小室泰六(SHERLOCK) - 巴里(パリ)万博にて ー 黒煙と天球儀の崩落と動く歩道の算法
登場人物紹介
◾️小室泰六
神田の名探偵。
鋭い観察眼と論理を武器に、証言の食い違い、時刻、距離、物証を組み合わせて真相を追う。
SHERLOCKの魂の宿る小室は、フランス語にも堪能。
だが、証拠を見抜くことと、人間のすべてを知ったと思い込むことは、まったく別だと心得ている。
◾️和田進一
泰六の相棒であり、物語の語り手。
理屈だけではこぼれ落ちる人々の事情に耳を傾ける。
異国で働く職人、舞台に立つ女性、罪を疑われる若者。それぞれの言葉を聞きながら、事件の奥にある人間の尊厳を見つめる。
◾️イサドラ・ダンカン
自由な身体表現を探求する若きダンサー。
貞奴の舞台に心を動かされている。
崩落事故の夜、事件に関わる人物の姿を目撃するが、自分の見たものをどう解釈すべきか、慎重に考えようとする。
◾️川上貞奴
世界の観客を魅了する日本の舞台芸術家。
異国の好奇の目にさらされながらも、自分の芸を自分の意志で届けようとする。
事件の直接的な謎解き役ではないが、進一に「守られること」と「自分で選ぶこと」の違いを考えさせる。
◾️サラ・ベルナール
フランスを代表する大女優。
舞台上の役柄と、一人の人間としての自分との隔たりを知る女性。
泰六との対話を通じて、探偵が証拠から人物像を決めつける危うさを照らし出す。
◾️岩村潔
司法省に関わる検事正。
日本の威信がかかる案件のため、泰六と進一を公費でパリへ派遣する。
事件の早期終結を求める圧力と、証拠を曲げてはならない法の責任との間で苦悩する。
◾️リュシアン・モロー
天球儀館の仮設構造物と周辺設備の工事を監督する技師。
資材調達にも関わり、崩落事故の責任を追及される立場にある。
事件当夜の行動について、動く歩道を利用したという説明をする。
◾️佐吉
神田に縁を持つ若い日本人職人。
現場で働き、崩落の直後に現場を離れた姿を見られたため、殺人の容疑者として追われる。
寡黙だが、現場の仕事と仲間の命を軽く扱われることに強い怒りを抱いている。
◾️エドゥアール・ヴァルヌ
資材調達を仲介していたフランス人業者。
崩落事故の夜、動く歩道の機械設備の近くで刺殺体となって発見される。
彼が残した帳簿と一枚の紙片が、事故と殺人をつなぐ鍵となる
巴里の黒煙、天球儀の崩落と動く歩道の算法
第一章 司法省からの書状
明治三十三年、秋。
神田の空には、薄い雲が幾重にも重なっていた。
私は小室泰六の書斎で、新聞を広げていた。海の向こうでは、フランスの巴里万国博覧会が連日大盛況だという。
電気、機械、建築、芸術。
人類が次の世紀へ踏み出す、その晴れやかな祭典に、世界中から人が集まっているらしい。
「和田君」
泰六が、机に置かれた封書を指で弾いた。
「君は、巴里へ行ったことがあるかね」
「ありません。そもそも、私のような者が気軽に出かけられる場所ではないでしょう」
「では、行くとしよう」
「……はい?」
泰六は、封書の差出人を私に見せた。
司法省。
差出人は、岩村潔という検事正だった。
書状には、万国博覧会の日本関係施設と資材調達をめぐり、外交上看過できない疑惑が生じている、と記されていた。現地の工事関係者から届いた報告には、資材の品質と帳簿の記載に不自然な点があるらしい。
岩村は、泰六の推理力を借りたいという。
ただし、表向きの任務は、あくまで資材調達に関する事実確認だった。
「探偵をパリまで呼ぶとは、よほどのことですね」
「国家の面目に関わる一件、とある」
泰六は淡々と答えた。
「その言葉が出てくるときは、たいてい、事実より先に結論が用意されているものだ」
「結論ですか」
「誰に責任を負わせれば、最も早く騒ぎが収まるか。そういう結論だよ」
私は、書状を読み直した。
旅費、滞在費、調査に必要な費用は公費で賄うという。
「公費で巴里旅行とは、ずいぶん立派な話ですね」
私が言うと、泰六は口元だけで笑った。
