小室泰六(SHERLOCK)- 帝国大学の消えた答案、首席になった幽霊
帝国大学の消えた答案、首席になった幽霊
一 存在しない首席
明治二十六年、十二月下旬。
東京の冬は、冷たい。
ロンドンの霧とは違い、東京の冬には、空気の底まで見通せるような乾いた厳しさがある。朝の光は鋭く、吹き抜ける風は、建物の隙間を見つけては、人間の襟元へ潜り込んでくる。
私は、窓際の椅子に腰掛け、虫眼鏡を磨いていた。
和田進一は、机の向こうで新聞を読んでいる。
「小室さん」
「何だね」
「帝国大学で、奇妙な事件が起きているそうです」
「帝国大学?」
「ええ。法科大学の試験で、首席になった学生がいるのですが、その学生は、試験を受けていないというのです」
私は虫眼鏡を置いた。
「試験を受けていないのに、首席になった?」
「はい」
「それは、なかなか大胆な幽霊だね」
和田は苦笑した。
「新聞記事によれば、学生の名は、白石恭一。地方の旧士族の家に生まれ、苦学して入学した青年だそうです。ところが、今回の試験で、彼の答案だけが見つからない。それなのに、成績表には首席と記されている」
「成績表を見たのかね」
「いいえ。記事は、大学関係者の話として伝えているだけです」
「ならば、まず新聞記者の想像と、大学の事実を区別する必要がある」
私は立ち上がった。
「進一、大学へ行こう」
「もうですか」
「幽霊というものは、放っておくと、勝手に尾ひれがつくからね。人間の作った幽霊なら、なおさら早いうちに調べたほうがよい」
和田は新聞を畳み、外套を手にした。
私たちは、神田の借家を出て、本郷へ向かった。
帝国大学の構内は、年の瀬の寒さの中に静まり返っていた。
西洋風の建物が並び、学生たちが、襟を立てて往来している。
かつての江戸の学問所とは、ずいぶん違う景色だ。
新しい時代の日本は、学問を国家の力と考えるようになった。外国の知識を取り入れ、法律を整え、医学を学び、工学を学び、国を強くする。
しかし、制度が新しくなっても、人間の心が一緒に新しくなるわけではない。
名誉を欲しがる者は、名誉を欲しがる。
権威を恐れる者は、権威を恐れる。
そして、他人の努力を自分の利益に変えようとする者は、どの時代にもいる。
私たちを出迎えたのは、法科大学の助教授、黒田直臣という男だった。
四十歳前後。整えられた口髭と、寸分の隙もない洋装。眼鏡の奥の目には、知性と警戒心が同居していた。
「小室泰六先生ですね。お話は伺っております」
「よい評判であれば結構だが、悪い評判でも仕事はするよ」
黒田は、わずかに笑った。
「今回の件は、大学の名誉に関わります。どうか、慎重にお調べいただきたい」
「慎重に調べることと、都合のよい結果を出すことは違う。その点だけ、あらかじめ承知しておいてもらおう」
黒田の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「もちろんです」
「では、成績表を見せていただきたい」
黒田は、私たちを執務室へ案内した。
机の上には、試験結果を記した書類が置かれていた。
上位の学生の名前が、順位とともに並んでいる。
一位、白石恭一。
二位、河合俊作。
三位、藤田修一。
そして、白石の得点欄には、他の学生よりも高い点数が記されていた。
「この白石という学生は、どこにいるのかね」
「現在、自宅におります。試験後、体調を崩したと聞いています」
「試験を受けたという記録は?」
「受験者名簿には、名前があります」
「本人が会場にいたことを確認した者は?」
「監督補助の職員が、いたはずだと……」
「はず、か」
私は、書類を机へ戻した。
「黒田先生。君は、この学生が試験を受けたと信じているのかね」
「成績表に記載がある以上、大学としては、受験したものと考えています」
「質問に答えていない」
黒田は、眼鏡を押し上げた。
「……私は、試験会場で全員を確認したわけではありません」
「それでよい。見ていないことを、見たと言わないのは、学問の第一歩だ」
私は、成績表をもう一度見た。
白石恭一。
首席。
試験を受けていないという噂。
答案が見つからない。
私は、紙を裏返した。
「進一」
「はい」
「我々が探すべきものは、白石の答案だけではないようだね」
「成績がつけられた経緯、でしょうか」
「その通りだ。答案がないのに成績があるというのなら、答案が消えたのか、成績が作られたのか、それとも、そもそも別の何かを答案と取り違えているのか。まずは、可能性を一つずつ確かめよう」
二 答案用紙のない机
試験が行われたのは、三日前のことであった。
法科大学の試験室は、長い机が整然と並ぶ、広い部屋だった。
窓は高く、冬の日差しが、机の表面を白く照らしている。
