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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) - 泥に消えた二つの家紋、売られなかった形見の軸

◾️小室泰六(こむろ・たいろく)

事実の不整合を徹底的に追う探偵。記録が本物であることと、そこから導かれた結論が正しいことを区別する。


今回は二つの家の主張を安易に折衷せず、証拠によって何が言え、何がまだ言えないのかを明確にしていく。一方で、証拠のない心情まで推理で決めつけない。


◾️和田進一(わだ・しんいち)

泰六の相棒。長屋の住人や古道具屋を訪ね、帳簿に残っていない生活の記憶を拾い集める。


人の事情を理解しようとするが、同情した相手の言葉をそのまま事実と認めるわけではない。泰六に疑問を返し、自らの判断で事件の核心へ近づく。


◾️榊原惣兵衛(さかきばら・そうべえ)

事件の直前に亡くなった元藩士。晩年は神田の長屋でひっそり暮らしていた。


生前、掛け軸を売る機会があっても手放さなかった。理由は単なる金銭的価値や旧家への忠誠ではない。彼は、ある約束を自分一人の判断で終わらせることができなかった。


◾️源兵衛(げんべえ)

榊原が住んでいた長屋の家主。家賃の滞納もあり、掛け軸を売却できれば葬儀や整理費用の足しになると考えた。


欲深い悪人ではない。亡くなった者の尊厳を守りたい気持ちと、残された現実的な負担の間で悩んでいる。


◾️松吉(まつきち)

神田で古道具屋を営む男。目利きは確かで、掛け軸に相応の価値があると判断した。


商売人としての現実感覚を持つ一方、品物にまつわる由来を軽んじない。掛け軸の裏にある小さな墨の擦れに気づいた人物でもある。


◾️久我直道(くが・なおみち)

久我家の代理人。家の没落を防ごうと努めており、掛け軸を取り戻すことを先祖への責任と考えている。


彼は記録を偽ってはいない。ただし、家の誇りを守りたいあまり、自分に都合のよい解釈を疑うことができずにいる。


◾️真壁孝之(まかべ・たかゆき)

真壁家の代理人。家に残された記録を頼りに掛け軸を取り戻そうとしている。


先祖が誰かに施しを受けたという歴史を受け入れるのは苦しい。しかし、真壁家にとって掛け軸は、単なる美術品ではなく、かつて家族を救ってくれた人々の記憶と結びついている。

泥に消えた二つの家紋、売られなかった形見の軸




第一章 長屋に残された一本の軸


 雨の上がった神田の路地には、まだ泥が残っていた。


 軒先から落ちる雫が、石のくぼみに小さな波紋をつくる。長屋の住人たちは、濡れた下駄を戸口に並べ、湿った洗濯物を気にしながら、いつもより幾分静かな朝を迎えていた。


 その長屋の奥に住んでいた榊原惣兵衛が、三日前に亡くなった。


 かつては一藩の武士であったという。だが、今となっては、彼が刀を差していた頃を知る者も少ない。細身の身体に古びた着物をまとい、朝には長屋の前を掃き、夕方には縁側で本を読む。誰かと争うこともなく、誰かに大きな恩を売ることもなく、静かに暮らしていた老人だった。


 残された品は、わずかである。


 着物が数枚。読みかけの漢籍。使い込まれた硯。そして、桐箱に納められた一本の掛け軸。


 長屋の家主である源兵衛は、畳の上に並べられた遺品を前に、困った顔をしていた。


「葬儀の費用もありますしな。家賃も、最後の何か月かは頂いておりません。まさか、亡くなった方の懐を探るわけにもいかんでしょう」


 源兵衛は、私にそう言った。


 私は和田進一。小室泰六という、いささか人間離れした頭脳を持つ男の相棒である。


 その日、私たちは源兵衛から相談を受けていた。


「掛け軸を売れば、少しは足しになるかと思ったのですが、どうも妙なことになりまして」


「妙なこと?」


 泰六が尋ねた。


「ええ。古道具屋の松吉さんに値踏みを頼んだところ、二人の男が店へ飛び込んできたそうで」


 源兵衛は、困り果てたように頭をかいた。


「二人とも、自分の家のものだと申すのです」


 泰六は、卓上の茶碗を置いた。


「なるほど。では、まず、その掛け軸を見せていただきましょう」


 古道具屋の松吉は、神田の裏通りに店を構えていた。


 店内には、古い煙管、陶器、刀の拵え、使い込まれた文箱などが所狭しと並んでいる。奥の座敷に通されると、松吉はすでに掛け軸を桐箱から出して待っていた。


 山水画だった。


 薄墨で描かれた山々の間を、細い川が流れている。川の両側には道が続き、遠くに小さな庵が見える。華やかな絵ではない。しかし、長く眺めていると、不思議に目が離せなくなる。


