Ⅱ - ⅰ 政商の巻、黒い彫像の算法
◾️登場人物紹介
川崎財閥の主 / 役割:第一の国賊(政商)
出自と現状:明治政府の海軍近代化(軍艦建造費)の予算を水増しし、その莫大な差額(裏金)を政府高官の身内へと還流させていた新興の政商。
第一話において泰六の暴いた証拠によりお上に公式に逮捕されるが、逮捕の直前、裏金の「残りの半分(海外の隠し口座の暗号)」をある骨董品の中に隠蔽し、神田の闇市場へと放流した。
お由 / 役割:妖艶なる悪女(マルタの鷹の系譜)
出自と現状:没落した旧旗本の娘を自称し、泰六の洋館を訪れた妖艶な女。
最初は「財閥に監禁された妹を救うため、父の遺品である黒漆の観音像を取り返してほしい」という悲劇の物語を提示したが、その正体は川崎財閥の元書記であり、妹など存在しなかった。財閥の残党を出し抜き、海外資産の暗号を独占しようと画策。自らの美貌と利害の算法で泰六を泥仕合の共犯者に引き込もうとし、裏の相棒に人殺しを教唆するも、最後は泰六に冷徹に切り捨てられ、お上の縄目に係った。
猪原 / 役割:冷酷なる始末屋(財閥の残党)
出自と重傷:川崎財閥の主が裏で飼っていた、冷酷無比な残党の男。
泰六の洋館に短銃(拳銃)を携えて乱入し、お由の嘘を暴くとともに、十倍の金、あるいは命の消去を突きつけて泰六を脅迫した。泰六を「自分の利益のために動く都合の良い道具」として買い叩こうとしたが、神田の寄席の雪隠(手洗い)という完璧な死角において、お由の放った刺客に喉を掻き切られ、その命のログを完全に消去された。
冷たい雨は、昼を過ぎても止む気配を見せなかった。
神田駿河台の傾斜地に建つ、煉瓦造りの古びた洋館。その二階の貸室には、いささか過剰なほどの紫煙が立ち込めていた。
小室泰六は、窓枠に肘を突き、煤けたガラスの向こうを凝視していた。
彼の細い指先には、真鍮の吸い口を持つ煙管が握られている。じわじわと火皿で燃え盛る安物の刻み煙草の煙は、瑞西の激流で一度は消え去るはずだった彼の精神が、この東洋の泥の中で確かに再起動していることを示す唯一の証左であった。
「小室さん。一階の呼び鈴が鳴りました。お上の使いではなさそうです」
助手であり、この奇妙な受肉の最初の目撃者となった書生、和田進一が、帳簿をめくる手を止めて言った。
「わかっている。五分前から、あの辻人力車が坂の下で行きつ戻りつしているのが見えていた」
泰六は煙管の灰を、机の上の鉄の皿に叩きつけた。カツン、と硬質な音が響く。
「車夫の足取りが重い。乗っているのは、小柄だが、上等な衣服をまとった者だ。それも、お上の密偵の目を極度に恐れている」
やがて、ぎしぎしと不穏な音を立てて木製の階段を上がってきたのは、一人の女であった。
女は部屋に足を踏み入れると、濡れた漆黒の外套を脱いだ。
下にまとっていたのは、息を呑むほどに贅沢な西陣織の艶やかな、正絹の着物である。
だが、その裾は神田の泥で無残に汚れていた。
年の頃は二十四、五。没落した旧旗本の娘特有の、気品の中にどこか冷酷な飢えを秘めた、妖艶な佇まいの女であった。
「お初にお目にかかります。小室泰六様」
女は懐から絹のハンカチを取り出し、目元を抑えた。その瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が湛えられている。
「私の名は、お由。どうか……どうか、私の哀れな妹を救っていただきたいのです」
泰六は動かなかった。パイプの代わりに煙管をくわえ直し、ただ冷徹なマシーンのような眼光で、女の全身を走査し始めた。
女の言葉は、最初から悲劇の色彩で塗り潰されていた。彼女の話によれば、海軍高官への裏金疑惑で先日お上に逮捕された川崎財閥の残党たちが、自分たちの犯行を隠蔽するため、財閥の書記をしていた彼女の妹を人質として監禁しているのだという。