「公費というものは、ただで手に入る金ではない。あとから報告書という形で、利息を付けて返すものだ」
数日後、私たちは横浜から船に乗った。
そのときの私は、まだ知らなかった。
光に満ちた世紀の祭典で、ひとりの男が命を落とすことも。
その死が、遠く神田の古い職人たちの歴史と結びつくことも。
そして、ひとりの若いダンサーの目撃証言が、事件の行方を左右することも。
第二章 世紀の都、巴里
巴里の夜は、神田の夜とは違っていた。
街路には人があふれ、建物の輪郭は電灯に照らされて浮かび上がる。万国博覧会の会場では、機械の唸りと楽団の音色、各国の言葉が入り交じっていた。
私は、目の前に広がる光景に圧倒されていた。
「これほどのものを、人間が造ったのですね」
「造ったのは人間だ。しかし、誰が造ったかを忘れれば、建物はただの見世物になる」
泰六は、会場の外れに積まれた木材を見ていた。
「華やかな表側だけでは、仕事の全体はわからない。舞台の裏には舞台を組む者がいる。機械の裏には機械を動かす者がいる。大きな建物の下には、名を残さない人間の手がある」
私たちが訪ねたのは、万博の会場に設けられた架空の施設、天球儀館だった。
巨大な球体を中心に据えた展示館で、星々の運行を再現する仕掛けが人気を集めているという。周辺には観客を誘導するための仮設橋が架けられ、近くを電動の動く歩道が走っていた。
動く歩道――フランス語で trottoir roulant。
「未来の道、というわけですね」
私が感心していると、泰六は首を振った。
「未来というものは、便利な道具を造っただけでは完成しない。そこを歩く人間が安全でなければ、進歩とは呼べない」
その言葉を聞いたとき、私は少し不思議な気持ちになった。
泰六は、機械や数字を好む。
しかし、彼が数字を追いかけるのは、数字そのものを崇拝しているからではない。
数字の陰に隠された人間の行動を、確かめたいからなのだ。
その日の午後、私たちはロイ・フラーの劇場へ足を運んだ。
そこで私たちは、日本から来た舞台芸術家、川上貞奴と出会うことになった。
第三章 貞奴の舞台
劇場の中は、熱気に満ちていた。
観客席からは、さまざまな言葉で驚きと称賛の声が上がっている。
舞台の上に現れた貞奴は、観客の好奇心を受け止めながら、ただ珍しがられるだけの存在にはならなかった。
一挙手一投足に、役柄の感情が宿っている。
私は、彼女の目の動きに心を奪われた。
舞台が終わると、案内役を通じて、私たちは楽屋へ通された。
「日本からのお客様と聞きました」
貞奴は、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「遠いところを、ようこそ」
「こちらこそ、すばらしい舞台を拝見いたしました」
私が頭を下げると、泰六もフランス語で礼を述べた。
貞奴は、異国の観客たちについて語った。
称賛してくれる人もいる。だが、衣装や風習ばかりを見て、演技の中にある人間の感情を見ようとしない人もいるという。
「異国のものは、珍しいから見られることがあります。でも、珍しいだけでは、いつまでも人の心には残りません」
彼女は言った。
「私が伝えたいのは、遠い国の風俗だけではないのです。悲しむ人、怒る人、愛する人。そういう心は、国が違っても伝わると信じています」
私は、以前、神田で出会ったおはなの言葉を思い出した。
――旦那さま。私を守ろうと思ってくださったことは、うれしゅうございます。でも、私は何も知らされずに守られるだけの人間ではありません。
貞奴の言葉にも、同じ響きがあった。
彼女は、守られるだけの女性ではない。
自分の芸を、自分の意思で世界に届けようとしているのだ。
「明日、ひとりの若いダンサーが私の舞台を見に来るそうです」
貞奴が言った。
「イサドラ・ダンカンという女性です。踊りについて、いろいろと考えている方だとか」
泰六は、興味深そうに目を細めた。
「芸術家が芸術家を見に来る。観客とは、少し違う見方をなさるのでしょうね」
「ええ。私も、そう思います」
