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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅲ 法律学校の密室 改訂版


十月の風は、神田の街から湿り気を奪い、代わりに乾いた砂埃を白く舞い上げていた。


神田錦町(かんだにしきちょう)に建つ、堅牢な木造二階建ての校舎。その看板には、大きく『英吉利(イギリス)法律学校』と墨書きされている。夜な夜な失職士族の書生たちが集まり、お上の法を学びながら国家のあり方について激論を交わす、熱気と義憤の梁山泊であった。


小室泰六(こむろたいろく)は、その大講堂の最前列の席に座り、真鍮の煙管(きせる)の吸い口を冷たい歯に当てていた。

彼の宿す英国の法理(コモン・ロー)を教えるこの学び舎の空気は、東京の中で唯一、故郷のロンドンに近い波長(空気)を感じられる場所であった。


「小室さん、大変な不具合(バグ)が発生しました。高田(たかだ)が……昨夜から消去(失踪)されたのです」


助手である和田進一(わだしんいち)が、同じ法律学校の書生仲間を引き連れて、青ざめた顔で駆け込んできた。


高田は、この学校の首席の書生であり、失職士族たちの期待を一身に背負う男であった。


彼らの話によれば、高田は昨夜の難解な定期試験を終えた直後、内側から厳重に施錠された寄宿舎の自室から、忽然と姿を消したのだという。窓の閂(かんぬき)もかかったままの、完璧な「密室」であった。


「普通の人間は、すぐに狐狸の仕業か、あるいは天狗の神隠しだと騒ぎ立てる」


泰六は立ち上がり、煙管の灰を床に落とした。その瞳はすでに、謎を解体する冷徹な思考システムへと切り替わっていた。


「だが進一、この世に物理的な例外など存在しない。密室という防壁が破られたのなら、そこには必ず、設計者すら気づかぬ『接続の隙間』があったということだ」


泰六は進一たちを従え、高田が消えた寄宿舎の部屋へと向かった。


部屋の床板を四つん這いになって這い回り、借り物の肉体の鋭い眼光で走査していく。


「ふむ……床板に、微かに油の匂いのする乾いた黒泥が残登録されている。これは神田の泥ではない。お上の郵便制度を司る、大蔵省の『御用馬車』の車輪に塗る潤滑油だ。数日前の雨の日に付着したものだな。そして、ランプの油の減り方が異常に早い」


泰六は窓の閂に指を触れた。

「閂の隙間に、細い絹糸の繊維が残されている。犯人は外側から糸を使い、閂を巧みに回転させて施錠したのだ。これは拉致だ。それも、お上の最高機密に触れた高田の口を封じるための、国家インフラを利用した高度な強制工作だ」


さらに、泰六の知性は事件の核心である「消えた答案用紙」の存在へと辿り着く。


高田が昨夜提出したはずの答案用紙が、学校の採点室の金庫から不自然に紛失していた。学校の管理人(川崎財閥から送り込まれた密偵)は、「高田が不正を働き、答案を持ち逃げしたのだ」と嘘の情報を放出した。


だが、泰六は管理人の指先についた墨汁の乾き具合と、その衣服の擦れ方から、彼が数時間前に金庫の中身を別の場所へ移したことを一瞬で見抜いた。


「嘘をつくのはおやめなさい」


泰六は管理人の胸倉を冷酷に突き放した。

「高田が答案の裏に写し取ったのは、ただの習字ではない。貴方方の主である川崎財閥と、大蔵省の藩閥高官が結託し、新たな税制を財閥に都合よく捻じ曲げようとした、生々しい『背任の裏帳簿』の暗号だ。なぜ一介の書生にそれができたか、だと?」


泰六は、転がった鉛の鉛筆を拾い上げ、管理人の目の前で折ってみせた。


パキ、と乾いた音が講堂に響く。


「私がなぜそれを見抜けたか、貴方方は不思議でならないようだ。

答えは、高田が失踪したあの部屋の遺留品(ログ)が、最初からすべてを告白していたからだよ。……進一、高田の机に残されていた、あの大切に使い込まれた『硯箱(すずりばこ)』の底を見たまえ」


泰六は、高田の部屋から回収してきた古い木箱の二重底を、小刀の先で器用に跳ね上げてみせた。


「箱の底から出てきたのは、一通の古い『手切れ金の約束手形』、そして高田の母親が肌身離さず持っていたと思われる、財閥の主の直筆の『懐紙(ふみがみ)』だ。手形に押された割印の文様、そして懐紙に万年筆で書かれた文字の『インクのにじみ方』。

