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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) - 止まった懐中時計、進んでいた殺人時刻

止まった懐中時計、進んでいた殺人時刻




一 九時十七分の死


明治二十九年、七月。

神田の空は、梅雨が明けてもなお、重たい雲を抱えていた。


その日、小室泰六は朝から懐中時計を分解していた。机の上には、小さな歯車、細い針、ねじ、そして用途のわからない金属片が並んでいる。


私は、それらを踏まないように注意しながら、向かいの椅子に腰を下ろした。


「泰六さん。時計屋にでもなるおつもりですか」


「時計屋は、時計を直す。私は時計が何を語っているかを調べている」


「同じことではありませんか」


「まるで違う。時計が壊れていることと、時計が嘘をついていることは別だ」


そのとき、戸口を叩く音がした。


訪ねてきたのは、神田警察署の刑事、森田警部補だった。


「小室さん。厄介な事件が起きました」


森田は濡れた帽子を脱ぎ、懐から一枚の紙を取り出した。


「神田の薬種商、藤岡宗兵衛が自宅で死んでいるのが見つかりました。部屋は内側から施錠され、窓にも異常はありません。遺体のそばには、止まった懐中時計がありました」


「時刻は?」


「九時十七分です」


泰六は、手にしていた歯車を置いた。


「死亡推定時刻は」


「医者の見立てでは、昨夜の八時半から九時半の間。正確なところは、まだわかりません」


「それなのに、なぜ九時十七分が重要なのですか」


私が尋ねると、森田は答えた。


「藤岡は、昨夜九時過ぎまで生きていたと、三人が証言しているのです」


「三人?」


「番頭の黒田、出入りの薬売りの新井、そして藤岡の姪のお澄です。三人とも、九時過ぎに藤岡と会話をしたと言っています」


泰六は、ゆっくりと立ち上がった。


「それは興味深い。三人の証言が正しいなら、時計が止まった時刻に、藤岡はまだ生きていたことになる」


「ところが、三人の話は少しずつ違うのです」


森田は声を落とした。


「誰も明らかな嘘をついているようには見えません。しかし、全員が同じ主人の、同じ夜について語っているとは思えないほど、細部が食い違っています」


泰六は帽子を取った。


「では、まず時計を見よう。時計は口をきかない。だが、人間が時計に何を信じ込んだかは、時計の周りに残る」




二 鍵のかかった部屋


藤岡の家は、神田の表通りから少し入ったところにあった。


一階が薬種商の店、二階が居住空間になっている。主人の書斎は二階の奥で、窓は庭に面していた。


藤岡宗兵衛は六十歳を過ぎた男で、商売に厳しく、金銭に細かいことで知られていた。独り身で、亡き兄の娘であるお澄を引き取って暮らしていたという。


書斎の扉は、発見時、内側から鍵がかかっていた。


鍵は扉の内側の錠に差し込まれたままで、窓は内側から掛け金が下ろされていた。格子の間隔は狭く、大人が通り抜けられるような隙間はない。


床には小さな敷物があり、壁際には本棚、机の上には帳簿と筆記用具が並んでいた。


藤岡は机の脇に倒れていた。後頭部に傷があり、そばには小さな青銅製の文鎮が落ちていた。


そして、胸元の内ポケットから取り出された懐中時計が、机の上に置かれていた。


針は九時十七分を指していた。


泰六は、時計を手に取らず、まず周囲を見回した。


「発見したのは誰ですか」


「番頭の黒田です。今朝、主人がいつまでも店へ下りてこないため、声をかけました。返事がなかったので、家の者を呼び、扉を壊して入ったそうです」


「鍵を壊したのですね」


「はい。扉の錠には、そのときの傷が残っています」


泰六は扉を調べた。鍵穴の周囲には、確かに新しい傷があった。しかし、扉そのものには、鍵を壊す前からこじ開けられた形跡はない。


「窓は?」


「庭から調べましたが、足跡は見つかりませんでした。昨夜は雨も降っていません」


