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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) -  真昼の凌雲閣、四人が聞いた同じ悲鳴

登場人物紹介


◾️小室泰六(こむろ・たいろく)

東京神田で名を知られる探偵。鋭い観察力と論理を武器に、事件の矛盾を一つずつ解きほぐす。証言が食い違っても、すぐに誰かを嘘つきと決めつけない。今回、四人の目撃者が語る異なる時刻に、ある共通点を見いだす。


◾️和田進一(わだ・しんいち)

泰六の相棒であり、この事件の語り手。人の話を丁寧に聞き、その人が何を見て、何を信じ、なぜそう証言したのかを考える。今回も、時計の数字だけでは見えてこない四人の暮らしと記憶をたどっていく。


◾️久世信之助(くぜ・しんのすけ)

四十代の貿易商。海外との取引で財を築いたが、近ごろ共同経営者との間に金銭上の争いを抱えていた。凌雲閣の展望階から転落し、命を落とす。


◾️岩瀬宗一(いわせ・そういち)

久世の共同経営者。物腰は柔らかく、警察の調べにも協力的。事件当時は地上にいたと主張する。久世との間に何があったのか、容易には本心を見せない男。


◾️おきぬ

凌雲閣の近くで団子を売る女性。悲鳴を聞いた時刻を「十二時五分ごろ」と証言する。客との約束を守ることを何より大切にしている。


◾️辰吉(たつきち)

凌雲閣の近くで修繕仕事を請け負う職人。悲鳴を聞いたのは「十二時十五分ごろ」だという。仕事道具と懐中時計を持ち歩いている。


◾️野村誠(のむら・まこと)

見物に訪れた学生。悲鳴は「十二時三十分ごろ」だったと証言する。近くの店に掛かっていた時計を見た記憶がある。


◾️お梅(おうめ)

買い物の途中で凌雲閣に立ち寄った女性。正確な時刻は覚えていないが、「正午を告げる音のあとに悲鳴を聞いた」と話す。

真昼の凌雲閣、四人が聞いた同じ悲鳴




第一話 百人のまなざし


明治二十四年、夏。


浅草の空には、朝から薄い雲がかかっていた。


それでも凌雲閣の周囲は、いつも以上の賑わいを見せていた。煉瓦造りの高塔は、東京の新しい時代を象徴する建物として、人々の好奇心を集めている。


その日、塔を訪れる客の目当ては、眺望だけではなかった。


階段の壁に並ぶ、百人の芸妓の写真である。


「東京百美人」。


写真を眺めながら階段を上り、気に入った女性に投票するという趣向は、評判を呼んでいた。エレベーターが動かなくなった凌雲閣にとって、長い階段を上る苦労を忘れさせる、格好の呼び物だったのである。


写真は額に収められ、階段の壁に順々に掲げられていた。華やかな衣装、整えられた髪、扇を手にした姿。見物客は足を止め、隣の者と顔を見合わせては、どの写真が気に入ったかを語り合う。


