Ⅱ - ⅲ 政商の巻、黒い彫像の算法
神田駿河台の洋館の二階は、再び冷たい静寂に包まれていた。
窓の外では相変わらず雨が煉瓦の壁を叩き、部屋の中には、吸い殻の山から立ち上る煙管の苦い煙だけが漂っている。
机の上には、先ほど闇市場から回収してきたばかりの、あの不気味な「黒漆の観音像」が、湿った布を剥ぎ取られて不気味に鎮座していた。
その周囲を、生き残った者たちが取り囲んでいる。
助手である和田進一は、懐の短刀に手をかけたまま、部屋の隅に立つお由と、その背後に影のように従う剃刀を握った暗殺者の動向を警戒していた。
お由の顔からは、先ほど雪隠で見せた狼狽の表情は綺麗に消え去り、その瞳には、巨万の富を目前にした強欲の光がぎらぎらと燃え盛っていた。
「さあ、小室さん」
お由は、血の匂いの残る手で自らの髪を整えながら、甘い、しかし冷酷な声で促した。
「猪原も死んだわ。もう私たちを邪魔する組織の犬はいない。その仏像の殻を割り、中に隠された海外資産の暗号(裏帳簿)を取り出しなさい。約束通り、私と貴方で半分ずつ、等しく分け合うのよ」
小室泰六は何も答えなかった。
ただ、懐から研ぎ澄まされた一本の小刀を抜き出すと、躊躇うことなく観音像の胸元へと刃先を突き立てた。
ガリ、と鈍い音が室内に響く。
泰六の手元が動くたびに、美しいはずの黒漆の表面が容赦なく削り取られ、床へと剥げ落ちていく。お由とその相棒は、息を呑んでその手元を凝視していた。
だが、削り進めるうちに、現れたのは金塊の在処を示す文字でも、異国の銀行の暗号でもなかった。
現れたのは、ただの、灰色に変色した鈍い金属の肌であった。
「な……何よ、これは」
お由が絶句し、机の上の仏像に掴みかかった。
泰六がさらに深く小刀を突き入れると、観音像の頭部が呆気なく崩れ落ちた。
中から転がり出たのは、裏金の帳簿などではなく、ただ重さを偽装するためだけに詰め込まれた、粗悪な鉛の塊にすぎなかった。
「殻っぽ……? 嘘よ、そんなはずはないわ! 私はあの川崎財閥の主が、逮捕の直前にこの中に帳簿を仕込むのを確かにこの目で見たのよ!」
お由は狂ったように鉛の破片を掻きむしり、叫んだ。
「お由さん、貴女の目は確かだ。主は確かにこの中に帳簿を隠した」
泰六は小刀を机に突き立て、冷ややかに言い放った。
「だが、貴女が雪隠で猪原を始末させるための段取りに奔走している間、私の助手は一足早く、闇市場の商人からこの仏像を買い取っていた。
そして――私のこの手は、貴女が部屋に押し入ってくるよりも前に、すでに漆の隙間から本物の暗号書類をすべて抜き取っていたのだよ」
泰六は自らの外套の裏側から、薄い、割印のある数枚の和紙を取り出してみせた。
そこには、お上の警察すら全貌を掴んでいなかった、新興財閥の莫大な海外隠し口座の暗号が、一文字の狂いもなく並んでいた。
騙し合いの勝者は、最初から、この部屋でただ一人煙を吹いていた泰六だけであった。
「小室さん……貴方、私を裏切るのね」
お由の顔が怒りと絶望で歪み、背後の暗殺者が剃刀を構えて一歩前へと踏み出そうとした、その瞬間。
貸室の扉が、外から静かに開かれた。
部屋に流れ込んできたのは、禍々しい警察官だった。
「そこまでだ、お由。および、その連れの者」
部屋に入ってきたのは、夜陰に乗じて泰六が事前に通信(手紙)を入れておいた、司法省の検事正、そして彼らが率いるお上の公式な法執行官(警察)の集団であった。
「しま、った……!」
暗殺者が窓から逃れようとするも、洋館の周囲はすでに数十人のお上の包囲網によって完全に封鎖されていた。二人は一歩も動けぬまま、冷徹な縄目のなかに捕らえられていく。
「小室さん! 酷いわ、私を騙したのね! 貴方もその暗号が欲しかったはずよ!」
縛り上げられたお由が、髪を振り乱しながら泰六に向かって呪詛の言葉を叫んだ。
だが、泰六は煙管に新しい刻み煙草を詰め直すと、火を点け、静かに煙を吹き上げた。
その瞳には、一滴の同情も、憐れみもなかった。
ただ、自滅していく哀れな算法の塊を、冷淡に見届ける目線だけがあった。
「私は最初から言っているはずだ。私は誰の味方にもならない、とね。貴女方の身内同士の泥仕合など、私の知性にとってはただの不快な雑音にすぎない。
検事正、国賊たちの残した海外資産のすべてが、この紙の中に眠っています。直ちに国庫へと没収(消去)なされよ」
泰六は、本物の暗号書類を検事正の手へと、躊躇なく手渡した。
「確かに受け取った。小室殿、これで新興財閥の残党の息の根は完全に止まる。士族の暴動の火種も、これで完全に消し去ることができよう」
検事正は深く頭を下げ、罪人たちを連れて夜の雨の中へと去っていった。
すべてが終わり、再び神田駿河台の洋館には、静かな雨の音だけが残された。
進一は、床に散らばった黒漆の破片を片付けながら、複雑な表情で呟いた。
「小室さん。あの女は確かに大泥棒でしたが、少しは……哀れだとは思わなかったのですか。あのまま暗号を渡してやれば、彼女も救われたかもしれないのに」
泰六は窓外のニコライ堂の鐘の音に耳を傾け、冷たく言い捨てた。
「組織も、人間も、己の器以上の嘘をつけば、このように自滅するだけの話だ。彼女を殺したのは私ではない。彼女自身の抱えた、身の丈に合わぬ強欲という名の不具合だよ、進一」
この、身内同士の血みどろの騙し合いの全容もまた、お上の都合によって世の公式な正史からは完全に抹殺される。
そして後日、和田進一の筆によって、ただの『瑞西の架空の探偵小説を、神田の書生が翻案しただけの、気晴らしの読み物というカモフラージュの皮膜をまとって、神田の印刷所の輪転機から、世の大衆へと放流されていくのであった。
今宵も神田の夜が、静かに更けていくのだった。