試験監督を務めたのは、教授の榊原重信と、二人の補助職員だった。
榊原は六十歳近い男で、厳格な顔つきをしていた。
「白石君は、確かに受験者名簿に載っております」
彼は言った。
「しかし、試験中に全員の顔を確認していたわけではありません。答案を集めた際、数が合っていたので、全員が受験したものと考えました」
「答案は何枚あったのかね」
「受験者は三十二名です。答案も三十二枚、集まったはずです」
「はず?」
榊原は、少し不快そうな顔をした。
「正確に数えた記録はあります。三十二枚です」
「では、白石の答案が含まれていたかどうかは?」
「答案には受験番号が記されています。採点の際、名前を伏せて番号で管理しました。ですから、白石君の答案がどれであったかは、採点担当者が知っていたわけではありません」
「採点したのは誰だね」
「私と、黒田助教授です」
「二人とも、同じ答案を採点したのか」
「いいえ。答案を分けて採点し、必要に応じて点数を調整しました」
私は、試験室の机を見渡した。
「受験番号は、誰が記入したのかね」
「学生本人です」
「答案用紙は、どこから配られた」
「大学の事務室からです」
「配布前に、枚数を数えたか」
「もちろんです」
私は、机の上に置かれた答案用紙を一枚手に取った。
厚手の西洋紙。上部に大学名と試験科目が印刷され、右上に受験番号を書く欄がある。
私は紙を光に透かした。
「この紙は、すべて同じものかね」
「同じ種類です」
「同じ種類ということと、同じ束から出たということは違う」
榊原は、眉を寄せた。
「何をお疑いなのですか」
「まだ、何も疑ってはいない。ただ、答案が消えたという話を調べるなら、答案用紙そのものも調べる必要がある」
私は紙の端を指でなぞった。
「紙は、どこから購入した?」
「大学の事務方が一括して購入しています」
「購入記録を見せてもらえるかね」
「それは事務局の許可が必要です」
「では、許可を取っていただこう」
榊原は、ため息をついた。
その様子を見ながら、和田が口を開いた。
「先生。試験の監督をした方々は、白石さんが試験室にいたかどうか、覚えていないのでしょうか」
「受験者が三十二名もいれば、一人ひとりの顔を記憶していないことはあるだろう。特に、試験監督は答案の回収や不正行為の防止にも注意を払わなければならない」
私は榊原に向き直った。
「白石君が欠席していたという証言はあるかね」
「いいえ。欠席していたと断言する者はいません」
「出席していたという証言は?」
「それも、明確なものはありません」
「つまり、誰も、彼の姿を確実には覚えていない」
「……そのようになります」
私はうなずいた。
「興味深い。三十二人が受験したという記録はある。しかし、その三十二人の中に、白石君がいたかどうかを、誰も確実には知らない」
和田が、試験室の入口を見た。
「もし、誰かが受験者の名前を借りて試験を受けたのなら……」
「それも可能性の一つだ。しかし、代理受験があったという証拠は、まだない」
私は、答案用紙を机に戻した。
「幽霊というものは、実に便利だね。誰も見ていないのに、記録だけは残る」
三 首席の青年
白石恭一は、本郷から少し離れた、古い借家に住んでいた。
私たちが訪ねると、彼は布団から起き上がり、恐縮した様子で迎えてくれた。
二十四歳。
痩せた身体に、少し大きめの着物をまとっている。
部屋には、机と本棚、古い火鉢があるだけだった。
壁際には、法律書が積み上げられている。
どの本も、何度も開かれた跡があった。
「小室先生、和田さん。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
白石は、深く頭を下げた。
「体調を崩したと聞いたが」
「試験のあと、熱を出しました。今は、だいぶよくなっています」
「試験は受けたのかね」
彼は、私の目を見た。
「受けました」
「では、なぜ、答案が見つからないのだろう」
「……私にも、わかりません」
「首席になったことは、知っているか」
「昨日、大学から通知が来ました。自分でも驚いています」
私は、部屋を見渡した。
机の上には、法律書と、書きかけのノートが置かれていた。
ノートには、細かな文字で、法理の解釈が書き込まれている。
私は一冊を手に取った。
「これは、君の筆跡かね」
「はい」
「普段から、このような字を書くのか」
「そうです。急いで書くと、少し崩れますが」
私はノートを閉じた。
「試験のとき、何を書いたか覚えているか」
「法律の解釈について、論じました。問題文は、確か……」
彼は、少し考えた。
「契約の成立と、その効力に関する問題でした。私は、当事者の意思表示と、第三者の権利について書いたと思います」
