小室泰六(SHERLOCK) - 箱根路の霧、消えた御用箱と三つの湯の匂い
登場人物紹介
◾️小室泰六
東京・神田を拠点に活動する、鋭い観察眼と論理的思考を持つ探偵。
些細な傷や物の配置、証言の食い違いから、隠された事実を見抜いていく。思い込みを嫌い、事実と解釈を厳密に区別する一方、人間の心を単純な善悪だけで裁こうとはしない。箱根の旅先で遭遇した密室の御用箱消失事件に、独特の推理で挑む。
◾️和田進一
泰六の相棒であり、本作の語り手。泰六が論理によって謎の骨格を見抜くのに対し、進一は人々の暮らしや記憶、言葉の奥にある事情に目を向ける。
温泉を守る人々や旅館で働く者たちの話を聞くうちに、帳簿や記録だけでは見えてこない、箱根の土地に刻まれた過去へと近づいていく。
◾️久我直道
旧家に仕える年配の家臣。
先祖から伝わる相続関係の書類を収めた真鍮縁の御用箱を携え、山水閣に宿泊している。礼儀正しく責任感が強いが、家に伝わる事情については、すべてを語っているわけではない。御用箱が消失したことで事件の中心人物となる。
◾️相沢源右衛門
箱根湯本の老舗旅館「山水閣」の主人。
建物の古い構造や、代々働いてきた人々のことをよく知っている。旅館の評判と客の安全を守ろうとする一方、古い建物に残る秘密について、すべてを把握しているとは限らない。
◾️佐吉
山水閣で働く若い奉公人。
客室の掃除や荷物の運搬を担当し、旅館の廊下や物置の様子にも詳しい。事件当夜の出来事について証言するが、若さゆえに、見たものと自分がそうだと思ったことを混同している部分もある。
◾️真壁弥平
箱根の湯を守る仕事に長年携わってきた男。
温泉の流れや古い湯宿の設備に詳しく、土地に伝わる記憶を大切にしている。かつての家同士の約束が忘れ去られていくことに、深いわだかまりを抱えている。御用箱の消失事件と、箱根に残された過去の因縁をつなぐ重要人物。
◾️お志乃
温泉場で働く女性。
複数の源泉の違いや、湯の匂い、湯道の管理に関する知識を持つ。進一の聞き取りに応じるなかで、土地の人々が日々の仕事を通じて受け継いできた記憶を語る。彼女の証言は、三つの湯の匂いの意味を考える手がかりとなる。
◾️戸田新吉
温泉の管理や修繕に関わる職人。
古い木造建築や湯道の構造について知識があり、山水閣の床下や使われなくなった設備についても、いくらか事情を知っている。何気ない仕事の記憶が、密室の謎を解くための重要な手がかりとなる。
【物語の鍵となるもの】
◾️御用箱とは?
久我直道が携えてきた、真鍮の縁取りを施した黒塗りの箱。
旧家の相続に関わる書類が収められている。
厳重に保管されていたはずの箱が、鍵の掛かった部屋から姿を消す。
◾️三つの湯の匂い
事件現場に残されていた、異なる三つの温泉の匂い。硫黄の匂い、鉄分を思わせる匂い、そして第三の匂い。それぞれが何を意味するのか。匂いだけで犯人を決めつけず、物証や証言と照らし合わせることが、真相への道となる。
◾️古い湯道と床下の空間
長い年月を経た旅館の床下に残る、温泉を引くための設備と保守用の空間。人々が忘れかけた古い構造が、御用箱の消失を説明する鍵になるのかもしれない。
◾️忘れられた約束
時代の移り変わりのなかで、記録からこぼれ落ちた人々の約束。誰の所有物なのかという問いの背後には、誰の声が記録され、誰の声が忘れられたのかという、もう一つの問題が横たわっている。
箱根路の霧、消えた御用箱と三つの湯の匂い
第一章 師走の箱根
明治二十六年、師走。東京の冬は、乾いていた。
神田の町では、朝ごとに霜が降り、路地の水たまりには薄い氷が張った。
人々は襟を立て、火鉢のある店先へ身を寄せながら、年の暮れの忙しさに追われていた。
ところが、箱根の冬は東京とは違う。
山の空気には湿り気があり、杉の梢から落ちる雫は、昼なお冷たい。谷間には霧が流れ、山道の向こうに見えているはずの峰さえ、白い幕の向こうへ隠れてしまう。
その箱根湯本に、私と小室泰六がいた。
「進一君。君は療養という言葉の意味を、どう理解しているかね」
宿の縁側で、湯呑みを手にした泰六が尋ねた。
「身体を休めることではありませんか」
