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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅱ - ⅱ 政商の巻、黒い彫像の算法

洋館での荒々しい足音は二階の床板を激しく鳴らし、貸室の薄い木扉を乱暴に押し開いた。


滑り込んできたのは、灰色の外套をまとった大柄な男であった 。

その帽子の庇(ひさし)からは雨水が滴り、神田の泥が足元を汚している 。男は部屋に入るや否や、懐から鈍い鉄光りを放つ短銃(拳銃)を引き抜き、銃口を平然と机の上の泰六へと向けた 。


「そこまでだ、お由(ゆ)さん。やはりここに逃げ込んでいたか」

男の声は低く、酷く濁っていた。名は猪原(いのはら)。逮捕された川崎財閥の主が裏で飼っていた、冷酷な始末屋の残党であった。


猪原は短銃の銃身を机の上にどかと置き、泰六を値踏みするように睨みつけた。

「小室泰六だな。あの女の戯言に耳を貸すな 。

その女は財閥の帳簿を盗み出した大泥棒だ」

猪原は冷笑し、懐からずしりと重い財布を叩きつけた。


「お前に取引をくれてやる。その女に雇われるな。十倍の金を払う。あの『黒漆の観音像』がどこへ隠されたか、お前のその異様な頭脳で逆探知し、俺たちに引き渡せ。さもなければ、この神田の洋館ごと、貴様らの命のログをここで消去する」


部屋の中は、息が詰まるほどの静寂に包まれた。


お由は泰六の背後に隠れ、その着物の袖を掴んで「騙されないで、その男は人殺しよ」と囁く。  

猪原は短銃を指先で弄びながら、冷酷な算法を突きつけてくる 。

新興財閥の金、お上の権力、そして神田の長屋にひしめく失職士族たちの怒り。

三つの巨大なエネルギーが、この小さな観音像という一点の暗号をめぐって、泥泥とした渦を巻いていた 。


しかし、小室泰六の精神は、誰の恐怖にも、誰の欲望にも同期しなかった。


「猪原さん、お由さん。貴方方は私を誤解している」

泰六は、ゆっくりと煙管の灰を皿に叩き落とした。


「私は正義の味方でもなければ、貴方方のどちらかの陣営に加担するつもりもない。

私はただ、その観音像の中に仕込まれた『数字の美しさ』にしか興味がないのだ。

どちらが多くの金を積もうと、私の論理思考は動かない。だが――」


泰六は、窓外のニコライ堂の鐘が鳴り響くのをじっと聞きながら、冷たく微笑んだ。


「その仏像の在処なら、すでに私の頭脳が弾き出している」


泰六は二人を連れ、激しい雨が降る神田の街へと繰り出した。行き先は、失職士族たちの溜まり場にもなっている、寂れた寄席(よせ)の裏手にある闇市場であった 。

誰もが互いを監視し、懐の刃に手をかけながら、泥にまみれた路地を進む 。


寄席の裏の仄暗い板囲いの前に着いたとき、泰六は進一に目配せをし、闇市場の商人の手元から、すでに厳重に布に包まれていた「黒漆の観音像」を鮮やかに回収させた。


仏像が目の前に現れた瞬間、お由の瞳に、そして猪原の顔に、剥き出しの強欲が走った。


「それをこっちへ渡せ!」

猪原が短銃を構え直した、その時であった。

「――おのれ、財閥の犬め!」

闇の中から、竹光や小刀を握り締めた神田の失職士族たちが、噂を聞きつけて一斉に群れを成して襲いかかってきた。路地は一瞬にして、罵声と肉体の衝突音が響き渡る大混乱に陥った。


「進一、仏像を持って奥へ逃げろ!」

泰六の鋭い声に従い、進一は仏像を抱えて、寄席の最も奥にある、手洗いの狭間(雪隠・せっいん)へと駆け込んだ。


そこは、表の喧騒から完全に遮断された、光の届かぬ仄暗い死角であった。

ドブ板の悪臭と雨水の滴る音が不気味に響いている。

追ってきたのは、猪原であった。


男は短銃を構え、進一を隅へと追い詰める。「その仏像を渡せ。さもなくば頭を吹き飛ばす」

進一が覚悟を決めた、その刹那。

雪隠の闇が、音もなく裂けた。

「が、あ……っ!」

猪原の口から、血の泡が混じった短い悲鳴が漏れた。


男の背後から現れた人影――お由の裏の相棒であり、彼女と事前に結託していたもう一人の刺客が、猪原の背後からその喉元を、鋭利な剃刀で深く掻き切ったのである。

噴き出した鮮血が、雪隠の古い漆喰の壁をどす黒く染め上げた。猪原は白目を剥き、短銃を床に落としながら、神田の冷たい泥水の中にどさりと崩れ落ち、その命のログを完全に消去された。

遅れて雪隠に飛び込んできたお由は、血の海に沈んだ始末屋の死体を見るなり、わざとらしい悲鳴を上げて自らの両手で顔を覆った。


「ああ……なんて恐ろしいこと。私は知らない、私は何も関わっていないわ!」

お由は、血に染まったその手で顔を隠しながら、またしても平然と「嘘の引き出し」を放出した。


だが、泰六は、死体の傷口の角度と、お由の着物の袖口に微かに飛び散った返り血のログを、冷徹な観察眼でじっと見つめていた。


「見事な立ち回りだ、お由さん」

泰六は短銃を拾い上げ、外套の泥を払いながら冷淡に言い放った。


「だが、これで舞台の上の嘘つきが、また一人減ったわけだ。さあ、洋館へ戻ろう。この黒い彫像の、本当の『中身』を検分する刻(とき)だ」


誰も信用できない神田の夜の底で、本物の騙し合いがはじまろとしていた。

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