泰六は窓の掛け金を見た。


「内側から掛かっていた。それは確かですか」


「間違いありません」


「では、犯人はどうやって出たのでしょうね」


森田が困った顔をした。


「それが、わからないのです」


泰六は床に目を落とした。


敷物の端に、細い傷がついていた。机の脚にも、同じ方向へ伸びる擦れ跡がある。


「この机は、いつもここに置かれていたのですか」


番頭の黒田が答えた。


「はい。主人は家具の位置を変えるのを嫌っていました」


泰六は返事をせず、机の脚の傷をしばらく見つめた。


私は、部屋の中央に置かれた懐中時計に目を向けた。


九時十七分。


その数字が、死んだ主人の最後の時刻であるかのように、部屋全体に重く漂っていた。


だが、泰六の言葉が、私の考えを止めた。


「進一君。時計は、何を証明していると思うかね」


「藤岡が九時十七分頃に亡くなった、ということでしょうか」


「違う。時計が証明しているのは、針が九時十七分を指して止まっているという事実だけだ」


泰六は時計を見た。


「その針が正しい時刻を指していたか。誰が最後に時計を見たか。なぜ止まったか。それらは、まだ一つも証明されていない」




三 三人の証言


最初に話を聞いたのは、番頭の黒田だった。


四十代半ばの男で、十年以上、藤岡の店を切り盛りしていた。帳簿をつけ、仕入れを管理し、店の者たちを監督していたという。


「昨夜、主人は何時頃まで起きていましたか」


泰六の問いに、黒田は答えた。


「九時過ぎです。私は九時頃、帳簿を持って二階へ上がりました。主人は書斎で仕事をしていました」


「そのとき、時計は見ましたか」


「ええ。主人の机の上に置かれた置時計が、九時を少し回ったところでした」


「主人とは何を話しましたか」


「薬の仕入れ値についてです。主人は、帳簿の数字が合わないと言いました。私は、翌朝までに調べ直すと答えました」


「主人は生きていましたか」


黒田は、当然だというように頷いた。


「もちろんです。主人は私に、明日までに帳簿を持ってくるよう命じました」


次に話を聞いたのは、薬売りの新井だった。


新井は、藤岡に薬種を納めていた商人で、昨夜は注文の品を届けに来たという。


「私は九時十分頃、店の裏口から入りました。主人に納品書を渡し、値段のことで少し話をしました」


「主人は、どんな様子でしたか」


「いつもどおりでした。機嫌は悪かったですが、具合が悪そうには見えませんでした」


「時刻は、どうしてわかったのですか」


「店の前を通ったとき、通りの時計を見たのです」


泰六は、少し考えた。


「その時計は、正確でしたか」


新井は戸惑った。


「さあ。いつも正しいと思っていましたが」


最後は、お澄だった。


二十歳を少し過ぎた女性で、落ち着いた話し方をする人だった。彼女は、藤岡が亡くなったことを聞いたとき、ひどく取り乱したという。


「叔父とは、昨夜も話をしました。九時半頃だったと思います」


「何を話したのですか」


「私の縁談についてです。叔父は、私が望まない相手との縁談を進めようとしていました。私は、それを断りました」


「叔父は怒りましたか」


「はい。とても」


お澄は視線を落とした。


「叔父は、私に『明日の朝、もう一度話す』と言いました。私は部屋を出ました。そのとき、叔父はまだ生きていました」


「時刻は、どうしてわかったのですか」


「廊下の時計が九時半を打ったからです」


泰六は三人の証言を聞き終え、しばらく黙っていた。


黒田は九時頃、新井は九時十分頃、お澄は九時半頃に、藤岡と会話をしたという。


時計の針が止まっていた九時十七分よりも後に、二人が主人の生存を確認していることになる。


しかし、藤岡の死亡推定時刻は八時半から九時半。


時計が正しければ、少なくとも三人のうち誰かが嘘をついている。


だが、泰六はそう結論づけなかった。


「三人とも、自分が見たものを話しているように思えます」


私が言うと、泰六は頷いた。


