小室泰六(SHERLOCK) - 破られなかった約束の書
登場人物
◾️小室泰六
神田を拠点とする探偵。人の言葉を鵜呑みにせず、物の状態と証言の食い違いを丹念に調べる。冷徹に見えるが、論理を人を裁くためだけには使わない。
◾️和田進一
泰六の相棒であり、本作の語り手。人の話に耳を傾け、帳簿には残らない暮らしの記憶を拾い上げる。
◾️徳兵衛
神田の裏長屋に住む盲目の老按摩師。
長年、町の人々の肩や腰を揉み、わずかな銭を貯めて暮らしてきた。人に頼ることを好まず、困窮しても自分で始末をつけようとする。
◾️おたき
長屋に住む洗濯女。
病弱な幼い娘を抱えながら、近所の者の世話も焼いている。
◾️源吉
大工見習い。
無口で不器用だが、約束を重く受け止める青年。
◾️お松
長屋の共同井戸のそばで小さな煮売りを営む女。
気丈な物言いの裏に、人に知られたくない苦労を抱えている。
◾️薬種屋・伊勢屋の主人
長屋の者たちが薬を買い求める店の主人。
品物の出入りと代金を記録している。
神田の長屋、破られなかった約束の書―あるいは、三つの同じ匂い
第一章 老人が差し出した信玄袋
明治二十六年、師走も半ばを過ぎたころのことである。
神田の空は、朝から薄い鼠色の雲に覆われていた。
冬の風は路地の奥まで入り込み、軒先に干された手拭いや襦袢を、乾ききらぬまま小さく震わせていた。表通りでは荷車の輪が石を鳴らし、どこかの店先からは、湯気と味噌の匂いが流れてくる。
私は小室泰六の部屋で、火鉢に手をかざしていた。
そのとき、階段の下から、杖が床板を探る音がした。
一歩、止まる。
また一歩。
やがて戸口に現れたのは、痩せた老人だった。目は開いているものの、その瞳は何を見るでもなく、戸の向こうの明るさを受け止めているだけだった。
老人は敷居の位置を確かめるように足を止め、静かに頭を下げた。
「小室先生で、いらっしゃいますか」
「そうです。どうぞ、お入りください」
泰六が答えると、老人は杖を頼りに部屋へ入った。
私は老人の手を取って座布団へ導いた。指先は冷たく、手の甲には長年の仕事でできた硬い節があった。
「徳兵衛と申します。長屋で按摩をしております」
老人は膝の上に、小さな袋を置いた。
古びた信玄袋だった。布地は色褪せ、口を締める紐だけが、何度も手入れされたように滑らかだった。
「この袋の中に、三円ございました」
「ございました、ということは」
私が尋ねると、老人は深く息を吐いた。
「なくなりました。銭が一枚も残っておりません」
三円。
いまの暮らしに照らせば、決して軽い額ではない。まして、按摩の仕事で一日一日を積み重ねてきた老人にとっては、幾月もの辛抱の結晶だったろう。
「警察には届けましたか」
私の問いに、徳兵衛はすぐ首を横に振った。
「それだけは、どうかご勘弁ください」
その声には、金を失った者の悲しみとは別の、切実な恐れがあった。
「私の住む長屋には、貧しい者ばかりが暮らしております。誰か一人が疑われれば、ほかの者まで疑いの目で見られる。あの者たちは、盗人などではございません」
「では、なぜ盗まれたと思うのです」
泰六は袋を手に取らず、老人に尋ねた。
「昨夜、床に就く前には、確かにございました。朝になって、いつもの場所を探しましたが、見つからない。部屋の中を手探りで調べても、ありませんでした」
「昨夜、誰かが部屋へ入りましたか」
「わかりません。私は目が見えませんから」
徳兵衛は、膝の上の手を固く握った。
「ただ、戸を開けるときの音も、畳を踏む音も聞こえませんでした。けれど、私が眠ったあとなら……」
老人の声が途切れた。
私はその沈黙に、責める気持ちではなく、長い年月をかけて守ってきた人間関係が壊れることへの恐れを聞いた。
「小室先生。どうか、お上には内緒で、見つけていただけませんか。三円が戻れば、それでよいのです。誰かを牢へ入れたいわけではありません」
泰六はしばらく老人を見つめていた。
「徳兵衛さん。私は、あなたの望みどおり、警察へ届けることなく調べましょう。ただし、一つだけお約束ください」
「何でございましょう」
「私が見つけた事実を、あなたが望まないという理由だけで、事実でなくすることはできません」
老人は黙った。
やがて、小さくうなずいた。
「それで結構でございます。真実まで隠していただきたいとは申しません」
泰六は、初めて信玄袋を手に取った。
そして、口元を確かめるように指を動かした。
「なるほど」
その声に、私は顔を上げた。
「進一君。まずはこの長屋へ行こう。金の行方を探す前に、この袋が何を語っているかを調べる必要がある」
第二章 三つの同じ匂い
徳兵衛の住む長屋は、神田の裏道を二つ入ったところにあった。