「答案を提出したか」
「はい」
「誰に渡した」
「試験監督の方です。名前は、覚えていません」
「答案を提出したあと、何か異常はなかったか」
「特にありませんでした」
私は、白石の手を見た。
指先には、墨の汚れがある。右手の中指には、筆を長時間持つ者にできる小さな硬い部分があった。
机の上のノートと、彼の筆跡。
確かに、よく勉強している青年のように見える。
しかし、見た目や努力の跡だけで、試験を受けたかどうかを判断することはできない。
「白石君。君は、今回の成績について、どう考えている」
彼は、目を伏せた。
「自分の答案が高く評価されたのであれば、ありがたいことです。しかし、答案がないという話を聞いて、私も不安になっています」
「なぜ不安なのかね」
「もし、私が試験を受けていないと判断されれば、首席という成績も取り消されるでしょう。私は、学費を工面するために、家からの仕送りだけでなく、翻訳の仕事もしています。卒業できなければ、今までの努力が……」
彼は、言葉を止めた。
「もちろん、努力したからといって、必ず報われるとは限りません。しかし、私は、試験を受けました。それだけは、信じていただきたいのです」
和田が、静かに言った。
「白石さん。私たちは、あなたを犯人と決めつけて調べているのではありません。何が起きたのかを、確かめに来たのです」
白石は、和田を見つめた。
その表情に、わずかな安堵が浮かんだ。
私は、和田を横目で見た。
よい言い方だった。
彼は、相手を安心させるために、事実を曲げたわけではない。
調査の目的を、正確に説明しただけだ。
それで十分な場合もある。
「白石君。試験の日、大学へ行く前に、誰かと会ったかね」
「いいえ。いつもどおり、家を出ました」
「大学には、何時頃着いた」
「午前九時前です」
「試験は九時からだったのだね」
「はい」
「その日の朝、何か特別なことは?」
白石は、少し考えた。
「そういえば、大学の門の近くで、河合君に会いました」
「河合俊作君か。成績表では二位になっている」
「はい。彼とは、同じ講義を受けています」
「何を話した」
「試験のことです。河合君は、前の晩、あまり眠れなかったと言っていました」
「それだけかね」
「はい」
私は、白石の部屋を見回した。
本棚の一番下に、古い木箱があった。
「その箱には何が入っている」
「家から持ってきた書類です。父の古い手紙や、学費の記録などが入っています」
「見せてもらってもよいか」
「どうぞ」
箱の中には、古い手紙、家計簿、大学からの通知が入っていた。
私は、それらを一つずつ確認した。
その中に、大学の試験に関する紙片はなかった。
だが、箱の底に、細長い紙が一枚、折り畳まれていた。
私は、それを開いた。
そこには、受験番号らしき数字が書かれていた。
数字は、七番。
そして、その下に、小さな文字で、こう記されていた。
『答案は、必ず自分の手で提出すること』
私は、紙を白石に見せた。
「これは、君が書いたのかね」
白石の顔から、血の気が引いた。
「……はい」
「なぜ、このようなことを書いた」
彼は、長い間、答えなかった。
やがて、震える声で言った。
「試験の前に、自分に言い聞かせるためです」
「何か、不安があったのか」
「……ありました」
白石は、両手を握りしめた。
「私は、試験に落ちることが怖かったのです。ここまで来るために、家族にも苦労をかけました。もし落ちれば、私は、何のために勉強してきたのかわからなくなる。だから、試験の前夜、自分に言い聞かせたのです。誰かに頼らず、自分の力で答案を書くのだと」
私は、彼の顔を見た。
その言葉は、嘘ではないように思えた。
しかし、探偵にとって、嘘ではないように見えることと、事実であることは、同じではない。
「白石君。君は、試験に合格するために、誰かから助けを受けたことがあるかね」
「勉強を教えてもらったことはあります。しかし、答案を書いてもらったことはありません」
「そうか」
私は、紙片を箱へ戻した。
「では、我々は、大学へ戻るとしよう」
部屋を出るとき、白石は、深く頭を下げた。
私は、その姿を見ながら思った。
彼が首席であることは、確かに、奇妙な話だった。
しかし、彼が首席にふさわしい努力をしてきたかどうかは、また別の問題である。
事件を解くためには、二つを混同してはならない。
四 第二位の男
河合俊作は、白石とは対照的な青年だった。
身なりは整い、言葉遣いも丁寧で、どこか余裕がある。
彼の家は、東京の商家だった。裕福というほどではないが、学費に困ることはなく、書籍も自由に買うことができた。
私たちが訪ねると、彼は、すぐに応接間へ通してくれた。