「絵そのものも悪くありませんが、表装も古い。手入れさえすれば、相応の値はつくでしょう」


 松吉が言った。


 そのとき、店の入口から男の声がした。


「その品を、こちらへ渡していただきたい」


 現れたのは、四十代半ばと思われる男だった。身なりは質素ながら、着物の襟元はきちんと整っている。


「久我家の者です。久我直道と申します。その掛け軸は、我が家に代々伝わった品でございます」


 松吉が返事をするより早く、もう一人の男が店に入ってきた。


「お待ちいただきたい。こちらは真壁家から榊原殿に託された形見です」


 男は真壁孝之と名乗った。


 二人は互いの顔を見るなり、険しい表情になった。


「久我家の家財帳には、確かにこの掛け軸が記されております」


「真壁家の控えには、榊原殿へ預けたと記されております」


「預けたというのなら、誰の品を預けたのです」


「では、久我家は三十年もの間、なぜ取り戻しに来なかったのですか」


 声が次第に高くなる。


 泰六は、二人の言い分を最後まで聞いていた。


 そして、静かに尋ねた。


「お二人とも、その掛け軸を直接ご覧になったのは、いつが最後ですか」


 二人は口を閉じた。


「私は、今日が初めてです」


 直道が答えた。


「私も、実物を見るのは初めてです」


 孝之も続いた。


 泰六は、掛け軸へ目を戻した。


「そうですか。では、お二人が争っているのは、目の前の品物そのものではなく、記録に残された過去ということになりますな」


 その言葉に、二人は反論しなかった。


 私は、掛け軸に描かれた細い川を眺めた。


 その川は、山の間を静かに流れていた。


 だが、その一本の川を挟んで、二つの家が争っているのである。


 何とも皮肉な話だった。




第二章 二つの本物の帳簿


 翌日、私たちは久我家と真壁家から、それぞれ古い記録を借り受けた。


 久我家の家財帳は、紙こそ黄ばんでいたものの、保存状態は悪くなかった。表紙には墨で家名が記され、内部には刀剣、茶器、書画などの品目が並んでいる。


 その中に、問題の掛け軸と思われる記述があった。


 山水画一幅。古表装。桐箱入り。


 絵柄と箱の寸法についての簡単な覚え書きも添えられていた。


 一方、真壁家の控えは、さらに簡素なものだった。


 榊原惣兵衛殿へ、山水画一幅を預け置く。


 日付は、幕末の混乱が激しくなっていた頃に当たる。


 泰六は、二つの記録を並べて読み比べていた。


「どう思われます、進一さん」


 泰六が私に尋ねた。


「どちらも、嘘をついているようには見えません。久我家には、もともと品物があったという記録がある。真壁家には、榊原殿へ預けたという記録がある。両方が正しいなら、掛け軸は久我家から真壁家へ渡り、さらに榊原殿へ預けられたのでしょうか」


