小室泰六(SHERLOCK) - 神田の止まった時計、鳴らなかった十三時の鐘【前編】
【登場人物紹介】
◾️小室泰六
神田で探偵を営む男。鋭い観察眼と論理的な推理力を持つ。物事を頭の中だけで決めつけず、現場に残された痕跡や道具の仕組みを、自分の目で確かめることを重んじる。今回の事件では、異なる時刻で止まった三つの時計と、鳴らなかった鐘の謎に挑む。
◾️和田進一
泰六の相棒。泰六が物や仕組みを観察する一方で、人間の表情や言葉の揺れに目を向ける。疑われている人物を頭から犯人と決めつけず、その人が何を恐れ、なぜ口を閉ざすのかを考える。今回も、時計の謎の向こうにいる人々の心を見つめる。
◾️藤吉
神田の時計店「萬時堂」を営む老時計職人。長年、時計の修理と製作に携わってきた熟練の職人である。十年前に亡くした妻の形見である銀の懐中時計を、何よりも大切にしている。その時計が消えたことで、店の弟子に疑いの目を向けてしまう。
◾️新吉
萬時堂で働く若い職人見習い。時計の仕組みを学び、いつか一人前の職人になることを目指している。事件の夜、最後まで店に残っていたことから、銀の懐中時計を盗んだのではないかと疑われる。ある事情から、時計台の鐘の仕組みにも関わっていた。
◾️柴崎
萬時堂の関係者。盗難事件の知らせを持って泰六のもとを訪れ、店の状況や三つの時計が止まっていたことを説明する。新吉に疑いの目を向けているが、その疑いが事実を示すものなのかは、まだ分からない。
◾️時計台の管理人
萬時堂の近くにある時計台の管理を任されている男。時計台の鐘が鳴らなかったという話を聞き、泰六たちの調査に協力する。鐘の仕組みに異常はなかったと考えていたが、調査によって思いがけない事実が明らかになる。
『この物語の鍵』
・壁の大時計は十一時四十分。
・帳場の置時計は正午。
・修理台の小型時計は十二時二十分。
そして、正午を告げるはずの鐘は鳴らなかった。
三つの時計が示す異なる時刻は、何を意味するのか。
銀の懐中時計を持ち去ったのは誰なのか。
時計の針だけでは、人の心までは測れない。
泰六の観察と進一の人間を見る目が、止まった時間の謎に迫る。
神田の止まった時計、鳴らなかった十三時の鐘
【前編】
明治三十三年、秋。
神田駿河台の朝は、薄い霧に包まれていた。
窓の外から、荷車の軋む音が聞こえる。遠くでは、豆腐売りの声が通りを渡っていた。
小室泰六は、机の上に置いた懐中時計を開いていた。
時計は動いている。
秒針が、小さな円を一周するたび、かすかな音を立てた。
「先生、今度は時計ですか」
和田進一が、湯気の立つ茶を二つ運んできた。
「今度は、とは失礼な。時計は毎日、我々に大切なことを教えてくれている」
「時間ですか」
「いや。時間を正確に知ることが、いかに難しいかということだ」
進一は、泰六の手元をのぞき込んだ。
「毎日、同じ時刻を指しているように見えますが」
「同じ時刻を指していることと、正しい時刻を指していることは別だよ」
「なるほど。人間の言い分と似ていますね」
「君は朝から、なかなか手厳しい」
泰六は笑って時計を閉じた。
そのとき、階段を駆け上がる足音がした。
戸を開けて入ってきたのは、三十代半ばの男だった。濃紺の着物に羽織をまとい、額には汗が浮かんでいる。
「小室先生でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「私は神田の時計店、萬時堂の柴崎と申します。どうか、お力をお貸しください」
男は名刺を差し出すと、落ち着かない様子で両手を握り合わせた。
「店で盗難がありました。亡くなった主人の奥様の形見だという、銀の懐中時計がなくなったのです」
泰六は、名刺を机に置いた。
「盗まれたと判断された理由は?」
「昨夜、店を閉めるまでは、確かにあったのです。ところが今朝、主人が探したところ、どこにも見当たらない。店の戸には内側から掛け金が下ろされ、裏口にも異常はありませんでした」
「窓は?」
「すべて閉まっていました」
「それで、密室だと」
