小室泰六(SHERLOCK) - 神田の長屋、三人の同じ目撃者
神田の長屋、三人の同じ目撃者
一 雨の夜の証言
明治二十六年、師走。
東京の神田では、朝から冷たい雨が降っていた。
煉瓦造りの新しい建物の間を、荷車が軋みながら通り過ぎる。往来には、洋傘を差した紳士もいれば、笠をかぶった職人もいる。文明開化の掛け声が町の隅々にまで届いた時代であっても、雨の日の東京は、昔と変わらず、泥と水と人間の足音に満ちていた。
私は、書斎の机で、前日に届いた新聞を読んでいた。
向かいの椅子では、和田進一が、湯呑みを両手で包んでいる。
「小室さん。神田で、少し変わった事件があったそうです」
「この町に変わっていない事件などあるものかね」
「今度は、証言が問題になっているそうです」
私は新聞から目を上げた。
「証言?」
「ええ。神田の裏長屋で、昨夜、男が一人、路地を走っていくのを三人が目撃したそうです。ところが、その三人の証言が、まるで一致しない」
「男が走っていたことは一致しているのだろう」
「はい。しかし、服装も、持ち物も、走っていった方向も違うのです」
「なるほど」
私は新聞を畳んだ。
「それは、面白い」
和田が、少し驚いた顔をした。
「面白い、ですか」
「三人の証言が違うと聞けば、普通は誰かが嘘をついていると考える。だが、三人とも嘘をついているとは限らない。三人とも正直で、三人とも自分の見たものを正確に語っている可能性だってある」
「それでは、なぜ食い違うのでしょう」
「人間は、目で見たものを、そのまま頭の中に保存しているわけではないからだよ」
私は立ち上がった。
「進一、外套を。神田の長屋へ行こう」
事件が起きたのは、神田佐久間町の一角にある古い長屋だった。
長屋の裏には細い路地があり、表通りから入ってきた者は、途中で二手に分かれることができた。片方は井戸の脇を通って裏門へ、もう片方は共同便所の横を抜けて、隣の通りへ続いている。
その路地で、昨夜、ある男が走っていく姿を三人が目撃した。
男が何者なのかは、まだわからない。
ただし、事件の発端には、なくなった金があった。
長屋に住む古道具商、松吉という男が、商売の売上金として保管していた二十円を、帳場の引き出しから盗まれたのである。
二十円といえば、貧しい職人にとっては、何か月分もの稼ぎに相当する大金だった。
松吉は、夕方まで店にいた。夜、帳場へ戻ると、引き出しが半開きになり、金がなくなっていた。
窓には鍵がかかっていた。
表の戸口には、こじ開けられた形跡がない。
そして、近所の者たちは、事件のあった頃、男が路地を走っていくのを見たという。
長屋の入口では、家主の源兵衛が、私たちを待っていた。
「先生方、わざわざありがとうございます。いや、まったく困ったことになりましてね」
「盗まれた金は、松吉さんのものだね」
「へえ。商売の金だそうです。あの人は、口は悪いが、金にはきちんとしている。だから、盗まれたとわかったときには、たいそうな騒ぎになりまして」
「警察には?」
「届けました。しかし、まだ犯人は見つからねえようです」
「三人の目撃者は、どこにいる?」
「こちらです」
源兵衛は、長屋の奥へ案内した。
そこには、三人の男女が待っていた。
一人目は、魚屋の女房、おせん。
二人目は、桶職人の辰蔵。
三人目は、長屋の向かいに住む、元足軽の老人、久兵衛。
三人は、互いに顔を見合わせていた。
その目には、困惑と、疑いと、わずかな苛立ちが浮かんでいた。
誰もが、自分の証言こそ正しいと思っているようだった。
私は、三人を順番に見た。
「では、昨夜、何を見たのか、一人ずつ聞かせていただこう」
二 赤い手拭いの男
最初に話したのは、おせんだった。
四十歳ほどの、働き者らしい女である。袖をまくった着物には、魚の鱗が何枚か張りついていた。
「私は、昨夜の七つ半頃、表の井戸へ水を汲みに行ったんです。そしたら、路地の向こうから男が走ってきましてね」
「男の顔は見たかね」
「いいえ。横顔だけです。雨が降っていましたし、暗かったもので」
「服装は?」
「濃い色の着物でした。背は、私よりずっと高かったと思います。頭には何もかぶっていなかった。首に赤い手拭いを巻いていました」
「持ち物は?」
「右手に、細長いものを持っていました。棒か、包みか……そこまでは、はっきりしません」
「男は、どちらへ走っていった?」
「井戸の脇を通って、裏門のほうへ」
「その男を、どれくらい見ていたのかね」
「ほんの一瞬です。私が水桶を持ち上げたときに、走り抜けていきました」
私は、帳面に記録した。
「その男が、松吉さんの金を盗んだと思うかね」
おせんは、少し考えた。
「それは、わかりません。ただ、あんなに慌てて走っていくのは、何か悪いことをしたからじゃないかと思ったんです」
「なるほど。君は、男が走っていたのを見た。そして、悪いことをしたのではないかと考えた」
「ええ」
「その二つは、別のことだね」
おせんは、きょとんとした。
「別、ですか」
「走る理由は、一つではないということだよ」
私は、それ以上は言わなかった。
彼女は、自分が見たものを、正直に話しているように思えた。
だが、正直な証言であっても、そこには、本人が気づかない解釈が混じることがある。
次に話したのは、桶職人の辰蔵だった。
三 青い袖の男
辰蔵は、三十歳ほどの、がっしりした男だった。手の甲には、小さな傷がいくつもあり、爪の間には、木屑が残っていた。
「俺が見たのは、昨夜の八つ頃です」
「おせんさんとは、時刻が少し違うね」
「ええ。俺は、仕事場で桶の底を直していた。雨が強くなったんで、道具を片づけて、戸口から外を見たんです。すると、路地を男が走っていった」
「どのような男だった?」
「青っぽい着物でした。袖が、ひどく濡れていた。頭には、黒い帽子をかぶっていました」
「顔は?」
「見ていません。後ろ姿だけです」
「持ち物は?」
「左手に、四角い包みを持っていました。布でくるんだようなものです」
「男は、どちらへ走った?」
「隣の通りへ抜けるほうです。共同便所の横を通っていきました」
