Ⅰ 輪廻の解釈者 改訂版
■ 主要人物(探偵とその周辺)
小室泰六 / 魂の正体:シャーロック・ホームズ
出自と現状:瑞西のライヘンバッハの滝壺へと墜落した際、時空のねじれによって精神のデータが消失。同じ刻、神田駿河台の裏路地で刺殺された無名の私立探偵・小室泰六の空になった肉体に、その最高峰の論理思考システムが強制上書き(受肉)された。
英国政府の最高特権(実兄マイクロフト)という後ろ盾を完全に失い、孤立無援の独立端末として明治の東京に放り出された。泥とドブ板の悪臭、失職士族の義憤という東洋の「雑音」に囲まれながらも、衣服の擦れや泥の付着から一瞬で嘘を見抜く圧倒的な観察眼(デコード能力)は健在。感情や倫理に一切同期しない「冷徹な知性のマシーン」として立ち回る。
和田進一 / 役割:記録者(ワトソン役)
出自と現状:神田の法律学校に通う、貧乏な書生。小室泰六の洋館の二階(貸室)に同居し、身の回りの世話や探偵の助手を務める。
泰六の受肉(精神の変革)の最初の目撃者であり、最も身近な理解者。お上の密偵や財閥の放つ刺客の恐怖に怯え、時に人間の情念(お由への哀れみなど)に惑わされながらも、泰六の命じる冷徹な算法(指示)に忠実に従う。泰六の活躍を『血染の壁』という名の「異国の翻案小説(嘘の盾)」に暗号化し、神田の印刷所から世へ放流する役目を担う。
司法省の検事正 / 役割:正義の執行官(逮捕する側)
出自と現状:明治政府の内部において、正当な法執行を司る中枢の官僚。
お上の藩閥政府と新興財閥が結託して私腹を肥やす「国家への背任行為」を察知し、士族の不満(暴動のバグ)を未然に防ぐために動く、この物語における「正義の組織」。泰六の弾き出す圧倒的な解析結果(証拠の在処)を受け取る受信端末であり、公的な「逮捕(システムの執行)」を行う権限を持つ。
冷たい雨が、神田駿河台の洋館の窓を容赦なく叩いていた。
明治二十六年。
瑞西の山奥、あの激流渦巻くライヘンバッハなる滝壺へと、宿敵ジェームズ・モリアーティ教授との激闘の末に墜落した私の精神は、時空のねじれの網の目を経て、この東洋の凍てつく泥の中で目覚めるという、およそ不条理な現実に直面していた。
「小室さん! 小室さん、しっかりしてください!」
耳元で、取り乱した若い男の叫び声が響いていた。
重い瞼をゆっくりと押し開くと、そこにあったのは、煤けたランプの灯火に照らされた、見慣れぬ洋館の貸室の天井であった。
そして私の枕元で、涙と寝不足で目を血走らせ、私の冷え切った手を必死に握り締めていたのは、一人の書生――和田進一であった。
進一は、私(この肉体の主)と同じ神田の英吉利法律学校に通う学友であり、受肉する前からの、気心の知れた古い知り合いであった。
彼の話によれば、私(小室泰六)は前夜、新興の政商である川崎財閥の放った刺客に法律学校の裏路地で胸を深く刺され、泥の中に倒れていたのだという。
進一は血の海に沈む私を発見し、お上の警察を呼ぶ間もなく、この駿河台の洋館の二階(私の探偵事務所)へと必死の思いで担ぎ込み、夜を徹して看病(バグの監視)を続けていたのだ。
だが、進一はまだ気づいていなかった。
胸を深く刺されて一度は完全に息絶え、空になった小室泰六の肉体に今、強制上書き(システムインストール)されて目覚めたのは、元からの知り合いであったあの大人しい泰六ではない。
異国政府という最強の後ろ盾(実兄マイクロフト)を失い、孤立無援となった、英国最高の知性の魂であるということを。
「ああ、神仏に感謝します……! 目を覚ましてくれた。もうだめかと……」
進一が私の手を握り直し、安堵の涙を零した。
しかし、私はその手を静かに、しかし冷酷な力で引き抜いた。
「進一。泣くのはおやめなさい。涙の水分は、貴方のただでさえ未熟な観察眼をさらに曇らせるノイズにしかなりません」
進一の身体が、恐怖で凍りついた。目の前の男は、確かに昨日までよく知っていた「小室泰六」の形をしている。
だが、その口調、その立ち振る舞い、そして何よりも自分を走査してくるその眼光の冷徹さは、全くの「別の生き物」のそれであった。
「こ、小室さん……? 貴方、本当に、小室さんですか……?」
進一は、懐の短刀の柄に思わず手をかけ、一歩後ろへと引き下がった。
「肉体は貴方の知る男だ。だが、中身は別の規律に書き換えられた。今はそれだけで納得しなさい」
私は、なんとかベッドから起き上がった。
胸の刺し傷は生々しい肉の痛みを訴えてくるが、私の論理思考は、すでにこの部屋の窓の外、東京の街から立ち上る「犯罪の数理」の残り香を鋭く検知していた。