それは、私が先日お上に逮捕させた、あの川崎財閥の主の固有の筆跡と、寸分の狂いなく一致している。主は文字を書く際、右の親指の僅かな歪みのせいで、縦画の終端が常に右下へ一分だけ流れる癖があるのだ。


さらに、部屋に遺された外套の襟裏を修繕している『紫の絹糸』、および縮緬(ちりめん)の古布の文様。それは川崎財閥の深川の屋敷の奥、側室や女中たちの部屋でのみ支給される、家紋が薄く織り込まれた特製の端切れだ。つまり、彼の衣服を夜な夜な直していた母親は、その屋敷の奥にいた女だ」


それらのログを合わせれば、高田が財閥の主の『非嫡出子(ひちゃくしゅつし)』であり、屋敷の奥で冷遇され、戸籍の端に放置されてきた事実は、彼本人を見ずとも一瞬で導き出される。


主たちは、冷遇していたその少年の部屋のすぐ隣が、裏金の数字が行き交う『帳簿室』であったこと、そして少年の頭脳が、自分たちの強欲をすべて壁の隙間から記録し続けていたことに、最後まで気づかなかったのだ。


高田は自分と母親の命を買い叩いた一族への「復讐」のために英吉利法律学校へ入り、お上の法規の網(法律)を学んでいた。近代的システムの不正を内側から破壊するため、定期試験という、検閲官が最も油断する『答案用紙の裏』を、最高機密の隠し場所(バックアップ)に選んだのである。


「高田はただの被害者ではない。一族の喉元を内側から掻き切るために動いていた、孤独な復讐の執行者だ。だからこそ、貴方方は血眼になって彼を消去(拉致)しに来たのだろう?」


学校の内部では、高田の失踪がお上の藩閥政府による「不都合な分子の抹殺」ではないかと噂が広がり、激昂した士族の書生たちが、お上の庁舎を焼き討ちにせんばかりに暴動の火種を燃え上がらせていた。


「猶予はない。お上の正義の網、警察を動かす」

泰六は、夜の英吉利法律学校の、誰もいない大講堂に、司法省の検事正(逮捕する側)を密かに呼び出した。


暗闇のなか、泰六は高田が拉致された夜の「密室の仕掛け」をその場で実演し、物陰に潜んでいた学校の管理人と、裏帳簿の回収にやってきた財閥の幹部を鮮やかに炙り出した。


「おのれ、小室泰六……高田の命が惜しくば、その暗号の解読法を渡せ!」


財閥の幹部が短刀を抜いて脅しをかけるが、泰六の精神は一滴の感情も交えなかった。


「無駄な足掻きだ。私は貴方方の脅しを待つほど、間抜けではない」


泰六は冷たく言い放った。


「貴方方がここへ足を踏み入れる前、私は高田の拘束場所――すなわち、潤滑油を塗った馬車が向かった、神田川に浮かぶ財閥の運搬船の底の座標を、すでに検事正の部下たちへ通報し終えている」


その瞬間、大講堂の重い扉が押し開かれ、お上の警察(正義の執行官)が一斉に突入してきた。


神田川の船底からは高田が無事に救出され、国家の税制を私物化しようとした大蔵省の背任高官と財閥の幹部は、法規の網によって、後日、公式に逮捕された。士族の不満という最悪のバグは、完璧な法執行の規律によって、水際で完全に相殺されたのである。


すべてが終わり、再び静まり返った英吉利法律学校の講堂。


救い出された首席の高田は、泰六の手を握り、涙を流して感謝の言葉を述べた。


だが、泰六はその手を静かに引き抜くと、新しい刻み煙草に火を点け、冷淡に言い捨てた。


「君を救ったのは、私の倫理(優しさ)ではない。ただの論理(計算)だ。君の頭脳が失われるのは、この国の知性にとって、いささか損失が大きすぎたというだけのことだよ」


この、新法改正の裏に隠された新興財閥と高官の血みどろの背任劇もまた、お上の都合によって歴史の公式な正史からは完全に消去される。


正式な記録はすべて上書きされ、和田進一の筆によって、ただの『 翻案小説』という嘘の盾をまとって、神田の印刷所の輪転機から、世の大衆へと放流されていくのであった。


乾いた神田の夜風が、洋館の窓を鳴らしていた。

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