私は、辰蔵の顔を見た。
「おせんさんは、赤い手拭いを巻いた男が、井戸の脇から裏門へ走っていったと言っている。君の見た男とは、ずいぶん違うようだね」
「だから、あの女は見間違えたんでしょう」
辰蔵は、すぐに答えた。
「俺は、間違いなく見ました。青い着物に黒い帽子。包みを持って、隣の通りへ走っていった」
「なぜ、それほど確信できる?」
「俺は、職人です。木の寸法を間違えたら、仕事になりません。目で見たものを、いい加減に言うわけにはいかねえ」
私は、うなずいた。
「それは立派な心掛けだ。ただし、木の寸法を測ることと、暗い路地を一瞬走り抜けた男を見ることは、同じではないかもしれない」
辰蔵は、少し不満そうな顔をした。
「先生は、俺の目が悪いとおっしゃるんですか」
「いや。君が見たものを、正確に聞きたいだけだ」
私は、帳面に書きつけた。
青い着物。
黒い帽子。
左手の四角い包み。
隣の通り。
おせんの証言とは、ほとんど一致しない。
しかし、私は、まだどちらが正しいとも思わなかった。
最後の証言者、久兵衛が、ゆっくりと口を開いた。
四 白いものを持った男
久兵衛は、七十歳近い老人だった。
背は曲がり、歩くときには杖を使う。しかし、その目は、驚くほど鋭かった。
「わしは、昨夜、家の縁側に座っておりました。雨の音を聞きながら、煙草を吸っていたのです」
「何時頃だったかね」
「八つを少し過ぎた頃でしょう。時刻は、時計で確かめたわけではありません」
「男を見たのだね」
「ええ。路地の奥から、男が出てきました」
「服装は?」
「着物は、白っぽい色でした。頭には、何もかぶっていなかった」
「持ち物は?」
「何も持っていませんでした」
「どちらへ走っていった?」
「表通りのほうです。つまり、わしの目の前を通って、長屋の外へ出ていったのです」
私は、久兵衛を見た。
「おせんさんは、濃い色の着物に赤い手拭い。辰蔵さんは、青い着物に黒い帽子。そして、君は、白っぽい着物で、何も持っていなかったと言う」
「そうです」
「三人が見た男は、同じ男だと思うかね」
久兵衛は、少し考えた。
「わしは、同じ男だと思います。あの夜、長屋の裏を走っていた男は、一人だったはずですから」
「なぜ、一人だったと思う?」
「騒ぎが起きてから、皆が外へ出てきました。もし、別々の男が三人も走っていたなら、もっと大騒ぎになっていたでしょう」
私は、うなずいた。
「なるほど。君は、三人の証言が同じ男を指していると考えている」
「ええ」
「しかし、服装も、持ち物も、走っていった方向も違う」
「人間の目というものは、時として、妙なものを見せることがありますからな」
久兵衛は、静かに言った。
「わしも若い頃、戦場で、敵が何人もいると思ったことがありました。しかし、よく見れば、木の影だった。雨や暗闇は、人の目を惑わせます」
私は、老人の顔を見た。
「君は、何を見たと思う?」
「走っていく男を見た。それだけです」
「服装は?」
「白っぽい着物だったと思います。しかし、暗い中ですから、確かなことは言えません」
「持ち物は?」
「持っていなかったと思います。ただ、右手が、身体の脇に隠れていました。何かを持っていたかどうかまでは、わかりません」
私は、帳面を閉じた。
三人とも、自分が見たものを話している。
しかし、三人の証言は、まるで違っていた。
赤い手拭い。
黒い帽子。
白っぽい着物。
細長いもの。
四角い包み。
何も持っていない。
裏門。
隣の通り。
表通り。
普通に考えれば、三人のうち誰かが嘘をついているのだろう。
だが、私は、その結論を急ぐつもりはなかった。
私は、三人を見渡した。
「ありがとう。君たちは、いずれも、自分が見たものを話してくれたようだ」
辰蔵が、声を上げた。
「先生、それでは、誰の話が正しいんです?」
「それを調べるのが、私の仕事だよ」
五 和田が見つけたもの
長屋の路地を調べるため、私は、まず現場の見取り図を描いた。
表通りから、長屋の入口へ入る。
そこから奥へ進むと、井戸がある。
井戸の脇を右へ曲がれば、裏門へ。
左へ進めば、共同便所の横を抜けて、隣の通りへ。
そして、久兵衛の家は、路地の入口に面している。
「小室さん」
和田が、地面を指した。
「ここを見てください」
雨は、すでに小降りになっていた。
路地の泥には、いくつもの足跡が残っている。
しかし、昨夜から何人もの人間が歩き回ったため、ほとんどの足跡は乱れていた。
「この足跡は、昨夜のものではないでしょうか」
「どれだね」
和田は、井戸の近くを指した。
「こちらから、裏門へ向かう足跡です。歩幅が大きく、途中で、少し滑ったような跡があります」
私は、しゃがみ込んだ。
確かに、泥の上に、走ったような足跡が残っている。
だが、それが昨夜のものかどうか、断定することはできない。
「よく見つけたね。しかし、これだけでは、男が走った証拠にはなっても、盗みを働いた証拠にはならない」
「はい」
和田は、別の場所を指した。
「それから、こちらです。共同便所の脇に、白い布の切れ端が落ちていました」
私は、布を手に取った。
薄い木綿で、端が裂けている。
「誰かの着物から落ちたものかもしれません」
「あるいは、以前から落ちていたものかもしれない」
「そうですね」
和田は、素直にうなずいた。
彼は、以前なら、見つけた証拠をすぐに事件と結びつけようとしていた。
しかし、今は違う。
証拠が何を示しているのか。
そして、何を示していないのか。
その区別を、少しずつ身につけている。
「小室さん。私は、三人の証言が食い違っている理由は、男の服装にあるのではないと思います」
「ほう?」
「三人が、男を見た場所も、時刻も、見ていた方向も違うからです」
私は、和田を見た。
「続けたまえ」
「おせんさんは、井戸のそばで、男の横顔を見た。辰蔵さんは、仕事場の戸口から、後ろ姿を見た。久兵衛さんは、縁側から、正面に近い方向を見た。それぞれ、男の身体の違う部分を見ているのではないでしょうか」
「それで、服装の色や持ち物が違って見えた?」
