を手に取ったと認めましたね」
「はい……」
「そのあと、時計を戻したと言いました。しかし、あなたが戻した場所は、本当に引き出しだったのでしょうか」
柴崎は、言葉を失った。
「あなたは、時計を手に取った。そして、盗むことをためらった。だが、店を出る前に、時計を隠すことを思いついたのではありませんか」
「違います……」
「では、なぜ、あなたは時計を手に取ったことを最初に隠したのですか」
柴崎は、何も答えなかった。
泰六は、静かに続けた。
「あなたは、時計を盗もうと考えた。しかし、藤吉さんの亡き妻の形見だと知っていたため、持ち出すことができなかった。そこで、時計を修理台の時計の内部に隠し、盗難が起きたように見せかけた」
「そんな……」
藤吉は、柴崎を見つめていた。
「柴崎さん。あなたが、そんなことを……」
柴崎は、とうとう椅子に座り込んだ。
「……申し訳ありません」
彼は、顔を覆った。
「私は、金に困っていました。部品の代金を払ってもらえず、商売が立ち行かなくなっていたのです。銀の時計を見たとき、これを売れば、少しは助かるのではないかと思ってしまいました」
「それで、時計を隠したのですか」
進一が尋ねた。
「はい。盗むつもりでした。しかし、時計を手にしたとき、藤吉さんが奥様の話をしていたことを思い出したのです。私は、持ち出すことができませんでした」
柴崎は、涙をこらえるように目を閉じた。
「だから、時計を修理台の時計の中に隠しました。誰かが見つける前に、取り戻そうと思っていたのです。でも、朝になって盗難騒ぎになり、怖くなってしまいました」
藤吉は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「柴崎さん。あなたが困っていたことは知りませんでした。しかし、だからといって、私の時計を勝手に隠してよい理由にはなりません」
「申し訳ありません……」
柴崎は、何度も頭を下げた。
泰六は、銀の懐中時計を藤吉へ渡した。
「藤吉さん。時計は戻りました。しかし、今回のことは、時計が戻れば終わりというわけではありません」
「ええ。分かっています」
藤吉は、時計を両手で包み込んだ。
「柴崎さん。あなたには、きちんと責任を取ってもらいます。ですが、あなたが困っていたことまで、なかったことにはしません」
柴崎は、涙を流しながら頭を下げた。
*
事件が片づいたあと、泰六と進一は、萬時堂を出た。
秋の空には、夕焼けが広がっていた。
「先生。結局、三つの時計が止まっていたことには、特別な意味はなかったのでしょうか」
進一が尋ねた。
「少なくとも、三つの時計が示す時刻だけで、犯人を特定することはできなかった」
「そして、鳴らなかった鐘は、新吉さんが止めたものだった」
「そうだ。彼は時計の仕組みを学びたかった。だが、そのために他人の時計台へ勝手に入り、鐘を止めてしまった」
進一は、少し考えてから言った。
「新吉さんも、柴崎さんも、何かを隠していたのですね」
「そうだね。新吉さんは、自分の未熟さを知られたくなかった。柴崎さんは、金に困っていることを知られたくなかった」
「そして、その二人の秘密が、事件を複雑にしてしまった」
泰六は、うなずいた。
「人間は、必ずしも悪意から嘘をつくわけではない。だが、悪意がなかったからといって、誰も傷つかないわけでもない」
進一は、静かに歩きながら言った。
「新吉さんには、時計の仕組みを学ぶ機会が必要なのでしょうね。柴崎さんには、自分の困窮を隠さずに相談できる相手が必要だったのかもしれません」
「そうかもしれない。しかし、必要なものがあることと、何をしてもよいことは違う」
泰六は、懐から懐中時計を取り出した。
秒針は、規則正しく動いていた。
「先生。その時計は、正確ですか」
進一が尋ねた。
「さあね」
泰六は、時計を閉じた。
「正確かどうかは、別の時計と比べてみなければ分からない」
「では、先生の時計も、疑ってかかるのですか」
「当然だ。自分の時計だけを正しいと思い込む探偵は、いつか間違える」
進一は笑った。
「それは、時計だけの話ではありませんね」
「その通りだ」
二人は、神田の通りを歩いていった。
背後では、萬時堂の時計が、静かに時を刻んでいた。
十三時の鐘は、鳴らなかった。
しかし、鳴らなかった鐘の向こうには、時計を学びたい若者の焦りがあり、金に困った男の弱さがあり、亡き妻の形見を守りたい老人の思いがあった。
泰六は、ふと足を止めた。
「進一」
「はい」
「時計の針は、過ぎ去った時間を示すことはできる。だが、その時間の中で、人が何を考え、何を恐れ、何を選んだのかまでは示してくれない」
進一は、うなずいた。
「だから、私たちが調べるのですね」
「そうだ。時計だけでなく、人間もね」
秋の夕空に、最初の星が浮かんでいた。
神田の街は、いつものように動き続けている。
そして、二人の探偵もまた、次の謎へ向かって歩き出した。
止まった時間の、その先へ。