神田の通りをぎしぎしと音を立てて疾走する馬車鉄道の車輌に轢かれそうになり、深い昏睡状態の暗闇に陥った、神保町の古い古書肆「あぢち堂」の主。
その老人が目覚めると同時に、川崎財閥の裏の意思決定をすべて統御する「冷徹な最高顧問」の座に君臨したという。
モリアーティ教授。
あの最凶の宿敵もまた、私より早くこの東京の巨大な資本の器をハッキングして目覚めていたのだ。
その時、階段の下から、雨を吸った重い足音が近付いてくる。
「小室さん……裏手から、誰か来ます」
進一が恐怖を押し殺し、私の背後に回った。
「案ずるな、進一。お上の使いだ」
私は窓外の闇を見つめたまま、静かに言った。
「五分前から、あの男の外套が擦れる音が聞こえていた。それも、お上の官車をあえて避け、二度も辻人力車を乗り継いでここまで密かにやってきた。外套の裾にこびりついた二種類の異なる泥の撥ね方が、その執拗な隠蔽の足取りを雄べんに物語っている。それほどまでに、彼の身辺には財閥顧問(モリアーティ一味)が放った密偵の目が張り付いているのだ」
ぎしぎしと不穏な音を立てて木製の階段を上がってきたのは、司法省の検事正であった。
男は濡れた笠を脱ぎ、部屋に入るなり、低い、かすれた声で切り出した。
「小室殿、時間の猶予はない。単刀直入に申し上げる」
検事正の眼には、明らかな焦燥と、限界に近い疲労の色が浮かんでいた。
「川崎財閥と海軍高官による、軍艦建造費の『水増し背任行為』――その決定的な裏帳簿が、どうしても見つからんのだ。
神田の長屋や法律学校にひしめく失職士族たちは、財閥が私腹を肥やすこの結託の噂に怒り狂い、いつ暴動を起こして政府の庁舎を焼き討ちに分からん。お上の正義の網を動かし、国賊を公式に逮捕するためには、どうしても君の眼が必要なのだ」
私は手元にある、刺殺されかけた泰六が残した未解析の書類の束に視線を落とした。
かつての霧の都ロンドンなら、馬車の轍の深さや石炭の煤煙の性質で犯人を一瞬にして識別できた。だが、この神田の街はドブ板の悪臭と士族の義憤という、不気味な雑音で埋め尽くされている。
しかし、私の論理思考は、東洋の未熟な都市基盤であっても、寸分の狂いなく最適解を弾き出し始めた。
「検事正、貴方方は財閥の金蔵や高官の邸宅ばかりを探しているから見つからないのです」
私は、窓外の暗闇に響くニコライ堂の鐘の音を聞きながら、新しい刻み煙草に火を点けた。
「政商の主、あるいは背後で糸を引くあの最高顧問が、お上の警察が決して手を出せない聖域に裏金の流れを隠すとすれば、答えは一つしかない。
条約改正の交渉のために滞在している、異国の公使館の『御用達の書帳』の裏表紙の隙間だ。割印のある本物の裏帳簿は、すでにそこへ移されている。治外法権の壁の向こう側だ」
検事正は息を呑み、拳を固く握り締めた。
「まさか、そこまで見抜いていたとは……。
だが、相手は国の要職と巨大な資本だ。
夜を徹して公使館へ押し入るような真似をすれば、外交の破綻という別の危機を引き起こす」
「だからこそ、搦め手からその書帳を合法的に押さえるための段取りを組まねばならない。検事正、これには数日の刻が必要だ。それまで、決して奴らに私が生きていることを悟られるな」
検事正は深く一度だけ頷くと、再び夜陰の雨の中へと消えていった。
それからの三日間、神田駿河台の洋館の二階は、外の世界から完全に隔離された。
外の路地では、川崎財閥の最高顧問が放った刺客たちが、泰六の死体の行方を血眼になって探し回っている。
足音が廊下に響くたび、進一は生きた心地がせず、短刀の柄を握る手に血の気が失せていた。
私はただ、窓の隙間から見える時計の針を眺め、お上の法網が発動するタイムラインを冷徹に計算していた。恐怖も、焦りもない。ただ、乾いた時間が流れていくだけだった。
そして四日目の朝。
神田の街を切り裂いたのは、号外を配る激しい鈴の音であった。
『海軍高官および川崎財閥の主、国家への背任の疑いにて、司法省の手により公式に逮捕される』
数日をかけて完璧な罠を構築した検事正たちの手によって、国賊の身内はついに一網打尽にされたのである。士族の暴動という最悪の事態は、完璧な法執行の規律によって、水際で完全に相殺された。
しかし「身内に売国奴がいた」という大醜聞はお上の公式記録から隠蔽され、真相は闇に葬られた。身の安全と引き換えに、この真実は「瑞西の架空の探偵小説を神田の書生が翻案した娯楽読み物」として世に出ることになった。
夜が明ける東京神田の街で、異国が死者と記録しようとも、私の知性は翻案という偽りの皮膜をまとい、生き永らえていく。