「白石君の件ですね」
河合は、私たちが用件を告げる前に言った。
「大学でも、噂になっています」
「君は、彼が試験を受けたと思うかね」
「さあ。私は、試験中に彼を見た覚えがありません」
「受験者は三十二名だ。全員の顔を覚えているのか」
「いいえ。しかし、白石君は、いつも前の方に座っています。試験のときも、同じ場所にいると思っていました」
「思っていた、ということは、実際には確認していないのだね」
「そうなります」
私は、河合の机に置かれた答案用紙の控えを見た。
「君の答案か」
「はい。自分で書いたものを、勉強のために写しておいたのです」
「見せてもらえるか」
河合は、快く差し出した。
答案には、整った筆跡で、法律の解釈が書かれていた。
私は、文章を読んだ。
論理は明快だが、やや教科書的である。
対して、白石のノートに書かれていた議論は、同じ問題について、より踏み込んだ解釈を示していた。
もちろん、ノートと試験答案を比較して、成績の優劣を判断することはできない。
しかし、白石が高得点を取ったとしても、決して不思議ではない。
「河合君。君は、首席になりたいと思っていたかね」
彼は、少し驚いた。
「もちろんです。学生なら、誰でもそう思うでしょう」
「白石君が首席になったことを、どう感じている」
河合は、笑顔を浮かべた。
「彼は努力家ですから。首席にふさわしいのでしょう」
言葉は穏やかだった。
しかし、彼の右手は、膝の上で強く握られていた。
私は、その手を見た。
「君は、試験の前夜、何をしていた」
「勉強をしていました」
「何時まで」
「夜中の一時頃までです」
「そのあと、眠ったのか」
「はい」
「誰か、君が家にいたことを証言できるか」
「家族がいます」
「試験当日の朝は?」
「いつもどおり、大学へ行きました」
「白石君に会ったそうだね」
「ええ。門の近くで」
「そのとき、彼は何か変わった様子だったか」
河合は、少し考えた。
「……緊張しているようでした」
「君は?」
「私も緊張していました」
「試験中、何か異常はあったか」
「特にありません。ただ、答案を提出したあと、白石君の席が空いていたような気がします」
私は、椅子の背にもたれた。
「空いていたような気がする?」
「はい。試験の終了間際、顔を上げたとき、前の方に空席があったように思います」
「その席が白石君の席だったと、なぜ思う」
「彼は、いつも前の方に座っていますから」
「つまり、君は白石君の姿を見たわけではなく、空席を見て、彼がいなかったのではないかと考えたのだね」
「……そうなります」
私は、うなずいた。
「河合君。君は、白石君が首席になったことを不審に思っているか」
河合は、しばらく沈黙した。
やがて、静かに答えた。
「正直に申し上げれば、少しだけ」
「なぜ」
「私は、今回の試験に自信がありました。自分なりに、よく勉強したつもりです。しかし、白石君は、私よりも高い点数を取った。もし、彼が本当に試験を受けていないのなら、誰かが不正をしたことになります」
「君は、白石君が不正をしたと思うのか」
「……わかりません」
河合は、目を伏せた。
「私は、彼が不正をしたと信じたいわけではありません。ただ、彼が首席になった理由を、知りたいのです」
その言葉には、嫉妬と好奇心が混じっていた。
しかし、どちらか一方だけではない。
河合は、自分の努力が報われなかったことを悔しく思っている。同時に、試験の公正さが損なわれたのではないかと疑っている。
その二つは、必ずしも矛盾しない。
私は、立ち上がった。
「ありがとう。君の話は、参考になった」
部屋を出ると、和田が言った。
「河合さんは、白石さんを疑っているようでした」
「疑っているというより、自分の納得できない結果に、理由を求めているのだろう」
「それは、悪いことなのでしょうか」
「いや。疑問を持つこと自体は、悪くない。ただし、疑問を持ったからといって、答えを自分の望む形に決めてしまえば、それは推理ではなく、願望になる」
私は、大学の建物を見上げた。
「我々は、まだ何も決めていない。決めるには、証拠が足りないからね」
五 答案の行方
翌日、大学の事務局から、試験に関する記録を閲覧する許可が下りた。
事務局の書類棚には、受験者名簿、答案の受け渡し記録、採点表、成績を集計した帳簿が保管されていた。
私は、まず受験者名簿を確認した。
白石恭一の名は、確かに記載されている。
受験番号は、七番。
次に、答案の受け渡し記録。
三十二枚の答案が、試験監督から採点担当者へ渡されたことが記されていた。
そして、採点表。
七番の答案には、非常に高い点数がついている。
しかし、採点表には、答案の内容を示す記述がない。