入口の脇には共同の水桶が置かれ、奥には小さなゴミ溜めがある。板壁は薄く、隣の咳も、向かいの鍋を置く音も聞こえるような造りだった。
翌朝、空になった信玄袋が、そのゴミ溜めから見つかったという。
見つけたのは、朝の掃除をしていたお松だった。
「袋だけ、ぽつんと落ちていたんです。中は空っぽでね。だから、徳兵衛さんのものじゃないかと思って」
袋は長屋の世話役が預かっていた。
泰六はまず、それを調べた。
口紐を引き、指先で結び目を確かめる。
「これは、引きちぎられたものではありませんね」
「ええ。紐に傷はないようです」
私が答えると、泰六は首を横に振った。
「傷がないことと、盗まれていないことは別です。しかし、この結び方には意味があります」
徳兵衛が普段使う結び方は、按摩の仕事で鍛えた指先を生かした、独特のものだった。紐を一度交差させ、片方を輪の内側へ通し、最後に指を返して締める。力を入れずともほどけにくく、目が見えなくても、指の感覚だけで結び直せる。
「この結び目は、乱暴にほどかれていません。結び方を知る者が、順序を守って解いたのでしょう」
「それなら、長屋の誰かが……」
私が言いかけると、泰六は静かに手を上げた。
「まだ、誰かを疑う段階ではありません」
そのとき、隣の部屋から、薬草を煎じる匂いが流れてきた。
苦みを含んだ、青臭い匂いだった。
私は戸口を振り返った。
「風邪薬でしょうか」
「おそらく」
泰六は袋を包み直すと、長屋の中を歩き始めた。
最初に訪ねたのは、おたきの部屋だった。
彼女は小さな火鉢の上で土瓶を温めていた。脇には、布団にくるまった幼い娘が寝ている。
「すみませんね。子どもが咳をしておりまして」
おたきは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「その薬草は、どこで手に入れたのですか」
泰六が尋ねた。
「伊勢屋さんです。風邪がひどくならないようにと、煎じ薬を分けてもらいました」
「いつ買いましたか」
「一昨日です」
次に訪れた源吉の部屋でも、同じ匂いがした。
源吉は大工道具を片づけていたが、火鉢のそばには小さな土瓶が置かれていた。
「お前も風邪か」と私が尋ねると、彼は照れくさそうに鼻をすすった。
「いや、俺じゃない。徳兵衛さんだ」
「徳兵衛さん?」
源吉は、しまったというように口を閉じた。
泰六は、その様子を見逃さなかった。
「徳兵衛さんが、風邪を?」
「……ひどい熱を出していたんです。けれど、本人は大丈夫だと言い張るもので」
最後に、お松の煮売り場を訪ねた。
ここにも、同じ薬草の匂いがあった。
「皆、同じ薬を煎じているのですね」
私が言うと、お松は鍋をかき混ぜながら答えた。
「冬場ですからね。風邪なんて、長屋じゅうを回りますよ」
三つの部屋から、同じ匂いがする。
しかし、それだけで三人が一緒に何かをしたとはいえない。まして、誰かが徳兵衛の金を盗んだ証拠にはならなかった。
泰六は、三人の部屋を出たところで足を止めた。
「進一君。匂いは、証拠のように見えて、実は証言に似ています」
「証言、ですか」
「そこに何かがあったことは示す。しかし、誰が、いつ、何のためにそれを置いたのかまでは教えてくれない」
泰六は長屋の奥を見つめた。
「三人が同じ薬を使った。それは事実でしょう。だが、三人が同じ理由で使ったのかどうかは、まだわからない」
第三章 破られなかった約束の書
徳兵衛の部屋へ戻ると、老人は畳の上に正座して待っていた。
「何かわかりましたでしょうか」
「まだ、金の行方はわかりません。ただ、長屋の三人が、同じ薬草を煎じていることはわかりました」
その言葉を聞いた瞬間、徳兵衛の指がぴくりと動いた。
「……そうですか」
ほんのわずかな反応だった。
しかし、泰六は見逃さなかった。
「徳兵衛さん。あなたは、三人が薬を煎じていることに心当たりがおありですね」
老人は、すぐには答えなかった。
「このところ、風邪が流行っておりますから」
「それだけでしょうか」
長い沈黙が流れた。
やがて徳兵衛は、枕元に置いてあった小さな木箱を開けた。中には、古い紙片が一枚、丁寧に畳まれて入っていた。
「これを、見ていただけますか」
紙片には、墨の薄れた文字が並んでいた。
> 一、病に倒れた者を、長屋の者は見捨てぬこと。
> 二、薬代に困ったときは、互いの蓄えを相談のうえ用いること。
> 三、誰かが人に頼ることを恥じても、皆でその命を支えること。
> 四、助けを受けた者は、いつか別の誰かを助ければよい。返す相手は、必ずしも同じでなくてよい。
最後に、徳兵衛、おたき、源吉、お松の名が記されていた。
「これは、何ですか」
私が尋ねると、徳兵衛は紙片を撫でるように指を滑らせた。
「三年前、長屋の者たちと交わした約束です」