「はい。しかも、妙なことが起きていたのです」
柴崎は、声を低くした。
「店にある三つの時計が、それぞれ違う時刻で止まっておりました」
進一が顔を上げた。
「三つともですか」
「壁の大時計は十一時四十分。帳場の置時計は正午。修理台に置いてあった小さな時計は十二時二十分。どれも、動かなくなっていたのです」
泰六はすぐには答えなかった。
机の上の懐中時計を、もう一度開いた。
秒針は、変わらず動いている。
「その三つの時計は、普段から正確に時を刻んでいたのですか」
「主人は時計職人です。自分の店の時計が狂うことを、何より嫌っております」
「それは、店主にとっての誇りでしょうね。しかし、時計が止まったという事実と、盗難が起きた時刻とは、まだ結びついていません」
柴崎は、少し驚いた顔をした。
「ですが、三つとも違う時刻を示しているのです」
「だからこそ、実物を見たいのです」
泰六は立ち上がった。
「進一、出かけよう」
「はい」
柴崎は、ほっとしたように頭を下げた。
「ありがとうございます。実は、主人の弟子の新吉が疑われているのです。昨夜、最後まで店に残っていたのは彼でした」
「それは、店を閉める仕事を任されていたからですか」
「ええ。ですが、あの男は最近、金に困っているようでして……」
泰六は羽織を手に取った。
「金に困っていることと、時計を盗んだことは同じではありません。まずは、時計を見ましょう」
*
萬時堂は、神田の通りから少し入った場所にあった。
店先には、大小さまざまな時計が並んでいる。振り子時計の規則正しい音が重なり、店内には、時を刻む音の薄い膜が張られているようだった。
帳場の奥には、白髪の老人が座っていた。
藤吉という名の時計職人だった。
「小室先生ですか。お手数をおかけします」
老人は丁寧に頭を下げたが、その顔には疲れがにじんでいた。
「なくなった時計について、教えてください」
泰六が尋ねると、藤吉は懐から小さな布袋を取り出した。
「これに入れていたのです。銀の蓋に、細い傷が一本ある。女房が嫁入りのときに持ってきた品でした」
「奥様は、いつ亡くなられたのですか」
「十年前です」
藤吉は布袋を握りしめた。
「時計そのものに、たいした値打ちはありません。ですが、女房が最後まで大切にしていたものです。私は、これだけは手放せなかった」
進一は、老人の指を見た。
長年、工具を握ってきた職人の手だった。節は太く、爪の間には、いくら洗っても落ちきらない油の跡が残っている。
「それで、新吉さんが疑われているのですね」
進一が尋ねた。
「昨夜、店を閉めたのは新吉です。私は奥で帳簿をつけていました。あの子は腕のいい弟子ですが、近ごろは様子がおかしい。何かを隠しているように見えたのです」
「新吉さんは、盗んだと認めているのですか」
「いいえ。何もしていない、と言っています」
藤吉は唇をかんだ。
「ですが、ほかに誰がいるというのです。鍵を持っている者は限られています」
泰六は、老人の顔を見た。
「藤吉さん。疑うことは必要です。しかし、疑いを事実に変えるには、もう少し材料が要ります」
そう言って、泰六は店内を見渡した。
壁には大きな振り子時計が掛かっている。
帳場には、真鍮の縁取りがある置時計。
そして修理台の上には、裏蓋を外された小型の時計が置かれていた。
いずれも、針が動いていない。
泰六は、まず壁の時計の前に立った。
「十一時四十分」
文字盤の針を確かめ、次に振り子をそっと押してみる。
振り子は、わずかに揺れたあと、すぐに止まった。
「無理に止められたようには見えませんね」
進一が言った。
「まだ分からない。止まった原因を見つけるまでは、そう判断できないよ」
泰六は時計の下部に目を向けた。振り子の周囲にも、床にも、不自然なものは見当たらない。
次に帳場の置時計を調べる。
正午を指した針は、きっちり重なっていた。
泰六は時計を持ち上げ、耳を近づけた。
音はしない。
裏蓋を開けると、歯車がいくつも並んでいる。彼は内部を傷つけないよう、目を細めて観察した。