「正しい。しかし、私にとっては少々難しい定義だ」
「なぜです」
「身体を休めているあいだにも、頭が働く」
「それは、あなたが休もうとなさらないからでしょう」
泰六は、私の言葉を聞いて、わずかに眉を上げた。
「君は近頃、ずいぶん率直になったな」
「先生とお付き合いしていれば、こちらも多少は鍛えられます」
「なるほど。では、その鍛錬の成果を試す機会が、まもなく訪れるかもしれない」
そう言って、彼は宿の庭へ目を向けた。
私たちが泊まっていたのは、箱根湯本でも古い歴史を持つ温泉宿、山水閣である。
木造二階建ての堂々とした建物で、廊下は幾度も折れ曲がり、柱には長年の湯けむりが染み込んでいた。建物の裏手には、湯を各浴室へ導くための木製の管や水路が残されているという。
その日の午後、私たちは宿の帳場で、ひとりの男と顔を合わせた。
年のころは五十を越えたばかり。上等な黒い外套を着ていたが、その顔には旅の疲れ以上の緊張が浮かんでいた。
男の名は、久我直道。
旧大名家のひとつ、久我家に仕える家令であった。
直道は、泰六の名を確かめるように尋ねた。
「失礼ながら、小室泰六先生でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「お噂はかねがね。実は、ひとつお願いがございます。まだ事件が起きたわけではございませんが……」
「事件が起きる前から探偵に相談するとは、慎重な方だ」
泰六はそう言ったが、直道は笑わなかった。
彼は周囲を気にしながら、声を落とした。
「私が運んでおります品は、久我家の相続に関わる証書でございます。人目に触れさせるわけにはまいりません。ところが、この宿には、どうにも落ち着かぬものがあるのです」
「何がです」
「昔からこの土地に住む者たちの、私どもを見る目でございます」
直道はそれ以上を語らなかった。
その晩、箱根の山には濃い霧が降りた。
そして、夜半を過ぎたころ。
山水閣の二階から、宿の者たちの叫び声が響き渡った。
久我直道が泊まっていた客室から、相続証書を収めた真鍮の御用箱が、跡形もなく消えていたのである。
第二章 内側から掛けられた錠
警察が到着したのは、夜明け前であった。
箱根湯本を担当する巡査、柴崎宗一は、事件のあらましを聞くと、早々に結論を下した。
「賊が窓から侵入し、箱を盗んで逃げたのでしょう」
「しかし、窓は内側から閉まっていたのです」
直道が反論した。
「窓を閉めて逃げる方法など、いくらでもあります」
柴崎巡査は、部屋の隅に立っていた若い下男を指さした。
「まずは宿の者から調べるべきですな。夜中に廊下を歩いていた者がいるそうではないか」
下男の名は、佐吉といった。
まだ二十歳にもならぬ青年で、宿の仕事を始めて二年になるという。
「おれは、夜具を運んだだけです。御用箱なんか、触ってもおりません」
「では、なぜ夜中に二階へ上がった」
「お客さまが、湯冷めをしたとおっしゃったからです。替えの掛け布団を届けたんです」
佐吉の声は震えていた。
柴崎巡査は、その震えを疑いの証拠と見たようだった。
「怪しいものだ」
そのとき、泰六が静かに口を挟んだ。
「巡査。まだ盗難と決まったわけではありません」
「箱がなくなったのですぞ」
「箱がなくなったことと、盗まれたことは同じではない。まずは、何が起きたのかを確かめるべきでしょう」
泰六は私を連れ、問題の客室へ入った。
六畳ほどの部屋だった。
床の間には掛け軸が掛かり、その下に御用箱が置かれていたという。窓は庭に面しており、外は濃い霧に覆われている。
泰六は、まず窓の桟を調べた。
傷はない。
障子にも、紙を破った跡はなかった。
畳の上には泥の足跡もない。
「窓から入った者がいたとして、これほど何も残さずに箱を持ち出せるでしょうか」
私が尋ねると、泰六は首を振った。
「不可能とは言わない。しかし、可能性が低いことを、最初から事実として扱うのは誤りだ」
彼は錠前を調べ、次に床の間へ歩み寄った。
箱が置かれていたという畳には、四角い跡が残っていた。周囲よりわずかに色が濃く、長く重いものが置かれていたことを示している。
泰六は、その跡の端に膝をついた。