「可能性はあります。しかし、まだ推測です」


 泰六は指先で、久我家の帳簿を軽く叩いた。


「ここには、いつ、誰に渡したかが書かれていない」


 次に、真壁家の控えを示した。


「こちらには、預けたとある。しかし、誰の所有物として預けたのか、返却の条件は何か、そのいずれも明らかではない」


「つまり、二つの記録だけでは、どちらの主張も決められない」


「その通りです」


 泰六は、帳簿を丁寧に閉じた。


「記録が本物であることと、その記録から導き出した結論が正しいことは、別の問題です」


 その言葉は、私の胸に残った。


 記録は、過去を残す。


 しかし、過去のすべてを残すわけではない。


 その日の午後、私は一人で榊原が暮らしていた長屋を訪ねた。


 隣に住む老婆は、榊原について尋ねると、懐かしそうに目を細めた。


「惣兵衛さんは、貧乏でしたけれどねえ。妙なところで、きちんとした人でしたよ」


「妙なところ、とは?」


「雨漏りがしても、ご自分の着物が濡れるのは構わない。でも、あの掛け軸だけは、決して濡らさなかったんです」


 老婆は、榊原の部屋があった方を見た。


「昔、うちの亭主が、あんな古い絵など売ってしまえばよいと言ったことがありました。そうしたら惣兵衛さん、静かに首を振ってね」


 老婆は、そのときの声を思い出すように言った。


「これは、私が勝手に手放してよいものではないのです、と」


 私は、その言葉を書き留めた。


 掛け軸は、榊原にとって、ただの遺品ではなかったのだ。




第三章 墨の擦れ


 松吉が、掛け軸の裏面に妙な跡があると知らせてきたのは、その翌朝だった。


 私たちが店へ着くと、松吉は掛け軸を広げ、裏面の一角を示した。


「ここでございます。小さな跡ですが、どうにも気になりまして」


 表装の端に近いところに、黒い墨の擦れが残っていた。


 汚れといえば汚れである。だが、よく見ると、ただの染みとは違う。細い線が、一定の方向へ引き延ばされたようになっている。


 泰六は、すぐには手を触れなかった。


「いつ、これに気づかれましたか」


「昨日、桐箱から出して、裏側も確認したときです。以前からあったものかどうかまでは、わかりません」


「結構です。わからないことを、わからないとおっしゃるのは大切です」


 泰六は、光の当たり方を変えながら跡を観察した。


「墨が何かに擦れたものかもしれません。しかし、これだけでは何も断定できませんな」


 私は尋ねた。


「家紋か何かの一部ではありませんか」


「その可能性もありますが、今のところは、そう考える理由がありません」


 泰六は、跡の位置と形を紙に写し取った。


 その日の午後、私は榊原の遺品をもう一度調べた。


 古い書物の間に、手紙が束ねられていた。封筒は失われ、差出人の名も判然としない。何通かは、雨や湿気で文字がにじんでいる。


 その中の一通に、私は目を留めた。


 末尾に、こう記されていたのである。


 ――まだ、お返しする時ではない。


 私は、その一文を何度も読み返した。


 何を返すのか。


 誰に返すのか。


 そして、なぜ今ではないのか。


 答えは、どこにも書かれていなかった。


 夕方、泰六のもとへ戻り、手紙を見せた。


「なるほど」


 泰六は、手紙を慎重に読み終えた。


「これで、榊原氏が何かを返すことについて考えていたのは確かでしょう。しかし、掛け軸のことだと断定するには、まだ材料が足りません」


「ですが、あの掛け軸を売らなかった理由に関係しているのではありませんか」


「おそらくは。しかし、我々の仕事は、もっともらしい物語を作ることではありません。事実が、その物語を支えているかを確かめることです」


 泰六は、手紙を元の場所へ戻した。


 私は、あの老人が、どれほど長い間、返すことのできない何かを抱えていたのだろうと思った。




第四章 家の誇り、家の恩義


 進一の役目は、人々の話を聞くことだった。


 まず久我家を訪ねた。


 直道は、かつての屋敷の一部を手放したと話した。明治の世になってから、家の収入は減り、昔の家格だけでは暮らしていけなくなったという。


「私が、何としても掛け軸を取り戻したい理由がおわかりでしょうか」


 直道は、私に問いかけた。


「金のためだけではありません。先祖が大切にしていたものを、私の代で失うわけにはいかないのです」


「しかし、掛け軸は榊原殿の手元にありました」


「ええ。だからこそ、長年、返していただく機会を待っていたのです」


 直道は、久我家の帳簿を見せてくれた。


「この記録に嘘はありません。私は、それを信じております」


 その言葉に、私はうなずいた。


 彼は嘘をついているようには見えなかった。むしろ、先祖の名誉を守ることに、真剣すぎるほど真剣なのだ。


 次に、真壁家を訪ねた。


 孝之は、久我家とは違う苦労を語った。


「我が家は、昔から裕福ではありませんでした。ですが、先祖が誰かに助けられたことを忘れてはならないと、父から教えられてきました」


「掛け軸が、その恩義の証しなのですか」


「そう信じております」


 孝之は、真壁家の控えを手に取った。


「榊原殿が預かってくださった。それは、我が家にとって大切な記録です。もし、あの品が失われれば、先祖が何を託したのか、その記憶まで消えてしまうような気がするのです」