階段は広くない。


上る者、下りる者、写真を眺める者。人の流れはたびたび滞り、そのたびに、誰かが壁際へ身を寄せた。


午前の終わり、貿易商の久世信之助も、その人波の中にいた。


四十を越えた男で、仕立てのよい洋服を着ていたが、顔色はすぐれなかった。彼は写真をほとんど見ず、何度も懐中時計を確かめていた。


その少し後ろを、共同経営者の岩瀬宗一が歩いていた。


「久世さん。せっかく来たのですから、もう少し景色を楽しんではいかがです」


岩瀬が穏やかに言った。


「景色を楽しむために来たのではない」


久世は低い声で答えた。


「話の続きをしよう。あの帳簿のことだ」


岩瀬の笑みが、ほんのわずかに薄くなった。


「ここでは、人目があります」


「人目があるからこそ、都合がいい。君が私を黙らせるつもりなら、誰かに見られる場所のほうが安全だろう」


岩瀬は答えなかった。


二人は人波に押されるようにして、さらに上へと進んでいった。


そのころ、地上では団子売りのおきぬが、馴染みの客に包みを渡していた。


「お代は結構ですよ。次に来たときで」


「そうはいかないよ」


客は笑い、懐から銭を出した。


おきぬは銭を受け取り、腰の小さな時計を確かめた。


少し先では、職人の辰吉が、修繕に使う道具をまとめていた。彼は仕事の合間に懐中時計を取り出し、針を見てから、また道具箱へしまった。


学生の野村誠は、凌雲閣の近くの店先で、掛け時計を見上げていた。約束の時刻まで、まだ余裕があると思ったのだ。


買い物帰りのお梅は、塔を見上げながら足を止めた。


「まあ、今日も人が多いこと」


そのときだった。


塔の上から、鋭い悲鳴が落ちてきた。


人々が一斉に顔を上げた。


次の瞬間、男の身体が高所から落ちてきた。


誰かが叫んだ。女が口を覆い、男たちが駆け寄った。人の輪が広がり、浅草の喧騒は一瞬、別の音に塗り替えられた。


倒れていた男は、久世信之助だった。


彼はもう、息をしていなかった。


その場に駆けつけた警官は、塔の出入口を押さえ、見物客を遠ざけた。


ほどなくして、四人の者が、同じことを申し出た。


「落ちる直前に、悲鳴を聞きました」


ところが、時刻を尋ねると、話はまるで合わなかった。


おきぬは言った。


「十二時五分ごろでございました」


辰吉は眉を寄せた。


「いや、十二時十五分ごろだ。仕事の休憩に入ったばかりだった」


野村誠は、はっきりと答えた。


「十二時三十分ごろです。店の時計を見ましたから、間違いありません」


お梅だけは、首を横に振った。


「正確な時刻は分かりません。でも、正午を告げる音のあとでした」


同じ悲鳴を聞いたという四人が、三つの異なる時刻を示している。


警察は顔を見合わせた。


誰かが時刻を偽っているのではないか。


あるいは、四人のうちの誰かが、久世を突き落としたのではないか。


その日の午後、事件の知らせは神田にも届いた。


私は小室泰六の部屋で、その報せを読み上げた。


泰六は新聞から顔を上げた。


「四人が、同じ悲鳴を聞いたと言っているのか」


「ええ。しかし、時刻が合いません」


「時刻が合わないことと、聞いた音が違うことは、同じではない」


泰六は机の上に新聞を置いた。


「進一君。明日は浅草へ行こう」


「犯人を探しにですか」


「それもある。だが、まずは四人が何を根拠に時刻を語っているのかを調べる」


泰六は窓の外へ目を向けた。


「人間は時計を見て時刻を知る。しかし、時計を見たからといって、そのときに起きたことまで正確に記憶するとは限らないのだ」


私は、凌雲閣の高い塔を思い浮かべた。


あの高さから、悲鳴は地上へ落ちてきた。


だが、四人の記憶の中では、その悲鳴はそれぞれ異なる時刻に刻まれていたのである。




第二話 四つの時計


翌朝、私たちは浅草へ向かった。


凌雲閣は、近くで見ると、なおさら高かった。煉瓦の塔を見上げる人々の顔には、驚きと誇らしさが入り混じっていた。


しかし、その日は華やかな見物の気配が薄れていた。


入口には警官が立ち、階段の一部は調査のために通行を制限されていた。壁に並ぶ美人の写真も、昨日までのような賑わいを生んではいない。