貞奴は微笑んだ。
その翌日、私たちは、その若い女性と出会うことになる。
そして、その女性の目が、殺人事件の真相に深く関わることになるのである。
第四章 天球儀館の惨事
事件が起きたのは、十月のある夕刻だった。
天球儀館の近くでは、夜の特別公開に向けて観客の誘導が行われていた。
そのとき、不意に大きな音が響いた。
木材の裂ける音。
鉄具のぶつかる音。
続いて、悲鳴が上がった。
仮設橋の一部が崩れ落ちたのである。
観客が押し合い、係員たちが叫び声を上げる。倒れた梁の下から、負傷者が次々に運び出された。
私は反射的に駆け出した。
泰六も、倒れた人々の様子を確かめながら、救助に加わった。
「医師を! こちらにも負傷者がいる!」
誰かが叫んでいた。
その混乱の中、若い日本人職人が、倒れた梁のそばから駆け出していくのが見えた。
「おい、待て!」
フランス人の係員が追おうとしたが、別の負傷者が助けを求めたため、その場を離れられなかった。
やがて、救助の手がひと段落したころ、別の騒ぎが起きた。
動く歩道の機械設備の陰で、男が倒れているというのだ。
男の名は、エドゥアール・ヴァルヌ。
資材調達を仲介していた業者だった。
胸には、鋭い刃物で刺された傷があった。
医師が首を横に振った。
男は、すでに息絶えていた。
事故と殺人。
ふたつの惨事が、同じ場所で、同じ夜に起きたのである。
現場に到着したフランス側の警察官は、すぐに若い日本人職人の名を聞き出した。
佐吉。
崩落直後、現場を離れた男。
被害者と資材のことで口論していた男。
そして、外国人の職人。
状況だけを並べれば、疑うには十分に見えた。
「まずは、その男を探せ」
警察官の命令が飛んだ。
私は、泰六を見た。
彼は、倒れた梁と、血の跡と、動く歩道の乗り場を順に見つめていた。
「泰六さん、佐吉という職人が怪しいのでしょうか」
「怪しいかどうかは、これから確かめる」
泰六は答えた。
「ただし、ひとつだけ確かなことがある」
「何です?」
「崩落した橋と、刺殺された男と、現場から離れた職人。この三つを、最初からひとつの物語にしてしまってはいけない」
彼は、倒れた梁に手を触れた。
「事故の原因と、殺人の実行者は、別々に調べなければならない」
その言葉が、この事件の出発点となった。
第五章 裸足のダンサー
翌朝、私たちは再びロイ・フラーの劇場を訪ねた。
そこにいたのは、ひとりの若い女性だった。
簡素な衣装をまとい、窓から差し込む光の中で、ゆっくりと腕を動かしている。足取りは軽く、決められた型をなぞるというより、身体そのものが音楽を探しているように見えた。
彼女がイサドラ・ダンカンだった。
貞奴が私たちを紹介すると、イサドラは興味深そうに泰六を見た。
「探偵というのは、人の嘘を見抜く仕事だと聞いています」
フランス語だった。
泰六も、流暢なフランス語で答えた。
「嘘を見抜くこともあります。しかし、最初から誰かが嘘をついていると決めることは、私の仕事ではありません」
「では、何をなさるのですか」
「人が何を見て、何を聞き、何をしたのか。その事実を、できるだけ正確に確かめます」
イサドラは、少し考えてから言った。
「舞台の上では、観客は私を見ます。でも、私のことを知っているとは限りません。私が悲しみを表現すれば、観客は私が悲しい人間だと思う。自由に踊れば、何にも縛られない人間だと思う。けれど、それは私の一部分にすぎません」
「探偵も、同じ誤りを犯します」
泰六は答えた。
「ひとつの動作を見て、その人間のすべてを知ったと思い込むのです」
そのとき、イサドラの表情が変わった。
彼女は、前夜の崩落事故について知っていることがある、と言った。
「私は、事故の直後に、動く歩道のそばにいました。人々が逃げ惑う中で、ひとりの男性を見ました」
「佐吉という職人ですか」
私が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「最初に見たのは、若い日本人でした。倒れた人のそばに膝をつき、それから走っていきました。彼が逃げていたのか、誰かを助けようとしていたのか、私にはわかりません」