「進一君。ここへ来てみたまえ」
床の間の奥、柱と畳の境目に、黒ずんだ木片が挟まっていた。
泰六はそれを指先でつまみ、鼻先へ持っていった。
「木の削り屑ですか」
「それだけなら珍しくもない。だが、こちらはどうかな」
彼は畳の縁に顔を近づけた。
私も倣ってみた。
かすかな匂いがした。
硫黄のような匂い。鉄を含む水が乾いたときの、錆びたような匂い。そして、それらとは異なる、湿った木と古い湯垢の匂い。
「温泉の匂いでしょうか」
「そのとおり。しかし、ひとつではない」
泰六は立ち上がった。
「この部屋には、三つの異なる湯の匂いが残っている」
第三章 三つの湯の匂い
山水閣の主人、相沢源右衛門は、泰六の話を聞いて困惑した。
「三つの湯、とおっしゃいますと」
「この宿で使っている源泉は、ひとつではないのですか」
「いえ。表の浴場には白湯沢の湯を、奥の浴場には鉄ノ湯を使っております。裏手の小さな湯殿には、古い岩間の湯がございます」
「三つとも、同じ管で運ばれるのですか」
「いいえ。源泉ごとに別の管でございます。ただし、古い管は一部、建物の床下を通っております」
源右衛門は、泰六を裏手へ案内した。
そこには、湯を各浴室へ送るための設備があった。
木製の管は太いものも細いものもあり、何度も修繕された跡がある。管の継ぎ目には木の楔が打たれ、周囲には湯の成分が固まった白や赤茶色の付着物が見えた。
「昔は、床下の通路を使って湯管を直していたそうです。今は一部しか使っておりませんが」
「床下へ人が入れるのですか」
「狭いところならば。湯守なら、どこを通れるか存じております」
その言葉に、泰六の目が鋭くなった。
「湯守とは?」
「源泉の管理や湯管の修繕をする者たちです。今は三人おります」
源右衛門は、三人を呼びに行った。
最初に現れたのは、年配の湯守、真壁弥平だった。
痩せた身体に古い木綿の着物をまとい、指の節は太く、爪の間には黒い汚れが染み込んでいた。長年、湯管を扱ってきた職人の手である。
二人目は、お志乃という女だった。夫を早くに亡くし、湯守の仕事を手伝いながら幼い娘を育てているという。
三人目は、戸田新吉。まだ若いが、山道や床下の通路を知り尽くしている。
泰六は三人に、客室の匂いについて尋ねた。
弥平は床下の湯管について説明した。
「白湯沢の湯は、少し硫黄の匂いがいたします。鉄ノ湯は、その名のとおり鉄の匂いが強い。岩間の湯は、古い木のような匂いが残ります」
「その三つが、ひとつの客室に残ることはありますか」
「通常はございません」
弥平は即答した。
「湯管が独立しているからです。ただ、修繕の折に、管の外側へ付いた湯垢が別の場所へ移ることはございます」
「なるほど」
泰六は、三人の手を順に見た。
弥平の手には赤茶色の汚れがあり、お志乃の袖口には白い粉が付いていた。新吉の草履には、黒っぽい湿った土がこびりついている。
「三人とも、昨夜はどこにいましたか」
弥平は湯守小屋にいたと答えた。
お志乃は宿の裏で湯を見ていたという。
新吉は、夜半に一度、道具を取りに小屋を出たと認めた。
柴崎巡査は、すぐに新吉を睨んだ。
「夜中に出歩いたのか」
「湯管の音がおかしかったんです。古い管が鳴ることはありますから」
「それで二階へ忍び込んだのではないか」
「おれは二階へなんか上がっていません」
新吉の声には、怒りが混じっていた。
泰六は巡査を制した。
「まだ、匂いと人間を結びつけるには証拠が足りません」
彼は床下の構造を見たいと申し出た。
源右衛門は、しばらくためらったあと、床の間の下に古い点検口があることを明かした。
そこは、かつて湯管の修繕に使われていた場所だった。
第四章 床の間の下
点検口は、床の間の畳を上げたところにあった。
畳を外すと、板張りの床が現れた。その一枚に、指を掛けるための小さなくぼみがある。
源右衛門が板を持ち上げると、湿った木の匂いとともに、暗い空間が口を開けた。
そこには、古い木製の湯管が何本も走っていた。
人ひとりが通るには窮屈だが、身体を横にすれば、床下の保守通路へ入ることができる。
泰六は灯りを借り、通路を調べた。
「進一君、ここを見たまえ」