泰六はまず、警察の担当者から話を聞いた。


「被害者は久世信之助。貿易商です。共同経営者の岩瀬宗一は、事件当時、地上にいたと申しております」


「転落したのは、いつですか」


「正確な時刻はまだ。証言が一致しませんので」


泰六は頷いた。


「では、四人の目撃者に会わせてください」


最初に会ったのは、おきぬだった。


彼女は屋台の脇に立ち、手を前掛けで拭きながら私たちを迎えた。


「私は嘘など申しませんよ。あの悲鳴を聞いたのは、十二時五分ごろです」


「そう考える理由を教えてください」


私が尋ねると、おきぬは腰の時計を取り出した。


「いつもこの時計で、昼の支度をしています。あのときも、客に団子を渡す前に時刻を見たんです。それから悲鳴が聞こえました」


泰六は時計を受け取り、針を確かめた。


「この時計は、毎日、正午に合わせていますか」


「いいえ。月に何度か、時計屋で見てもらうくらいです」


「昨日は、最後にいつ合わせましたか」


おきぬは考え込んだ。


「先月だったかしら……。いえ、もっと前だったかもしれません」


泰六は時計を返した。


「分かりました。あなたが嘘をついているとは、まだ考えていません」


おきぬは、ほっと息をついた。


次は辰吉だった。


彼は仕事道具のそばで、懐中時計を開いて見せた。


「十二時十五分。私は確かにそう見ました。仕事の手を休めたときだったからです」


「時計を正午に合わせたのは、いつですか」


「昨日ではない。数日前だな。だが、時計が十五分もずれるとは思わなかった」


泰六は時計を受け取り、耳を近づけた。


「この時計は、少し進んでいるようですね」


「まさか」


「正確な時刻と照らし合わせてみなければ、何分ずれているかは分かりません」


辰吉は不満そうだったが、反論はしなかった。


学生の野村誠は、近くの店先で私たちを待っていた。


「私は十二時三十分ごろと申しました。店の時計を見たのですから」


「その時計は、正確だと確認しましたか」


「いいえ。でも、店の時計なら、懐中時計より正しいと思ったのです」


泰六は店の主人に頼み、掛け時計を確かめさせてもらった。


時計の針は、確かに進んでいた。


しかし、どれほど進んでいるのかは、まだ分からない。


最後に、お梅に話を聞いた。


彼女は買い物籠を膝に置き、静かに答えた。


「私は時刻を見ていません。ただ、正午を告げる音がしたあと、悲鳴を聞いたのです」


「正午の音から、どのくらい経っていましたか」


「それが、はっきりしないのです。少しだったようにも思いますし、ずいぶん経っていたようにも思います」


泰六は、それ以上は尋ねなかった。


四人の証言を聞き終えた帰り道、私は首をひねった。


「時計がずれていたとしても、これほど違うものですか」


「可能性はある。しかし、まだ確かめていない」


「では、四人のうち誰かが嘘をついているのでしょうか」


泰六は立ち止まり、凌雲閣を見上げた。


「進一君。君は、四人が何を証言したと思う」


「悲鳴を聞いた時刻です」


「半分は正しい。だが、彼らは同時に、何をしていたかも語っている。おきぬは客に団子を渡そうとしていた。辰吉は仕事を休んだ。野村君は店の時計を見た。お梅さんは正午の音を覚えていた」


泰六は、塔の壁に並ぶ写真を見つめた。


「時刻を確かめるために見たものが違えば、記憶の基準も違う。だが、それだけで事件は解決しない」


「まだ何かあるのですね」


「ある。久世が、なぜ落ちたのかだ」


そのとき、警察の担当者が私たちのもとへやってきた。


「小室さん。被害者の共同経営者、岩瀬宗一が、もう一度話をしたいと言っています」


泰六の目が細くなった。


「では、会いましょう」


彼は歩き出した。


「時計の謎は、入口にすぎないのだから」




第三話 地上にいた男


岩瀬宗一は、凌雲閣近くの警察の詰所にいた。


年齢は四十前後。髪はきちんと整えられ、洋服にも乱れはない。悲しみを隠そうとしているのか、あるいは元から感情を表に出さない性分なのか、その顔からは読み取りにくかった。


