小室泰六(SHERLOCK) - 駿河台の星月夜、天窓から落ちた泥棒と職人の算法 【後編】
小室泰六(SHERLOCK) - 駿河台の星月夜、天窓から落ちた泥棒と職人の算法
【前編】
「そして、この寸法だ」
泰六の指が、紙の裏に書かれた数字の上で止まった。
源蔵が、また咳払いをした。
今度は、先ほどよりも大きかった。
「源蔵さん」
泰六が呼びかけた。
「君は、佐吉君に木取りを教えたそうだね」
「……ああ。大工なら、覚えておかなきゃならねえ仕事だ」
「木材は、切ってしまえば元には戻らない。だから、切る前に考える。どこから、どれだけ切り出すか。無駄を出さず、必要な寸法を確保する。そのために、何度も計算する」
泰六は、紙の裏を軽く叩いた。
「この紙には、その考え方がよく表れている」
「だから何だってんだ」
「この富士山の絵も、同じように考えて描かれているように見えるのだよ」
柴崎巡査が、紙を覗き込んだ。
「絵と木取りの計算が、同じだと?」
「まったく同じではない。しかし、無駄を嫌う職人の手つきが見える。山の輪郭を描き、内側を塗りつぶしながらも、紙の端はほとんど汚していない。何も考えずに塗ったのなら、こうはならないだろう」
泰六は紙を持ち上げ、源蔵を見た。
「君は、この絵を描いた者が、紙の裏に何が書かれているか知っていたと思うかね」
源蔵は答えなかった。
「知らなければ、計算を汚さぬように塗る必要もない。だが、知っていたなら、話は違ってくる」
佐吉が、はっとした顔をした。
「親方……」
「待て、佐吉。まだ決まったわけじゃねえ」
源蔵は、声を荒らげた。
泰六は頷いた。
「そのとおり。まだ決まったわけではない。だから、別の手掛かりも調べよう」
彼は天窓を見上げた。
「柴崎君。あの留め金は、内側から動かせる造りになっている。細い木片を差し込めば、手の届きにくい場所からでも動かせるかもしれない」
「しかし、外から動かしたのなら、泥棒がいたことになるのでは?」
「外から動かしたとは限らない。天窓が開いていたことと、誰かがそこから入ったことは、別の話だ」
泰六は梯子を引き寄せ、天窓の枠をもう一度調べた。
留め金の近くには、細い擦れ跡があった。
「ここだ」
泰六は、跡を指した。
「最近ついたものかどうか、これだけでは断定できない。しかし、留め金の隙間には、細い木片を差し込めそうな余地がある」
佐吉が顔を上げた。
「木片なら、作業場にいくらでもあります」
「そうだね。だが、それは誰にでも手に入る。木片が使えるというだけで、犯人を決めることはできない」
泰六は梯子を降りた。
「大切なのは、天窓から人が入ったと仮定しなければ、説明できない事実があるかどうかだ」
柴崎は、腕を組んだまま考え込んだ。
「許可証がなくなった。天窓が開いていた。黒い絵が落ちていた。それらをひとつずつ見直せば、必ずしも泥棒が侵入したとは限らない……そういうことですか」
「そうだ。疑いを抱くのは構わない。しかし、疑いを事実に変えるには、確かな根拠が要る」
泰六は、佐吉の道具箱に目を向けた。
「佐吉君。君が預かっていた寸法書は、どこに置いていた?」
「道具箱の中です。大事なものだから、なくさないように」
「箱の底に、二重になった板はないかね」
佐吉は目を丸くした。
「あります。道具箱を作ったとき、親方が底板を二重にしてくれたんです」
源蔵の顔色が、わずかに変わった。
泰六はそれを見逃さなかった。
「なるほど。職人の細工というものは、実に便利だね。物を守るためにも、隠すためにも使える」
源蔵は、視線を逸らした。
*
「親方」
進一が声をかけた。
「佐吉さんは、あなたを信じていますよ」
源蔵が顔を上げた。
「何を言ってやがる」
「あなたが教えてくれた仕事を、きちんと覚えようとしている。寸法を間違えないように、何度も計算している。そんな人が、いきなり盗人扱いされたら、どんな気持ちになるでしょう」
佐吉は、唇を噛んでいた。
「俺は……親方に教わったことを、忘れたくないんです」
源蔵の顔から、少しずつ強張りが消えていった。
「俺は、ただ……」
そこで言葉が途切れた。
泰六は、急かさなかった。
やがて源蔵は、大きなため息をついた。
「……悪かった」
誰に向けた言葉なのか、すぐには分からなかった。
源蔵は、佐吉を見た。
「許可証は、俺が隠した」
長屋が静まり返った。
柴崎が目を見開く。
「何だと!」
「盗むつもりじゃなかったんだ。あの許可証がなけりゃ、役所へ届ける仕事が止まる。だが、佐吉が書類を預かっていることを知って、ちょっと驚かせてやろうと思ったんだ」
「驚かせる?」
「天窓を開けて、変な絵を置いておけば、泥棒が入ったと思うだろう。許可証は、あいつの道具箱の底に隠した。朝になったらすぐ返すつもりだった」
「何のために、そんなことを?」
進一が尋ねた。
源蔵は、決まり悪そうに頭を掻いた。
「今夜の鍋だよ」
「……鍋?」
「佐吉の奴、最近は仕事ばかりで、長屋の連中と飯も食わねえ。今夜くらい、皆で騒ごうと思ってな。あいつが慌てて探し回れば、仕事のことなんか忘れるだろうと……」