通路の木枠には、新しい擦り傷があった。
その下の土には、細い引きずり跡が続いている。
しかし、箱が通ったと断定できるほど明瞭なものではなかった。
「御用箱がこの隙間を通ったのでしょうか」
「可能性はある。だが、まず箱の寸法を知らねばならない」
直道を呼び、御用箱の大きさを確かめた。
縦は一尺一寸、横は一尺六寸、厚さは七寸ほど。真鍮で縁を補強した木箱で、書類を収めるには十分な大きさだが、見た目より重いという。
泰六は寸法を聞き、点検口を測った。
「箱そのものは、この開口部を通れる。だが、問題はその先だ」
通路は途中で二つに分かれ、ひとつは湯管の修繕場所へ、もうひとつは古い倉の床下へ続いていた。
倉は現在、ほとんど使われていない。
その床板の一枚には、内側から外せる仕掛けがあった。
「箱をここまで運べば、外へ持ち出すこともできるわけですね」
私が言うと、泰六は頷いた。
「そうだ。しかし、誰が、いつ、どうやって運んだかは、まだわからない」
彼は床下の土を調べた。
新しい足跡は複数あったが、どれも湯守たちが普段から通っているものと区別しにくい。木枠の傷も、日常の修繕で生じた可能性がある。
「密室の仕掛けが見つかったからといって、犯人まで見つかったと思ってはいけない」
泰六は、私に念を押すように言った。
「仕掛けを使える人間は複数いる。犯行を可能にする条件と、実際に犯行を行った証拠は別物だ」
そのとき、通路の奥から、かすかな水音が聞こえた。
三つの湯が、それぞれの管を流れている。
その音を聞きながら、私はふと思った。
この宿の床下には、表の帳場からは見えない道がある。
そして、その道を知っている者たちには、帳簿には書かれない記憶があるのだろう。
第五章 山の暮らし
私は、その日の午後を湯守たちと過ごすことにした。
泰六は宿の構造と御用箱の寸法を調べ続けると言い、私には人々の話を聞いてくるよう頼んだ。
「進一君。彼らの言葉を、私の推理に都合よく並べてはいけないよ」
「わかっています」
「わかっている人間ほど、時に都合のよい話を選ぶものだ」
その言葉を胸に、私は湯守小屋へ向かった。
小屋では、お志乃が薪を割り、新吉が管の継ぎ目を修繕していた。弥平は壁に掛けた古い図面を眺めている。
私は、まず何気ない話から始めた。
山の冬の厳しさ。湯を守る仕事。湯管が凍らぬよう、夜中にも様子を見に行くこと。
新吉は、手を止めずに話した。
「湯は生き物みたいなものです。昨日まで流れていたところが、朝になると止まる。音が変われば、どこかで詰まっている。匂いが変われば、湯の通り道が違っていることもある」
「三つの湯を、匂いで見分けられるのですか」
「慣れればね。でも、匂いだけじゃ間違えます。風向きもあるし、湯気の量も違う。管の外に残った湯垢が混ざることだってある」
その言葉は、泰六の指摘と重なっていた。
匂いは手掛かりであって、結論ではない。
お志乃は、薪を置いてから話し始めた。
「この宿は、ずいぶん立派になりました。でも、山の者の暮らしは、昔からそう変わりません。湯が止まれば客が困る。客が来なければ、私たちも暮らせない」
「久我家の方々とは、以前からお付き合いがあるのですか」
その問いに、お志乃の表情が曇った。
「昔から、この山には久我家の人が来ていました。けれど、あの家の人たちが来ると、弥平さんはいつも黙ってしまうんです」
私は弥平を見た。
彼は図面から目を離さなかった。
「弥平さんには、何かご事情が?」
「昔の話です」
弥平は短く答えた。
「昔の話は、今の暮らしとは関係ありません」
そう言いながら、彼の手は、図面の端を強く押さえていた。
私はそれ以上、尋ねなかった。
人は、話したくないことを持っている。
しかし、話したくない理由があることと、その人が何かを隠していることは、必ずしも同じではない。
私は小屋の壁に掛けられた古い図面を見た。
そこには、現在は使われていない湯管の経路が、細い墨線で描かれていた。
そして、図面の隅に、見慣れぬ文字が記されていた。
「岩間の湯、旧水路は榊原家の地を通ず」
第六章 消された名前
その夜、私は弥平から、ようやく昔の話を聞くことができた。