老人の声は、少しずつ遠い記憶へ向かっていった。
三年前の冬、長屋の住人の一人が病に倒れた。家賃を払えず、薬を買う銭もない。助けようにも、皆が皆、明日の食い扶持に困っていた。
そのとき徳兵衛が、自分の按摩の稼ぎから少しずつ銭を出し、薬代にあてたのだという。
「その者は、春を待たずに亡くなりました。けれど、最後に、何度も礼を言いました。私は、その礼が苦しかったのです」
「苦しかった?」
「助けたつもりが、相手に借りを背負わせてしまった。礼を言わせるために、銭を出したわけではありませんでしたから」
徳兵衛は、紙片の端をそっと押さえた。
「そこで、長屋の者たちと決めました。助けた者が、いつまでも恩を着せることのないように。助けられた者も、同じ相手に返せないからといって、恥じることのないように」
「それで、この約束を」
「ええ。私が文字を書き、皆が自分の名を書きました。目が見えぬ私に、皆が読み上げてくれたのです」
私は紙片を見つめた。
約束は、ずいぶん古びていた。折り目は柔らかくなり、端には何度も触れた跡があった。
だが、破れてはいなかった。
「徳兵衛さん。先ほどの三円は、この約束と関係があるのですか」
老人は、答えに迷った。
「私は、金を貯めておりました。いざというとき、誰にも迷惑をかけずに済むように。三円は、その蓄えです」
「では、長屋の者たちが自由に使ってよい金ではない」
「……そうです」
徳兵衛はうなだれた。
「約束には、相談のうえ用いると書いてあります。私に相談もなく、金を使ったのなら、約束を破ったことになります」
泰六は、紙片を返した。
「なるほど。では、この約束が破られたのかどうか。それを確かめましょう」
第四章 老人が隠した熱
その日の午後、私はおたきを訪ねた。
娘はようやく咳が治まり、布団の中で眠っていた。おたきは洗濯物を畳みながら、私を迎えた。
「徳兵衛さんのことですね」
彼女は、私が用件を告げる前に言った。
「皆さん、何かをご存じなのですね」
「知らないと言えば嘘になります。でも、あの方を悪く言わないでください」
「悪く言うつもりはありません。ただ、何があったのかを知りたいのです」
おたきは手を止めた。
「四日前、徳兵衛さんが、ひどい熱を出しました。按摩の仕事から戻ったあと、何も食べずに寝込んでしまって」
「医者には?」
「呼ぼうとしました。でも、本人が嫌がったんです。金がかかるから、と」
「薬は?」
「最初は、何もいらないと言い張りました」
おたきは、畳の上に視線を落とした。
「でも、夜になって、息が苦しそうになった。私たちは相談しました。薬を買おうにも、皆、余裕なんてありません。そこで……」
「そこで、約束の書を思い出したのですね」
おたきはうなずいた。
「けれど、徳兵衛さんは、昔から人に借りを作るのを嫌う方です。私たちが助けようとすれば、きっと断るでしょう」
「それで、本人に黙って金を使ったのですか」
彼女は、すぐには答えなかった。
「はい」
私は、言葉を失った。
「約束には、相談のうえと書いてあります。けれど、あの方が目を覚ましているときに話せば、きっと自分のために金を使うなとおっしゃる。あの方は、そういう人です」
「だから、本人の知らないところで?」
「……ええ。でも、私たちは、あの方の金を自分たちのために使ったのではありません」
おたきの声が震えた。
「薬を買って、熱を下げてもらいたかった。それだけです」
私は、彼女を責めることができなかった。
だが、責められないことと、正しかったと認めることは、同じではない。
「おたきさん。もし徳兵衛さんが、あなたの知らないところで、あなたのために大切なものを使ってしまったら、どう思いますか」
彼女は顔を上げた。
「……ありがたいと思うかもしれません」
「そのあとで?」
「そのあとで、どうして相談してくれなかったのかと、腹を立てるかもしれません」
おたきは、ゆっくりとうなずいた。
「そうですね。あの方だって、同じでしょうね」
私はその言葉を胸にしまい、源吉の部屋へ向かった。
第五章 三人の証言
源吉は、仕事道具を磨いていた。
私が事情を尋ねると、彼は手を止めた。
「金を取ったのは、俺です」
あまりにも唐突な告白だった。
「徳兵衛さんの信玄袋を?」
「袋を開けたのは俺です。三円を出して、薬を買いに行った」
「どうして、そんなことを」
「おたきさんとお松さんに頼まれたからです。俺が一番、手先が器用だから、結び目を傷めずに開けられるだろうと」
「では、金を盗んだのですか」
源吉は唇を噛んだ。
「盗むつもりはなかった。でも、本人に黙って持ち出した。それは、言い逃れできません」
彼は、私の顔をまっすぐに見た。