「久世さんとは、長い付き合いでした」


岩瀬は言った。


「商売のことで意見が合わないことはありました。しかし、命を奪う理由などありません」


泰六は椅子に腰を下ろした。


「事件当時、あなたはどこにいましたか」


「地上です。塔の入口に近いところでした」


「誰かが、あなたを見ていますか」


「ええ。何人かの見物客が、私を見たはずです」


「久世さんとは、その日、会いましたか」


岩瀬はわずかに間を置いた。


「……ええ。上の階で話をしました」


「何についてですか」


「商売のことです。帳簿の確認を求められました」


「そのあと、どうしました」


「私は先に下りました。久世さんは、もう少し景色を見ると言って残りました」


「あなたが下りたとき、久世さんは生きていたのですね」


「もちろんです」


岩瀬の答えは滑らかだった。


私は、彼の手元に目をやった。右手の人差し指の付け根に、小さな傷があった。


泰六も、それに気づいていたようだったが、何も言わなかった。


「久世さんは、あなたの帳簿に不正があると考えていたのですか」


岩瀬の表情が変わった。


「不正などありません。取引の計上時期について、意見が違っただけです」


「それを証明する帳簿はありますか」


「会社にあります」


「では、見せていただきたい」


岩瀬は頷いた。


「構いません」


話はそこで終わった。


詰所を出たあと、私は泰六に尋ねた。


「岩瀬は地上にいたと言っています。もしそれが本当なら、彼が突き落としたとは考えにくいのではありませんか」


「転落の瞬間に、彼が地上にいた。それが本当だとしても、犯人でないとは限らない」


「どういうことでしょう」


「人を殺す方法は、その場で手を下すことだけではないということだ」


泰六は、塔を見上げた。


「だが、今のところ岩瀬を犯人とする証拠はない。彼の言葉を疑うことと、彼を犯人だと決めることは違う」


私は頷いた。


そのとき、塔の入口から、修繕道具を抱えた辰吉が出てきた。


彼は私たちを見ると、何かを思い出したように足を止めた。


「そういえば、小室さん。昨日の朝、塔の上のほうで、手すりの具合を見てくれと言われたんです」


泰六の顔つきが変わった。


「誰にですか」


「管理をしている人からです。だが、あの手すりは、私が直したものじゃありません。別の者が見たはずです」


「いつ、どのあたりを見たのです」


辰吉は、しばらく考えた。


「上の階の展望所です。人が寄りかかるところだから、緩んでいないか確かめたいと」


泰六は、ゆっくりと頷いた。


「それは、重要な話かもしれません」


私は塔の上を見た。


美人の写真を見ながら、見物客が階段を上っていく。


その華やかな催しの裏で、誰かが手すりに触れていたのだろうか。


そして、久世は本当に、自分の足で転落したのだろうか。




第四話 写真の前で立ち止まる人々


翌日、私たちは警察の許可を得て、凌雲閣の階段と展望所を調べた。


エレベーターは止まっている。上へ行くには、階段を歩くほかなかった。


階段の壁には、東京百美人の写真が並んでいた。見物客が写真を見比べ、気に入った女性の名前を確かめるために足を止める。上る者と下りる者が交差すると、狭い踊り場には人の列ができた。