「そうだな。問題は、三人が見たものを、同じ物差しで測っていないことだ」




四 時計の持ち主


藤岡の懐中時計は、スイス製の品だった。


金色の蓋には細かな彫刻があり、裏面には藤岡の名前が刻まれていた。長年使われたものらしく、蓋の縁には小さな傷がいくつもついていた。


時計屋に見せると、主人は時計を分解し、歯車の状態を調べた。


「壊れたというより、止められた可能性がありますな」


「止められた?」


私が聞き返すと、時計屋は小さく頷いた。


「この時計は、強い衝撃で止まったわけではなさそうです。歯車に大きな損傷はありません。ですが、機械の一部に、外から触れられたような跡があります」


泰六は、時計屋の説明を聞きながら、懐中時計を受け取った。


「この時計は、毎日使われていたのですか」


「藤岡さんは、時計を大事にする人でした。毎朝、決まった時刻に店を開けるため、必ず懐中時計を確認していたそうです」


「では、昨夜も?」


「それはわかりません」


泰六は、時計を掌に載せた。


「進一君。時計の針が止まっていると、人は何を考えるだろう」


「その時刻に、何かが起きたのだと考えます」


「そうだ。そして、何かが起きた時刻を知りたい人間にとって、止まった時計は都合のよい証拠になる」


泰六は時計を閉じた。


「だが、都合のよい証拠ほど、注意して扱わなければならない」


その日の夕方、私たちは藤岡の家に戻った。


今度は、時計ではなく、家の中にあるすべての時計を調べることにした。


店先の掛時計。


廊下の置時計。


台所の小さな時計。


そして、書斎の机の上にあった置時計。


調べてみると、それぞれが少しずつ違う時刻を示していた。


店先の掛時計は、実際の時刻より四分遅れていた。


廊下の置時計は、十二分進んでいた。


台所の時計は、ほぼ正確だった。


書斎の置時計は、針が動いていなかった。


「これは、いつから止まっているのですか」


泰六が尋ねると、黒田は答えた。


「数日前からです。主人は、時計屋に直してもらうと言っていましたが、まだそのままでした」


泰六は、書斎の置時計を持ち上げた。


「では、三人が時刻を確認した時計は、それぞれ違うものだったのだな」


「はい」


「それに、誰も自分の時計が正確であることを確かめていない」


私は、三人の証言を思い返した。


黒田は、止まった置時計を見ていたのではないか。


新井は、通りの時計を見ていた。


お澄は、廊下の時計の鐘を聞いていた。


三人とも時刻を語っていたが、その基準は異なっていた。


「泰六さん。では、三人の証言が食い違ったのは、時計が違っていたからですか」


「それだけではない。時計が違っていても、三人が藤岡と話したという事実まで消えるわけではない」


泰六は、机の上に三枚の紙を並べた。


「問題は、三人が会話をした時刻ではない。藤岡が、いつ殺されたかだ」




五 帳簿の空白


翌日、私たちは店の帳簿を調べた。


藤岡は薬種の仕入れに厳格で、金銭の出入りを細かく記録していた。ところが、先月の帳簿には、不自然な空白がいくつもあった。


「この金額は、何ですか」


泰六が指さしたのは、三十円という大きな支出だった。


黒田は顔を曇らせた。


「仕入れの代金です。しかし、領収書が見つかっていません」


「誰が支払ったのですか」


「私です」


「藤岡さんは、それを知っていたのですか」


「はい。ですが、支払先の記録がないことを問題にしていました」


泰六は帳簿を閉じた。


「黒田さん。あなたは昨夜、主人から帳簿の数字が合わないと言われたそうですね」


「はい」


「そのとき、主人は何を疑っていたのですか」


黒田はしばらく黙っていた。


「私が金を横領したのではないかと、疑っていたのだと思います」


「実際には?」


「私は、金を使いました。しかし、横領したのではありません。仕入れ先の一つが急に廃業し、代金を返してもらえなくなったのです。主人に知られれば、私の管理責任を問われると思い、報告を先延ばしにしていました」


