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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅴ 凌雲閣(りょううんかく)の墜死、十二階の気球と昏睡の蜘蛛 改訂版

一八九一年


瑞西(すいす)のライヘンバッハなる激流の滝壺において、シャーロック・ホームズと共に深淵へと墜落し、現世の記録から完全に消去(ロスト)されたはずの男「犯罪界のナポレオン」ことジェームズ・モリアーティ教授。


彼もまた、ホームズ(小室泰六)と同じ刻、時空のねじれの網の目に吸い込まれ、この東洋の泥の中へと漂着していた。

だが、その受肉のプロセスは、ホームズのそれとは全く異なる不気味な階層を経るものであった。

神田神保町の古書肆の盲目の主。その老人が、鉄路を疾走する馬車鉄道(路面電車の前身)の車輌に轢かれそうになり、間一髪で何者かに助け出されるも、頭を強く打って深い昏睡状態(意識の空白)に陥った、その数日間の暗黒の底。


お上の医者たちすら「機能停止」と匙を投げたその脳細胞の隙間へと、滝壺からロストしたモリアーティの冷徹な犯罪数理システム(最高峰の犯罪脳)が、一気に強制上書きされたのである。


数日後、男が奇蹟的に目を覚ましたとき、網膜の機能(視覚)は完全に消去されていた。


だが、その代わりに彼は、光を失った暗闇の底から、東京中のすべての音、匂い、そしてシャーロックが放つ言葉のパケットをすべて受信、同期する、目に見えぬ「犯罪の蜘蛛」として完全に覚醒していたのである。

「お前が『翻案小説』という嘘の盾の裏に隠れていようとも、すべては私の暗闇から見えているよ、シャーロック」

言葉のハッキングが、いま、東京神田で幕を開ける。



◾️古書律店 「あぢち堂」店主及び、仲間たち


「阿字地(あじち) 覚庵(かくあん)ジェームス・モリアーティ教授」

意味と因果:文字の根源を示す「阿字」の地(神保町)に座す、覚醒した庵の主。

 *別名「神目 信(かみめのぶ)」

意味と因果:光を失った「盲」の身でありながら、東京中のすべての音とホームズの言葉を「信号(パケット)」として受信する、お上の警察すら戸惑うような名。



2. 「蜘蛛の巣」と「インフラの支配」を象徴する者たち


「網野(あみの) 網蔵(あみぞう)」

意味と因果:神保町の古い書庫(網の目の中心)に座り、東京中の暗黒街のネットワーク(網)を統御する蜘蛛そのものの名前。



「黒縄(くろなわ) 伝兵衛(でんべえ)」

意味と因果:地獄の苦界を示す「黒縄(こくじょう)」、そして通信(電信)を裏から操る「伝」の文字。馬車鉄道の衝撃による昏睡から目覚めた、ハードボイルドな悪の巨頭にふさわしい重厚な響きです。



3. ホームズ(小室泰六)との「完璧な対比」する者


「大伴(おおとも) 宗理(そうり)」

意味と因果:小室泰六が「法律(お上の法規の網)」を学ぶ書生であるのに対し、教授の器は「純粋な数理と論理(宗理)」を極めた老人。大伴という旧い血統が、明治の近代インフラを内側からクラッシュさせようとする国策の闇と深く関わる男。



4. 浅草十二階の密偵(あさくじゅうにかいのみってい) / 役割:異国間諜(システム外からの侵入者)


出自と現状:日本の沿岸の潮流や風向きといった軍事気象インフラデータを強欲に狙っていた、帝政露西亜(ロシア)の海軍所属の軍事密偵(スパイ)。


この回において、お上の気象観測所の職員を凌雲閣(浅草十二階)の最上階から突き落とし、機密のゴム風船(気球)を強奪。本来なら単なる泥臭い力ずくの強盗で終わるはずだったが、あぢち堂の主から「天気図の等圧線を針で歪ませる、緯度二度の計算の罠(最高峰の対抗暗号)」を授かったことで、お上の警察の索敵網を完璧にハッキング。伝書鳩を使って北の艦隊へデータを送信する寸前までお上を追い詰めた、教授の「指駒(チェスの駒)」の一つ。

十月の冷たい秋晴れの光が、浅草の街にそびえ立つ東京一の巨塔、凌雲閣(りょううんかく)

通称、浅草十二階の白亜の壁を白々と照らし出していた。


だが、その最上階の展望台から、一人の男が冷たい秋風を切り裂いて地上へと墜死(落下)した瞬間、その近代化の象徴たる塔は、一瞬にして不気味な沈黙の檻へと変貌した。


神田駿河台の洋館の二階。立ち込める安物の刻み煙草の紫煙の向こうで、小室泰六(こむろたいろく)は、司法省の検事正(逮捕する側)が持ち込んできた血染めの「ゴム風船」の現物を、一滴の感情も交えぬ冷徹な眼光で見つめていた。


それは、文字の並んだ紙の裏帳簿ではなく、観音開きの小さな「気象観測用気球」であった。そのゴムの表面には、不自然な形に歪んだ「天気図の等圧線」が、鋭い針のようなもので執拗に刻まれている。