「こちらは、動力が尽きた可能性があります。ですが、まだ断定はできません」
最後に、修理台の小型時計へ向かった。
十二時二十分。
裏蓋は開いたままだった。工具も数本、すぐそばに置かれている。
泰六は、時計の歯車に触れず、まず台の表面を見た。
細かな金属粉。薄い油染み。そして、工具を置いた跡。
「藤吉さん。この時計は、昨夜、修理していたものですか」
「そうです。時刻が遅れるので、調べておりました」
「最後に触ったのは?」
「私です。夕方には、ここに置いてありました」
「新吉さんは?」
「部品を運ぶため、何度か修理台に来ていました」
泰六はうなずいた。
そして、三つの時計を順に見直した。
十一時四十分。
正午。
十二時二十分。
進一も文字盤を眺めた。
「二十分ずつ、違いますね」
「そうだね」
「三つの時計が同じ時刻に止まったのではなく、それぞれ別の時刻を示している」
「その通りだ」
泰六は腕を組んだ。
「では、三つの時計が止まったことから、何が分かるだろう」
進一は少し考えた。
「少なくとも、この時刻に盗難が起きた、と簡単には言えません。時計が正確だったかどうかも、止まった原因も、まだ分かっていませんから」
「よろしい」
泰六は、わずかに笑った。
「探偵の仕事は、時計の針を見て時刻を読むことだけではない。なぜ、その針がそこを指しているのかを考えることだ」
そのとき、店の奥から若い男が現れた。
細身で、頬がこけている。目の下には濃い隈があった。
「先生、私は何も盗んでいません」
新吉だった。
「誰も、まだ君が盗んだとは決めていないよ」
泰六が言うと、新吉は藤吉を見た。
「でも、親方は私を疑っているんです」
「昨夜、最後に店を出たのは君だね」
「はい。戸締まりをして、鍵を親方に返しました」
「そのあと、店に戻ったことは?」
「ありません」
「銀の懐中時計を見たことは?」
「何度もあります。親方が大切にしていたものですから。でも、触ったことはありません」
新吉は、何かを言いかけて口を閉じた。
進一はその様子を見逃さなかった。
「何か、ほかに気になることがあるのですか」
「……いえ」
「話してくれませんか。あなたを疑うためではなく、事実を知るためです」
新吉はしばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「昨夜、店を閉める前に、正午を知らせる鐘が鳴らなかったんです」
藤吉が顔を上げた。
「何だと?」
「いつも、通りの向こうの時計台から鐘の音が聞こえるでしょう。ところが昨夜は、いつもの時刻になっても鳴らなかった。私はおかしいと思いました。でも、親方に言うほどのことでもないと思って……」
泰六の表情が変わった。
「正午の鐘が鳴らなかった?」
「はい」
「それを、誰かほかの人も聞いていたのかな」
「分かりません。店の外にいた人なら、聞いたかもしれません」
泰六は時計台のある方角へ目を向けた。
店の中では、止まった三つの時計が沈黙している。
壁の時計は十一時四十分。
帳場の時計は正午。
修理台の時計は十二時二十分。
そして、鳴らなかった正午の鐘。
泰六は、まだ答えを口にしなかった。
「進一。明日、時計台を調べに行こう」
「鐘が鳴らなかった理由を?」
「それも含めてね」
泰六は、修理台の時計をもう一度見た。
「時計が止まった理由と、時計が盗まれた理由は、同じとは限らない。そこを取り違えると、我々は時計に騙されることになる」
進一はうなずいた。
店を出ると、秋の風が二人の間を通り抜けた。
まだ、犯人の名は分からない。
盗まれた銀時計がどこにあるのかも分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
三つの時計は、三つの時刻を指していた。
そして、正午の鐘は鳴らなかった。
その沈黙に、誰かの意思が隠れているのか。
それとも、ただの偶然なのか。
泰六は、歩きながら懐中時計を取り出した。
秒針は、今日も変わらず動いていた。
だが、正しい時刻を指しているかどうかは、まだ確かめていなかった。