「つまり、帳簿の空白は、あなたが隠していた損失だったのですね」


「はい」


私は、黒田の顔を見た。


彼には、藤岡を殺す動機があるように思えた。


金銭の問題を追及され、職を失うことを恐れていたのだ。


しかし、泰六はすぐに結論を出さなかった。


「黒田さん。昨夜、あなたが書斎を出たとき、藤岡さんはどこにいましたか」


「机に向かっていました」


「立ち上がる様子は?」


「ありませんでした」


「そのとき、机の上に何がありましたか」


「帳簿と筆記用具、そして懐中時計です」


泰六は顔を上げた。


「懐中時計は、主人の胸元ではなく、机の上にあったのですね」


「はい。主人は仕事をするとき、時計を外すことがありました」


「その時計は、動いていましたか」


黒田は、困ったように眉を寄せた。


「そこまでは覚えていません」


泰六は、それ以上追及しなかった。





六 お澄の縁談


お澄は、藤岡の兄の娘だった。


両親を早くに亡くし、幼い頃から藤岡の家で育てられた。藤岡は彼女の教育に金を惜しまなかったが、その一方で、彼女の将来を自分の思いどおりに決めようとしていた。


縁談の相手は、藤岡と商売上の付き合いがある男だった。


お澄は、その男を好いていなかった。


「叔父は、私が結婚すれば、店の経営も安定すると言いました。私は、結婚を商売の道具にされたくなかったのです」


「それで、昨夜、言い争いになったのですか」


私が尋ねると、お澄は頷いた。


「私は、叔父に、もう自分の人生を決めないでほしいと言いました。叔父は、私を育てた恩を忘れたのかと怒りました」


「そのあと、あなたは部屋を出たのですね」


「はい」


「叔父は、まだ生きていた?」


「確かに、生きていました。私に向かって、明日の朝、もう一度話すと言ったのです」


泰六が尋ねた。


「そのとき、藤岡さんは立ち上がっていましたか」


「いいえ。机に座っていました」


「懐中時計は?」


「机の上にありました」


「針は動いていましたか」


お澄は考え込んだ。


「……わかりません。私は、叔父の顔ばかり見ていましたから」


泰六は頷いた。


「それでよい。わからないことを、無理に思い出そうとしなくてよいのです」


お澄は、少し驚いたようだった。


「私は、疑われているのでしょうか」


「あなたには、動機がある。叔父との言い争いもあった。だからといって、あなたが犯人だと決まったわけではない」


泰六は、静かに答えた。


「動機は、調べる理由にはなる。しかし、それだけで罪を決めることはできない」


お澄は、長い息を吐いた。


私は、その表情を見て思った。


彼女は、叔父を憎んでいたかもしれない。


だが、憎んでいることと、殺すことは同じではない。


人間の心の中には、相反する気持ちが同時に存在することがある。


愛情と反発。


感謝と怒り。


守りたい気持ちと、離れたい気持ち。


そのどれか一つだけを取り出して、その人のすべてだと決めつけることはできないのだ。




七 進一の疑問


その夜、私は泰六と藤岡の家の前に立っていた。


泰六は、何度も家の外観を見直していた。


「泰六さん。何か気になることがあるのですか」


「部屋の鍵だ」


「内側から施錠されていたのでしょう」


「そうだ。だが、内側から鍵をかけた人間が、必ずしも部屋の中にいるとは限らない」


私は驚いた。


「どういう意味ですか」


「鍵が内側からかかっていたことと、犯人が外へ出られなかったことは、同じではない。窓以外に出口がなかったか。扉を閉めたあと、外から鍵を操作する方法がなかったか。そこを調べる必要がある」


