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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅳ 駿河台の替え玉、剥がされた外交官の素性

「スイスの滝壺から明治の神田へ受肉し、後ろ盾を失ったホームズが、外交官の歩行のバグから財閥の替え玉の嘘を暴く」

秋の冷たい風が、神田駿河台の切り立った崖を吹き抜けていた。


洋館の二階の窓からは、眼下の通りを厳かに進む、お上の盛大な行進(パレード)の様子が見下ろせた。


条約改正という国家の悲願を背負い、欧州の国々との過酷な交渉を終えて帰国したばかりの若き外交官・朝倉(あさくら)。

将来の総理候補とも目されるその秀才の帰朝を祝うため、沿道は日の丸の旗を振る大衆の歓声で埋め尽くされていた。


小室泰六(こむろたいろく)は、窓枠に深く肘を突き、煙草の苦い煙の向こうから、馬車を降りて群衆に手を振る朝倉の姿をじっと見つめていた。 


彼の宿すシャーロック・ホームズの精神は、民衆の熱狂などという実体のない騒音には一切同期しない。


ただ、動く肉体が発する微かな物理的記号だけを、冷徹に測定していた。


「小室さん。見事なものですね。あの朝倉大人が外務省の中枢に戻れば、新興財閥の横暴も少しは収まるかもしれません」


傍らで同じ行進を眺めていた助手、和田進一(わだしんいち)が、希望の混じった声で呟いた。


「いや、進一。収まるどころか、前田家のあのへそくりによる馬の投資のごとき、冷徹な利害の算法が、すでにお上の喉元を内側から食い破っているよ」


泰六は煙管の灰を窓外へ叩き落とした。カツン、と硬質な音が響く。


「あの男は、朝倉ではない」

進一は目を見開いた。

「何を、おっしゃるのですか。お上の大臣たちも、あれほど熱狂している群衆も、皆が朝倉大人だと……」


「群衆は衣服と記号を見ているだけだ」

泰六は立ち上がり、机の上の書類を乱暴に退けた。


「朝倉は、三年前の渡欧の直前、神田の私の部屋を訪れている。彼の右足の骨格には、幼少期の落馬による僅かな噛み合わせの齟齬があった。

歩行の際、三歩に一度、右の踵が内側へ二分(約六ミリ)だけ傾く。それが本物の朝倉の肉体が持つ消せない不具合だ?

だが、今、馬車を降りて歩いているあの男の足取りを見たまえ。完璧な直線を歩いている。あれは朝倉の皮を被せられた、全くの別人だ」


その夜、駿河台の洋館の二階には、司法省の検事正(逮捕する側)が、顔色を変えて秘密裏に裏手から潜入してきた。


「小室殿、外務省から緊急の密命が出た。朝倉大人が帰国した途端、これまで財閥の利権を排除しようとしていた方針を大転換し、特定の川崎財閥へ、海外の不凍港の独占使用権を認める公文書に署名(判)を捺したのだ。

身内の裏切り(背任)を疑う隙すらなく、外務省の規律が内側から書き換えられている!」

検事正の焦燥に対し、泰六は冷たく言い放った。


「当然ですよ、検事正。本物の朝倉は、財閥にとって不都合な存在であった。

だから彼は、一ヶ月前の帰国の船中において、すでに毒か刃によって物理的に消去(暗殺)されている。財閥の黒幕たちは、自分たちの言いなりになる瓜二つの男――おそらくは、容姿の似た没落士族の売れない役者を大金で雇い、朝倉の戸籍と衣服をそのまま上書きして、お上の外務省の中枢へと潜入させたのだ」


お上の最高機密である「外交官のアイデンティティ(血統と戸籍)」が、財閥の金によって丸ごと偽物にすり替えられたという、国家の根幹を揺るがす大バグであった。

「証拠だ。小室殿、それほどの狂言、お上の主流派を納得させるだけの動かぬ証拠がなければ、外務省の高官を捕らえることはできん!」


「では、その偽物を、今すぐこの部屋へ呼び出しなさい」

泰六は静かに微笑んだ。

「検事正、貴方がお上の公式な名目で『条約改正の極秘書簡の確認』と言えば、外交官は拒絶できない」

二時間後、夜の十一時を回った刻。

衣服の隙間から上等な香水の匂いを漂わせた「朝倉」が、二人の護衛の密偵を伴って、泰六の貸室へと堂々と足を踏み入れてきた。男の佇まい、顔の輪郭、声の響きにいたるまで、本物の朝倉と寸分の違いもない、完璧なカモフラージュであった。