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## 第五十五話 神田の止まった時計、鳴らなかった十三時の鐘【後編】
翌朝、泰六と進一は、萬時堂の近くにある時計台を訪ねた。
時計台は、通りの角に立つ古い建物の上に設けられていた。大きな文字盤が四方を向き、時刻を知らせる鐘が、その内側に吊られている。
管理を任されている男は、二人の話を聞くと、困った顔をした。
「昨夜、鐘が鳴らなかった? そんなはずはありません。鐘の仕組みに異常はなかったのですから」
「昨夜、正午の鐘を実際に聞いたのですか」
泰六が尋ねた。
「私は、その時間には別の用事で外に出ておりました。鐘が鳴ったかどうかは、確かめておりません」
「では、鳴ったという記録もないのですね」
「ええ。ですが、時計はいつも通り動いておりました」
泰六は、時計台の文字盤を見上げた。
「いつも通り動いていた、というのは、誰が確かめたのですか」
「……私ですが」
「昨日の正午にも、ですか」
男は言葉に詰まった。
「いや、正午には、ここにいなかったと申し上げたでしょう」
「そうでしたね」
泰六はそれ以上、追及しなかった。
時計台の内部を見せてもらうと、鐘を鳴らすための仕組みは、歯車と重り、そして時刻に合わせて動く小さな部品から成っていた。
泰六は、部品に触れる前に、まず全体を眺めた。
「この仕組みは、正午だけでなく、ほかの時刻にも鐘を鳴らすのですか」
「いいえ。正午に一度だけです」
「それなら、正午を過ぎても鳴らなかった場合、次に鳴るのは?」
「翌日の正午です」
泰六はうなずいた。
「つまり、昨日の鐘が鳴らなかったのなら、次に確かめられるのは今日の正午ということですね」
進一は、時計台の内部を見回した。
「先生。鐘が鳴らなかったことと、萬時堂の三つの時計が止まったことは、関係があるのでしょうか」
「まだ分からない。だが、関係があると考える理由はある」
「三つの時計が違う時刻を指していることですか」
「それもある。しかし、もっと大事なのは、誰がその三つの時計を見て、どんな意味を読み取るかということだ」
泰六は、時計台を出る前に、鐘を鳴らす仕組みの管理をしている男へ尋ねた。
「昨夜、この時計台に来た人はいますか」
「私が知る限りでは、誰も」
「鍵は?」
「私が持っています」
「合鍵はありますか」
「ありません」
泰六は男に礼を言い、外へ出た。
通りには、荷車が行き交っていた。
「進一。鐘が鳴らなかったという話は、今のところ新吉さんの証言だけだ。だが、彼が嘘をついていると決める理由もない」
「はい」
「時計台の管理人が嘘をついているとも、まだ言えない。単に、正午にその場にいなかったのだからね」
「それでは、何を調べればよいのでしょう」
「時計そのものだよ。鐘の仕組みも、萬時堂の時計も、実物が何を語っているかを調べる」
*
萬時堂へ戻ると、藤吉は修理台の前に立っていた。
泰六を見るなり、老人は深く頭を下げた。
「先生、何か分かりましたか」
「まだです。ところで藤吉さん、三つの時計について、もう少し詳しく教えていただきたい」
「何なりと」
「壁の時計は、最後にいつ巻き上げましたか」
「一昨日の夕方です。あれは長く動く時計ですから、毎日巻く必要はありません」
「帳場の時計は?」
「昨日の朝です」
「修理台の時計は?」
「それは、まだ調整中でした。動力を入れたまま、歯車の動きを確かめていたのです」
泰六は、それぞれの時計を見た。
「三つとも、巻き上げた時刻が違うのですね」
「ええ。時計によって、仕組みも違いますから」
「では、三つとも、同じ時刻に止まったとは限らない」
「もちろんです。時計は、それぞれ別の理由で止まることがあります」
藤吉は、そこで言葉を切った。
「ですが、三つとも止まっていたのです。偶然にしては妙でしょう」
「妙であることと、誰かが止めたことは、別です」
泰六は壁の時計の前に立った。
振り子を外し、慎重に歯車の動きを確かめる。目を凝らし、部品の位置を見ていった。