私は、なるほどと思った。


「これでは、同じ階段を歩いていても、進む速さはまるで違いますね」


「そのとおりだ。だが、混雑そのものを犯人の隠れ蓑と決めつけるのは早い」


泰六は、写真の並びを一枚ずつ見ていった。


ある写真の額だけが、わずかに傾いていた。


「この写真は、いつからこうなっているのでしょう」


私が管理人に尋ねると、彼は首をかしげた。


「さあ。昨日までは、気にしたこともありませんでした」


泰六は額の下部を見た。木枠の角には、細い擦り傷があった。


「進一君。人は写真を見るために立ち止まる。しかし、立ち止まる理由は、写真だけとは限らない」


「人を通すため、ということですか」


「あるいは、何かを拾うため。あるいは、誰かと話すため」


泰六は、写真の前に立ったときの視界を確かめた。


壁際に寄れば、階段の上から来る者の姿は見えにくくなる。反対に、踊り場の外側に立てば、下から上がってくる人間の顔がよく見える。


「この場所で、誰が何をしていたのか。それを知るには、写真の美しさではなく、人が立ち止まった位置を調べなければならない」


私たちは、四人の証言をもとに、彼らが事件当日にいた場所を一つずつ確かめた。


おきぬは地上にいた。辰吉は、塔の外側で仕事をしていた。野村誠は店先で時計を見た。お梅は、入口近くで正午の音を聞いたという。


四人のうち、塔の中にいた者はいない。


つまり、四人は転落そのものを見たのではなく、悲鳴を聞いて振り返り、男が落ちるところ、あるいは落ちた直後を目撃したのだった。


「彼らの証言は、何を証明しているのでしょう」


私は尋ねた。


泰六は答えた。


「少なくとも、四人が同じ場所から同じものを見たわけではないということだ」


彼は、写真の額を見上げた。


「そして、同じ音を聞いたとしても、その音の意味を同じように理解したとは限らない」




第五話 手すりの傷


展望所の手すりは、木と金属を組み合わせた構造だった。


泰六は、警察の立ち会いのもと、転落地点と考えられる場所を調べた。


手すりの固定部には、目立たない傷があった。金具の縁に、最近ついたらしい擦れが見える。


「これは、古い傷でしょうか」


私が尋ねると、管理人は首を横に振った。


「分かりません。普段、こんなところまで調べることはありませんから」


泰六は、金具を外さず、まず周囲を観察した。


「辰吉さんを呼んでください」


ほどなくして、職人の辰吉がやってきた。


彼は金具を見て、眉をひそめた。


「これは、ただの錆ではありません。工具を当てた跡のように見えます」


「あなたがつけたものですか」


「いいえ。私はこの金具を直していません」


「では、誰が触ったのか、分かりますか」


辰吉は首を横に振った。


「分かりません。ただ、これほど目立たない場所なら、近くで作業をしていても、周りからは見えにくいでしょう」


泰六は、金具の周囲をさらに調べた。


そこには、わずかな金属粉が残っていた。


「これだけで、誰が細工したかは分からない。しかし、手すりが事故の前に触られていた可能性は高い」


私は、背筋が冷えるのを感じた。


久世は、手すりに寄りかかったのだろうか。


そして、その手すりは、誰かによって緩められていたのだろうか。


泰六は、金具から目を離さなかった。


「事故であれば、古い金具が自然に壊れた可能性もある。だが、この傷が新しいものなら、話は変わる」


彼は警察の担当者に言った。


「金具を取り外して、専門の職人に調べてもらってください。工具痕の形、金属粉の種類、破損の仕方を記録するのです」


「犯人が分かったのですか」


警察官が尋ねた。


「まだです」


泰六は、きっぱりと答えた。


「手すりに細工があったとしても、誰がしたのかは別の問題です。動機のある者を見つける前に、まず何が起きたのかを確かめなければならない」




第六話 帳簿に残された数字


久世の会社は、日本橋に近い商家の一角に事務所を構えていた。


帳簿を調べると、確かに不自然な取引が見つかった。海外から仕入れた品の代金が記録されているのに、対応する品物の受け入れが見当たらない。反対に、品物を売った記録があるのに、代金の入金が確認できないものもあった。


岩瀬は、記帳の時期がずれただけだと説明した。


「海外との取引では、荷の到着と代金の支払いが一致しないこともあります」


泰六は、帳簿を閉じた。


「その説明は、あり得ない話ではありません。しかし、説明できることと、説明が正しいことは別です」


彼は、久世が残した書付を見せてもらった。


そこには、取引の数字とともに、短い言葉が書かれていた。


――岩瀬と、十二階で話す。


私は、書付を見つめた。


「久世は、事件の日に岩瀬と会うつもりだったのですね」


「そう考えるのが自然だ」


泰六は言った。


「だが、これだけで殺人の動機が確定したわけではない。帳簿の不正が本当にあったのか、岩瀬がどの程度関わっていたのかを調べる必要がある」


事務所の者たちは、岩瀬が金銭の管理を担当していたことを認めた。しかし、帳簿の記入には複数の人間が関わっていた。数字の不一致だけで、岩瀬一人に責任を負わせることはできない。


