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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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Ⅵ 兜町の暴落、暗号化された株札の論理

「国家の財政をクラッシュさせ、お上の防壁を剥ぎ取り、泰六(シャーロック)の足場ごと世界を闇で上書きする」それが、古書店店主(モリアーティ)の目論みだった。

十月の生温かい風が、東京の経済の心臓部、兜町(かぶとちょう)の通りを白く乾いた砂埃で満たしていた。


「旧 東京株式取引所」の巨大な立会場は、地鳴りのような怒号と、何百人もの仲買人が突き出す手看板の波で、狂気じみた熱気に包まれていた。


だが、その大黒板にチョークで書き込まれる売買の数字が、近代日本の築き上げてきた論理を完全に無視して垂直落下を始めた瞬間、熱狂は底知れぬ恐怖へと上書きされた。


国家の血流たる「官約鉄道(国鉄)の公債」と、海運巨頭の株価が一斉に大暴落を始めたのである。お上の財政を破滅へと追い込む、目に見えぬ強大なハッキングが起動していた。


神田駿河台の洋館の二階。小室泰六(こむろたいろく)は、床一面に広げられた「分刻みの売買成立のログ(記録)」の紙片を、虫眼鏡を覗き込むように冷徹に走査(スキャン)していた。彼の細い指先には、真鍮の煙管(きせる)が握られている。


「大蔵省も日本銀行も、この売り崩しの波を止められんのだ! 誰が、いかなる資金(マネー)を使って仕掛けているかも分からん!」


部屋に飛び込んできた司法省の検事正(逮捕する側)は、焦燥のあまり声を枯らしていた。

「検事正、落ち着きなさい。パニックは思考のノイズにしかなりません」

泰六は煙管から細い煙を吐き出し、小刀の先で、数字の羅列の一点を指ししめした。


「この暴落は、偶然のノイズではない。五分ごとに、特定の端数(数字の並び)を持って放たれる、冷徹な数理(アルゴリズム)に基づいた大量の売りパケットだ。……ライヘンバッハの滝壺から生還した私の宿敵が、ついにこの国のインフラそのものを人質にして、チェス(宣戦布告)を仕掛けてきたのだよ。彼の狙いは、単なる金銭の強欲ではない」


泰六の論理思考システムは、モリアーティ教授が仕掛けたマクロ経済の罠の真の意図を、瞬時に解読してみせた。


お上の藩閥政府は、条約改正と近代化のために大英帝国のロンドン市場から莫大な外債(借金)を募っている。もしここで国債の価値を暴落させ、日本政府を国家破産(債務不履行)に追い込めば、鉄道や電信網といった近代日本の最重要インフラの全権が、西洋列強へと合法的に差し押さえ(強奪)られる。


さらに、国家が破産すればお上の警察(正義の執行官)も機能停止に陥り、東京は完全な無法地帯と化す。そうなれば、実兄マイクロフトという後ろ盾(サーバー)を持たぬ孤立無援の泰六は、自分を守る唯一の防壁(検事正の権力)を根底から消去され、この神田の泥の中で完全に抹殺される。国家の破滅とホームズの消去、それらを同時に執行する、冷酷極まるチェックメイトの一手であった。


「日本の信用システムが崩壊(ゲームオーバー)するまで、あと三十分。兜町へ向かうぞ、進一」


泰六は助手、和田進一(わだしんいち)を伴い、緊迫する取引所の立会場へと潜入した。場内では、仲買人たちが狂ったように手看板を出し入れしている。


泰六の観察眼は、場内の喧騒に惑わされず、財閥系の特定の仲買人の、衣服に残された「神保町の古い書庫のかび臭い匂い」を逆探知(デコード)した。モリアーティは、失職士族たちの政府への不満の資金を裏からハッキングし、恐怖に駆られた市場の群衆心理を数式化して、暴落の波を自動航行させていたのだ。