「ほかには?」
「その少しあとです。灰色の上着を着た男性が、動く歩道の脇にある細い通路から出てきました。右手を、上着の内側に押し当てていました」
「顔は見えましたか」
「横顔を。少なくとも、今朝、新聞に載っていた写真の人物に似ていました」
彼女が指したのは、工事監督のリュシアン・モローだった。
私は息をのんだ。
モローは、警察に対して、事件当夜は別の場所にいたと説明していたのである。
「あなたは、彼が人を刺したところを見たのですか」
泰六が尋ねた。
「いいえ。そこまでは見ていません」
イサドラは、はっきりと答えた。
「私は、見たことだけを話します。見なかったことまで話すのは、私の芸術に対しても、あなたの仕事に対しても、誠実ではないと思いますから」
泰六は、静かにうなずいた。
「それで十分です。あなたが見たことと、見なかったこと。その両方が重要なのです」
第六章 サラ・ベルナールの問い
貞奴の紹介で、私たちはサラ・ベルナールと面会する機会を得た。
彼女はすでに、巴里の舞台芸術を代表する大女優だった。人の視線を集めることに慣れた、堂々たる気品がある。
泰六は、流暢なフランス語で挨拶した。
「Bonsoir, Madame Bernhardt. Enchanté de faire votre connaissance.」
「こんばんは、ベルナール夫人。お目にかかれて光栄です」
サラは泰六を興味深そうに見た。
彼女は、舞台の上で幾多の人生を演じてきた大女優である。
楽屋には花が飾られ、壁際には台本や衣装が置かれていた。ベルナールは、泰六がフランス語で挨拶すると、楽しそうに笑った。
「日本から来た探偵が、私の国の言葉を話すとは。世界はずいぶん狭くなったものですね」
「道が便利になったからといって、人の心まで近くなったとは限りません」
泰六が答えると、彼女は声を立てて笑った。
「なるほど。あなたは、舞台の台詞よりも難しいことをおっしゃる」
彼女は、貞奴の舞台についても話した。
日本の演技は、フランスの観客にとって見慣れないものだ。しかし、見慣れないからといって、理解できないとは限らない。異なる表現の中にも、誰かを愛し、誰かを失い、何かを守ろうとする人間の心がある。
「観客は、舞台の上の私を知っていると思っています」
ベルナールは言った。
「けれど、私が演じる役柄と、私自身は同じではありません。役柄を知ったからといって、私の人生を知ったことにはならないのです」
私は、事件の容疑者として新聞に載せられた佐吉の顔を思い浮かべた。
彼は、現場から走り去った職人。
それだけで、人々は彼を殺人者だと決めかけている。
「犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではない」
私は、思わず口にしていた。
ベルナールは私を見た。
「そのとおりです。でも、理解することは、罪を許すこととも違うのでしょう?」
「はい」
私は答えた。
「どのような事情があったとしても、罪を犯した事実が消えるわけではありません。ただ、その人が何をしたのかを正しく知る前に、すべてを決めつけてはいけないのだと思います」
ベルナールは、満足したようにうなずいた。
「ならば、あなたはよい相棒をお持ちなのですね」
彼女は泰六を見た。
「そして、あなたもよい記録者をお持ちだ」
泰六は、私を一瞥した。
「彼は、ときどき私の推理に人間が抜け落ちていることを指摘するのです。なかなか厄介な相棒ですよ」
「光栄です」
私は答えた。
その場に笑いが広がった。
だが、劇場を出たとき、泰六の表情は再び厳しくなっていた。
「和田君。イサドラ嬢の証言は重要だ。しかし、彼女の誠実さと、証言の正確さは別々に検証しなければならない」
「彼女が間違っている可能性もある、ということですか」
「誰にでもある。私にも、君にもね」
泰六は歩きながら続けた。