 私は、二人の言葉を聞いて、あることに気づいた。


 直道は、先祖の誇りを失うことを恐れていた。


 孝之は、先祖が受けた恩を忘れることを恐れていた。


 二人が欲しているのは、掛け軸だけではない。自分たちが何者であったのかを、確かめるための何かだった。


 泰六に報告すると、彼は静かに聞いていた。


「二人とも、掛け軸を失うことで、家の歴史まで失ってしまうのを恐れているようです」


「それは、理解できる感情です」


 泰六は答えた。


「しかし、恐れが所有権を証明するわけではありません」


「ええ」


 私はうなずいた。


「だからこそ、彼らの話を聞きながら、記録を調べなければならないのですね」


 泰六は、少しだけ微笑んだ。


「進一さん。あなたも、ずいぶん探偵らしくなりましたな」


 私は苦笑した。


「あなたにそう言われると、褒められたのか、まだ足りないと言われたのか、わかりません」


「その両方かもしれません」


 泰六は、いつもの調子で答えた。




第五章 泥ににじんだ家紋


 榊原がかつて仕えていた藩の記録を調べるには、少しばかり手間がかかった。


 維新の混乱で散逸した文書も多く、残されたものも、すべてが整理されているわけではない。


 それでも、進一の調査は少しずつ成果を上げていった。


 ある寺の古い記録に、幕末の頃、久我家と真壁家の者が同じ地域に滞在していたことが記されていたのである。


 さらに、寺の世話をしていた老人から、当時の話を聞くことができた。


「昔、このあたりは物騒でございました。身分の高い家も、そうでない家も、明日どうなるかわからなかった」


 老人は、遠い日のことを思い出すように語った。


「榊原様は、よく人の間を行き来しておられました。誰かを連れてきたり、誰かを送り届けたり。詳しい事情は存じませんが、あの方は、人を見捨てることができないお方だったのでしょう」


 その言葉を手がかりに、私は榊原の遺品をさらに調べた。


 すると、古い紙片が見つかった。


 紙はひどく傷んでいた。端は破れ、中央には泥水の跡らしい褐色の染みが広がっている。


 だが、かろうじて二つの家紋の一部が残っていた。


 久我家の紋。そして、真壁家の紋。


 二つは並んで記されていたように見える。


 泰六は、紙片を見つめた。


「この二つの紋が、最初から並んでいたとすれば、何を意味するでしょう」


「両家が、何かを共同で扱っていた可能性があります」


「ええ。しかし、それだけでは、所有していたのか、預けたのか、贈ったのかまではわかりません」


 泰六は、紙片を掛け軸のそばへ置いた。


「ただ、一つ確かなことがあります。二つの家紋は、互いを排除するために並んでいるのではないのかもしれません」


 私は、泥ににじんだ紋を見つめた。


 それは、長い年月の間に輪郭を失っていた。


 だが、消えかけた二つの紋は、まるで、かつて同じ道を歩いた二つの家の姿を、今も伝えようとしているようだった。




第六章 返されなかった手紙


 進一は、榊原と親しくしていたという元足軽の老人を訪ねた。


 老人は、今では小さな借家に暮らしていた。耳は少し遠くなっていたが、記憶はところどころ鮮明だった。


「榊原様ですか。ええ、よく存じておりますとも」


 老人は、私の問いに答えた。


「お若い頃は、たいそう律儀なお方でございました。自分が引き受けたことは、何としても最後まで果たそうとなさる」


「久我家と真壁家のことをご存じですか」


 老人の表情が変わった。


「……あの頃のことですな」


 彼はしばらく黙っていた。


「両家は、互いに助け合っておりました。どちらか一方が、どちらか一方を救ったというだけではございません。時には久我家が真壁家を助け、時には真壁家が久我家を助けた。そういう時代でございました」


「掛け軸については、何かご存じありませんか」


「詳しいことまでは。しかし、榊原様が泥に濡れた包みを抱えて帰ってこられた日のことは、覚えております」


 老人は、目を閉じた。


「たいそう大事そうに抱えておられました。私は、何が入っているのかと尋ねました。すると、榊原様は、こうおっしゃいました」


 老人は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「これは、誰か一人のためだけに預かったものではないのです、と」