「小室殿、お上の気象観測所の職員が十二階から突き落とされた。そして、彼の懐に遺されていたのがこの風船だ」


検事正の低い声には、ライヘンバッハの滝壺以来、私が一度も聞いたことのないほどの、底知れぬ不気味な響きが混じっていた。


「お上の警察は、これをただの『異国のスパイ(帝政露西亜の軍事密偵)による軍事気象データの窃盗事件』として処理(消去)しようとしている。


密偵どもは、日本の軍艦を動かすための要害である沿岸の潮流と風向きのインフラ情報を狙っていたのだ。


だが……この風船に刻まれた等圧線の歪み、この暗号の数理の美しさは、ただの異国の密偵ごときに組めるものではない」


泰六は動かなかった。煙草をくわえ直し、ただ小刀の先で、ゴムの表面に刻まれた数式の波形をなぞった。

彼の宿すシャーロック・ホームズの精神に、その瞬間、脳髄を直接ハッキングされたかのような、凍りつくような戦慄が走った。


「……二度(緯度)のずれだ」

泰六は静かに、しかし乾いたハードボイルドな声で呟いた。


「実際の東京の気象データと、この暗号の数理には、寸分の狂いなく二度の計算の罠が仕込まれている。


この美しくも冷酷な、お上の防衛網の裏をかく完全な暗号化の手際は、世界にただ一人しか存在しない。モリアーティ。まさか、お前もこの東洋の泥の中に受肉しているのか」


泰六は、その暗号の出処を突き止めるため、助手である和田進一(わだしんいち)を伴い、神田神保町の古書店の迷宮へと足を向けた。


進一が事前に市井の失職士族たちの噂から解析してきたログによれば、神保町の路地の最奥に、戸籍すら定かではない「盲目の主」が営む、あぢち堂という、薄暗い古書肆(こしょし)があるという。


その主は数日前、神田の通りをぎしぎしと轟音を立てて疾走していた「東京馬車鉄道(路面電車の前身)」の車輌に轢かれそうになり、間一髪で助け出されるも、頭の打ちどころが悪く深い昏睡状態(意識の空白)に陥っていた男であった。


医者たちが「機能停止」と匙を投げたその暗黒の昏睡の底で、主の脳細胞は、瑞西の滝壺から漂着したモリアーティの最高峰の犯罪数理システムによって、完全に上書き(強制インストール)されていたのである。


数日後、男が奇蹟的に目を覚ましたときには、光を失うのと引き換えに、世界を数式で支配する「犯罪の蜘蛛」へと覚醒していた。

ぎ、と不穏な音を立てて古書肆の木扉を開けた瞬間、泰六の鼻腔を突いたのは、かび臭い古書の山から立ち上る、真新しい新聞のインクの匂いであった。


部屋の最奥、光の届かぬ暗がりの椅子に、その盲目の老人は静座していた。彼の周囲には、本日までに九十六PVを叩き出し、活動報告による誘導を終えたばかりのあの『血染の壁(翻案小説)』の切り抜き原稿が、うず高く積まれていた。


盲目の主(モリアーティの魂)は、泰六が足を踏み入れた瞬間、その靴の泥の乾き具合と、衣服の繊維が発する「ライヘンバッハの激流の残り香」のパケットを耳と鼻で受信し、音もなく微笑んだ。


「おや、シャーロック。ようやく私の書庫にアクセスしてきたね」


教授の声は、一切の感情を排した、純粋な論理そのものの響きを持っていた。


「君が神田の洋館で小室泰六の皮を被り、お上の検閲をすり抜けるために『翻案小説という名の嘘の盾』の裏に真実のログを隠して生き延びようとしていたことは、あの馬車鉄道の衝撃から、昏睡の暗闇の底で目覚めた瞬間から、すべて私の脳内に見えて(同期されて)いたよ」


教授は、露西亜の密偵たちにこの気象インフラの暗号(風船)を授け、お上の防衛網をハッキングさせて、ホームズの知性をテストしていたのだ。目に見える視覚(記号)で真実をデコードするホームズに対し、モリアーティは、目に見えぬ暗闇から、インクの匂いと文字の波形だけでホームズの動向を完全にハッキング(同期)していた。


「これ以上はノーヒントだ、シャーロック」

盲目の主は、指先についた浅草の安物の絵の具の粉末を払いながら、冷酷なタイムリミット(時間規律)を突きつけた。


「浅草の絵草紙屋の裏手から、北の艦隊へ、暗号を携えた伝書鳩が放たれるまで、あと一刻(二時間)。君の論理思考は、そのタイムラインに間に合うかな?」


「――無駄な足掻きだ、モリアーティ。お前のその『指先の絵の具のログ』が、すでに私に正確な座標を渡しているよ」


泰六は反転し、神保町の闇を駆け抜けた。彼の鋭い解析により、司法省の検事正率いるお上の警察(正義の執行官)が直ちに起動。

浅草十二階の影に潜んでいた露西亜の密偵たちは、伝書鳩の引き金(放鳥)に指をかける寸前、一網打尽にされ、公式に逮捕された。ゴム風船に隠された国家の沿岸データは、水際で完璧に守られたのである。


しかし、お上の警察が再び神保町の古書肆へと踏み込んだ時には、そこにはもはや空っぽの書庫と、一服の冷え切った紅茶の現物が遺されているのみであった。中央サーバーは、すでに別の死角へと移行(退避)していたのだ。


駿河台の洋館の二階に戻り、泰六は激しく煙管の灰を鉄皿に叩きつけた。カツン、と硬質な音が響く。

「帳簿の改ざんを暴くような前哨戦は終わりだ、進一。鉄路の衝撃から目覚めたあの盲目の蜘蛛との、本当の世界を賭けたチェスが始まる」


この、浅草十二階をめぐる国家間諜事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に抹殺される。


そして後日、和田進一の筆によって、ただの『 翻案小説・血染の壁』という嘘の皮膜をまとって世へ放流されていくが、その文字のすべてが、今や神保町の蜘蛛によって「見られている」という底知れぬ恐怖と共に、東京の夜は冷酷に更けていくのであった。

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