「はい。雨の中では、着物の色も変わって見えるかもしれません。男が持っていた物も、見る角度によって、細長く見えたり、四角く見えたりすることがあると思います」
私は、しばらく黙っていた。
それは、悪くない推理だった。
しかし、まだ一つ、問題がある。
「進一。三人の証言が違って見える理由は説明できる。だが、それだけでは、同じ男だったと証明したことにはならない」
「はい」
「そして、男が盗みを働いたとも証明できない」
「ええ」
「では、次に何を調べる?」
和田は、路地の奥を見た。
「男が、どこから来て、どこへ行ったのか。それを調べたいと思います」
私は、微笑んだ。
「よろしい。では、長屋の外も見てみよう」
六 雨宿りの男
長屋の外には、小さな蕎麦屋があった。
店の主人は、四十歳ほどの男で、私たちが事情を説明すると、すぐに思い当たることがあると言った。
「昨夜、雨の中を走っていった男なら、見たかもしれません」
「どのような男だった?」
「着物を着た男です。背は、そう高くなかった。頭には、何もかぶっていなかったと思います」
「持ち物は?」
「白い紙包みのようなものを持っていたような気がします」
和田が、私を見た。
おせんの証言とは、少し違う。
辰蔵の証言とも違う。
しかし、久兵衛の証言とは、一部が一致している。
「男は、どちらへ走っていった?」
「長屋のほうから、表通りへ出てきて、私の店の前を通り、向こうの角を曲がっていきました」
「時刻は?」
「八つ頃でしょうか。客が少なくなって、店を片づけ始めた頃でした」
「その男を、以前にも見たことがあるかね」
「いいえ。顔は、よく見えませんでした」
私は、店の主人に礼を言った。
店を出ると、和田が言った。
「少なくとも、男が長屋から表通りへ出てきたという証言はありますね」
「そうだね」
「すると、久兵衛さんの証言が、最も正しいのでしょうか」
「そう結論づけるのは、まだ早い」
私は、店の前の道を見た。
「蕎麦屋の主人は、男が長屋から出てきたと言っている。しかし、男が長屋の中で何をしていたかは、知らない。長屋の路地を走っていた男が、そのまま表通りへ出たのか。それとも、別の男が、同じ頃に通ったのか。そこも確かめる必要がある」
「なるほど」
「それに、目撃者が増えたからといって、真実に近づいたとは限らない。似たような話を聞いた人間が、知らず知らずのうちに、同じ物語を作ってしまうこともある」
和田は、うなずいた。
「では、もう一度、三人の話を聞き直してみましょう」
「その前に、一つ、試してみたいことがある」
私は、長屋の路地を振り返った。
「進一。君は、昨夜、雨の中を走っていた男の姿を想像できるかね」
「はい。着物を着た男が、何かを持って、走っていたのだと思います」
「その着物は、何色だね」
「……わかりません」
「持ち物は?」
「それも、わかりません」
「そうだ。君は、まだ何も見ていない。にもかかわらず、頭の中には、何となく男の姿が浮かんでいる。三人の証言を聞いたからだ」
和田は、はっとした顔をした。
「つまり、私の頭の中にいる男は、実際に見た男ではなく、三人の証言から作り出した男なのですね」
「その通りだ」
私は、路地を歩き始めた。
「人間の記憶は、空白をそのまま残すことが苦手なのだよ。見えなかった部分を、知っていることや、想像したことによって埋めてしまう」
私は、振り返った。
「だからこそ、証言を聞くときには、何を見たのかだけでなく、何を見ていないのかも、確かめなければならない」
七 証言の食い違い
私たちは、再び長屋へ戻った。
三人の目撃者に、もう一度、話を聞くためである。
今度は、私は、最初から男の服装を尋ねなかった。
代わりに、それぞれが、何をしていたのかを詳しく聞いた。
おせんは、井戸で水を汲んでいた。
辰蔵は、仕事場で桶の底を直していた。
久兵衛は、縁側で煙草を吸っていた。
それぞれ、男を見たときには、別のことに注意を向けていたのである。
「おせんさん。男が走ってきたとき、君は何を見ていた?」
「水桶です。水を汲み上げて、持ち上げようとしていました」
「男を見たのは、どのくらいの時間だね」
「一瞬です。桶を持ち上げたときに、横を通り過ぎました」
「赤い手拭いは、どこに見えた?」
「首のあたりです」
「男の手は?」
「右手に、何かを持っていたように見えました」
「左手は?」
「覚えていません」
私は、帳面に記録した。
「辰蔵さん。君は、男を見たとき、何をしていた?」
「桶の底を直していました。戸口へ出て、雨がどれくらい降っているか見たんです」
「男を見たのは、どのくらいの時間?」
「ほんの少しです。男が、俺の前を通り過ぎるまで」
「青い着物は、どこに見えた?」
「背中と袖です」
「帽子は?」
「頭に、黒いものがありました」
「顔は?」
「見ていません」
「持ち物は?」
「左手に、四角いものがありました」
「右手は?」
「覚えていません」
私は、うなずいた。
「久兵衛さん。君は、男を見たとき、何をしていた?」
「煙草を吸っていました」
「男は、どのくらいの距離を走っていった?」
「縁側から、路地の入口まで、五間ほどでしょうか」
「顔は見えた?」
「はっきりとは見えませんでした。ただ、男がこちらを向いたように思います」
「服装は?」
「白っぽい着物でした」
「持ち物は?」
「よくわかりません」
私は、帳面を閉じた。
「ありがとう。これで、少しわかってきた」
辰蔵が、身を乗り出した。
「何がわかったんです?」
「三人とも、男の姿を見た。しかし、三人が見た部分は、それぞれ違う。おせんさんは、男の横顔と首元を見た。辰蔵さんは、背中と袖を見た。久兵衛さんは、男の前方から全身を見た。ただし、いずれも、ほんの短い時間だ」
「だから、違うものに見えたと?」
「その可能性がある。だが、まだ、それだけではない」
私は、路地の見取り図を机に広げた。
「もう一つ、確かめたいことがある。三人は、男が走っていった方向を、それぞれ違うように話している。だが、そもそも、男はどこから来たのだろう」
おせんが、答えた。
「路地の向こうからです」
辰蔵も、うなずいた。