「小室さん」
和田が、別の帳簿を持ってきた。
「こちらを見てください。採点後、答案を整理した記録です」
帳簿には、答案の番号と、保管場所が記されていた。
一番から六番。
八番から三十二番。
しかし、七番だけが、別の欄に記されていた。
その欄には、こうあった。
『七番、再確認のため、黒田助教授へ』
「再確認?」
「はい。採点後、七番の答案だけ、別に扱われたようです」
「いつだね」
「試験の翌日です」
「理由は?」
和田は、記録を指した。
『採点上の疑義あり』
私は、椅子に腰を下ろした。
「なるほど。答案は、最初から存在しなかったわけではないらしい」
「では、答案は黒田先生のところにあるのでしょうか」
「そうかもしれない。しかし、なぜ七番だけが再確認されたのか。それが問題だ」
私は、採点表を見直した。
七番の答案には、最初の採点で高い点数がつけられ、再確認のあと、さらに点数が加えられている。
つまり、白石の答案は、採点の過程で一度、疑義を持たれたあと、点数が上がっていた。
「進一。黒田助教授を呼んでもらおう」
黒田は、すぐにやって来た。
私たちが記録を示すと、彼は、少し困ったような顔をした。
「七番の答案については、確かに、私が再確認しました」
「なぜ?」
「答案の内容が、非常に優れていたからです。採点の際、私は、最初の評価が適切だったかどうかを見直しました」
「それで、点数を上げた」
「はい」
「答案の原本は?」
「……現在、私の執務室に保管しています」
「見せていただきたい」
黒田は、少しためらったあと、うなずいた。
私たちは、彼の執務室へ向かった。
机の引き出しから、封筒が取り出された。
中には、答案用紙が一枚入っていた。
受験番号は、七番。
本文には、契約の成立と、第三者の権利について、詳細な議論が書かれていた。
筆跡は、細く、整っている。
私は、白石のノートを思い出した。
文字の傾き。
「法」という字の払い。
句読点の位置。
よく似ている。
だが、私は、答案を黒田へ返した。
「この答案は、確かに七番のものだ。しかし、七番が白石君の受験番号であることと、この答案を書いたのが白石君であることは、別の問題だ」
黒田は、眼鏡を押し上げた。
「先生は、代理受験を疑っておられるのですか」
「疑うことと、決めつけることは違う。私は、事実を確認しているだけだ」
私は、答案の下端を指した。
「この紙には、折り目がある。しかも、中央ではなく、右側に寄っている。採点前からあった折り目かね」
「……わかりません」
「答案を集めたとき、すべての紙は、同じ向きに重ねられたのだね」
「はい」
「では、なぜ、この答案だけ、折り目の位置が違うのだろう」
黒田は、黙り込んだ。
私は、答案を封筒へ戻した。
「黒田先生。答案が消えたのではない。答案は、ここにある。しかし、その答案が、どのようにしてここへ来たのか。それが、まだわからない」
六 和田の調査
その日の午後、私は大学に残り、書類の照合を続けた。
和田には、別の調査を頼んでいた。
彼は、夕方になって戻ってきた。
「小室さん。白石さんが試験を受けたかどうかについて、もう少し情報が集まりました」
「聞こう」
「試験当日、大学の門番をしていた男性が、白石さんらしい学生を見たと証言しています。ただし、顔をはっきり覚えているわけではありません」
「それでは、証拠としては弱い」
「ええ。ただ、もう一人、白石さんを見たという人物がいます。大学近くの書店の店主です」
「書店?」
「試験当日の朝、白石さんが法律書を買いに来たそうです。店主は、以前から彼を知っていて、顔を覚えていました」
「何を買った」
「契約法の注釈書です」
私は、少し考えた。
「試験当日に、法律書を買ったのか」
「はい。店主によれば、白石さんは、試験の直前まで勉強したいと言っていたそうです」
「それは、受験したことの証明になるかね」
「直接の証明にはなりません。しかし、試験当日の朝、白石さんが大学の近くにいたことは、かなり確かだと思います」
私は、うなずいた。
「よい調査だ。だが、大学の近くにいたことと、試験室にいたことは違う。その区別を忘れないように」
「承知しています」
和田は、別の紙を取り出した。
「それから、白石さんの筆跡についても調べました。大学の事務局に提出された願書、講義のノート、そして今回の答案を比較したところ、いくつかの特徴が一致しています」
「具体的には?」
「『法』の字の払いが長いこと。句読点が、やや右上がりになること。そして、文章の途中で、文字の間隔が少し狭くなることです」
私は、答案を見た。
「なるほど。確かに似ている」
「筆跡鑑定というほどのものではありませんが、白石さんが書いた可能性は高いと思います」