彼の祖父は、箱根の湯を守る仕事をしていた。
明治維新の前後、この一帯の土地と湯の権利をめぐって、旧領主と村人たちの間に争いがあったという。
そのころ、山の奥に榊原という家があった。
榊原家は代々、岩間の湯へ通じる水路を管理し、周辺の村人が湯を使う権利を守ってきた。しかし、時代が変わるなかで、土地の境界や水路の権利を記した書類が失われた。
新しい制度のもとで権利を主張するには、証書が必要だった。
だが、榊原家の当主は、争いのさなかに罪を着せられ、家を追われたという。
「祖父は、その人を助けようとしたそうです」
弥平は、火鉢の炭を見つめながら言った。
「けれど、証書がなければ、誰も話を聞いてくれなかった。祖父は最後まで、榊原家が盗人ではなかったと信じていました」
「その証書は、見つからなかったのですか」
「わかりません。祖父は、何も残さずに亡くなりました。ただ、ひとつだけ、よく言っていた言葉があります」
弥平は顔を上げた。
「湯は山から流れ、誰かひとりのものになっても、山そのものがその人のものになるわけではない、と」
その言葉を聞いたとき、私は床の間の下で見た三つの湯管を思い出した。
それぞれの源泉は別々に流れている。
しかし、宿を支えているのは、どれかひとつの湯だけではない。
「久我家は、その争いに関係しているのですね」
弥平は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「久我家の先祖が、当時の土地の権利を取りまとめたのです。榊原家の名が記された古い書付も、そのとき失われたと聞いています」
「今回の御用箱に、それが入っているのですか」
「私は知りません」
弥平はきっぱりと言った。
「ただ、もし入っているのなら……今度こそ、あの家の名を、盗人の名のままにしてほしくはありません」
その声には怒りがあった。
しかし、それ以上に、長い年月をかけて冷えてしまった悲しみがあった。
私は、彼の話をそのまま事実として受け取るわけにはいかなかった。
祖父から聞いた話が、どこまで正確なのか。失われた書類が何を証明するのか。久我家の先祖が何を知っていたのか。
それらは、別々に確かめなければならない。
だが、弥平がなぜ御用箱の事件に強い関心を抱いているのか、その理由は見えてきた。
第七章 御用箱の中身
翌朝、泰六は久我直道に、御用箱に何が入っていたのか、できる限り詳しく説明するよう求めた。
直道は、しばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「御用箱には、久我家の相続に関する証書のほか、古い土地台帳の写し、そして先代が保管していた覚書が入っております」
「覚書とは?」
「明治維新の前後に作成されたものです。土地の権利について、当時の関係者が取り交わした書付だと聞いております」
「榊原家の名はありますか」
直道の顔色が変わった。
「なぜ、その名を……」
「この土地の古い図面に記されていた」
泰六は、湯守小屋で見つけた図面を示した。
直道はそれを見つめ、しばらくしてから言った。
「あります。榊原家の名が記されている書付が、確かに」
「では、御用箱が消えたことによって、誰が利益を得るのでしょう」
「私どもが、榊原家の権利を認めずに済むと考えておられるのですか」
直道は、苦しげに笑った。
「私は、ただ命じられたものを運んでいるだけです。相続の手続きが進めば、古い土地の権利も整理されます。久我家にとっても、村の方々にとっても、長い争いを終わらせる機会なのです」
「それは、書付を確かめたうえでの話ですか」
泰六の声は冷静だった。
直道は答えなかった。
やがて、彼は小さな声で言った。
「正直に申し上げます。私は、書付のすべてを読んだわけではありません。御用箱は封印されておりましたから」
「誰が封印したのです」
「久我家の当主です」
泰六は、箱の封印が破られていなかったことを確認していた。
つまり、御用箱を開けずに中身を取り出すことはできない。
そして、箱そのものは、密室から消えた。
「直道さん。あなたは、箱が盗まれたと考えていますか」