「俺の前を、向こうから走ってきた」
久兵衛は、少し首をかしげた。
「わしの目の前を、路地の奥から出てきたのです」
私は、見取り図を指した。
「三人とも、男が路地の奥から来たと言っている。だが、路地の奥には、二つの出口がある。井戸の脇を通る道と、共同便所の横を通る道だ」
私は、二つの道を指でなぞった。
「おせんさんは、男が井戸の脇を通って、裏門へ向かったと言う。辰蔵さんは、共同便所の横を抜けて、隣の通りへ向かったと言う。久兵衛さんは、男が表通りへ出ていったと言う」
和田が、地図を見つめた。
「すると、三人が見た男は、同じ道を走っていたわけではないのですね」
「そうだ。あるいは、三人が見たのは、同じ男の別々の動きだったのかもしれない」
私は、顔を上げた。
「だが、それを証明するには、もう一つ、必要なものがある」
「何でしょう」
「時間だよ」
八 時計のない町
明治の東京には、時計が少しずつ広まっていた。
しかし、すべての家に時計があるわけではない。
長屋の住人たちの多くは、寺の鐘や、店の閉まる時刻、食事の時間などを頼りに、一日の時間を知っていた。
おせんが言った「七つ半頃」。
辰蔵が言った「八つ頃」。
久兵衛が言った「八つを少し過ぎた頃」。
それらは、正確な時刻ではなかった。
しかも、三人が時間を推測した根拠は、それぞれ違っていた。
おせんは、夕食の支度を始める前だったという。
辰蔵は、仕事を片づけた頃だったという。
久兵衛は、いつもの煙草を吸い始めた頃だったという。
私は、三人に尋ねた。
「君たちが、男を見たと思う時刻を、もう一度考えてみてほしい。鐘の音を聞いたかね。時計を見たかね。それとも、何か別のことを基準にしたのかね」
おせんは、考え込んだ。
「私は、夕飯の支度を始める前でした。でも、鐘は聞いていません」
辰蔵は、頭を掻いた。
「俺は、仕事を片づけた頃です。時計はありません。八つ頃というのも、たぶん、そのくらいだろうというだけで」
久兵衛は、ゆっくりとうなずいた。
「わしも、鐘を聞いたわけではありません。いつもの習慣で、そう思っただけです」
「つまり、三人の時刻は、すべて推測だったわけだ」
私は、和田に向き直った。
「進一。三人の証言が、同じ男を見たものだと仮定すると、どうなる?」
和田は、見取り図を見た。
「おせんさんが見たのは、男が井戸の脇を通ったとき。辰蔵さんが見たのは、共同便所の横を通ったとき。そして、久兵衛さんが見たのは、表通りへ出たとき……」
彼は、そこで言葉を止めた。
「しかし、それでは、男は途中で道を変えなければなりません。二つの出口は、別々の道につながっているのですから」
「その通りだ」
私は、見取り図を指した。
「男が、井戸の脇から裏門へ向かったのなら、共同便所の横を通ることはできない。共同便所の横を抜けたのなら、裏門へ向かったという証言とは矛盾する」
和田は、しばらく考えた。
「では、やはり、男は二人、あるいは三人いたのでしょうか」
「その可能性もある。しかし、まだ決める必要はない」
私は、路地の見取り図を畳んだ。
「我々は、三人が同じ男を見たという前提に、こだわりすぎているのかもしれないね」
九 盗まれた二十円
ここで、私は、事件の発端に戻ることにした。
そもそも、なぜ私たちは、路地を走る男を探しているのか。
松吉の金が盗まれたからである。
ならば、金がどのようにして盗まれたのかを調べる必要がある。
私は、松吉の古道具店を訪ねた。
松吉は、五十歳ほどの、痩せた男だった。
「二十円がなくなったのは、間違いないんだね」
「ええ。帳場の引き出しに入れておいたんです。夕方、店を閉める前に数えました。二十円、間違いありません」
「そのあと、誰かが店に入ったかね」
「客は何人か来ましたが、金を置いていた引き出しには、触れていません」
「店を閉めたあと、誰かが出入りしたか」
「私が、裏の物置へ行きました。それから、長屋の者が二人ほど、顔を出したかもしれません」
「引き出しには、鍵がかかっていたのかね」
「いいえ。いつも、鍵はかけません」
「窓は?」
「内側から鍵をかけていました」
「戸口は?」
「閉めていましたが、鍵はかけていません」
私は、店内を見回した。
古道具が並び、棚には、古い茶碗や掛け軸、金属製の小物が置かれている。
帳場の引き出しは、店の奥にあった。
「松吉さん。金を盗んだ者が、必ずしも、路地を走っていった男とは限らないね」
「しかし、あの男が怪しいじゃありませんか」
「怪しいというだけでは、犯人とは言えない」
松吉は、不満そうに口を尖らせた。
「では、先生は、誰が盗んだと思うんです?」
「まだ、わからない」
私は、引き出しを調べた。
鍵穴に傷はない。
引き出しの内側には、紙の切れ端が一枚、張りついていた。
私は、それを取り出した。
薄い紙で、端が破れている。
「この紙は、何だね」
松吉は、覗き込んだ。
「さあ……。そんなもの、前からあったかもしれません」
私は、紙を光に透かした。
紙には、何かの文字が、かすかに残っていた。
だが、破れているため、全文は読めない。
私は、紙を懐へしまった。
「松吉さん。昨夜、金がなくなったと気づいたとき、引き出しはどうなっていた?」
「少し開いていました」
「誰かが、引き出しを開けたのだね」
「そうでしょう」
「だが、引き出しを開けた者が、金を盗んだとは限らない」
松吉は、黙り込んだ。
私は、帳場を離れた。
和田が、私の隣へ来た。
「小室さん。金が盗まれたことと、男が走っていたことは、別々に考える必要があるのですね」
「その通りだ。二つの出来事が同じ頃に起きたからといって、必ずしも、一つの原因でつながっているとは限らない」
「しかし、偶然ということもあるのでしょうか」
「もちろんだよ。偶然は、探偵にとって都合が悪いからといって、存在しなくなるわけではない」
私は、長屋の路地を振り返った。
「我々は、犯人を探す前に、事件そのものが、本当に一つの事件なのかを確かめなければならない」
十 もう一人の男
その夜、私は、長屋の家主である源兵衛に、もう一度話を聞いた。