「だからこそ、時刻と距離を調べる」
第七章 五分間の証言
翌日、私たちは警察の許可を得て、事件現場と動く歩道の経路を調べた。
動く歩道は、万博会場を巡る大規模な設備だった。固定された通路に加え、速度の異なる二つの移動する通路が並んでいる。
当時の記録や説明によれば、低速側は時速およそ四キロメートル、高速側は時速およそ八キロメートルで運転されていた。
「数字だけ見れば、単純ですね」
私が言うと、泰六は懐中時計を取り出した。
「単純な数字ほど、扱いを誤りやすい。距離と時間を混同したり、乗り換えにかかる時間を無視したりするからだ」
彼は、会場の見取り図を広げた。
事件に関係する区間は、物語上の仮設区間として、次のように整理できた。
動く歩道の乗り場から、モローが証言した到着地点までは、経路に沿って五百メートル。
高速側の速度は時速八キロメートル、すなわち一分あたり約百三十三メートル。
低速側は時速四キロメートル、すなわち一分あたり約六十七メートル。
乗り換えや乗降には、当然、別の時間が必要になる。
「五百メートルを高速側で移動するだけでも、約三分四十五秒。低速側なら、約七分半です」
私は計算した。
「そのとおり」
泰六はうなずいた。
「そして、これは乗り換え時間も、途中で人を避ける時間も含まない。理論上の最短時間だ」
モローは警察に、事件が起きた午後八時八分には、すでに離れた場所にいたと説明していた。
彼の説明によれば、午後八時六分に乗り場を出て、八時八分には到着地点にいたという。
「二分で五百メートル、ですか」
「そうだ。高速側を使ったとしても、二分で進めるのは約二百六十七メートルにすぎない」
泰六は、図面の上に鉛筆で線を引いた。
「五百メートルには届かない。したがって、彼の説明には、まだ語られていない移動経路があるか、時刻のどこかが間違っている」
「では、モローが嘘をついているのですか」
「まだ、そうとは言えない。時計の読み違いもあれば、証人の記憶違いもある。だが、彼が主張した二つの地点と時刻が、同時には成立しないことは確かだ」
泰六は、もうひとつの地点を指した。
そこは、イサドラが灰色の上着の男を見たという、動く歩道脇の保守用通路だった。
「彼女は、男がこの通路から出てきたと言った。ここから先は、歩道に乗っていたという説明だけでは済まない」
私は、現場の位置関係を見直した。
「つまり、動く歩道の速度は、彼のアリバイをそのまま否定するのではなく、説明に欠けている部分を明らかにするのですね」
「そのとおりだ」
泰六は答えた。
「算法は、人を有罪にするものではない。あり得ない説明を、あり得ないと示すためにある」
そのとき、現場係のフランス人が、別の情報を持ってきた。
事件当夜、動く歩道の乗り場にいた係員が、モローの姿を見たというのである。
しかし、その時刻は、モローが証言した出発時刻とは食い違っていた。
泰六は、その証言をすぐに採用しなかった。
係員の時計は、標準時とずれていた可能性がある。そこで彼は、会場の時計、駅の時計、警備記録の時刻を照合するよう求めた。
「ひとつの時計だけを信じてはいけない。時計は時刻を示す。だが、その時刻が何を意味するのかは、時計だけではわからない」
その夜、私たちは帳簿と現場記録を調べ続けた。
やがて、ヴァルヌが残した資材台帳の中に、妙な記載が見つかった。
崩落した橋に使われた木材の一部は、帳簿上では規格に合格した良材として購入されていた。
しかし、現場に残された木片には、材質のばらつきが見られた。
さらに、帳簿の一枚が抜き取られていた。
ヴァルヌは、資材の品質を偽って利益を得る取引に関わっていたのではないか。
そして、その事実を知る誰かが、彼を黙らせたのではないか。
第八章 崩れた梁の責任
崩落した橋の調査は、殺人事件とは別に進められた。
泰六は、折れた梁の断面を注意深く調べていた。
「ここを見てくれ」
彼は、木材の裂け目を指した。
「この部分は、荷重がかかった方向に沿って裂けている。だが、こちらの木材には、別の傷がある」