「ほかに、どう考えればよいのでしょう」
「それを調べるのが、私の仕事です」
泰六は、静かに答えた。
第八章 三つの証言
泰六は、湯守の三人を別々に呼んだ。
最初は新吉だった。
「昨夜、床下へ入りましたか」
「入りました。湯管の音がおかしかったので」
「何時ごろです」
「夜の十時を少し過ぎたころです」
「誰かに見られましたか」
「お志乃さんが、湯守小屋にいました」
次に、お志乃が呼ばれた。
「新吉さんが夜中に出たのを見ましたか」
「はい。十時ごろでした。けれど、どこへ行ったかまでは知りません」
最後に、弥平が呼ばれた。
「昨夜は、どこにいましたか」
「湯守小屋です」
「ずっとですか」
弥平は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……一度、裏の倉へ行きました。古い道具を取りに」
「何時ごろです」
「夜半を過ぎたころです」
「倉には、誰かいましたか」
「いいえ」
三人の証言は、互いに矛盾しているようにも、補い合っているようにも見えた。
しかし、泰六はすぐには結論を出さなかった。
「進一君。三人のうち、誰が嘘をついていると思うかね」
「まだわかりません」
「よろしい。では、誰の話が正しいと思うか」
「それも、まだわかりません」
泰六は満足そうに頷いた。
「その答えができるうちは、君はまだ証言を聞いている。誰かひとりを犯人に決めてしまえば、それ以外の事実は見えなくなるからね」
彼は、床下の通路の図面を広げた。
「ただし、ひとつわかったことがある。御用箱を運ぶには、床の間の点検口から入り、古い倉の床下へ抜ける必要がある。窓から逃げたとするより、ずっと合理的だ」
「では、犯人は湯守の誰かでしょうか」
「湯守だけとは限らない。宿の構造を知っている者なら、以前に見聞きした可能性もある」
泰六は、図面の一か所を指した。
「だが、この通路を通るには、箱を持ち上げるだけでは足りない。途中に、狭い木枠がある。箱を横向きにして通さねばならないはずだ」
「箱には、その痕跡があるのでしょうか」
「まだ確認していない。だから、確認する」
第九章 真鍮に残った傷
御用箱が消えた床の間へ戻り、泰六は床板の傷を調べた。
木枠の角には、真鍮が擦れたときに残る色の薄い筋があった。
しかし、古い修繕の跡も多く、これだけでは決定的とは言えない。
そこで泰六は、宿の主人に、同じ寸法の箱を用意できないかと尋ねた。
源右衛門は、帳場の奥から、古い道具箱を持ってきた。
御用箱より少し小さいが、形は似ていた。
泰六はその箱を点検口から床下へ下ろし、木枠を通してみた。
箱は、横向きにすれば通った。
ただし、木枠の角に当たり、簡単には進まない。
「力任せに押せば、箱の縁に傷がつく。だが、誰かが下から受け取り、向きを変えれば通せる」
彼は、床下から箱を引き上げた。
そのとき、箱の底に細い木屑が付いていた。
泰六はそれを指でつまみ、床の間に残っていた木屑と並べた。
色も、繊維の向きもよく似ていた。
「同じ材の可能性が高い。ただし、同じ材であることだけでは、御用箱が通った証拠にはならない」
彼はそう断ってから、宿の大工に木枠を見せた。
大工は、傷のある箇所を確かめた。
「この傷は、近頃ついたものですな。古い傷の上に、新しい擦れがございます」
「何を擦ったのでしょう」
「真鍮か、銅のようなものだと思います」
泰六は、御用箱の底に付いていた金具の形を、直道から聞いていた。
金具の角には、少し丸みがある。
床下の木枠の傷にも、同じ丸みが見て取れた。
「これで、箱が通路を通った可能性は高くなった」
泰六は言った。
「しかし、まだ誰が運んだかはわからない」
その夜、私は宿の裏手で弥平を見かけた。
彼は、湯守小屋の灯りの下で、古い図面を広げていた。
その手元には、赤茶色の湯垢が付いた布が三枚置かれていた。
白いもの。赤茶色のもの。黒ずんだもの。
三つの源泉の匂いが、それぞれに染みついていた。
第十章 霧の中の真実
翌朝、泰六は三人の湯守と、久我直道、宿の主人を一堂に集めた。
「御用箱は、窓から盗まれたのではありません」
彼は、床の間の図面を広げた。