「奴らは、妹の命と引き換えに、ある骨董品を差し出せと脅してくるのです。亡き父の遺品である、小さな『黒漆の観音像』を。どうか、小室様のその類稀なる頭脳で、妹をあの非情な政商の魔の手から救い出してくださいませ」
女は床に身を投げ出し、激しくむせび泣いた。
普通の男であれば、その艶やかな肢体と涙のパケットに惑わされ、二つ返事で義侠心を燃やすところであろう。現に、傍らで聞いていた和田進一は、哀れみの表情を浮かべて拳を握り締めていた。
しかし、小室泰六の中に宿るシャーロック・ホームズの論理思考システムは、女の涙を一滴の感情も交えずにデコード(解析)していた。
「お由さん」
泰六は静かに、しかし冷酷な響きを持つ声で言った。
「貴女の物語は実に見事だ。だが、私の頭脳をハッキング(欺瞞)するには、いささか作り込みが粗雑すぎます」
女の泣き声が、ぴたりと止まった。
「な、何をおっしゃいます……私は嘘など」
「まず、貴女のその着物だ。旧旗本の高貴な柄でありながら、右の袂の裏側だけが奇妙に擦り切れている。これは、長年帳簿をつけ、小刀で紙を裁断してきた『本職の書記』の肉体が持つ固有のエラーログ(痕跡)です。つまり、川崎財閥の書記をしていたのは貴女の妹ではなく、貴女自身だ。最初から妹など存在しない」
お由の身体が、微かに硬直した。
「さらに、貴女の足元の泥だ」
泰六は煙管で女の足元を指し示した。
「その泥は、神田のドブ板の泥ではない。新興財閥の邸宅が立ち並ぶ、深川の川沿い特有の黒泥だ。貴女は監禁されているどころか、今朝まで川崎財閥の秘密の倉庫にいた。
そして、その『黒漆の観音像』とやらは、父親の遺品などではない。川崎財閥の主が逮捕される直前、お上の警察(逮捕する側)の網の目をかいくぐって闇市場へ放流した、国家への背任の証拠――まだ誰も知らない裏金の『残りの半分』が仕込まれた、不気味な骨董品だ」
泰六は立ち上がり、お由を見下ろした。その瞳には、一抹の同情も、欲望もなかった。ただ、数式のバグを指摘するような、圧倒的な冷たさだけがあった。
「貴女の狙いは、妹の救出ではない。財閥の残党たちを出し抜き、その観音像に隠された莫大な海外資産の暗号(ルート権限)を、自分一人のものにすることだ。違いますか?」
部屋の空気が、一瞬にして別の意味で張り詰めた。
床に伏せていた女が、ゆっくりと顔を上げた。その顔からは、先ほどまでの哀れな被害者の仮面が完全に剥ぎ取られていた。
お由の口元が、歪んだ、肉食獣のような笑みへと変わる。
「……さすがは、神田の天才書生と噂されるお方」
女は立ち上がり、着物の泥を冷淡に払った。その声からは、涙の湿り気が完全に消え去っていた。
「ええ、その通りよ。妹なんて最初からいない。あの仏像の中に、お上もまだ掴んでいない、数万樽の石炭に匹敵する金塊の在処が眠っている。ねえ、小室さん。私と手を組まない? 取引よ。あの非情な財閥の残党どもに渡すくらいなら、私と貴方で、その暗号を半分ずつ分け合いましょう」
女は一歩、泰六へと近づき、妖艶な香りのパケットを漂わせながら、その白い手を差し出した。
悪女が如く、自らの美貌と利害の算法で、探偵を泥仕合の共犯者へと引き込もうとする、冷酷な誘惑であった。
だが、泰六はその手を握らなかった。ただ、灰皿の煙管を見つめ、感情のない声で言い捨てた。
「私は誰の味方にもならない。ただ、その『黒漆の観音像』の算法に、興味があるだけだ」
だがその時、洋館の階段から、どたどたと荒々しい足音が響いてきた。
お由の顔が、今度こそ本物の恐怖で青ざめた。取引の場は、早くも次の嘘つきたちの乱入によって、血みどろの展開が待ち受けていた。