しばらくして、彼は小さな紙片を取り出した。
「進一、これを見てくれ」
紙片には、細かな数字が書き込まれていた。
「何ですか、これは」
「歯車の歯数と、振り子の動きから計算したものだ。時計がどのような速さで進むかを確かめるための記録だよ」
「時計職人の計算ですね」
「そう。時計は、ただ針が回っているだけではない。歯車の一つ一つが、決められた割合で動いている」
泰六は帳場の置時計も調べた。
こちらは、動力を伝える部分に古い摩耗があった。時計が止まった理由を、それだけで断定することはできないが、少なくとも、長い間使われてきた品であることは分かった。
最後に、修理台の小型時計。
泰六は裏蓋を開いたまま、歯車を眺めた。
「これは、修理中だったという話でしたね」
「はい」と藤吉が答えた。
「ならば、ほかの二つと同じように扱うことはできません。調整のために、部品が外されていた可能性もある」
進一は、修理台の上に置かれた工具を見た。
「ここにある工具は、昨夜から動かしていませんか」
「はい。今朝、店を開けたとき、そのままでした」
「新吉さんも、ここを使っていたのですか」
「ええ。私の手伝いをしておりましたから」
泰六は、工具の並びを見つめた。
一本だけ、ほかの工具よりも柄が新しいものがあった。
「これは?」
「小型の時計を調整するための工具です。新吉が最近使い始めました」
「彼が、これを使っていたのですね」
「そうです」
泰六は工具を手に取らず、置かれた位置だけを確かめた。
「進一。ここで大切なのは、工具があったということだけではない。誰が、いつ、何のために使ったのかだ」
「使った人が分かっても、それだけでは盗難の証拠にはなりませんね」
「その通りだ」
泰六はうなずいた。
「疑いを証拠にすり替えてはいけない」
*
昼近くになり、泰六は藤吉に、昨夜の店の様子をもう一度尋ねた。
「昨夜、店を閉める前に、何か変わったことはありませんでしたか」
「特には……」
藤吉は考え込んだ。
「いや、一つありました。新吉が、修理台の時計を見て、何かを気にしていたようです」
「何を気にしていたのでしょう」
「分かりません。ただ、あの子は時計を見たあと、私に『親方、明日の朝まで、この時計を動かしておきますか』と尋ねました」
「藤吉さんは、何と答えたのですか」
「修理中なのだから、動かしておけ、と」
泰六は黙って聞いていた。
「新吉さんは、どうしてそんなことを尋ねたのでしょうね」
進一が言った。
「それは、本人に聞くほかありません」
泰六は、店の奥にいた新吉を呼んだ。
「新吉さん。昨夜、修理台の時計について、親方に質問したそうですね」
新吉はうなずいた。
「はい。あの時計は、調整が終わっていませんでしたから」
「なぜ、動かしておく必要があると思ったのですか」
「時計がどれだけ遅れるのか、朝まで確かめたかったのです」
「なるほど」
泰六はそれ以上、追及しなかった。
新吉は、何かを言いたげにしていたが、結局、口を閉じた。
進一は、その様子を見ていた。
「新吉さん。あなたは、親方に何か隠していることがあるのではありませんか」
新吉の顔がこわばった。
「……ありません」
「そうですか」
進一は、無理に問い詰めなかった。
「ただ、あなたが何かを隠しているとしても、それが時計を盗んだことと同じだとは限りません。話せることがあれば、いつでも話してください」
新吉は、うつむいた。
泰六は、進一を見た。
「君は、人間の顔を見るのがうまいね」
「先生ほど、時計の歯車を見るのがうまくありませんから」
「それは、互いに補い合えばよいことだ」
泰六は時計台の方角を見た。
正午が近づいていた。
「進一。もう一度、時計台へ行こう」
*
時計台では、管理人が鐘の仕組みを確認していた。
泰六と進一が到着したとき、時計の針は正午を指そうとしていた。
二人は、鐘の音を待った。
針が重なった。
しかし、鐘は鳴らなかった。
管理人が慌てて内部を調べる。
「おかしい。確かに、昨日までは動いていたはずなのに」