「源兵衛さん。昨夜、男が走っていったという話を、最初に聞いたのは、いつだね」
「松吉が、金がなくなったと騒ぎ始めたあとです」
「その前に、誰かが、男を見たと話していたか」
「いいえ。少なくとも、私のところへは来ていません」
「三人の証言は、誰が最初にまとめたのだろう」
「それは……松吉だったと思います」
「松吉さんが?」
「ええ。あの人が、金がなくなったと騒いで、長屋の者たちに、何か見なかったかと聞いて回ったんです」
私は、源兵衛を見た。
「そのとき、三人は、互いの証言を聞いていたかね」
「聞いていたと思います。皆、同じ場所に集まっていましたから」
「なるほど」
私は、和田を見た。
「進一。これで、わかったことがある」
「三人は、証言を話す前に、互いの話を聞いていた可能性がある、ということでしょうか」
「そうだ。すると、最初に見たものと、あとから記憶したものが、混ざっているかもしれない」
和田は、少し考えた。
「しかし、三人とも、互いの話に影響されたとは限りません」
「もちろんだ。影響されたと決めつけることも、また誤りだ」
私は、源兵衛に尋ねた。
「もう一つ。昨夜、長屋の中で、誰かが出ていったり、戻ってきたりするのを見なかったかね」
「そういえば……」
源兵衛は、思い出すように目を細めた。
「隣町の薬種屋の若い者が、夜遅くに、薬を届けに来たそうです。松吉の隣に住む婆さんが、咳の薬を頼んでいたらしい」
「その男は、どのような格好だった?」
「さあ。私は、直接見ていません」
「その薬種屋は、どこにある?」
「表通りの角です」
私は、和田と顔を見合わせた。
長屋の路地を走っていた男が、薬種屋の者だった可能性がある。
そして、彼が何かを持っていたのなら、それは薬の包みだったのかもしれない。
だが、まだ確証はない。
「源兵衛さん。薬種屋の者が、昨夜、何時頃に来たのか、調べていただけるかね」
「わかりました」
私は、外套を着た。
「進一。明日は、薬種屋へ行こう」
十一 白い包み
翌朝、私たちは、表通りの薬種屋を訪ねた。
店主は、五十歳ほどの男で、私たちが用件を告げると、すぐに昨夜のことを思い出した。
「ええ、確かに、うちの者が薬を届けに行きました」
「誰が行ったのかね」
「奉公人の新吉です。まだ十七の若者ですが、仕事はまじめです」
「何時頃だった?」
「夜の八つ半頃でしょうか。雨が強くなってからです」
「薬は、どこへ届けた?」
「神田佐久間町の長屋です。咳の薬を頼まれたそうです」
「新吉君は、どのような格好をしていた?」
「紺色の着物に、古い雨合羽を着ていたと思います。頭には、笠をかぶっていたはずです」
「持ち物は?」
「薬の包みです。白い紙で包んで、紐で結んでありました」
私は、うなずいた。
「新吉君は、帰ってきたとき、何か言っていたかね」
「いえ。ただ、雨で足元が悪く、走って帰ってきたと言っていました」
和田が、顔を上げた。
「走って帰ってきた?」
「ええ。薬を届けたあと、雨がひどくなったので、急いで戻ったそうです」
私は、店主を見た。
「新吉君に、話を聞かせてもらえるかね」
しばらくして、若い奉公人が店の奥から出てきた。
新吉は、痩せた青年だった。
「昨夜、長屋へ薬を届けたのは、君だね」
「はい」
「そのとき、誰かと会ったか」
「ええ。長屋の入口で、男の人とすれ違いました」
「どのような男だった?」
「よく覚えていません。暗かったですし、急いでいましたから」
「男は、何か持っていたかね」
「……白いものを持っていたような気がします」
「どちらの手に?」
「わかりません」
「男は、どちらへ行った?」
「私が長屋へ入るとき、男は、表通りのほうへ向かっていたと思います」
私は、和田を見た。
新吉が長屋へ入るとき、男は表通りへ向かっていた。
つまり、男は長屋から出てきたのかもしれない。
だが、新吉自身は、男の服装も、持ち物も、よく覚えていない。
「新吉君。君は、薬を届けたあと、どの道を通って帰った?」
「共同便所の横を抜けて、隣の通りへ出ました。それから、表通りへ回りました」
「なぜ、裏門を使わなかった?」
「裏門は、夜になると閉まることがあるからです」
私は、うなずいた。
「ありがとう。よくわかった」
店を出ると、和田が言った。
「小室さん。これで、三人の証言のうち、少なくとも一つは、薬種屋の新吉さんの姿を見たものだった可能性がありますね」
「そうかもしれない」
「紺色の着物に、白い包み。おせんさんの赤い手拭いとは違いますが、辰蔵さんの証言に近い部分もあります」
「しかし、辰蔵さんは黒い帽子を見たと言っている。新吉君は、笠をかぶっていたはずだ」
「雨合羽も着ていたそうですから、青い袖に見えたのかもしれません」
「その可能性はある」
私は、歩きながら考えた。
もし、三人のうち一人が新吉を見たのなら、残りの二人は誰を見たのか。
あるいは、三人とも、別々の男を見たのか。
そして、金を盗んだのは、誰なのか。
事件の輪郭は、少しずつ見えてきた。
だが、肝心の二十円の行方は、まだわからなかった。
十二 和田の反論
長屋へ戻る途中、和田が言った。
「小室さん。私は、一つ、気になることがあります」
「何だね」
「三人の証言が食い違っている理由は、雨や暗さだけでは説明できないように思います」
「ほう?」
「おせんさんは、男が裏門へ向かったと言いました。辰蔵さんは、隣の通りへ向かったと言いました。久兵衛さんは、表通りへ出ていったと言いました」
「その通りだ」
「しかし、もし三人が同じ男を見たのなら、男は、途中で道を変えたことになります。ところが、二つの出口は、別々の道につながっています。途中で分かれることはできても、同時に、両方へ進むことはできません」
私は、和田を見た。
「君は、三人が別々の男を見たと考えているのか」
「はい。少なくとも、三人全員が同じ男を見たという説明は、無理があるように思います」
「それは、重要な指摘だ」
私は、立ち止まった。
「では、三人のうち、誰が、どの男を見たのだろう」
「それは、まだわかりません」
「よろしい。わからないことを、わからないと言えるのは、よいことだ」