 私は、その言葉を書き留めた。


 老人は、すべてを覚えているわけではなかった。誰がどのような約束を交わしたのか、いつ掛け軸が渡されたのか、その細部は曖昧だった。


 それでも、その一言は、私たちの調査に新たな方向を与えた。


 長屋へ戻った私は、榊原の手紙を再び読み返した。


 すると、別の手紙の末尾にも、似た言葉があることに気づいた。


 ――一方の家だけに返すことは、もう一方を忘れることになる。


 私は、その一文を泰六に見せた。


「これで、榊原殿がなぜ掛け軸を手放さなかったのか、少しわかったような気がします」


 泰六は、手紙を読んでから、私を見た。


「ええ。あなたの考えには、十分な理由があります」


「では、榊原殿は両家の和解を守ろうとしていたのでしょうか」


「その可能性は高い。しかし、まだ確定ではありません」


 泰六は、手紙を丁寧に畳んだ。


「人の心を理解しようとすることは大切です。しかし、理解したつもりになることは、また別の過ちです」


 私は、うなずいた。


 榊原は、何を守ろうとしていたのだろう。


 掛け軸か。


 二つの家の名誉か。


 それとも、かつて人々が互いに手を差し伸べたという、忘れられかけた記憶そのものだったのか。


 答えは、まだ完全には見えていなかった。




第七章 売却を急いだ男


 事件は、思わぬ方向へ動き始めた。


 久我家と真壁家の代理人が、源兵衛の行為を問題にし始めたのである。


「所有者が定まっていない品物を、勝手に売却しようとしたのは問題ではありませんか」


 直道は、厳しい口調で言った。


 孝之も、同意した。


「榊原殿が亡くなったからといって、掛け軸が誰のものでもなくなったわけではありません」


 源兵衛は、肩を落とした。


「それは、わかっております。しかし、葬儀の費用も、部屋の始末も、誰かが引き受けなければならないのです」


 彼は、私たちに向かって言った。


「私は、惣兵衛さんを追い出したかったわけではありません。家賃を払えない時も、何度も待ちました。雨漏りがすれば、私が直しました。ですが、私にも暮らしがあるのです」


 源兵衛の言葉は、もっともだった。


 だが、もっともな事情があるからといって、他人の品を自由に売ってよいことにはならない。


 泰六は、源兵衛に告げた。


「あなたが榊原氏に情をかけたことは、よくわかりました。しかし、それと掛け軸を処分する権利とは、別の話です」


「……はい」


「売却は、ひとまず見合わせてください。品物の来歴が明らかになるまで、誰の手にも渡さない。それが最も穏当でしょう」


 源兵衛は、深く頭を下げた。


 その帰り道、私は泰六に尋ねた。


「源兵衛さんは、悪いことをしようとしていたわけではないのでしょうね」


「そうでしょう。しかし、悪意がなければ、行為が正しくなるわけでもありません」


「では、事情を理解することと、行為を認めることも、別なのですね」


「その通りです」


 泰六は、雨上がりの道を歩きながら言った。


「人間の事情は、判断に必要な材料です。しかし、事実を置き換えるものではありません」


 私は、路地の端に残った泥を見た。


 泥は、歩く者の足跡を残す。


 だが、そこに足跡が残ったからといって、その人が何を考えて歩いたのかまではわからない。


 事実と意味。


 その二つを分けて考えることが、今回の事件の鍵なのかもしれなかった。




第八章 墨の跡がつないだもの


 泰六は、掛け軸の裏面に残された墨の擦れと、榊原の遺品から見つかった包み紙の断片を、慎重に比較した。


 私は、その作業をそばで見守っていた。


「この擦れは、包み紙に記された文字の一部が、湿った状態で掛け軸の裏側に移ったものかもしれません」


 泰六は言った。


「ということは、掛け軸は、あの包み紙に包まれていたのですね」


「その可能性を強く示しています。ただし、墨の跡だけで、どの時代に包まれたのかまではわかりません」