私は身をかがめた。
梁の端には、刃物か工具によって付けられたような傷が残っていた。
「誰かが、意図的に切ったのでしょうか」
「その可能性はある。だが、切断の痕跡があることと、それが崩落の直接原因だったことは同じではない。組み立ての際に付いた傷かもしれないし、事故のあとにできた傷かもしれない」
泰六は、傷の形状を記録させた。
「ここでも、結論を急いではいけない」
現場で働いていた職人たちに話を聞くと、工期が遅れたため、資材の検査が十分に行われなかったという証言が出てきた。
木材の納入記録と現物の状態も一致しない。
責任者の中には、納期を守ることを優先し、検査の手続きを省いた者がいたらしい。
私は、負傷した職人のひとりに尋ねた。
「なぜ、危険だとわかっていて作業を続けたのですか」
男は、苦い顔をした。
「止めれば仕事を失う。仕事を失えば、食べていけない。危険だと声を上げても、代わりの者はいくらでもいると言われるだけだ」
私は、すぐに言葉を返せなかった。
その男が語ったことは、彼の行動をすべて正当化するものではない。
だが、彼の置かれた状況を無視して、責任の所在を正しく見つけることもできない。
「事故であることと、誰にも責任がないことは、同じではない」
私は、泰六に言った。
「そして、苦しい境遇にあったことと、罪を犯してよいことも、同じではありませんね」
泰六は、静かにうなずいた。
「そうだ。私たちは、どちらの事実も見落としてはならない」
その日の夕方、岩村潔から連絡が届いた。
日本側の関係者の中には、事件を早期に終わらせたいと考える者がいるという。
外国人の職人を犯人として引き渡せば、外交上の面倒は少なくなる。
一方、資材調達の不正が公になれば、日本側の関係者にも責任が及ぶ可能性があった。
岩村は、私たちに言った。
「国家の面目に関わる一件です。だが、私は、事実を曲げてまで面目を保とうとは思わない」
泰六は、彼を見た。
「結論は、求められて出すものではありません。事実を確かめたあとに、残るものです」
岩村は、しばらく黙っていた。
そして、調査を続けるよう命じた。
第九章 神田から来た影
佐吉は、警察に出頭していた。
彼は逃亡していたのではなかった。
崩落の直後、梁の下敷きになった若い作業員を見つけ、助け出そうとしたのだという。しかし、救助のために近づいたところ、係員に追い払われた。
その後、彼は資材置き場へ向かい、事故の原因を調べようとした。
「私は、橋が崩れる前から、木材がおかしいと思っていました」
佐吉は言った。
「帳簿に書かれた材と、実際に届いた材が違っていた。ヴァルヌに問いただしましたが、相手にされませんでした」
「なぜ、警察にすぐ話さなかったのですか」
私が尋ねると、佐吉は視線を落とした。
「日本人の職人が、外国の大きな工事に口を出すなと言われたからです。私が騒ぎを起こせば、ほかの日本人まで仕事を失うかもしれない。そう考えました」
泰六は、佐吉の話を遮らなかった。
やがて、佐吉は、自分が神田の職人の家に生まれたことを話した。
父も祖父も木を扱う職人だった。
彼の家には、古い道具箱が残っていた。そこには、家の印とともに、かつて神田で働いていた職人たちの名が刻まれていたという。
その中に、ヴァルヌの帳簿に記された取引先と同じ名があった。
「それは、単なる偶然かもしれません」
泰六は慎重に言った。
「家の歴史と、現在の事件を結びつけるには、もう少し証拠が必要だ」
佐吉はうなずいた。
「わかっています。ただ、私は、神田の職人が大切にしてきた仕事を、こんなふうに扱われたくないのです」
その言葉に、私は胸を打たれた。
彼が守ろうとしていたのは、自分の名誉だけではなかった。
手を動かし、技を磨き、次の世代へ渡してきた仕事の誇りだった。
泰六は、佐吉の道具箱を調べさせてほしいと頼んだ。
箱の底には、古い刻印が残っていた。
それは、ヴァルヌの帳簿に記された資材商の印と、よく似ていた。