私は、再び歩き始めた。
「だが、君の指摘によって、我々は、一つの思い込みから自由になった」
「同じ男を見た、という思い込みですね」
「そうだ。三人の証言が食い違っているからといって、必ずしも、三人のうち誰かが間違っているとは限らない。そもそも、三人が見たものが、同じものだったとは限らないのだから」
和田は、深くうなずいた。
「では、事件を解く鍵は、三人の証言を一致させることではなく、三人が何を見たのかを、それぞれ別々に確かめることにあるのですね」
「その通りだ」
私は、微笑んだ。
「進一。君は、探偵らしくなってきたね」
和田は、少し照れたように笑った。
「小室さんに、そう言っていただけるとは光栄です」
「ただし、まだ半人前だ」
「はい。承知しています」
私たちは、長屋へ向かった。
そこには、まだ解かれていない謎が待っていた。
十三 紙片の正体
松吉の古道具店へ戻ると、私は、昨日見つけた紙片を机の上に置いた。
薄い紙には、文字の一部が残っている。
私は、虫眼鏡で、その文字を調べた。
紙片には、かすかに「二十」という数字が見えた。
その下には、「薬」という文字の一部らしきものがある。
「小室さん。それは、何の紙でしょうか」
「まだ、わからない。しかし、松吉さんの帳場の引き出しにあったということは、金の出入りに関係する紙かもしれない」
私は、松吉を呼んだ。
「松吉さん。昨夜、二十円を引き出しに入れたとき、何か紙に包んでいたかね」
「いいえ。金は、そのまま引き出しに入れていました」
「では、薬を買ったことは?」
「薬?」
「薬種屋で、何かを買ったことはないか」
松吉は、少し考えた。
「……そういえば、隣の婆さんに頼まれて、咳止めの薬を買ってやったことがあります」
「いつだね」
「昨日の昼です。婆さんが咳で苦しんでいたので、薬種屋へ使いを出しました」
「代金はいくらだった?」
「三十銭ほどだったと思います」
「そのとき、受け取った紙は?」
「薬の包みと、代金の書付があったかもしれません」
私は、紙片を見た。
「松吉さん。昨夜、引き出しを開けたとき、この紙があったことを覚えているかね」
「いいえ。気づきませんでした」
「それでは、この紙がいつからそこにあったのか、確かめる必要がある」
私は、和田を見た。
「進一。薬種屋へ、もう一度行こう」
薬種屋の店主は、紙片を見ると、すぐに思い当たったようだった。
「ああ、これは、うちの薬の包みに使う紙ですね」
「間違いないかね」
「ええ。うちでは、薬を包むとき、この薄い紙を使います。端に、薬の種類や代金を書きつけることもあります」
「では、この紙が、松吉さんの引き出しに入っていた理由は?」
「それは、わかりません。ただ、松吉さんが、以前、薬を買いに来たことはあります」
「昨夜、新吉君が薬を届けた際、何か異常はなかったかね」
「いいえ。いつもどおりだったそうです」
私は、紙片を懐へしまった。
金を盗んだ者が、薬の包みを持っていた可能性はある。
しかし、紙片が見つかったからといって、それだけで薬種屋の新吉を疑うことはできない。
彼は、仕事として薬を届けただけかもしれない。
そして、紙片は、前日から引き出しに入っていたのかもしれない。
私は、店を出た。
「進一。今回の事件は、証拠が少ないというより、証拠の意味が定まっていないのだね」
「はい。紙片も、足跡も、目撃証言も、それぞれ何かを示しているように見えます。しかし、どれも、決定的なことは示していません」
「その通りだ。探偵が、証拠に意味を与えすぎると、証拠は、探偵の思い込みを支える道具になってしまう」
私は、外套の襟を立てた。
「さて、そろそろ、松吉さんに、もう一度話を聞く必要がある」
十四 松吉の嘘
松吉は、私たちが再び店を訪ねると、露骨に不機嫌な顔をした。
「先生方、まだ何かあるんですか。私は、もう何度も話しましたよ」
「一つ、確認したいことがある」
「何でしょう」
「君は、昨夜、金がなくなったと気づいたとき、すぐに長屋の者たちへ知らせたのだね」
「ええ」
「その前に、誰かが店へ来たかね」
「いいえ」
「本当に?」
松吉は、眉を寄せた。
「何を疑っているんです」
「君が、何かを隠しているのではないかと思っている」
松吉は、顔を赤くした。
「私は、金を盗まれた被害者ですよ!」
「それは、事実かもしれない。しかし、被害者であることと、すべてを正直に話していることは、同じではない」
松吉は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……実は、昨夜、辰蔵が店に来ました」
和田が、顔を上げた。
「桶職人の辰蔵さんですか」
「ええ。仕事で使う道具を、買いに来たんです。古い金具を一つ、売ってくれと言って」
「何時頃だね」
「夕方です。店を閉める少し前でした」
「そのとき、金は引き出しに入っていたか」
「はい」
「辰蔵は、引き出しを見たのか」
「……見たかもしれません」
私は、松吉を見つめた。
「なぜ、そのことを、最初に話さなかった?」
「辰蔵は、長屋の住人です。あいつが盗みを働いたなんて、考えたくなかったんです。それに、証拠もありませんから」
「では、なぜ、今、話した?」
「先生が、隠し事をしていると言うからです」
私は、うなずいた。
「なるほど」
和田が、静かに尋ねた。
「松吉さん。辰蔵さんが、店を出たあと、誰かが来ましたか」
「いいえ。少なくとも、私は覚えていません」
私は、帳場の引き出しを見た。
「松吉さん。君は、金を二十円、引き出しに入れていたと言った。だが、その金が、昨夜、本当に二十円あったことを証明できるものはあるかね」
「帳簿があります」
「見せていただきたい」
松吉は、帳簿を取り出した。
そこには、売上金と支出が記録されていた。
昨日の欄には、二十円の売上が記されている。
しかし、その下に、三十銭の支出があった。
薬代である。
私は、帳簿を閉じた。
「松吉さん。君は、二十円を引き出しに入れたと言った。しかし、帳簿によれば、薬代を支払ったあと、手元に残っていた金額は、十九円七十銭ではないのかね」