 彼は、紙片に残る墨の線と、掛け軸の擦れを見比べた。


 線の向きと形状は、一部で整合している。しかし、文字の全体を復元できるほど明瞭ではなかった。


「では、これで両家の共同保管が証明されたのでしょうか」


「いいえ。証明されたのは、掛け軸と、この包み紙が接していた可能性が高いということです」


 泰六は、私の顔を見た。


「一つの証拠に、すべてを語らせてはいけません」


 私は、少し恥ずかしくなった。


 だが、泰六は私を責めるような顔はしなかった。


「進一さん。あなたが集めてくれた手紙と証言があるからこそ、この物証にも意味が生まれるのです」


 彼は、二つの帳簿、手紙、包み紙、そして掛け軸を並べた。


「久我家の帳簿は、もともと品物が久我家にあったことを示している。真壁家の控えは、榊原氏が品物を預かったことを示している。手紙は、榊原氏が何かを返すことについて考えていたことを示す。そして、包み紙と墨の擦れは、掛け軸がその紙に包まれていた可能性を裏づける」


「一つずつでは、足りない」


「ええ。しかし、互いに照らし合わせれば、説明できることが増えていくのです」


 私は、ようやく理解した。


 真実は、一つの証拠の中に、完成した姿で隠れているわけではない。


 異なる証拠が、それぞれの限界を持ちながら、少しずつ同じ方向を指し示す。そのとき初めて、過去の姿が見えてくるのだ。


 泰六は、紙片を元の位置へ戻した。


「残る問題は、榊原氏がなぜ両家に説明し直さなかったのか。そして、当初の約束がどのようなものだったのかです」


 私は、手紙の末尾を思い出した。


 ――一方の家だけに返すことは、もう一方を忘れることになる。


 その言葉の意味は、まだ完全には明らかになっていなかった。




第九章 泰六の仮説、進一の疑問


 その夜、泰六は、これまでに集めた資料を机の上に広げていた。


「私は、掛け軸が両家の共同の約束に基づいて保管されていたと考えています」


 彼は言った。


「久我家に伝わった品が、幕末の混乱の中で真壁家と関わりを持ち、その後、榊原氏に預けられた。二つの家紋が並んだ包み紙は、その経緯を示している可能性がある」


「ですが、まだ共同保管の約束を直接示す記録がありません」


「その通りです。ですから、仮説です」


 泰六は、あっさりと認めた。


 私は、少し驚いた。


 彼は、いったん立てた推理を、決して容易には手放さない男だと思っていた。しかし、そうではなかった。証拠が足りなければ、推理を仮説のままにしておくこともできるのだ。


 私は、別の疑問を口にした。


「もし榊原殿が、両家の約束を守ろうとしていたのなら、なぜ生前に説明し直さなかったのでしょう」


 泰六は、私を見た。


「それは、まだわかりません」


「両家が争うことを恐れていたのでしょうか」


「あり得ます」


「あるいは、どちらか一方を傷つけることになると思ったのかもしれません」


「それも、あり得ます」


 泰六は、しばらく考えてから言った。


「しかし、どちらも、今のところは推測です」


 私はうなずいた。


「私には、榊原殿が、両家のどちらにも恩義を感じていたように思えるのです。だからこそ、片方に返せば、もう片方を裏切るように感じたのではないでしょうか」


「その考えは、あなたが集めた証言と手紙に照らして、十分に検討する価値があります」


 泰六は、少しだけ表情を和らげた。


「ただし、我々は、榊原氏の心を完全に知ることはできません。できるのは、残された事実から、どのような事情があったのかを慎重に考えることだけです」


 私は、机の上の掛け軸を見た。


 山水画の川は、二つの岸の間を流れている。


 川の両岸は、互いに離れている。だが、その水は、どちらか一方だけのものではない。


 ふと、私は思った。


 榊原が守ろうとしたのは、品物そのものではなく、二つの岸をつなぐ流れだったのではないだろうか。


 だが、それを確かめるには、もう一つ、手がかりが必要だった。


 