「では、代理受験の可能性は、少し低くなったわけだ」
「はい」
私は、椅子の背にもたれた。
「進一。君は、今回の事件をどう考える」
和田は、しばらく考えた。
「白石さんが試験を受けた可能性は高い。しかし、答案が一度、別に保管されたこと。そして、その答案だけが再採点され、点数が上がったこと。この二つには、まだ説明が必要です」
「その通りだ」
「私は、答案そのものが偽物だとは思いません。むしろ、答案が正しく評価されたかどうかが問題なのではないでしょうか」
私は、彼を見た。
「つまり?」
「誰かが、白石さんの答案を、特別扱いした可能性があります。代理受験ではなく、採点の段階で、何らかの不正が行われたのではないでしょうか」
私は、ゆっくりとうなずいた。
「よい。問題の所在が、少しずつ明らかになってきたね」
七 首席を作った者
翌朝、私は、黒田助教授に再び会った。
「黒田先生。七番の答案を再採点した際、誰かに相談したかね」
「いいえ。私が独自に判断しました」
「最初の採点では、何点だった」
「七十五点です」
「再採点後は?」
「九十二点です」
「十七点も上がったのか」
「はい。最初の採点では、答案の論旨がやや曖昧だと判断しました。しかし、読み直すと、独創的な解釈が含まれていることがわかったのです」
「その解釈は、白石君の普段の学力に見合うものかね」
「十分に見合うと思います」
「では、なぜ、最初に見抜けなかった」
黒田は、少し顔を赤らめた。
「私にも、見落としはあります」
「それは、誰にでもある。問題は、見落としを認めたあと、どうするかだ」
私は、答案を机に置いた。
「黒田先生。君は、白石君を知っているか」
「講義で何度か見かけた程度です」
「個人的な関係は?」
「ありません」
「彼の家族や、後援者と関係があるか」
「ありません」
「では、なぜ、彼の答案だけを再採点した」
黒田は、答えなかった。
私は、机の上の書類を一枚、彼の前へ滑らせた。
それは、採点表の写しだった。
「七番の答案が再確認された翌日、君は、学部長宛てに一通の書簡を送っている。内容は、今回の試験の採点方法について、見直しを提案するものだ」
黒田の顔色が変わった。
「なぜ、それを……」
「書類の記録を調べれば、わかることだ。君は、試験の採点基準が曖昧であることを問題にしていた。特に、独創的な答案が、教科書どおりの答案より低く評価される傾向を指摘している」
黒田は、目を伏せた。
「私は、以前から、採点方法に疑問を持っていました。学生が、教科書の内容をそのまま書けば高得点を取れる。しかし、自分で考えた解釈を書けば、かえって減点されることがある。これでは、学問の発展を妨げると思ったのです」
「それで、白石君の答案を再採点した」
「はい。彼の答案には、教科書にない解釈が含まれていました。私は、それを正当に評価したかったのです」
「君は、彼が首席になることを知っていたか」
「いいえ。結果を集計して初めて知りました」
「しかし、君の再採点によって、白石君の点数は大きく上がった」
「……はい」
私は、黒田を見つめた。
「黒田先生。君は、採点の公正さを守ろうとしたのだろう。だが、特定の答案だけを、記録の曖昧な形で再採点した。それでは、君の意図が正しかったとしても、他の学生から見れば、特別扱いにしか見えない」
黒田は、深く頭を下げた。
「おっしゃるとおりです」
「君は、白石君の答案が優れていると考えた。しかし、他の学生の答案も、同じ基準で見直したかね」
「……いいえ」
「では、君の判断が公平だったかどうかは、まだわからない」
黒田は、長い間、沈黙していた。
やがて、顔を上げた。
「私は、白石君を首席にしたかったわけではありません。ただ、優れた答案を、正しく評価したかったのです」
「その気持ちは理解できる。だが、評価の公正さは、評価する者の善意だけでは保証されない」
私は、採点表を畳んだ。
「誰もが納得できる手続きが必要なのだよ」
八 消えた答案の正体
その日の午後、私は、大学の関係者を一堂に集めた。
黒田助教授。
榊原教授。
白石恭一。
河合俊作。
そして、事務局の担当者。
私は、机の上に、答案用紙と採点表を並べた。
「事件の全容は、こうだ」
私は、静かに話し始めた。
「白石恭一君は、試験を受けた可能性が高い。受験者名簿には名前があり、試験当日の朝、大学近くにいたことを示す証言もある。さらに、七番の答案は、彼の筆跡と一致する特徴を持っている」
白石は、息を詰めた。
「しかし、その答案は、採点後に再確認のため、黒田助教授のもとへ移された。そして、再採点によって、点数が大幅に上がった。その結果、白石君は首席になった」