松吉は、顔色を変えた。
「……そうです」
「では、なぜ、二十円盗まれたと言った?」
松吉は、唇を噛んだ。
「私は……帳簿を見ずに、二十円あったと思い込んでいました」
「本当に、それだけかね」
長い沈黙のあと、松吉は、ようやく口を開いた。
「実は、もう一つあります」
彼は、頭を抱えた。
「昨日、私は、二十円のうち、五円を別の場所へ移したんです。借金の返済に使うつもりでした。しかし、帳簿には、そのことを書いていませんでした」
和田が、驚いた。
「では、実際に引き出しにあったのは、十五円ほどだったのですか」
「ええ……」
松吉は、顔を伏せた。
「私は、商売の金を一時的に使ったことを、家主にも、帳簿にも書きたくなかった。だから、盗まれた金は二十円だったと、つい言ってしまったのです」
私は、静かにうなずいた。
「つまり、君は、金が盗まれたことを報告するとき、実際の金額を誤って伝えたわけだ」
「はい」
「そして、その誤った金額をもとに、長屋の者たちが、犯人を探し始めた」
「……そうです」
私は、帳簿を机に戻した。
松吉は、金を盗まれた被害者である。
しかし、彼の証言もまた、完全に正確ではなかった。
彼は、自分の失敗を隠すために、盗まれた金額を大きく見せてしまったのである。
それは、必ずしも、盗みの犯人をかばうためではなかった。
ただ、自分の面目を守りたかったのだ。
人間というものは、時として、自分を守るために、事件を複雑にしてしまう。
十五 犯人を決める前に
私は、長屋の住人たちを、もう一度集めた。
松吉。
おせん。
辰蔵。
久兵衛。
源兵衛。
そして、薬種屋の新吉。
全員が、狭い部屋に集まると、互いに不安そうな顔を見合わせた。
「皆さん。ここで、確認しておきたいことがある」
私は、机の上に帳簿を置いた。
「松吉さんが、昨夜、盗まれたと申し出た金額は、二十円だった。しかし、帳簿を調べた結果、実際に引き出しにあった金額は、それより少なかった可能性がある」
松吉は、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。私が、正確に話していませんでした」
辰蔵が、声を上げた。
「それじゃあ、盗まれた金は、いくらだったんです?」
「それは、まだわからない」
私は、答えた。
「だが、金額が確定していない以上、犯人を探す前に、何がなくなったのかを、正確に確かめる必要がある」
おせんが、不安そうに尋ねた。
「それでは、昨夜の男は、何だったんでしょう」
「それも、まだわからない」
私は、三人の目撃者を見た。
「おせんさん。君は、男が赤い手拭いを巻いていたと言った。辰蔵さんは、青い着物に黒い帽子。久兵衛さんは、白っぽい着物で、何も持っていなかったと言った」
三人は、うなずいた。
「私は、君たちの証言を、嘘だとは思っていない。だが、君たちが見た男が、同じ人物だったとも、まだ断定できない」
「それでは、私たちは、何を見たんでしょう」
おせんが尋ねた。
「それを、これから確かめるのだよ」
私は、和田に目を向けた。
彼は、一歩前へ出た。
「皆さん。私は、三人の証言を、もう一度整理してみました」
和田は、紙を広げた。
「おせんさんは、井戸のそばで、男の横顔と首元を見た。辰蔵さんは、仕事場の戸口から、男の背中と袖を見た。久兵衛さんは、縁側から、男が路地の入口へ向かうところを見た。三人とも、見た時間は短く、暗い中でした」
彼は、続けた。
「そして、三人が男を見た時刻は、正確にはわかりません。三人とも、鐘や時計で確認したわけではなく、自分の生活の習慣から推測した時刻を話していたからです」
私は、和田を見た。
彼は、落ち着いていた。
「つまり、三人の証言が食い違っているからといって、誰かが嘘をついているとは限りません。また、三人が同じ男を見たとも限りません。私たちは、まだ、そのどちらも証明できていないのです」
久兵衛が、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。わしらは、見たものを話した。しかし、それが何だったのかは、まだわからんということですな」
「はい」
和田は、答えた。
「そして、松吉さんの金がなくなったことと、路地を走る男がいたことも、必ずしも同じ事件だとは限りません」
部屋の中が、静まり返った。
私は、和田の言葉を聞きながら、満足していた。
彼は、事件を解決したふりをしていない。
わからないことを、わからないままにしている。
それは、探偵にとって、非常に大切な能力だった。
十六 真実は一つ、証言は三つ
その日の夕方、警察から連絡があった。
松吉の店の裏手にある空き地で、小さな金包みが見つかったという。
包みの中には、銀貨が数枚と、銅貨が入っていた。
金額は、十円にも満たなかった。
警察は、松吉に確認を求めた。
松吉は、包みを見ると、しばらく考えたあと、首を横に振った。
「私の金ではありません」
「本当に?」
「ええ。私が引き出しに入れていた金は、紙に包んでいたわけではありません。これは、誰か別の者の金でしょう」
警察は、包みを持ち帰った。
結局、松吉の店から金が盗まれたことは確かだったが、その金額も、犯人も、はっきりとはわからなかった。
路地を走っていた男が、金を盗んだという証拠もなかった。
数日後、薬種屋の新吉が、長屋の者たちに、こう話したという。
昨夜、雨の中を急いで帰る途中、長屋の入口で、誰かとすれ違った。
その人物が、何かを落としたような気がした。
だが、雨が強く、暗かったため、何を落としたのか、誰だったのかは、わからなかった。
新吉の証言は、三人の証言のどれとも、完全には一致しなかった。
しかし、それを聞いたおせんは、こう言った。
「そういえば、私が見た男も、何かを落としたように見えた気がします」
辰蔵は、首を振った。
「俺は、包みを持っていたのを見たんだ。落としたところは、見ていない」
久兵衛は、静かに言った。
「わしは、何も持っていなかったように見えた。ただ、右手は、よく見えなかった」