泰六は、鐘を鳴らす仕組みを観察した。
そして、歯車のそばに、小さな木片が挟まっているのを見つけた。
「これを取り除いてもよろしいですか」
管理人はうなずいた。
泰六が木片を外すと、仕組みは元の位置に戻った。
「誰かが、ここに挟んだのでしょうか」
進一が尋ねた。
「その可能性はある。しかし、誰が、いつ、何のためにしたのかは、まだ分からない」
泰六は木片を布に包んだ。
「管理人さん。昨夜、この時計台に入った人を、もう一度思い出してください。鍵を持っている人だけでなく、あなたが鍵を開けた相手も含めて」
管理人は、しばらく考えた。
「……そういえば、昨日の夕方、時計の調子を見てほしいと言ってきた男がいました」
「どんな男でしたか」
「若い職人のようでした。時計の仕組みに詳しく、私が説明する前に、鐘を鳴らす部品について尋ねてきました」
泰六と進一は顔を見合わせた。
「その男の名前は?」
「聞いておりません。ただ、神田の時計店で働いていると言っていました」
管理人は、思い出すように目を細めた。
「確か、萬時堂という店の名を口にしていたような……」
進一は息をのんだ。
「新吉さんでしょうか」
「まだ決めつけてはいけない」
泰六は静かに言った。
「時計台へ来たのが新吉さんだったとしても、鐘を鳴らさなかったことと、懐中時計の盗難がどうつながるのかを確かめなければならない」
彼は木片を見つめた。
「だが、これで一つ分かったことがある。鐘が鳴らなかったのは、単なる故障ではなかった可能性が高い」
「では、誰かが時刻を偽ろうとしたのでしょうか」
「その可能性もある」
泰六は時計台を出た。
「しかし、時刻を偽ることが目的だったのか、それとも別の目的のために鐘を止めたのか。それを考える必要がある」
*
萬時堂へ戻ると、藤吉と新吉は、帳場の前に立っていた。
泰六は、二人を見比べた。
「藤吉さん。昨夜、銀の懐中時計を最後に見たのは、いつですか」
「夕方です。帳場の引き出しに入れました」
「引き出しには鍵が掛かっていましたか」
「いいえ。いつも、そこに入れておくのです」
「では、店の鍵が掛かっていたことだけでは、盗難があった時刻を特定できませんね」
藤吉は、はっとした顔をした。
「そういえば……」
「それから、三つの時計が止まっていたことも、盗難の時刻を示す証拠にはなりません。時計が止まった原因は、それぞれ調べる必要があります」
泰六は、新吉に向き直った。
「新吉さん。あなたは、時計台へ行きましたか」
新吉は、しばらく黙っていた。
「……はい」
「なぜですか」
「鐘の仕組みを見たかったのです。親方が、時計の調整を任せてくれるようになったので、もっと勉強したいと思いました」
「鐘を鳴らす仕組みに、木片を挟んだのもあなたですか」
新吉は顔を上げた。
「はい」
藤吉が声を荒らげた。
「新吉! お前がやったのか!」
「申し訳ありません、親方。でも、時計を盗んだのは私ではありません」
新吉は、深く頭を下げた。
「私は、鐘が鳴る仕組みを調べたかっただけです。木片を挟んだのは、鐘がどのように止まるのかを確かめるためでした。翌朝には取り除くつもりでした」
「それなら、なぜ黙っていたのですか」
進一が尋ねた。
「親方に叱られると思ったからです。それに、鐘が鳴らなかったと知られれば、時計台に勝手に入ったことも分かってしまいます」
新吉は唇をかんだ。
「私は、親方の時計を盗んでいません」
泰六は、彼の顔を見た。
「新吉さん。あなたが鐘を止めたことは、今、分かりました。しかし、それだけで懐中時計を盗んだと決めることはできません」
「先生……」
「あなたが鐘を止めた理由は、時計の仕組みを学びたかったから。それが本当なら、あなたは盗難とは別のことで、店主に隠し事をしていたことになる」
泰六は、木片を机に置いた。
「だが、まだ一つ、分からないことがある。なぜ、あなたは三つの時計が止まったことを知っていたのですか」
新吉は、目を見開いた。
「私は……」
言葉が続かなかった。
泰六は、急かさずに待った。