「徳兵衛さんは、俺がまだ子どものころ、肩を痛めた親父を何度も揉んでくれた人です。親父が亡くなったあとも、俺が大工になるまで、何度も声をかけてくれた。あの人が苦しんでいるのに、見ているだけなんてできなかった」
「金は、何に使ったのですか」
「薬です。伊勢屋で買いました。残った分は……」
源吉は、そこで言葉を切った。
「残った分は、どうしたのです」
「三円、全部使いました」
私は彼の目を見た。
嘘をついているようには見えなかった。だが、私の印象など、証拠にはならない。
「薬の代金を確かめさせてください」
源吉は、うなずいた。
伊勢屋の主人に尋ねると、たしかに源吉は薬草を買いに来ていた。徳兵衛の症状を説明し、薬を三包、煎じ方を書いた紙と一緒に受け取っていた。
しかし、代金は三円には遠く及ばなかった。
「薬代だけで三円も?」
私が問い返すと、伊勢屋の主人は首を振った。
「とんでもない。そんな額にはなりません。薬草と、煎じるための小さな土瓶、それから布や薪を合わせても、せいぜい数十銭でしょう」
私は源吉を見た。
「三円の残りは、どこへ行ったのです」
源吉は、答えなかった。
その夜、泰六に報告すると、彼は黙って聞いていた。
「源吉は、袋を開けたことを認めた。しかし、金の使い道をすべて話してはいない」
「薬代は、三円よりずっと少ないようです」
「そうだな。だが、残りを懐に入れたと決めつけるには早い」
泰六は机の上に、三つの紙片を並べた。
一つは、約束の書。
一つは、伊勢屋の薬代の控え。
そして、もう一つは、長屋のゴミ溜めから見つかった信玄袋の紐だった。
「進一君。三人の部屋に同じ匂いがあったことを思い出したまえ」
「薬草の匂いですね」
「薬草の匂いは、薬を煎じた者の部屋に残る。しかし、それだけでは、金がどこへ行ったかはわからない」
泰六は、薬代の控えを指で叩いた。
「金の行方を知りたければ、薬の先を調べるのだ」
第六章 伊勢屋の帳面
翌朝、私たちは伊勢屋へ向かった。
薬種屋の店内には、乾燥した根や葉が並び、棚の上には、紙包みや小瓶が整然と置かれていた。店の奥からは、薬草の苦い匂いが漂っていた。
伊勢屋の主人は、私たちを帳場へ案内した。
「源吉さんが買ったのは、こちらです」
帳面には、日付と品名、数量、代金が記されていた。
薬草三包。煎じ方の書付一枚。土瓶一つ。合わせて四十六銭。
「これだけですか」
「ええ。徳兵衛さんの具合が悪いと聞いて、少し値をまけました」
泰六は、帳面をじっと見つめていた。
「この三包は、同じ薬ですか」
「基本の処方は同じです。ただ、患者の症状に合わせて、混ぜる草の割合を変えています」
「三つとも、同じ匂いがするのでしょうか」
「似た匂いにはなります。主になる薬草が同じですから」
泰六は、帳面を閉じた。
「源吉は、この薬を三包買った。では、おたきとお松は、何を買ったのですか」
主人は、帳面を繰った。
「おたきさんは、別の日に、咳止めの薬草を少し。お松さんは、同じ日に、煎じ薬の材料を買っています」
「その代金は?」
「おたきさんは十二銭。お松さんは二十銭です」
私は、驚いて顔を上げた。
「では、三人とも、別々に薬を買っていたのですか」
「そうなりますね」
泰六は、帳面の三つの記録を並べた。
おたき。源吉。お松。
それぞれの買い物は、同じ薬草を含んでいた。しかし、買った日も、数量も、代金も違っていた。
「進一君。ここで、二つの可能性がある」
「一つは、三人がそれぞれ自分のために薬を買った。もう一つは、徳兵衛さんのために、別々の買い物をした」
「そのとおりです」
「ただ、源吉は徳兵衛さんのために買ったと認めています。おたきとお松も、同じ目的だったのでしょうか」
泰六は、すぐには答えなかった。
「それを確かめるには、薬の匂いではなく、薬を買った人間の暮らしを調べなければならない」
店を出ると、泰六は足を止めた。
「もう一つ、気になることがある」
「何でしょう」
「三円をすべて薬に使ったという源吉の証言だ。帳面は、それを否定している」
「では、源吉は嘘を?」
「嘘かもしれない。あるいは、彼が『薬』と呼んだものが、薬種屋で買った品だけではないのかもしれない」
泰六は、神田の町を歩きながら言った。
「言葉は、便利なものだ。だが、人は同じ言葉で、違うものを指すことがある」
第七章 三円の行方
私たちは長屋へ戻り、三人を一人ずつ訪ねた。
おたきは、最初こそ口を閉ざしていたが、やがて小さな紙包みを差し出した。
中には、薬草を煎じたあとの残りかすと、伊勢屋の印が押された紙片が入っていた。
「これは、徳兵衛さんのために買った薬です。娘のための薬とは別に、私が自分の小遣いから出しました」
「源吉さんが買った薬とは、別なのですね」