私たちは、書斎の扉をもう一度調べた。


鍵は古い型で、錠の仕組みは単純だった。だが、外から鍵をかけたあと、鍵を抜くには専用の鍵が必要になる。


「犯人が鍵を持っていたとしても、内側に鍵を残すことはできない」


私が言うと、泰六は頷いた。


「普通に考えれば、そうだな」


私は、敷物の端にあった傷を思い出した。


机の脚にも、同じ方向へ伸びる擦れ跡があった。


「泰六さん。机を動かしたのではありませんか」


泰六は、私を見た。


「なぜそう思う」


「敷物の傷と、机の脚の擦れ跡です。机を動かしたあと、元に戻したのかもしれません」


泰六は、書斎へ戻った。


机を少しずらすと、床板の一枚が、周囲の板よりわずかに浮いていることがわかった。


その板を外すと、下には細い空間があった。


人が通れるほどの穴ではない。


しかし、床下へ物を落としたり、細い道具を通したりすることはできそうだった。


泰六は、床板の裏側を調べた。


そこには、新しい擦り傷があった。


「進一君。君の観察は正しかった。だが、これだけでは、犯人が床下から出入りしたとは言えない」


「では、何のための空間でしょう」


「古い家では、配管や修繕のために床下へ手を入れることがある。ここも、そのためのものかもしれない」


泰六は、床板を戻した。


「しかし、机を動かした理由は、別に考える必要がある」


私は、床板を見つめた。


机の位置が変わった。


それだけのことが、事件の鍵になるかもしれない。


だが、鍵になりそうなものを見つけたからといって、それが本当に鍵であるとは限らない。




八 止まった時計の正体


翌朝、泰六は時計屋から報告を受けた。


懐中時計は、意図的に止められた可能性が高いという。


時計の機構には、針を進める歯車とは別に、ぜんまいの力を調整する部分がある。そこへ細い金属片を差し込めば、時計を止めることができる。


しかし、時計を止めた時刻を、機械そのものから正確に知ることはできない。


「つまり、九時十七分に止まったとは限らないのですね」


私が尋ねると、時計屋は頷いた。


「ええ。針が九時十七分を指しているときに止められたのかもしれませんし、もっと早く止められ、その時刻を指すように針が合わせられたのかもしれません」


泰六は、時計を見つめた。


「誰が時計を止めたのか。それがわかれば、事件は大きく動く」


「犯人が、自分の犯行時刻を隠すために止めたのでしょうか」


「そう考えるのは自然だ。しかし、犯人が時計を止めたと決めつけるのは早い」


泰六は、時計を机に置いた。


「時計を止めたのは、被害者自身かもしれない」


私は驚いた。


「藤岡が、自分で?」


「彼が時計を止めた理由があったとすれば、どうだろう。たとえば、誰かに時刻を誤認させるために」


「自分の死を偽装するためですか」


「あるいは、自分が何時に生きていたかを、誰かに誤解させるためかもしれない」


私は、藤岡の帳簿を思い出した。


彼は、金銭の出入りを厳しく記録する人間だった。


時刻も、数字も、彼にとっては管理すべきものだったのだろう。


その藤岡が、時計を止めた。


それは単なる偶然ではないのかもしれない。


しかし、なぜ。




九 店の裏口


泰六は、新井の話をもう一度聞くことにした。


新井は、昨夜九時十分頃に店へ入り、藤岡と話をしたと証言していた。


だが、店先の掛時計は四分遅れていた。


新井が見た通りの時計も、正確だったとは限らない。


「新井さん。あなたが藤岡さんと話したのは、何時頃でしたか」


「九時十分頃です」


「それは、時計を見た時刻ですか。それとも、店へ入った時刻ですか」


新井は考え込んだ。


「店へ入る前に、時計を見ました。そのあと、納品書を持って裏口から入りました」


「では、藤岡さんと話したのは、九時十分より後ということになりますね」


「そうです」


「どのくらい後でしたか」


「五分か、十分か……」


泰六は、机の上に地図を広げた。


「あなたが見た時計の位置から、店の裏口までは、どれほどかかりますか」


「歩いて二、三分でしょう」


「納品書を渡し、値段について話した時間は?」


「五分ほどです」


泰六は、地図に時刻を書き込んだ。


「あなたが見た時計が正確だったとしても、藤岡さんと話したのは九時十五分から二十分頃になる」


「はい」


「その時刻に、藤岡さんは生きていたのですね」


「間違いありません」


泰六は、しばらく新井を見つめた。


「では、あなたが話した相手は、本当に藤岡宗兵衛だったのでしょうか」


新井の顔がこわばった。


「何をおっしゃるのですか」


「声は聞いた。姿も見た。しかし、部屋は薄暗かったのではありませんか」


「……ええ。店の裏は暗かったです」


「藤岡さんは、いつもどおりの服を着ていましたか」


新井は、答えに詰まった。


「よく覚えていません」


泰六は、そこで追及を止めた。


「今日は、ここまででよいでしょう」


新井が帰ったあと、私は泰六に尋ねた。


「新井は、藤岡と会っていなかったのでしょうか」


「わからない」


「では、なぜ、あのような質問を?」


「君は、彼が藤岡と話したという言葉を、そのまま受け入れていた。だが、彼が見たのは、本当に藤岡だったのか。彼が話したのは、本当に九時十分以降だったのか。そうしたことを、もう一度確かめる必要がある」