その帰り、私は泰六に尋ねた。


「手すりの傷と帳簿の不正。二つがつながれば、岩瀬が犯人だと考えてよいのでしょうか」


泰六は首を振った。


「動機と機会があっても、それだけでは足りない。犯人を見つけることと、疑わしい人間を見つけることは違う」


「では、何が必要なのですか」


「岩瀬が手すりに細工したと示す証拠だ。そして、ほかの者が同じことをした可能性を検討することだ」


私は、塔の階段に並ぶ百人の写真を思い出した。


人は美しいものに目を奪われる。だが、目を奪われている間にも、誰かは別のことをしているかもしれない。




第七話 悲鳴の時刻


泰六は、四人の証言をもう一度並べた。


おきぬは十二時五分ごろ。辰吉は十二時十五分ごろ。野村誠は十二時三十分ごろ。お梅は、正午を告げる音のあと。


「四人は、同じ悲鳴を聞いたと考えてよいのでしょうか」


私は尋ねた。


「その可能性は高い。しかし、時刻の差を説明するには、時計を実際に照合しなければならない」


泰六は、警察の担当者とともに、四人が使った時計を調べた。


おきぬの時計は、正確な時刻より遅れていた。辰吉の懐中時計は進んでいた。野村が見た店の掛け時計も、正しい時刻と一致していなかった。


四人は、それぞれ異なる基準で時刻を判断していたのである。


お梅だけは、時計ではなく、正午を告げる音と、その前後に起きた出来事を頼りにしていた。彼女の証言は、数字としては曖昧だったが、音の順序については一貫していた。


「つまり、四人は嘘をついていなかったのですね」


私は言った。


「少なくとも、今のところ、嘘をついたと示す証拠はない」


泰六は訂正した。


「彼らの時計がずれていたことは、時刻の違いを説明する。しかし、全員が同じ瞬間の悲鳴を聞いたと断定するには、まだ慎重でなければならない」


彼は、四人が悲鳴を聞いたあとに何をしたかも確認した。


おきぬは屋台を離れて人だかりに近づいた。辰吉は道具を置いて走った。野村は店先から飛び出した。お梅は買い物籠を抱えたまま、その場で立ち尽くしていた。


それぞれの行動は、周囲の人々の証言ともおおむね一致していた。


四人が別々の時刻を述べたのは、同じ出来事を異なる時計と記憶の基準で語ったためだと考えられた。


しかし、悲鳴の時刻が確定しても、久世がどうして転落したのかは分からない。


泰六は、時計を机に置いた。


「時刻の謎は解けた。だが、事件の謎はまだ残っている」




第八話 岩瀬の手


警察は、岩瀬の行動を詳しく調べ始めた。


事件当日、彼が凌雲閣の上層階にいたことは、本人も認めている。地上にいたときの彼を見たという者もいた。


しかし、それだけでは、事件前に何をしたかは分からない。


塔の管理人は、事件前日に、岩瀬が管理区域に近い階段を上っていく姿を見たと話した。


「何をしていたかまでは分かりません。ただ、誰かを探しているように見えました」


別の見物客は、岩瀬が写真の前で立ち止まっていたと証言した。


だが、それだけで犯行を示すことはできない。東京百美人の写真を眺めることは、見物客なら誰でもすることだった。


泰六は、岩瀬の右手の傷を思い出した。


「進一君。あの傷について、医者に尋ねてみよう」


医者は、傷が数日前についた可能性があると答えた。しかし、どのような道具でついたかまでは判断できなかった。


「これも、決め手にはなりませんね」


私が言うと、泰六は頷いた。


「そうだ。傷があるから犯人だ、という推理はできない。必要なのは、傷と現場の細工を結びつける証拠だ」


その後、金具を調べた職人から報告が届いた。


手すりの固定部には、工具を当てた痕が複数残っていた。金具の一部には、通常の摩耗では説明しにくい変形もあった。


ただし、工具の種類を一つに絞ることはできなかった。


泰六は報告書を読み終えると、静かに言った。


「岩瀬が犯人である可能性は、強まった。だが、まだ最後の一歩が足りない」




第九話 美人写真の裏側