三人の証言は、最後まで一致しなかった。
しかし、それは、三人の誰かが嘘をついているという意味ではない。
彼らは、それぞれ、異なる場所から、異なる時間に、異なる角度で、男の姿を見たのかもしれない。
あるいは、三人のうち、誰かが、新吉とは別の男を見たのかもしれない。
あるいは、同じ男が、路地の中で、何度か道を変えたのかもしれない。
確かなことは、ただ一つ。
三人は、自分が見たと思うものを、正直に語った。
だが、その証言だけでは、何が起きたのかを、完全に再現することはできなかった。
十七 探偵の限界
事件から数日後。
私は、書斎で、今回の調査記録を整理していた。
和田は、机の向こうで、報告書を書いている。
「小室さん」
「何だね」
「今回の事件は、解決したと言えるのでしょうか」
私は、ペンを置いた。
「何をもって、解決とするかによるね」
「犯人がわからず、金の行方もわからず、三人の証言も一致しませんでした」
「その通りだ」
「それでは、探偵の仕事としては、失敗だったのではありませんか」
私は、和田を見た。
「君は、探偵の仕事とは、必ず犯人を見つけることだと思っているのかね」
「……はい。少なくとも、そういうものだと思っていました」
「それは、物語としては、都合のよい考え方だね。しかし、現実の事件では、証拠が足りないこともある。人間の記憶が曖昧なこともある。調査を尽くしても、真実に届かないこともある」
私は、窓の外を見た。
「そのとき、探偵がしてはならないことは、わからない部分を、自分の想像で埋めてしまうことだ」
「しかし、何も結論を出さなければ、依頼人は納得しないでしょう」
「だからこそ、どこまでわかったのかを、正確に伝える必要がある」
私は、報告書を手に取った。
「今回、我々が確かめたことは、いくつもある。三人の証言は、それぞれ異なる条件のもとで得られたものだった。三人が、同じ男を見たという前提は、証明されていない。松吉が申告した金額にも、誤りがあった。そして、路地を走っていた男が、盗みを働いたという証拠は、見つからなかった」
「それは、確かなことですね」
「そうだ。確かなことを積み重ねる。それが、探偵の仕事だよ」
和田は、静かにうなずいた。
「つまり、今回の事件で、我々は、犯人を見つけることはできなかった。しかし、誰かを犯人だと決めつけることも、避けることができた」
「その通りだ」
私は、少し笑った。
「時には、それだけでも、十分に価値がある」
十八 神田の雨は止んだ
年の瀬が近づき、神田の町にも、ようやく晴れ間が戻った。
長屋の路地は、雨に洗われ、泥の匂いも薄れていた。
松吉は、盗まれた金の不足分を、帳簿をつけ直して確認することになった。
源兵衛は、長屋の住人たちに、互いを疑いすぎないようにと話した。
おせんは、魚屋の仕事へ戻った。
辰蔵は、桶を直し続けた。
久兵衛は、いつもの縁側で、煙草を吸っていた。
そして、新吉は、薬種屋で、変わらず薬を包んでいた。
誰も、事件の真相を完全には知らなかった。
しかし、少なくとも、三人の証言が違っていたというだけで、誰かを嘘つきと決めつける者はいなくなった。
私は、和田とともに、神田の町を歩いていた。
「小室さん。今回の事件で、私は、一つ、わかったことがあります」
「何だね」
「人間は、自分が見たものを、そのまま語っているつもりでも、実際には、自分が理解したものを語っていることがあるのですね」
「その通りだ」
「そして、理解したものが違えば、同じ出来事でも、違う証言になる」
「そうだね」
私は、足を止めた。
「ただし、そこから、すべての証言が同じ価値を持つと考えてはいけない。証言の中には、事実と合わないものもある。記憶違いもあれば、意図的な嘘もある。大切なのは、証言を疑うことそのものではなく、何を根拠に、どこまで信じられるかを考えることだ」
和田は、深くうなずいた。
「疑うことと、決めつけることは違うのですね」
「その通りだ」
私は、冬の空を見上げた。
「人間は、自分が見たものを信じたい。そして、自分が信じたものを、真実だと思いたい。しかし、我々が見ている世界は、いつも、自分の視界の範囲に限られている」
「だから、他人の証言を聞く必要がある」
「そうだ。だが、他人の証言を聞いたからといって、すぐに全体が見えるわけでもない。三人の証言を合わせても、全体が再現できるとは限らないのだからね」
和田は、苦笑した。
「探偵という仕事は、思っていたよりも、難しいものですね」
「簡単だと思っていたのかね」
「いえ。小室さんを見ていると、謎は、すぐに解けるものだと思っていました」
「それは、君が、私の失敗を見ていないからだよ」
和田は、驚いた顔をした。
「小室さんにも、失敗があるのですか」
「当然だ。私は神ではない」
私は、外套の襟を立てた。
「探偵が、すべてを知っていると思い込んだとき、探偵は、最も危険な人間になる」
和田は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「では、私も、わからないことを、わからないと言える探偵になりたいと思います」
「それは、よい目標だ」
私は、再び歩き始めた。
神田の町には、まだ、いくつもの謎がある。
人々の記憶。
人々の思い込み。
人々が、自分の見たものを、どのように真実へ変えていくのか。
それらは、虫眼鏡で拡大しても、簡単には見えてこない。
だからこそ、観察し、問い、考え続けなければならない。
私は、隣を歩く和田を見た。
彼は、もう、ただ私の推理を聞くためだけに、隣にいるのではない。
私が見落としたものを探し、私の考えに疑問を持ち、そして、自分の言葉で、事件を理解しようとしている。
それでよい。
探偵に必要なのは、何でも知っていることではない。
自分が知らないことを、知っていることなのだから。
その日の神田は、よく晴れていた。
雨の夜に走った男の正体は、最後まで、完全にはわからなかった。
だが、三人の目撃者は、互いを嘘つきと呼ばなくなった。
それだけでも、あの雨の夜に生まれた疑いは、少しばかり、晴れたのかもしれない。