「夜分に呼び出して何事か、検事正。このような神田のしがない私立探偵の部屋で、国家の機密を語るつもりか」

偽の朝倉は、傲慢な態度で机の前の椅子に腰掛け、外套の内側から、欧州の最高級とされる一本の細い紙巻き煙草(シガー)を取り出した。そして、手元にあったマッチを擦り、優雅に火を点けた。

泰六は、その男の一一挙手一投足を、マシーンのごとき冷酷な観察眼で見つめていた。


「朝倉大人。高貴な外套ですね」

泰六は一歩、男へと近づいた。


「しかし、貴女のその煙草の持ち方だ。人差し指と中指の根元で挟み、手のひらを内側へ隠すようにして吸っている。それは、西洋の貴族の吸い方ではない。この日出づる国の、刀を奪われて久しい失職士族が、かつて戦場で刻み煙草を吸う際に、火光を敵に遮断するために用いた『野戦の構え』そのものだ」

男の煙草を持つ指先が、微かに止まった。


「な、何の話だ。私は欧州の宮廷で……」

「朝倉は幼少期から欧州の教育を受け、煙草を吸う際は常に指先をまっすぐに伸ばす英国式の規律を叩き込まれていた。さらに貴女の足だ。貴女は今日、駿河台の坂を上る際、完璧な足取りで歩いてきた。本物の朝倉の右足にある、あの痛ましい怪我の痕跡が、一ヶ月の船旅で綺麗に治癒するとでもお思いか?」

泰六は小刀を引き抜き、男の目の前の机へと突き立てた。チーン、と鋭い金属音が響く。


「貴女の正体は朝倉ではない。川崎財閥が抱えていた、三河出身の没落士族の役者だ。本物の外交官を暗殺し、その戸籍を盗んでお上を欺いた大泥棒だ。検事正、この男の外套の裏を見たまえ。外務省の印ではなく、財閥の秘密の割印が捺された、裏金の手形が隠されているはずだ!」


「おのれ、小室泰六……!」

偽の朝倉が懐の小銃(ピストル)に手をかけようとした瞬間、事前に泰六の通信によって壁の向こうに伏せられていた検事正の部下たち(お上の警察)が一斉に突入し、男を床へとねじ伏せた。

男の外套の内側からは、泰六の指摘通り、財閥の黒幕から渡された莫大な報酬の裏手形と、本物の朝倉を船中で暗殺した際の詳細な記録が発見された。

国家の最高権力をハッキング(偽造)しようとした新興財閥の陰謀は、一人の男の歩行のバグ(不具合)によって完全に看破され、偽の外交官と財閥の幹部たちは、その夜のうちに公式に逮捕された。士族の暴動や、外交権の私物化という最悪のクラッシュは、水際で完全に相殺されたのである。

再び、静まり返った神田駿河台の洋館。

進一は、床に落ちた高級煙草の吸い殻を拾い上げながら、恐ろしさに身を震わせていた。

「小室さん。帳簿の数字だけでなく、人間の血統や戸籍まで偽物へと書き換えてしまうなんて……財閥の強欲は、一体どこまでお上を侵食しているのでしょうか」

泰六は新しい刻み煙草を煙管に詰め直すと、冷淡に言い捨てた。


「組織の防壁がいかに強固であろうとも、それを動かす人間の肉体には、必ず消せない固有の癖が残る。

どれほど完璧な嘘を上書きしようとも、論理の光を当てれば、仮面は泥のように剥がれ落ちるだけのことだよ、進一」


この、国家の外交権をめぐる前代未聞のすり替え劇の全容もまた、お上の都合(国家の威信)によって公式の正史からは完全に消去される。


そして後日、和田進一の筆により、嘘の盾をまとって、神田の印刷所の輪転機から、世の大衆へと放流されていくのであった。


神田の夜風が、偽物の灯火を冷酷に吹き消していった。

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