「はい。源吉さんの薬だけでは足りないかもしれないと思って」
お松も、同じように話した。
彼女は自分の煮売りの売上から、薬草と薪を買っていた。夜通し薬を煎じるため、火を絶やさぬようにする必要があったからだ。
「では、三円は、皆さんがそれぞれ出し合ったのではなく、徳兵衛さんの袋から出したのですか」
私が尋ねると、お松は顔を伏せた。
「最初は、私たちの金で何とかしようとしました。でも、医者を呼ぶとなると、もっと金が要る。源吉さんが、徳兵衛さんの袋のことを思い出したんです」
「約束の書があったからですか」
「そうです。でも、あの人は、きっと自分のために金を使うなと言う。だから、目を覚ます前に、必要な分だけ借りるつもりでした」
「借りる?」
「はい。使った分は、いつか返すつもりでした」
泰六が尋ねた。
「では、三円のうち、いくらを使いましたか」
お松は、しばらく考えてから答えた。
「薬代が四十六銭。おたきさんの薬が十二銭。私の薬草が二十銭。土瓶と薪、それから医者を呼ぶための前金に、残りを使いました」
「医者を呼んだのですか」
「ええ。徳兵衛さんが、息をするのも苦しそうだったので。医者は診察をして、薬を置いていきました」
「その医者の名前は?」
お松は答えた。
「神田の、松井先生です」
泰六は、私を見た。
「進一君。医者に確かめよう」
私たちは松井医師のもとを訪ねた。
医師は、徳兵衛を診察したことを認めた。熱は高かったが、幸いにも、肺を深く患うところまでは至っていなかったという。
「診察代と薬代を、誰が払ったのですか」
泰六の問いに、医師は答えた。
「長屋の方々です。おたきさんとお松さんが、私のところへ来ました。診察のあと、源吉さんが代金を持ってきた」
「金額は?」
医師は帳面を開いた。
診察代と薬代を合わせて、一円八十銭。
伊勢屋の代金と合わせれば、二円五十八銭。
残りは四十二銭だった。
「三円すべてが、医療費に使われたわけではありませんね」
泰六が言うと、医師は首をかしげた。
「ええ。私が受け取ったのは、一円八十銭です」
長屋へ戻る道すがら、私は泰六に尋ねた。
「三円の行方は、ほぼわかりました。けれど、四十二銭はどこへ?」
「それが、最後の問題だ」
「三人が分けたのでしょうか」
「そうかもしれない。だが、三人の証言は、金の残りについて一致していない」
泰六は、歩みを止めた。
「進一君。三円のうち二円五十八銭が、薬と医者に使われた。それは、帳面で確かめられた事実だ。残る四十二銭を、想像で埋めてはいけない」
第八章 ゴミ溜めの底
長屋の入口にあるゴミ溜めを、もう一度調べることになった。
私は、なぜ袋がそこに捨てられていたのかが気になっていた。
「金を盗んだのなら、袋を捨てるのは自然かもしれません。しかし、源吉が薬を買うために使ったのなら、なぜ元の場所へ戻さなかったのでしょう」
泰六は、ゴミ溜めの周囲を観察した。
「袋が見つかったのは、朝だったな」
「はい。お松さんが掃除をしていたときです」
「昨夜、雨は降ったか」
「夜半に、少しだけ」
泰六は、ゴミ溜めの脇にしゃがみ、地面を調べた。
ぬかるんだ土の上に、いくつかの足跡が残っていた。だが、雨で崩れ、誰のものかを特定できる状態ではなかった。
「袋は、濡れていたのか」
私は世話役に尋ねた。
「いえ、表面は少し湿っていましたが、中は乾いていました」
泰六は袋を持ち上げ、布地を確かめた。
「袋がゴミ溜めに置かれたのは、雨が降り始める前か、雨が直接当たらない場所だった可能性がある」
「なぜ、そんなところへ?」
「それを知るには、袋を置いた者の意図を考える必要がある」
泰六は、長屋の入口を見た。
「袋を捨てたのは、盗みを隠すためだったのか。それとも、誰かに見つけてもらうためだったのか」
私は、はっとした。
「見つけてもらうため?」
「袋が完全に隠されていたわけではない。朝の掃除で見つかる場所にあった。しかも、中身は空で、紐は丁寧にほどかれている」
泰六は、袋を元の形に整えた。
「源吉が、金を使ったあと、袋を捨てた。そこまでは、本人の証言とも合う。だが、なぜ、ここへ置いたのか」
源吉を呼び、尋ねてみた。
彼はしばらく黙っていたが、やがて答えた。
「徳兵衛さんが、袋を探すだろうと思ったんです。いつもの場所になければ、長屋じゅうを探す。そうすれば、誰かが見つけてくれる」
「なぜ、袋を戻さなかったのですか」
「金がなくなっていることが、すぐにわかってしまうからです」
「それなら、最初から使わなければよかった」
私の言葉に、源吉はうつむいた。
「……そのとおりです」
彼は、袋を盗むつもりではなかったのかもしれない。しかし、袋を開け、金を持ち出し、空になった袋を隠すように置いた。その行為が、徳兵衛に疑いと悲しみをもたらしたことは、変わらない。