私たちは、東京百美人の展示を管理している者に話を聞いた。


写真の額は、定期的に位置を直し、汚れを拭き取っていたという。事件前後にも、展示の手入れは行われていた。


「写真の額が傾いていたことに、何か意味があるのでしょうか」


私が尋ねると、泰六は答えた。


「意味があるかどうかを確かめるために調べているのだ」


額の裏側には、壁に掛けるための金具があった。特定の写真だけが、最近取り外され、掛け直されたような痕跡を残していた。


しかし、展示係は、写真の位置を直したこと自体は認めた。


「人がぶつかって、傾くこともありますから」


それは、もっともな説明だった。


泰六は、額の裏を調べたあと、階段の壁と手すりの位置を見比べた。


「写真の裏に、犯人の道具が隠されていたわけではない。しかし、誰かが写真を直すふりをして、周囲を調べることはできたかもしれない」


「岩瀬が、手すりを調べていたのでしょうか」


「まだ分からない。写真の位置が変わったことは、犯行の証拠ではない。だが、誰がいつ作業したかを確認する価値はある」


展示係の記録を調べると、事件前日に、岩瀬が管理人に何かを尋ねていたことが分かった。


何を尋ねたかは、管理人もはっきり覚えていない。ただ、上層階の通行や、展望所の手すりについて質問された気がすると話した。


泰六は、そこに注目した。


「岩瀬は、手すりの状態を知ろうとしていたのかもしれない」


「それなら、犯行の準備だったのでしょうか」


「可能性はある。だが、まだ推測だ」


泰六は、報告書に短く書きつけた。


――質問の内容を再確認すること。


「進一君。疑いを証拠に変えるには、手間がかかる。だが、その手間を省いてはならない」




第十話 地上のアリバイ


岩瀬は、再び警察の前に呼ばれた。


彼は、事件当時に地上にいたことを繰り返し主張した。


「私は久世さんが落ちたとき、入口の近くにいました。何人もの人が私を見ています」


警察が調べると、確かに岩瀬を見たという証言が複数あった。少なくとも、悲鳴が聞こえたころ、彼が地上にいた可能性は高かった。


警察の担当者は、泰六に言った。


「これでは、岩瀬が突き落としたとは考えにくいのではありませんか」


「転落の瞬間に手を下したのでなければ、地上にいたことと矛盾しません」


泰六は答えた。


「手すりに事前に細工をしたのであれば、彼はその場にいなくてもよいのです」


岩瀬は、鼻で笑った。


「そんなことを言い出せば、誰でも犯人にできるでしょう」


「そのとおりです」


泰六は、意外なほどあっさり認めた。


「だからこそ、あなたが細工したという証拠が必要なのです」


岩瀬の顔から、笑みが消えた。


泰六は、事件前日の行動について尋ねた。


「あなたは、管理人に手すりの状態を尋ねましたか」


「覚えていません」


「上層階の写真展示について、何か尋ねましたか」


「写真は見ました。それだけです」


「あなたの右手の傷は、いつできたのですか」


「仕事中です」


答えはどれも短かった。


しかし、短い答えそのものは、罪の証拠ではない。


泰六は尋問を終えたあと、私に言った。


「岩瀬は、自分が地上にいたことを強調している。だが、それは転落の瞬間についての話だ。私たちが調べているのは、その前に何があったかだ」




第十一話 手すりが語った真実


決め手となったのは、金具の傷だけではなかった。


塔の管理人が、事件前日に岩瀬から受けた質問を思い出したのである。


岩瀬は、展望所の手すりがいつ点検されたか、金具を締め直すにはどの道具が必要かを尋ねていたという。


さらに、岩瀬の会社から押収された道具箱には、手すりの金具に残った痕と形状のよく似た工具があった。


それだけで、工具が同一だと断定することはできない。しかし、岩瀬が現場の構造を事前に調べていたこと、彼が工具を扱う機会を持っていたこと、そして久世との間に金銭上の争いがあったことが重なった。