やがて新吉は、小さな声で答えた。
「昨夜、店を閉める前に、三つの時計を見ました。壁の時計は十一時四十分、帳場の時計は正午、修理台の時計は十二時二十分を指していました」
「それで?」
「私は、時計の調子が悪いのだと思いました。だから、親方に言おうとしたのですが……」
「言わなかった」
「はい」
藤吉は、苦しそうに目を閉じた。
「どうして、言わなかったのだ」
「親方が、時計の狂いをひどく嫌っているからです。私が修理を任された時計が狂っていると分かれば、もう仕事を任せてもらえないと思いました」
進一は、新吉を見つめた。
盗難の疑いを晴らしたい一心で、彼はようやく、自分の弱さを口にしたのだった。
泰六は、三つの時計を見渡した。
「では、もう一度、最初から考えよう」
彼は壁の時計を指した。
「十一時四十分。帳場の時計は正午。修理台の時計は十二時二十分。三つの時計は、それぞれ異なる時刻を指していた。新吉さんは、昨夜、そのことを知っていた」
次に、時計台の木片を指す。
「そして、正午の鐘は、誰かが仕組みに木片を挟んだために鳴らなかった」
泰六は進一を見た。
「ここまでで、何が言えるだろう」
進一は考えた。
「三つの時計が止まったことと、鐘が鳴らなかったことは、どちらも時刻に関わっています。しかし、同じ人物が両方を仕組んだかどうかは、まだ分かりません」
「その通りだ」
泰六はうなずいた。
「そして、盗難があった時刻も、まだ特定できていない」
彼は、帳場の引き出しを見た。
「藤吉さん。銀の懐中時計が入っていた引き出しを、見せていただけますか」
老人は、ゆっくりと引き出しを開けた。
中には、古い帳簿と布袋が入っていた。
泰六は布袋を手に取り、裏返した。
縫い目の一部が、ほつれていた。
「この袋は、いつから使っているのですか」
「女房が亡くなる前からです。時計を入れて、大切にしておりました」
「最近、修理したことは?」
「いいえ」
泰六は、袋を元に戻した。
「では、この布袋は、盗難の前からここにあったということですね」
「そうです」
泰六は、引き出しの内側を調べた。
木の表面には、細かな擦り傷があった。引き出しを何度も開け閉めしたことでできた、古い傷のようだった。
その奥に、ごく小さな銀色のものが光っていた。
泰六は、指先でそれを取り出した。
薄い金属片だった。
「これは、何でしょう」
進一が尋ねた。
泰六は、金属片を光にかざした。
「まだ分からない。ただ、銀の懐中時計と関係があるかもしれない」
藤吉は息をのんだ。
「まさか、時計の部品ですか」
「そうかもしれません。ですが、確かめるまでは、何とも言えません」
泰六は金属片を布に包んだ。
「進一。これを持って、もう一度、時計の修理台を調べよう」
「はい」
新吉は、不安そうに二人を見つめていた。
泰六は、彼に言った。
「新吉さん。あなたが鐘を止めたことは、確かに問題です。ですが、それと盗難の責任は別に考えなければならない。事実を隠さず話してくれたことには、感謝します」
新吉は、深く頭を下げた。
店の外では、昼の鐘が鳴り始めていた。
今度は、確かに音がした。
泰六は、その音を聞きながら、銀色の金属片を見つめた。
止まった時計。
鳴らなかった鐘。
そして、引き出しに残された小さな金属片。
まだ、真相には届いていない。
だが、少なくとも、事件の輪郭は見え始めていた。
時計の針が示す時刻だけを追いかけても、真実にはたどり着けない。
時刻を作った人間の手を見なければならないのだ。
泰六は、静かに言った。
「進一。時計は、嘘をつかないのかもしれない。だが、時計を使う人間は、時計に嘘を語らせることができる」
進一はうなずいた。
「では、私たちは、その嘘を見つけましょう」
二人は、修理台へ向かった。
その先に何が待っているのか、まだ誰も知らなかった。
ただ、三つの時計が止まった理由と、銀の懐中時計が消えた理由は、必ずどこかでつながっている。
そして、鳴らなかった十三時の鐘の謎も。
その答えは、時計の針ではなく、職人の手の中に隠されていた。