河合が、口を開いた。
「つまり、不正があったということですか」
「不正という言葉を使う前に、何が行われたのかを正確に述べよう。黒田助教授は、採点基準に疑問を持ち、白石君の答案を再評価した。しかし、その手続きは、他の答案に同じように適用されていなかった」
「それでは、白石君だけが優遇されたことになります」
「結果として、そう見える。だが、白石君自身が不正を行った証拠はない」
私は、白石を見た。
「白石君。君は、黒田助教授に、答案を再採点してほしいと頼んだかね」
「いいえ。そんなことはしていません」
「黒田先生から、特別な便宜を受けたことは?」
「ありません」
「それなら、君が自分の答案を提出したこと、そして、その答案が高く評価されたこと自体を、恥じる必要はない」
白石は、目を伏せた。
「しかし、私が首席になったことで、河合君をはじめ、ほかの学生が不公平だと感じているのなら……」
「それは、君一人が背負うべき問題ではない」
私は、言った。
「採点方法を決め、答案を評価し、成績を公表するのは大学の責任だ。学生が、その手続きの不備まで引き受ける必要はない」
河合は、唇を噛んでいた。
「私は、白石君が不正をしたのではないかと疑っていました」
「君が疑問を持ったこと自体は、責められるべきではない。成績の決定過程に不透明な部分があれば、説明を求めるのは当然だ」
私は、河合に向き直った。
「ただし、疑問を持つことと、相手を不正の犯人だと決めつけることは違う。君は、その区別を覚えておくとよい」
河合は、深く頭を下げた。
「はい」
榊原教授が、重い声で言った。
「今回の採点手続きには、問題があったと認めざるを得ません。大学として、改めて答案を検討し、必要であれば、採点の基準を明らかにします」
黒田も、頭を下げた。
「私の判断によって、学生たちに不信感を抱かせたことを、深く反省しています」
私は、二人を見た。
「それでよい。間違いを認めることは、権威を失うことではない。むしろ、間違いを隠そうとすることのほうが、権威を損なう」
私は、答案を封筒へ戻した。
「ただし、一つだけ、確認しておきたいことがある」
全員が、私を見た。
「今回、消えた答案は、存在しなかったのではない。答案は、確かに存在していた。ただ、採点後に別の場所へ移され、通常の保管場所から見えなくなっていた。そのため、答案が消えたという噂が生まれたのだ」
私は、封筒を机の中央に置いた。
「幽霊がいたのではない。記録の扱いが、幽霊を作り出したのである」
九 首席という名誉
大学を出る頃には、日が傾き始めていた。
和田と私は、本郷の坂道を下っていた。
「小室さん」
「何だね」
「今回の事件では、誰かが明確に悪意を持って不正をしたわけではありませんでしたね」
「そうとは限らない。人間の内心を、完全に知ることはできないからね。ただ、我々が確認できた範囲では、白石君が不正を行った証拠はなかった。そして、黒田助教授は、自分が正しいと考える採点をしようとして、手続きの公正さを損なった」
「河合さんも、白石さんを疑っていましたが、彼自身、試験の公正さを気にしていた」
「その通りだ」
私は、冬の空を見上げた。
「人間は、自分の行動を正当化する理由を持っていることが多い。黒田助教授は、学問の発展を考えた。河合君は、公正な競争を望んだ。白石君は、自分の努力が正当に評価されることを願った。どれも、理解できる動機だ」
「しかし、結果として、大学への信頼が揺らぎました」
「そうだ。善意があれば、制度が不要になるわけではない。むしろ、善意を持つ人間がいるからこそ、手続きが必要なのだよ」
和田は、ゆっくりとうなずいた。
「小室さんは、白石さんが首席にふさわしいと思いますか」
私は、足を止めた。
「私が決めることではない」
「そうですね」
「ただし、彼が努力してきたことは、疑う理由がないように見える。彼の答案が優れていたかどうかは、適切な基準で評価されるべきだろう。首席という順位は、その評価の結果として決まるものだ」
「つまり、白石さんが首席であること自体が問題なのではなく、首席と決まるまでの過程が問題だった」
「その通りだ」
私は、和田を見た。
「進一。君は、今回、何を学んだ」
彼は、少し考えた。
「人を疑うときには、その人が何をしたかだけでなく、何が確認されていないのかも考えなければならない、ということでしょうか」
「よろしい」
「それから、結果が正しく見えても、その過程が公正だったとは限らない」
「それも、よい答えだ」
私は、再び歩き始めた。
「探偵の仕事は、犯人を見つけることだけではない。時には、誰かが犯人だと思い込まれている理由そのものを、調べなければならない」