泰六は、源吉を責めなかった。
「あなたは、徳兵衛さんを助けたかった。それは事実でしょう。しかし、助けたいという気持ちが、相手の意思を飛び越えてよい理由にはならない」
源吉は、深く頭を下げた。
「わかっています」
第九章 四十二銭の行き先
残る四十二銭について、三人の証言は食い違っていた。
おたきは「医者への支払いに使った」と言い、お松は「薬代の不足分として源吉に渡した」と言った。源吉は「残った金は、全部、医者に渡した」と答えた。
しかし、医師の帳面には、一円八十銭と記されているだけだった。
「誰かが、四十二銭を自分のものにしたのでしょうか」
私が尋ねると、泰六は答えた。
「可能性はある。だが、まだ断定できない」
彼は、三人の証言を紙に書き出した。
「おたきは、医者への支払いに使ったと言う。お松は、源吉に渡したと言う。源吉は、医者に渡したと言う。三人の話が一致していないのは、金の受け渡しを、それぞれ違う場面で見ているからかもしれない」
「では、実際には?」
「医者に確認しよう。受け取った金額だけでなく、誰が、いつ、何を渡したかを」
松井医師は、もう一度帳面を見直した。
「そういえば、診察の翌朝、源吉さんが四十二銭を持ってきました。薬の追加分だと言っていました」
「それは、帳面に記されていますか」
「ええ。こちらです」
帳面には、翌日の日付で、追加の薬代四十二銭と記されていた。
私は、思わず声を上げた。
「では、三円は、すべて使われたのですね」
「そうなります」
泰六は、帳面を確かめた。
最初の薬代四十六銭。おたきの薬代十二銭。お松の薬草二十銭。医者の診察と薬代一円八十銭。翌日の追加薬代四十二銭。
合計は三円だった。
三円は、消えたのではなかった。
薬になり、診察になり、老人の命をつなぐためのものへと姿を変えていた。
だが、泰六は、それをもって事件が解決したとは言わなかった。
「金の行方はわかった。しかし、約束の書はどうなる」
私は、紙片に書かれた一文を思い出した。
――薬代に困ったときは、互いの蓄えを相談のうえ用いること。
「相談は、していませんでしたね」
「そうだ。彼らは、徳兵衛さんに相談せず、金を使った」
「では、約束は破られたのでしょうか」
泰六は、しばらく考えていた。
「約束を守るということは、書かれた文言だけを守ることではない。しかし、文言を都合よく読み替えてもいけない」
彼は、約束の書を見つめた。
「三人は、徳兵衛さんの命を守ろうとした。だが、徳兵衛さんが自分の金をどう使うかを決める権利まで、彼らが代わりに持っていたわけではない」
「では、彼らは間違っていた?」
「善意だったことと、正しかったことは、同じではない」
泰六は、静かに言った。
「その二つを混同すれば、私たちは、誰かを助けるたびに、その人の意思を奪うことになる」
第十章 匂いが語らなかったこと
その夕方、私たちは徳兵衛の部屋に集まった。
徳兵衛は、三人が来たことを知ると、杖を脇に置き、背筋を伸ばした。
泰六は、まず事実を一つずつ説明した。
「信玄袋を開けたのは、源吉さんです。三円を持ち出し、薬と医者の費用に使いました。伊勢屋の帳面と松井医師の記録によって、三円すべての使い道を確かめました」
徳兵衛は、黙って聞いていた。
「では、やはり、盗まれたのですね」
「金を持ち出したことは事実です。しかし、三人がその金を自分のために使った証拠はありません。三円は、あなたの薬と診察のために使われています」
「それなら……」
老人は、何かを言いかけて、口を閉じた。
泰六は続けた。
「三人の部屋から同じ薬草の匂いがしたのは、皆があなたの看病に関わっていたからです。しかし、匂いだけでは、金の行方はわかりませんでした。袋の結び目も、源吉さんが手先の器用さを生かして開けたことを示す手がかりにはなりましたが、盗みでないことを証明するものではありません」
「では、何が証明したのです」
「帳面です。薬種屋の記録、医師の記録、そして三人の証言を照らし合わせた結果です」
徳兵衛は、膝の上で手を組んだ。
「そうですか……」
泰六は、約束の書を差し出した。
「もう一つ、確かめておきたいことがあります。あなたは、この約束の書に、どういう思いを込めたのですか」
徳兵衛は、紙片にそっと触れた。
「誰かが助けを必要としたとき、助ける者が、恩を着せないためです。そして、助けられた者が、いつまでも借りを背負わないためです」
「では、今回の三人の行為は、約束にかなっていたのでしょうか」
徳兵衛は、長いあいだ答えなかった。
やがて、静かに首を振った。
「いいえ。私に相談せず、私の金を使ったのですから。約束の一つを、守らなかったことになります」
三人は、うつむいた。