最後に、帳簿の調査から、岩瀬が取引代金の一部を個人的に流用していたことを示す記録が見つかった。久世は、その不正を問いただそうとしていたのである。


警察の詰所で、泰六は岩瀬に向き合った。


「あなたは、久世さんが展望所の手すりに寄りかかることを知っていた。手すりの状態を調べ、固定部に細工をした。久世さんがそこへ身を寄せたとき、手すりは支えを失い、彼は転落した」


岩瀬は、黙っていた。


「あなたが地上にいたという証言は、嘘ではないのでしょう。だが、それはあなたが事前に何もしていないことを証明しません」


「証拠はあるのですか」


岩瀬が低く尋ねた。


泰六は、机の上に報告書を並べた。


「工具痕、金具の変形、あなたが事前に手すりについて尋ねたという証言、そして帳簿の不正。これらを個別に見れば、決定的とは言えない。しかし、互いに独立した証拠が、同じ方向を示しています」


岩瀬は、目を閉じた。


長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。


「久世は、私を破滅させるつもりだった」


「だから、命を奪ったのですか」


泰六の声は冷静だった。


岩瀬は答えなかった。


だが、その沈黙は、これまでの彼の滑らかな説明とは違っていた。


事件は、事故ではなく、事前に仕組まれた殺人として扱われることになった。


四人の目撃者は、疑いから解放された。


彼らは同じ悲鳴を聞いた。だが、その時刻を測るために使ったものも、悲鳴のあとに見たものも、互いに異なっていた。


四人が嘘をついていたのではない。


彼らの証言を、同じ時計で測った同じ記録であるかのように扱ったことが、混乱の始まりだったのである。




第十二話 高い塔、低い街


事件が解決した数日後、私は泰六とともに、もう一度凌雲閣を訪れた。


東京百美人の写真は、再び見物客の目を集めていた。


人々は階段を上りながら、額の前で足を止める。誰かが気に入った写真を指さし、連れの者と笑い合う。後ろから来た者は、邪魔にならぬよう壁際へ身を寄せる。


何事もなかったかのような光景だった。


「四人は、これからも、あの日の悲鳴を思い出すでしょうね」


私が言った。


「そうだろう」


泰六は答えた。


「おきぬは、自分の時計を思い出す。辰吉は、仕事の休憩を思い出す。野村君は店の掛け時計を思い出し、お梅さんは正午の音を思い出す。彼らにとって、あの日の記憶は、それぞれ違う形で残る」


「けれど、起きたことは一つだった」


「そうだ。だから、記憶を聞くことと、事実を確かめることの両方が必要なのだ」


私は、塔の上を見上げた。


高いところから見れば、浅草の街は小さく見える。人々は点のようになり、誰がどこを歩いているのかも分からなくなる。


しかし、地上に立てば、一人ひとりに暮らしがあり、約束があり、時計を確かめる理由がある。


「泰六さん。四人の証言が違っていたとき、私は、誰かが嘘をついているのだと思いました」


「自然な考えだ。しかし、最初の考えに固執してはいけない」


「それでも、最後には犯人を一人に絞り込まなければならないのですね」


泰六は頷いた。


「誰もすべてを知っているわけではない。だからといって、真実が存在しないわけではない。証言を聞き、証拠を調べ、矛盾を確かめる。その手順を怠らないことだ」


私は、階段の壁に並ぶ写真を見た。


百人の顔は、それぞれ違っていた。


そして、百人の写真を見上げた人々もまた、それぞれ違うものを見ていたのだろう。


時計は時刻を示す。悲鳴は空気を震わせる。写真は、ある瞬間の姿を残す。


だが、その時刻が何を意味するのか、その音が何を告げたのか、その姿を見た人が何を理解したのかまでは、それらだけでは分からない。


だから泰六は、論理を手放さない。


だから私は、人間を見ることをやめない。


高い塔の上から見下ろす景色と、地を歩いて生きる人間の景色。


その二つを行き来することこそ、真実に近づくための道なのだと、私は思った。


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