だが、泰六はそれを見て、すぐに結論を出さなかった。
「道具の印が同じだからといって、同じ人物が使ったとは限らない。商家の印であれば、複数の品に押されることもある」
彼は、刻印の形と、帳簿の記載を写し取った。
「ここから先は、道具の来歴を調べる必要がある」
第十章 黒煙の向こう側
翌日、泰六はモローに再び面会を求めた。
工事監督は、最初は冷静だった。
自分は事故にも殺人にも関与していない。事件当夜は、動く歩道を利用して別の展示施設へ向かった。午後八時八分には到着していた。そう繰り返した。
「五百メートルを二分で移動したと?」
泰六が尋ねると、モローは眉をひそめた。
「時刻の記憶が曖昧なのかもしれない」
「では、到着地点にいたという証言は、何時を示しているのですか」
「八時八分です」
「その時刻を確認できる時計は、どこにありましたか」
モローは答えに詰まった。
泰六は、別の証拠を机に置いた。
ヴァルヌの帳簿の写し。
資材の検査記録。
そして、現場の保守用通路に残されていた、血のついた金属片の記録だった。
「あなたは、事故の原因となった資材の不正を知っていた。ヴァルヌは、その取引に関わっていた。そして、彼が死ぬ直前、あなたの姿を見たという証言があります」
モローは、声を荒らげた。
「芸術家の見間違いでしょう。あの混乱の中で、誰が何を見たというのです」
「だからこそ、証言だけに頼ってはいません」
泰六は、淡々と答えた。
「あなたの説明した移動経路は、距離と速度に合いません。さらに、現場の通路から採取された血痕と、あなたの上着に残った傷の位置が一致しています」
モローの顔から、血の気が引いた。
しかし、泰六はそこで言葉を止めた。
「ただし、これだけでは、あなたがヴァルヌを刺したと断定するには足りません。凶器と、あなたがその通路にいた理由を、さらに確かめる必要があります」
モローは黙り込んだ。
その沈黙のあと、泰六は、ヴァルヌの帳簿にあった最後の記載を示した。
資材の差額を記した数字。
その横に、小さく書かれた「支払い拒否」の文字。
「ヴァルヌは、資材の不正を公にしようとしていたのではありませんか」
モローは、顔を上げなかった。
「彼は、金を要求していたのです」
やがて、彼は言った。
「帳簿を公にすると脅し、金を払わなければ、すべてを明らかにすると……」
「それで、あなたは彼を殺したのですか」
私が尋ねると、モローは両手で顔を覆った。
長い沈黙が続いた。
やがて彼は、うなだれたまま、ヴァルヌと口論になったことを認めた。
資材の不正が発覚すれば、工事監督としての地位を失う。関係者にも責任が及ぶ。彼はそれを恐れた。
そして、保守用通路でヴァルヌと対峙し、刃物を振るった。
「事故の混乱に紛れれば、誰も私を見ていないと思ったのです」
彼は、かすれた声で言った。
「佐吉が逃げたと聞いて、すべてを彼のせいにできると思った」
泰六は、目を伏せた。
「あなたが恐れていたものは、理解できます。しかし、それは人を殺した理由にはなりません」
モローは、何も答えなかった。
第十一章 算法が示したもの
事件の全容が明らかになったのは、その翌日だった。
動く歩道の速度と、現場までの距離。そして、関係者がそれぞれ語った時刻を照合すると、モローのアリバイは成立しなかった。
五百メートルの区間を、時速八キロメートルで移動しても、少なくとも三分四十五秒を要する。
二分では到着できない。
その計算は、モローが語った経路と時刻が両立しないことを示していた。
さらに、保守用通路に残された血痕、上着に生じた傷、ヴァルヌの帳簿、そしてモロー自身の供述が、ひとつの筋道を形づくった。
佐吉が現場を離れたのは、殺人を犯して逃げるためではなかった。崩落した橋の下で負傷者を助けようとしたあと、資材の不正を調べるためだった。
彼が現場を去ったという事実は、彼が殺人者であることを意味しなかった。
そして、イサドラが見た灰色の上着の男は、モローだった。