しかし、徳兵衛は続けた。
「けれど、私もまた、約束を忘れておりました」
「忘れていた?」
「私は、誰にも迷惑をかけたくないと考えて、金を貯めていました。けれど、あの紙には、互いの蓄えを相談のうえ用いると書いてある。私は、助ける側でいることばかりを考えて、助けられる側になることを、恥じていたのかもしれません」
徳兵衛の声は、かすかに震えていた。
「三人が、私の命を救おうとしてくれたことは、わかりました。けれど、私に何も知らせずに決めたことは、悲しかった」
おたきが、涙を拭った。
「申し訳ありません。私たちは、徳兵衛さんが断ることばかり考えて、話すことを諦めてしまいました」
源吉も頭を下げた。
「俺が、勝手に袋を開けました。助けるつもりだったと言っても、許されることではありません」
お松は、徳兵衛の前に座った。
「これからは、ちゃんと相談します。たとえ、あんたが怒っても」
徳兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、ようやく微笑んだ。
「怒るかもしれませんな」
三人が顔を上げる。
「ですが、話を聞くことはできます。目が見えぬからといって、耳まで聞こえなくなったわけではありませんから」
私は、その言葉に胸を打たれた。
三人は、老人を守ろうとした。だが、老人が本当に望んでいたのは、ただ守られることではなかったのだ。
自分の人生に関わることを、自分もまた、共に決めること。
それは、三円よりも、ずっと大切なものだった。
第十一章 返す相手は、同じでなくてよい
翌日、三人は徳兵衛の部屋を訪ねた。
源吉は、最初に頭を下げた。
「三円は、必ず返します。仕事を増やして、少しずつでも」
おたきも、お松も、同じように申し出た。
しかし、徳兵衛は、首を横に振った。
「返さなくてよい、と言えば、また皆さんは、私に黙って何かを決めることになるでしょうな」
三人は、戸惑った。
徳兵衛は、ゆっくりと続けた。
「三円は、私の蓄えでした。私に相談せずに使ったことは、間違いです。だから、そのことをなかったことにはしません」
源吉は、うつむいた。
「はい」
「ですが、三円が私の命をつなぐために使われたことも、また事実です。皆さんが私のために働き、薬を煎じ、医者を呼んでくださったことを、私は知りました」
老人は、約束の書を手に取った。
「ここに、返す相手は必ずしも同じでなくてよいと書いてあります。私は、これからも按摩の仕事を続けます。いつか皆さんが病に倒れたとき、今度は私が、できることをしましょう」
「でも、徳兵衛さん……」
おたきが言いかけると、老人は微笑んだ。
「ただし、次からは相談してください。私にも、考える時間をください」
三人は、深く頭を下げた。
そして、源吉が提案した。
「なら、これからは長屋で、薬代のための小さな蓄えを作りませんか。誰かが病気になったとき、本人も交えて相談して、皆で少しずつ出し合うんです」
「一度に大金を集める必要はありませんね」と、おたきが言った。
「毎月、出せる者が出せる分だけ」と、お松が続けた。
泰六は、その話を黙って聞いていた。
「それなら、記録をつけたほうがよいでしょう」
私が言うと、源吉はうなずいた。
「そうですね。誰がいくら出したか、何に使ったか。皆がわかるように」
徳兵衛は、少し考えてから言った。
「では、私が帳面を預かりましょう。文字は読めませんが、皆さんに読み上げてもらえば、内容は確かめられます」
「目が見えないことと、帳面を預かれないことは、同じではありませんものね」
おたきの言葉に、皆が笑った。
その笑い声は、薄い板壁を越えて、長屋の奥まで広がっていった。
私は、その場にいた人々の顔を見た。
誰もが、少しずつ違う事情を抱えている。余裕のある者などいない。それでも、互いの事情を知り、相談することで、できることがある。
約束の書は、誰かを縛るためのものではなかった。
互いの弱さを、互いに隠さずにいられるようにするためのものだったのだ。
第十二章 破られなかった約束
数日後、私は泰六とともに、神田の長屋を訪れた。
冬の陽は低く、路地の奥には、洗濯物の影が長く伸びていた。
おたきの部屋からは、娘の笑い声が聞こえた。源吉は、仕事へ出る前に共同井戸の桶を直していた。お松は、煮売りの鍋を火にかけていた。
そして、徳兵衛は、いつものように按摩の仕事へ出かける支度をしていた。
「小室先生、和田さん。このたびは、本当にありがとうございました」
老人は、杖を手にして頭を下げた。
「三円は戻りませんでしたが、失ったものばかりではありませんでした」
「そう言っていただけるなら、何よりです」
私は答えた。
泰六は、老人に尋ねた。
「徳兵衛さん。あの約束の書は、これからも残しておかれますか」