和田は、私の隣を歩いていた。
彼は、以前よりも、自分の考えを言葉にするようになった。
私の推理を聞き、ただ感心するだけではない。
自分で考え、異なる可能性を挙げ、必要ならば私の判断に疑問を呈する。
それでよい。
探偵の相棒とは、主人の意見を肯定するためにいるのではない。
主人が誤ったとき、誤りを指摘するためにもいるのだ。
十 幽霊のいない教室
数日後。
大学から、事件の調査結果について報告があった。
七番の答案は、正式な手続きを経て再採点されることになった。
他の学生の答案についても、同じ基準で見直す必要があるかどうか、教授会で検討するという。
白石恭一の首席という順位は、いったん保留された。
彼は、失望したかもしれない。
しかし、彼は、自分の答案が正しく評価されることを望んでいた。
それが首席という結果につながるかどうかは、彼にとって、二番目の問題だったのかもしれない。
河合俊作は、白石に謝罪したと聞いた。
自分が疑ったことを詫びるとともに、採点の公正さを求めたこと自体は、間違っていなかったと伝えたそうだ。
白石もまた、河合が疑問を持ったことを責めなかったという。
人間関係というものは、実に面白い。
事件が起きたとき、人々は互いを疑う。
しかし、事実が明らかになれば、必ずしも、誰かが誰かを憎み続ける必要はない。
もちろん、すべての争いが解決するわけではない。
だが、少なくとも、誤解によって生まれた憎しみは、事実を知ることで、少しだけ形を変えることがある。
私は、机の上に置かれた大学からの報告書を畳んだ。
和田が、紅茶を運んできた。
「小室さん。今回の事件は、これで終わりでしょうか」
「我々の仕事としては、終わりだろうね」
「大学の問題は、まだ残っています」
「そうだ。採点基準をどうするか。答案をどのように保管するか。誰が再採点を認めるか。そうした問題は、大学が解決しなければならない」
「探偵には、そこまではできませんね」
「できることと、できないことを区別するのも、重要な仕事だよ」
私は、紅茶を一口飲んだ。
温かい。
窓の外では、学生たちが歩いていた。
彼らは、法律を学び、医学を学び、工学を学ぶ。
やがて役人になり、弁護士になり、医者になり、技術者になっていく者もいるだろう。
彼らは、新しい時代の日本を作る人々だ。
だからこそ、学問の場には、正確さだけでなく、公正さが必要なのだ。
正しい答えを書いた者が、正当に評価されること。
間違った答えを書いた者が、理由を説明され、学び直す機会を与えられること。
そして、評価する側もまた、自分の判断を検証できること。
それらがなければ、学問は、ただ権威を飾るための道具になってしまう。
「進一」
「はい」
「君は、幽霊を見たことがあるかね」
和田は、少し考えてから答えた。
「ありません」
「私もない」
「では、今回の事件は、幽霊がいなかったということでしょうか」
「いや」
私は、窓の外を見た。
「幽霊は、確かにいたのだよ」
和田が、目を丸くした。
「えっ?」
「ただし、死者の魂ではない。記録が作り出した幽霊だ」
私は、煙草に火をつけた。
「誰も白石君が試験を受けたところを、確実には覚えていなかった。答案は通常の保管場所から移されていた。採点は、特定の答案だけが再確認された。そうした事実が重なり、首席になった学生は、本当に存在したのかという疑いが生まれた」
「つまり、記録の隙間が、幽霊を作った」
「その通りだ」
私は、灰皿に灰を落とした。
「人間は、わからないことがあると、空白を想像で埋めたくなる。だが、空白を埋めるために作った物語が、必ずしも真実とは限らない」
和田は、静かにうなずいた。
その顔には、探偵としての成長が表れていた。
彼は、ただ謎を解くことだけを考えているのではない。
謎が、どのように生まれたのか。
誰が、その謎を信じたのか。
そして、謎が解けたあと、人々が何を学ぶのか。
そうしたことまで、考えるようになっていた。
私は、紅茶の残りを飲み干した。
「さて、進一。次の事件は何かな」
「できれば、今度こそ幽霊の出ない事件がよろしいですね」
「君は、本当に探偵の相棒に向いていない発言をする」
和田は、笑った。
私も、少しだけ笑った。
明治の東京には、まだまだ解くべき謎がある。
人間が作った制度。
人間が信じた記録。
人間が守ろうとした名誉。
その隙間には、時として、存在しないはずの幽霊が生まれる。
だが、幽霊の正体を見抜くために必要なのは、特別な霊感ではない。
観察すること。
疑問を持つこと。
そして、わからないことを、わからないままにしておく勇気である。
私は、机の上の虫眼鏡を手に取った。
次の謎が、私を待っている。