「床の間の下には、古い点検口があります。その先には、湯管の修繕用通路があり、さらに使われなくなった倉の床下へ通じている。御用箱は、点検口から床下へ下ろされ、狭い木枠を横向きに通され、倉の床下へ運ばれたのでしょう」
柴崎巡査が口を挟んだ。
「ならば、犯人は床下へ入れる者ですな」
「そう考えるのが自然です。しかし、床下へ入れることだけでは犯人の証明になりません」
泰六は、床下で見つかった木屑と、木枠の擦り傷を示した。
「この傷は、御用箱の金具と形が合います。箱がこの経路を通った可能性は高い。ですが、私が重要だと考えるのは、三つの湯の匂いです」
彼は、床の間の畳の縁を指した。
「白湯沢、鉄ノ湯、岩間の湯。それぞれの湯垢が、床の間の下に残っていました。これは、三つの湯がひとつの管を流れたという意味ではありません。むしろ、湯管を修繕する者が、それぞれの場所で使った布や道具が、同じ場所へ持ち込まれたことを示している」
弥平の表情が変わった。
泰六は続けた。
「昨夜、私は湯守小屋で、三種類の湯垢が付いた布を見ました。湯垢の色や匂いは、源泉ごとに異なります。床の間の下に残っていたものとよく似ていた」
「それだけで、湯守が箱を運んだとおっしゃるのですか」
直道が尋ねた。
「いいえ。匂いだけでは、誰が何をしたかは証明できません。私が言えるのは、御用箱が床下の通路を通った可能性が高いということ、そして、その経路を知る者が限られているということです」
泰六は、弥平を見た。
「真壁弥平さん。あなたは、昨夜、古い倉へ行ったとおっしゃいましたね」
「はい」
「何を取りに行ったのですか」
弥平は答えなかった。
沈黙が、部屋に落ちた。
やがて、弥平はゆっくりと頭を下げた。
「……私が、御用箱を隠しました」
お志乃が息を呑み、新吉は目を見開いた。
柴崎巡査が立ち上がった。
「やはり貴様か!」
「お待ちください」
泰六の声が、巡査を制した。
「まず、理由を聞きましょう。理由を聞くことは、罪を見逃すことではありません」
第十一章 失われた証書
弥平は、御用箱を隠したことを認めた。
しかし、箱を開けたわけではなかった。
彼は、久我直道が宿へ到着した日、御用箱の存在を知った。箱の中に、榊原家の名が記された古い書付があると聞き、長年失われていた証書が、ようやく日の目を見るかもしれないと思ったのだという。
「私は、証書を盗もうとしたのではありません」
弥平は、苦しげに語った。
「相続の手続きが進めば、古い土地の権利も整理されます。そのとき、榊原家の名がまた消されてしまうのではないかと……」
「だから、御用箱を隠したのですか」
泰六が尋ねた。
「はい。箱がなくなれば、手続きは止まる。そう考えました」
「箱を隠せば、書付の内容が確かめられなくなる。あなたが守ろうとしたものを、かえって遠ざけることになるとは考えなかったのですか」
弥平は、うつむいた。
「考えませんでした。私は、祖父の話を信じていました。けれど、その話を証明するものがない。だから、せめて時間を稼ぎたかったのです」
泰六は、しばらく黙っていた。
「あなたの祖父が信じていたことは、尊重すべきでしょう。しかし、信じていることと、証明されたことは違います。御用箱を隠した行為は、久我家の手続きだけでなく、真実を確かめる機会そのものを妨げたのです」
「承知しております」
弥平の声は小さかった。
彼は、古い倉の床下へ案内した。
そこには、木箱が置かれていた。真鍮の縁には、床下の木枠を通ったときについたと思われる新しい擦り傷がある。
御用箱は、確かにそこにあった。
直道は、封印が破られていないことを確かめた。
泰六は、箱を開ける前に、封印の状態を記録し、直道と柴崎巡査の立ち会いのもとで鍵を開けるよう求めた。
中には、相続に関する証書、土地台帳の写し、古い覚書が収められていた。
覚書には、榊原家の名があった。
それは、岩間の湯へ通じる水路について、村人たちが共同で管理する権利を認めた文書だった。
ただし、その文書だけで、現在の土地の権利がすべて決まるわけではなかった。書付の日付や署名をほかの記録と照らし、後年の取り決めがないか確かめる必要がある。