「奴の計算の、わずかな隙間(バグ)を見つけたぞ」

泰六はニコライ堂の鐘の音を脳内で同期させながら、売買票の数字を逆計算(デバッグ)した。


「どれほど完璧な暴落の数式であっても、売り注文が集中した直後、取引の処理に『空白の三分間』が生じる。検事正、直ちにお上の主流派(日銀・大蔵省の底金)へ電信を打ち、私の指定する時間、指定する数式の数字で、一斉に『買い戻しのパケット』を放流させるのです」


暴落の波が極限に達したその瞬間、泰六の放った対抗暗号(セキュリティパッチ)が発動した。


大黒板の前で、お上の莫大な買い注文が一斉に処理され、暴落の波は完全に堰き止められた。市場は奇蹟的な大反転を果たし、場内で教授の売買電信を裏から操作していた財閥の工作員たちは、検事正率いる警察の手によってその場で公式に逮捕された。

お上の崩壊という最悪のクラッシュは、水際で完全に相殺されたのである。


すべてが終わり、床に無数の売買票が散らばった無人の取引所。


泰六は大黒板に書かれた数字を小刀の先で冷淡に削り落とし、煙管の灰を落とした。


「教授は、この国のインフラの数字そのものを武器にして私を殺しに来た。…

…だが、今回のチェスは私の勝ちだ」


この、日本経済を破滅寸前まで追い込んだ兜町の大暴落事件の全容もまた、お上の都合によって公式の正史からは完全に消去される。


そして後日、和田進一の筆によって、ただの『兜町の暴落 ―― 翻案小説』という嘘の盾をまとって世の大衆へと放流されていくが、東京の夜の底で、二人の天才の知性の戦いは、さらにその深度を深めていくのであった。

◾️古書店店主(モリアーティ教授)が、国家の財政をクラッシュさせたい目的ともくろみ


1.列強(英国)による「都市インフラ(ルート権限)の強奪」

明治二十六年の日本は、悲願である条約改正や軍備近代化(軍艦の建造)のために、海外(特に大英帝国のロンドン市場)から莫大な外債(借金)を募っていました。

もし兜町を大暴落させ、日本政府をデフォルト(国家破産)に追い込めば、お上は借金を返済できなくなります。その結果、国債の担保となっている「鉄道」「港湾」「電信網」といった近代日本の最重要インフラの全権が、英国をはじめとする西洋列強へと合法的に差し押さえ(ハッキング)られることになります。モリアーティは、西洋の巨大資本と裏で結託し、日本を実質的な属国(植民地)へと格下げする世界戦略の数式を動かしていたのです。



2.お上の「法規の網(警察システム)」の完全なる機能停止

国家が破産すれば、お上の藩閥政府は機能停止に陥り、官僚や警察(正義の執行官)、軍隊へ支払う俸給(給与)のパケットが完全に途絶えます。

お上の作った「法と規律の網(セキュリティ)」が財政崩壊によって消去されれば、東京は完全な無法地帯(サンドボックス)と化します。そうなれば、モリアーティが神保町の古書肆の奥から糸を引く「暗黒街の犯罪ネットワーク(中央サーバー)」が、名実ともにこの国の裏も表も完全に統御(支配)することになります。



3.後ろ盾なきホームズ(泰六)の「完全なるチェックメイト(孤立無援化)」

これが、ホームズを抹殺するための最も冷酷なチェスの一手です。

ロンドンでのホームズは実兄マイクロフト(英国政府そのもの)に守られていましたが、神田の泰六(ホームズの魂)は、司法省の検事正という「お上の法執行機関」と結託することでのみ、財閥や暗殺部隊からの物理消去を防いでいます。

もしデフォルトによってお上の政府そのものを崩壊させれば、泰六を守る唯一の防壁(検事正の権力)が根底から消滅し、ホームズは東京の泥の中で文字通り完全な孤立無援のスタンドアロンへと追い詰められ、消去されることになるからです。

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