彼女の証言は、動く歩道の数理だけで正しいと証明されたのではない。距離と時間の検証がモローの説明の矛盾を示し、現場の物証と供述が重なったことで、彼女の目撃した光景の意味が明らかになったのである。
だが、事件が解決しても、すべてが終わったわけではなかった。
崩落事故の原因についても、調査が続けられた。
不適切な資材の使用、検査手続きの省略、納期を優先した工事管理。それらは殺人とは別の責任として、明らかにされなければならない。
岩村潔は、報告書を読み終えると、静かに言った。
「国の面目を守るために事実を隠すなら、守ったはずの面目そのものが、空虚になりますね」
「事実を明らかにすることは、国を辱めることではありません」
泰六は答えた。
「誤りを正す機会を残すことです」
岩村は、報告書を閉じた。
「この調査結果を、正式に提出します。誰かひとりを差し出して終わりにするのではなく、事故の責任も、殺人の責任も、それぞれ明らかにしましょう」
私は、その言葉を聞きながら、神田で出会った人々の顔を思い浮かべていた。
誰も、自分ひとりですべてを正しく知っているわけではない。
だからこそ、耳を傾け、確かめ、間違いを正していかなければならないのだ。
第十二章 舞台を降りた人々
事件の後、私たちは再び劇場を訪ねた。
貞奴は、次の公演の準備をしていた。
イサドラもそこにいた。
彼女は、以前よりも少しだけ、自分の身体の動きに確信を持ったように見えた。貞奴の舞台から受け取ったものを、自分自身の表現へと変えようとしているのだろう。
「事件は解決したのですね」
イサドラが尋ねた。
「はい。あなたの証言も、重要な手がかりになりました」
私が答えると、彼女は首を横に振った。
「私は、見たことを話しただけです。それをどう確かめるかは、あなた方の仕事だったのでしょう」
「そのとおりです」
泰六が答えた。
「あなたが見たことを、あなたの代わりに決めつけない。それも、私たちの仕事です」
イサドラは、しばらく泰六を見つめたあと、静かに微笑んだ。
貞奴が、私たちに声をかけた。
「人は、ときどき、誰かを守ろうとして、その人の声を聞かなくなってしまいます。けれど、本当に大切に思うなら、その人が何を考えているのか、聞かなければいけませんね」
私は、うなずいた。
「ええ。守ることと、代わりにすべてを決めることは、違います」
その言葉に、貞奴は柔らかく笑った。
劇場を出る前、泰六は、遠くに見える博覧会の照明を眺めていた。
「和田君」
「はい」
「未来というものは、きらびやかな機械や建物の中にあるのではないのかもしれない」
「では、どこにあるのでしょう」
「人が、自分の行動に責任を持ち、他人の声を聞き、間違いを正そうとするところにあるのだろう」
巴里の夜空に、電灯の光が広がっていた。
その光の下では、今日も人々が働き、踊り、語り、明日へ向かって歩いている。
その一方で、誰かの声が聞かれず、誰かの苦しみが見過ごされることもあるのだろう。
私たちができることは、すべてを知ったと傲慢になることではない。
目の前の事実を確かめ、人の言葉に耳を傾け、見落としたものがあれば、もう一度立ち止まることだ。
神田を離れた私たちは、異国の街で、改めてそのことを学んだのだった。
帰国の船が出る日、私は、巴里の街を振り返った。
泰六は、いつものように静かに歩いていた。
その横顔を見ながら、私は思った。
人間は、時刻や距離だけでは測れない。
けれど、時刻や距離を正しく調べることが、人間の言葉を守る助けになることもある。
論理と人間へのまなざし。
その二つは、決して相反するものではない。
だから泰六は、論理を手放さない。
だから私は、人間を見ることをやめない。
そして、私たちの旅は、まだ終わらない。
◾️史実の背景について
1900年のパリ万博では、ロイ・フラーの劇場で川上貞奴一座が公演しました。
また、当時の動く歩道「Rue de l’Avenir」は、速度の異なる移動路を備えていました。
本文中の天球儀館の事件、登場人物の関係、殺人事件とその解決は創作となります。