泰六は地図を畳んだ。


「時刻の証言は、いくつもの記憶をつなぎ合わせて作られる。時計を見た記憶、歩いた記憶、会話した記憶。それらを一つにまとめたとき、人は、それが正確な時刻だと信じてしまう」


私は、三人の証言を思い返した。


誰も、明らかな嘘をついていないように見える。


だが、全員が、何かを思い違えている可能性がある。


そして、その思い違いこそが、犯人に利用されたのかもしれない。




十 進んでいた殺人時刻


その日の夕方、私は一つのことに気づいた。


「泰六さん。廊下の時計は、十二分進んでいたのですよね」


「そうだ」


「では、お澄が九時半の鐘を聞いたとき、実際には九時十八分だった可能性があります」


泰六は、私を見た。


「続けたまえ」


「懐中時計は九時十七分で止まっていた。もし、時計が実際に止められたのが、その少し前だったなら……」


私は、そこで言葉を切った。


「お澄が叔父と話したのは、殺害の直前だったかもしれません」


泰六は頷いた。


「その可能性はある。だが、まだ証明されていない」


私は、書斎の置時計を思い出した。


数日前から止まっていたという時計。


そして、懐中時計。


二つの時計が、同じ部屋に置かれていた。


「泰六さん。もし、藤岡が懐中時計を止めたのだとしたら、なぜ九時十七分だったのでしょう」


「それを考えるには、もう一度、三人の証言を並べる必要がある」


泰六は紙に時刻を書き出した。


黒田――九時頃。


新井――九時十分頃。


お澄――九時半頃。


そして、時計――九時十七分。


「この四つの時刻は、すべて別の時計、別の記憶に基づいている。だが、ある一つのことだけは共通している」


「何ですか」


「三人とも、藤岡が生きていたと信じていることだ」


泰六は、筆を置いた。


「では、なぜ藤岡は、三人に生きていると思わせる必要があったのだろう」


私は、その問いに答えられなかった。


藤岡が自分の死を隠したかったのか。


犯人が、藤岡の死を遅い時刻に見せかけたかったのか。


それとも、三人がそれぞれ別の出来事を、一つの夜の記憶として組み立ててしまったのか。


まだ、答えは見えなかった。


「違うまま、隣にいるということ」


この物語を通じて、私たちが描こうとしてきたもの。


それは「人間という、歪みやすくて愛おしい存在への深い眼差し」だったのかもしれません。


犯人を見つけることと、その人間を理解することは、同じではありません。


証言が食い違うことと、誰かが嘘をついていることも、同じではありません。


正しい推理にたどり着くことと、自分がすべてを正しく知ったと思い込むことも、また同じではないのです。


だから、小室泰六は論理を手放しません。


事実の不整合を見逃さず、証言の矛盾を調べ、思い込みを排して真実に近づこうとします。


そして、和田進一は、人間を見ることをやめません。


その人が何を見たのか。何を信じたのか。なぜ、そのように語らなければならなかったのか。


進一は、泰六の論理だけでは届かない場所に目を向けます。


二人は、同じものを見ても、同じように考えるとは限りません。


けれども、だからこそ、一人では見落としてしまうものに気づくことができます。


泰六が進一に教えることがあるように、進一もまた、泰六に新たな視点をもたらします。


この二人の面白さは、互いに似た人間になっていくことではないのでしょう。


「違う人間のまま、互いの見落としを補えるようになっていくこと。」


それこそが、この二人が相棒である意味なのだと思います。


私たちは誰も、自分ひとりですべてを正しく知っているわけではありません。


だからといって、真実など存在しないということでもありません。


自分の見たものを大切にしながら、他者の見たものにも耳を傾ける。そして、互いの言葉を手がかりに、確かめられる事実を一つずつ確かめていく。


その営みの先にこそ、私たちが求める真実があるのではないでしょうか。


神田の町で、泰六と進一は、これからも事件に向き合っていきます。


人の嘘を暴くためだけではなく、人が何を見て、何を信じ、どこで道を誤ったのかを知るために。


そして、真実を知ることと、人間を理解することのあいだにある、決して簡単には埋まらない距離を、二人で歩いていくために。


この物語を読んでくださった皆さまにも、二人の歩みが、いつか誰かの見方を少しだけ変えるきっかけとなれば、これ以上うれしいことはありません。

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