第十章 失われた覚書


 手がかりは、寺に残されていた。


 進一が以前に訪ねた寺の住職から、古い文書の中に、久我家と真壁家の名が並んだ覚書の写しがあるかもしれないと知らせが届いたのである。


 翌日、私たちは寺を訪れた。


 住職は、長く保管されてきた文書の束を取り出した。紙は古く、文字もところどころ薄れていたが、その中に、二つの家の名が並ぶ覚書があった。


 そこには、幕末の混乱の際、両家が互いに助け合ったことが記されていた。


 そして、掛け軸について、こう記されていた。


 ――両家の後代が、互いの恩を忘れぬよう、榊原惣兵衛に預け、保管を託す。


 私は、息をのんだ。


 これまでの手がかりが、一つにつながったように思えた。


 しかし、泰六は慎重だった。


「これは原本ではなく、後年の写しなのですね」


「はい。原本は、いつの頃からか見当たらなくなっております」


 住職が答えた。


 泰六は、文書の紙質や筆跡、記載された他の出来事との年代の整合性を確認した。


 さらに、寺に残る別の記録と照合した。そこには、当時の両家の往来を示す記述があり、覚書の内容と矛盾しなかった。


 すべてを合わせて考えると、この写しは、信頼できる記録と見てよさそうだった。


 帰り道、私は泰六に尋ねた。


「これで、掛け軸の来歴は明らかになったのでしょうか」


「かなりの部分が明らかになりました」


 泰六は答えた。


「久我家に伝わった品が、両家の助け合いの記憶を残すため、榊原氏に託された。二つの家紋は、その約束を示す包み紙に記されていた。墨の擦れは、その包み紙と掛け軸が接していたことを裏づける」


「そして、榊原殿は、その約束を守ろうとしていた」


「そのように考えるのが、残された証拠を最もよく説明するでしょう」


 私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 だが、泰六は続けた。


「ただし、来歴がわかったことと、今後、誰が所有すべきかという問題は、同じではありません」


 私は、彼を見た。


「過去の事実を知ることはできても、その事実を踏まえて何を選ぶかは、今を生きる人間の仕事なのですね」


「その通りです」


 泰六は、静かにうなずいた。




第十一章 返す相手は、一つではなかった


 久我直道と真壁孝之は、再び松吉の店に集められた。


 源兵衛も同席していた。


 泰六は、まず二つの帳簿を並べた。


「久我家の記録は、本物です。もともと掛け軸が久我家に伝わっていたことを示しています。しかし、その後の移動を、久我家だけの権利として説明するものではありません」


 次に、真壁家の控えを示した。


「真壁家の記録も、本物です。榊原氏が掛け軸を預かったことを示しています。しかし、それだけで真壁家への永久譲渡があったとは証明できません」


 直道は、黙って聞いていた。


 孝之もまた、反論しなかった。


 泰六は、包み紙の断片と掛け軸の裏面の擦れを説明した。続いて、榊原の手紙と元足軽の証言、寺の覚書を順に示した。


「これらを合わせて考えれば、掛け軸は、両家が互いに助け合った記憶を後代に残すため、榊原氏に保管を託したものと考えられます」


 直道は、深く息を吐いた。


「では、久我家の主張は、間違っていたということでしょうか」


「すべてが間違っていたわけではありません。掛け軸が久我家に伝わっていたという点は、記録に裏づけられています。しかし、それが現在も久我家だけの所有物であるという結論は、証拠からは導けません」


 泰六は、真壁孝之にも目を向けた。


「真壁家も同じです。榊原氏に預けられたことは記録にあります。しかし、真壁家だけに返すという約束があったことは、証明されていません」


 孝之は、目を伏せた。


「我々は、先祖が受けた恩を忘れまいとしておりました。それなのに、いつの間にか、自分たちだけがその恩を受け継ぐのだと思い込んでいたのかもしれません」


 直道も、静かに言った。


「久我家も、先祖の誇りを守ろうとするあまり、先祖が誰と手を取り合ったのかを、忘れかけていたようです」


 進一は、二人の言葉を聞いていた。


 すぐに和解できるほど、長年の思い込みは簡単ではないだろう。それでも、二人は少なくとも、相手の主張を最初から嘘だと決めつけることはしなくなっていた。


 泰六は、掛け軸を見つめた。


「榊原氏が、なぜ生前にすべてを説明し直さなかったのか。その理由を、我々が完全に知ることはできません。しかし、残された手紙と証言からは、どちらか一方だけに返すことをためらっていた可能性がうかがえます」