「それで、許可証を隠したのですか」
「……そうだ」
柴崎が怒鳴った。
「馬鹿者! お上の許可証を悪戯に使うとは何事だ!」
源蔵は、肩をすぼめた。
「分かってる。俺が悪かった」
泰六は、佐吉の道具箱を指した。
「許可証は、その二重底にあるのだろう?」
源蔵は観念したように頷いた。
佐吉が道具箱を開け、底板を持ち上げる。
そこには、折り畳まれた許可証があった。
柴崎はそれを確認すると、源蔵に厳しい視線を向けた。
「悪戯で済む話ではないぞ。書類を隠せば、仕事に支障が出る。ましてや、若い者に疑いをかけるなど!」
「……はい」
源蔵は、深く頭を下げた。
泰六は、真っ黒な富士山の絵を持ち上げた。
「では、最後にひとつ。なぜ富士山を真っ黒に塗ったのかね」
源蔵は、ばつが悪そうに笑った。
「佐吉が、いつも富士山の話をするからだ。仕事場から見える日には、あいつ、手を止めて眺めてやがる。だから、富士山を真っ黒にして、驚かせてやろうと思った」
「なるほど」
泰六は、紙を裏返した。
「しかし、君は絵を塗りつぶすとき、裏に書かれた計算を消さなかった。仕事の記録を無駄にしたくなかったのだろう」
源蔵は、目を逸らした。
「……そりゃ、そうだ。あいつが一生懸命に書いたもんだからな」
進一は、佐吉の顔を見た。
怒りと安堵と、まだ言葉にならない気持ちが、その顔に混じっていた。
泰六は、最後に告げた。
「思いやりというものは、相手の気持ちを考えずに押しつければ、ただの迷惑になることもある」
源蔵は、今度こそ深く頭を下げた。
「佐吉、悪かった」
佐吉はしばらく黙っていた。
「……もう、やめてくださいよ。俺、本当に怖かったんですから」
「ああ。もうしねえ」
源蔵の返事は、先ほどよりもずっと小さかった。
*
事件が片づくころには、昼を回っていた。
柴崎巡査は許可証を確認し、源蔵には改めて事情を聞くと告げた。悪戯だからといって、役所の書類を勝手に隠したことが帳消しになるわけではない。
長屋の人々も、ようやく普段の顔を取り戻した。
進一は、佐吉の道具箱を覗き込んだ。
「それにしても、職人の算法というのは面白いですね」
「算法なんて、たいそうなもんじゃないですよ。木を無駄にしないために、何度も計算するだけです」
「その計算が、事件を解く手掛かりになったんです」
泰六は、真っ黒な富士山の絵を折り畳んだ。
「人間は、しばしば難しいことを考えすぎる。天窓から侵入した大泥棒、消えた許可証、謎めいた絵。そう並べれば、立派な怪事件に見える」
「でも、実際には?」
進一が尋ねる。
「ひとりの親方が、若い職人を驚かせようとした。それだけのことだ」
泰六は、そこで一拍置いた。
「ただし、悪戯が小さいからといって、被害まで小さいとは限らない。佐吉君は、罪もないのに疑われたのだからね」
進一は頷いた。
「親方にも、悪気はなかったのかもしれません。でも、悪気がないことと、相手を傷つけないことは違いますね」
泰六は、わずかに微笑んだ。
「君は、そういうところをよく見ている」
「先生は、指の跡や寸法ばかり見ていますから」
「それで君が人間を見るなら、役割分担としては申し分ない」
「先生。そろそろ、鍋の役割分担も考えませんか」
「何だね、それは」
「鮪を切る人、葱を切る人、鍋を見張る人です」
泰六は、真剣な顔で頷いた。
「それは重要だ」
*
夕刻。
長屋の一室には、湯気が立ちのぼっていた。
鍋の中では、鮪の脂が葱に染み込み、醤油の香りが部屋いっぱいに広がっている。
源蔵は、佐吉の前に頭を下げた。
「今日は、悪かった。鍋の一番いいところは、お前にやる」
「一番いいところって、どこです?」
「鮪の脂がよく染みた葱だ」
「それ、親方が食べたいだけじゃないですか」
笑いが起きた。
源蔵は、照れ隠しに鍋をかき混ぜた。
進一は、椀を手に取り、熱い汁をひと口すすった。
「うまいですね」
「そうだろう」
泰六は、鮪を箸で持ち上げた。
「脂と葱の配分が適切だ。実に合理的だね」
「先生、まだ言ってるんですか」
「事実だからね」
長屋の人々は、笑いながら鍋を囲んだ。
窓の外には、秋の夜空が広がっていた。やがて星がひとつ、またひとつと姿を現す。
佐吉は、食事の手を止め、しばらく空を眺めた。
「富士山も、星も、明日になればまた見えるかな」
「見える日もあるし、見えない日もあるだろう」
泰六が答えた。
「だが、見えないからといって、そこにないとは限らない」
進一は、佐吉の椀に葱をひと切れ足した。
「ほら。冷める前に食べましょう」
佐吉は笑った。
「はい」
その夜、駿河台の空は澄んでいた。
天窓から落ちた泥棒はいなかった。
あったのは、ひとつの悪戯と、職人の計算と、疑われた若者の悔しさ。そして、謝るべきときに謝った親方の、少し不器用な思いやりだった。
泰六は、最後の鮪を口に運んだ。
「進一君」
「はい?」
「明日の朝も、富士が見えるといいな」
「ええ。見えるといいですね」
二人の前で、鍋の湯気が静かに揺れていた。
そして、その湯気の向こうにある星空は、誰のものでもなく、長屋の人々にも、探偵にも、同じように広がっていた。