「ええ。もちろんです」
老人は、懐から紙片を取り出した。
「ただ、もう一つ、書き足そうと思います」
「何を?」
「助ける前に、まず相手の話を聞くこと。助けられる者にも、決める権利があること」
泰六は、静かにうなずいた。
「よい約束だと思います」
長屋を出て、神田の通りを歩きながら、私は泰六に尋ねた。
「結局、三円は盗まれたのでしょうか」
泰六は、少し考えてから答えた。
「金を持ち出した者はいた。本人の同意なく、袋を開けた者もいた。その意味では、許される行為ではなかった」
「では、盗みだったのですね」
「法律上の評価は、私がここで決めることではない。しかし、事実として確かめられたのは、三円が徳兵衛さんの看病に使われ、三人が私欲のために使った証拠はなかったということだ」
泰六は、冬空を見上げた。
「人間の行為は、一つの言葉だけでは言い尽くせない。善意があったからといって、間違いが消えるわけではない。間違いがあったからといって、その人の善意まで偽物になるわけでもない」
私は、うなずいた。
三つの部屋に漂っていた、同じ薬草の匂い。
それは、最初、誰かが老人の部屋へ忍び込んだ証拠のように思えた。
しかし、実際には、三人がそれぞれの暮らしの中で、老人を救おうとしていたことの痕跡だった。
匂いは、彼らが何をしていたかを教えてくれた。
だが、なぜそうしたのか、そして、その行為が正しかったのかどうかまでは、教えてくれなかった。
それを知るには、話を聞かなければならなかった。
帳面を調べ、金の行方を確かめ、言葉の食い違いを一つずつ解きほぐさなければならなかった。
泰六は、論理によって、三円の行方を明らかにした。
私は、人々の話を聞くことで、その三円が、どのような思いの中で使われたのかを知った。
どちらか一方だけでは、たどり着けなかった真実があった。
「進一君」
泰六が、ふいに言った。
「何でしょう」
「君は、あの三人を善人だと思うかね」
私は、少し考えた。
「善人かどうかは、私にはわかりません。ただ、彼らが徳兵衛さんを助けようとしたことは、事実です。そして、そのために、徳兵衛さんの意思を確かめることを怠ったのも、事実です」
泰六は、満足そうに微笑んだ。
「そうだ。人を理解するというのは、相手を無条件に許すことではない。相手の行為を、都合のよい一つの物語に押し込めないことだ」
私は、長屋を振り返った。
あの古い紙片は、破られなかった。
だが、そこに書かれた約束は、一度も傷つかなかったわけではない。
人は、誰かを大切に思うあまり、相手の声を聞き落とすことがある。守ろうとするあまり、相手の代わりに決めてしまうことがある。
だからこそ、約束は、ただ紙に書いて残すだけでは足りない。
ときには立ち止まり、相手の言葉を聞き直し、守ろうとしているものが本当に相手の望みなのかを確かめなければならない。
神田の長屋に漂っていた、三つの同じ匂い。
それは、三人が同じ薬を煎じた匂いであり、誰かを失いたくないと願った人々の匂いでもあった。
けれど、優しさは、匂いのように、ただそこに漂わせておけばよいものではない。
相手に届くように、言葉にしなければならない。
そして、その言葉が相手に届いたかどうかを、確かめなければならない。
だから泰六は、論理を手放さない。
だから私は、人間を見ることをやめない。
誰も、自分ひとりですべてを正しく知っているわけではない。
だからこそ、私たちは互いの話を聞き、事実を確かめ、もう一度、約束を結び直すことができるのだ。
――神田の長屋に残ったのは、三円の記憶だけではなかった。
それは、助ける者と助けられる者が、同じ場所に立ち直るための、小さな約束だったのである。
今回、泰六の推理は「三円は善意で使われたから、盗みではない」と単純に結論づけるのではなく、三円の行方を帳面で確かめたうえで、善意と正当性を分けて考える形にしました。
同じ薬草の匂いは、三人の行動を示す手がかり。結び目は、袋が乱暴に破られたのではないと示す手がかり。そして薬種屋と医師の帳面が、三円の行方を確定する証拠です。
人情の部分では、徳兵衛の「助けられる側にも、自分で決める権利がある」という気づきを大切にしました。三人の善意を否定せず、それでも、本人に相談しなかったことをなかったことにはしない。
今回の事件で、私がいちばん大切にしたいのは、この一節です。
「善意だったことと、正しかったことは、同じではない。」
そして、それは反対側からも言えます。間違いを犯したからといって、その人の善意まで偽物になるわけではない。
泰六が事実を確かめ、進一が人の事情を聞く。その二つがそろって初めて、事件は解けるだけでなく、人間の姿まで見えてくる