 私は、付け加えた。


「榊原殿は、二つの家のどちらかを選ぶことよりも、両家が互いに助け合ったという事実を、失わせたくなかったのではないでしょうか」


 泰六は、私を見た。


「その解釈には、根拠があります。しかし、それを最終的にどう受け止めるかは、ここにいるお二人に委ねるべきでしょう」


 長い沈黙があった。


 やがて、直道が口を開いた。


「この掛け軸を、久我家だけのものとして取り戻すことは、やめにいたしましょう」


 孝之も、うなずいた。


「真壁家だけのものとして扱うことも、やめましょう」


 二人は、掛け軸を、両家にゆかりのある寺に保管することを相談し始めた。共同の記憶を示す品として、後の世代にも来歴を伝えられるようにしたいという。


 それは、泰六が命じた解決ではなかった。


 事実を知った二つの家が、自分たちで選んだ道だった。


 私は、その光景を見ながら、事件の本当の結末は、ここから始まるのかもしれないと思った。




第十二章 泥の乾いた朝


 数日後、私たちは寺を訪れた。


 掛け軸は、きれいに整えられた桐箱に納められていた。久我家と真壁家は、掛け軸の来歴を記した書面をともに作り、寺に保管を託すことで話をまとめていた。正式な手続きについても、両家で相談して進めることになったという。


 源兵衛の負担についても、両家が事情を聞き、葬儀や部屋の整理にかかった費用をどう分担するか、話し合いを始めたそうだ。


「すべてが、きれいに片づいたわけではありませんな」


 寺を出るとき、私は泰六に言った。


「久我家と真壁家の間に、昔からのわだかまりがなくなったわけではありませんし、榊原殿が本当に何を考えていたのかも、完全にはわかりません」


「その通りです」


 泰六は、穏やかに答えた。


「事件を解決するというのは、世の中のすべての問題を消し去ることではありません。何が起きたのかを明らかにし、何がまだわからないのかを見極め、その先を人々が考えられるようにすることです」


 私は、寺の門を振り返った。


 あの掛け軸は、かつて二つの家の間を行き来し、長い年月を経て、神田の小さな長屋にたどり着いた。


 榊原は、最後までそれを売らなかった。


 彼の判断がすべて正しかったとは、私には言えない。もし生前に、両家へ事情を説明していたなら、今回の争いは起きなかったかもしれない。


 だが、彼が守ろうとしたものは、今なら少しわかる気がした。


 それは、掛け軸という品物だけではない。


 かつて、二つの家が互いのために手を差し伸べたという事実だったのだ。


「泰六さん」


 私は、歩きながら尋ねた。


「もし、あの寺の覚書が見つからなかったら、私たちは真相にたどり着けたでしょうか」


 泰六は、しばらく考えていた。


「掛け軸が両家に関係していたことまでは、推理できたかもしれません。しかし、約束の全容までは難しかったでしょう」


「では、物証だけでも、人の話だけでも、わからないことがあるのですね」


「ええ。だからこそ、両方を確かめるのです」


 泰六は、神田の町を見渡した。


「人は、自分の見たものを頼りにします。自分の記憶を信じ、自分の家の記録を信じ、自分が受け継いだ話を信じる。それは、必ずしも悪いことではありません」


「しかし、それだけでは足りない」


「そうです。自分の見たものが、世界のすべてではないかもしれない。自分の記録が、過去のすべてを伝えているとは限らない。そう考える余地を残しておくことです」


 私は、ゆっくりとうなずいた。


 人の話を聞くことは、相手の言い分を何でも認めることではない。


 証拠を確かめることは、相手の気持ちを無視することでもない。


 事実を明らかにしながら、その事実を抱えて生きてきた人々のことも考える。


 それが、泰六の探偵としての仕事であり、私が相棒として学んでいくべきことなのだろう。


 路地に残っていた泥は、朝の陽射しの中で、少しずつ乾き始めていた。


 泥は、家紋をにじませることはできる。


 だが、二つの家がともに歩いた年月まで、消し去ることはできなかった。


 私は、隣を歩く泰六を見た。


 彼は、いつものように前を向いていた。


 その横顔を見ながら、私は思った。


 人は誰も、自分ひとりですべてを正しく知っているわけではない。


 だからこそ、他者の見たものに耳を傾ける。


 そして、互いの言葉を手がかりに、確かめられる事実を一つずつ確かめていく。


 その先にこそ、私たちが求める真実があるのだろう。


 神田の町には、今日も人々の暮らしが続いていた。


 泰六と私もまた、次の事件へ向かうことになる。


 人の嘘を暴くためだけではなく、人が何を見て、何を信じ、どこで道を誤ったのかを知るために。


 そして、真実を知ることと、人間を理解することのあいだにある、簡単には埋まらない距離を、二人で歩いていくために。

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