直道は、覚書を読みながら、目を閉じた。
「私は、これほど大切な書付が入っているとは、思っておりませんでした」
「知らなかったことは、あなたの責任をすべて消すものではありません。しかし、今から確かめることはできます」
泰六は答えた。
弥平は、御用箱の前に膝をついた。
「申し訳ございませんでした。私は、正しいことをしたつもりでした」
その言葉に、泰六は厳しくも穏やかに言った。
「正しいことを願うのと、正しい方法を選ぶのは、同じではありません」
第十二章 箱根路の霧
事件の後、柴崎巡査は弥平を連行する前に、久我直道と宿の主人から事情を聞き取った。
弥平は御用箱を隠した事実を認め、必要な調べを受けることになった。彼が善意から行動したことは、事実を変えなかった。
しかし、彼の話を聞いたからこそ、久我家もまた、覚書を無視することはできなくなった。
直道は東京へ戻る前に、村の代表者と話し合うことを約束した。相続の手続きと、古い水路の権利をめぐる調査を、別々にせず、関係する記録を照合しながら進めるという。
それは、すぐに誰かの望みどおりの結果をもたらすものではないだろう。
失われた年月は戻らない。
祖父が信じていたことのすべてが、証書ひとつで証明されるわけでもない。
それでも、長く閉ざされていた話し合いの扉は、ようやく開き始めた。
事件の翌朝、私は泰六とともに宿の庭を歩いた。
霧は薄れ、山の稜線が少しずつ姿を現していた。谷間からは湯けむりが立ち上り、冬の冷たい空気のなかを、白い帯のように流れていく。
「先生」
私は尋ねた。
「三つの湯の匂いは、結局、何を教えてくれたのでしょう」
泰六は、しばらく考えてから答えた。
「最初に教えてくれたのは、私たちが見落としている経路がある、ということだ。だが、匂いそのものが犯人を指し示したわけではない。床下の構造、箱の傷、湯守たちの証言。それらをひとつずつ確かめた結果、弥平の告白と合致したのだ」
「つまり、匂いは入口だったのですね」
「そうだ。手掛かりを結論にすり替えないこと。それが論理というものだよ」
私は、山の向こうを見つめた。
霧の中では、道の先が見えない。
しかし、道が存在しないわけではない。見えないからといって、そこに何もないと決めつけることもできない。
「弥平さんは、祖父の名誉を守ろうとしたのでしょうね」
「そうだろう。だが、祖父の名誉を守るために、別の人間の権利を奪ってよいわけではない」
泰六は、いつものように厳密だった。
「人間の善意は、行為の正しさを保証しない。だが、行為に誤りがあったからといって、その人間の願いまで偽物になるわけでもない」
私は頷いた。
「だからこそ、話を聞かなければならないのですね」
「話を聞くこと。そして、事実を確かめること。その両方が必要だ」
庭の端では、湯守の新吉が、湯管の様子を見ていた。お志乃は、薪を抱えて小屋へ戻っていく。弥平の姿はなかったが、彼が長年守ってきた湯は、変わらず山から流れていた。
三つの源泉は、それぞれ異なる匂いを持つ。
ひとつは硫黄の匂いを含み、ひとつは鉄の匂いを帯び、もうひとつは古い岩の湿り気を残す。
違うからこそ、見分けられる。
違うからこそ、互いの存在を確かめられる。
箱根路の霧は、やがて晴れていくだろう。
けれど、人の心に積もった霧は、そう簡単には晴れない。
だから、急いで答えを決めてはならない。
だからこそ、耳を傾け、目の前の事実を確かめ、互いの言葉をもう一度聞き直す必要があるのだ。
私は、泰六の横顔を見た。
彼は、遠くの山を見つめていた。
その眼差しには、いつもの鋭さがあった。しかし、そこにはまた、真実を求めることが、誰かを裁くためだけではないと知る者の静けさもあった。
だから泰六は、論理を手放さない。
だから私は、人間を見ることをやめない。
誰も、自分ひとりですべてを正しく知っているわけではない。
けれど、互いの話を聞き、事実を確かめることができるなら、失われたもののすべては戻らなくとも、次に進むための道を見つけることはできる。
箱根の山から、朝の湯けむりが立ち上っていた。
その三つの匂いは、霧の向こうへ静かに消えていった。




