小室泰六(SHERLOCK) - 神田の印刷所、刷られなかった号外
神田の印刷所、刷られなかった号外
一 消えた号外
明治二十六年、十二月。
神田駿河台の空は、冬の雲に低く覆われていた。
私の借家の窓から見える往来では、人力車が泥を跳ね上げ、新聞売りの少年が、寒さに赤くなった鼻をすすりながら声を張り上げていた。
東京という都市は、実に騒々しい。
人間が増えれば、欲望も増える。欲望が増えれば、金が動く。金が動けば、嘘が生まれる。
そして嘘が生まれれば、私の仕事が増える。
私は鉄瓶から湯を注ぎ、湯気の向こうで、昨日から読みかけていた新聞を開いた。
「小室さん。お客様です」
和田進一が、戸口から顔を出した。
先の白山の一件以来、彼は以前よりも落ち着いた身のこなしを見せるようになった。かつては、私の推理を聞いてから行動する男だった。しかし今では、自分で情報を集め、状況を整理し、必要と判断すれば私より先に動く。
相棒というものは、主人の後ろを歩くだけでは役に立たない。
隣に立ち、時には主人の見落としたものを指摘してこそ、相棒なのだ。
「どなたかな」
「神田で新聞を発行している、『東都日報』の編集主任だそうです。名前は、三浦敬一さん」
「新聞社の人間か」
私は新聞を畳んだ。
「通しなさい」
現れた男は、三十代半ばほどに見えた。
黒い外套の肩には、細かな雪が残っている。手には革張りの鞄を抱え、顔には一晩眠っていない者特有の疲労が刻まれていた。
「小室泰六先生でいらっしゃいますか」
「そう呼ばれている。君は三浦君だね」
「はい。東都日報の編集主任をしております」
「新聞社の編集主任が、朝早くから私立探偵を訪ねる。しかも、その顔色だ。社内の人事問題というわけでもあるまい」
三浦は驚いたように私を見た。
「なぜ、それを……」
「君の右手の親指と人差し指には、黒い汚れがある。新聞社の人間なら珍しくないが、指の腹だけでなく、爪の間にまで墨が入り込んでいる。君は昨夜、原稿を扱うだけでなく、印刷現場にいたのだろう。外套の袖には紙の細片がついている。紙を大量に扱う場所で、何かを探していたと見える」
私は煙草に火をつけた。
「さて。何が消えたのかな」
三浦は、膝の上で両手を握りしめた。
「号外です」
「ほう」
「昨夜、わが社で、号外を刷ることになりました。原稿は確かにありました。活字も組みました。印刷機も動かしました。しかし、今朝になって、その号外が一枚も見つからないのです」
「印刷機は動いたのだね」
「はい。少なくとも、私が見た限りでは」
「刷り上がった紙は何枚だ」
「それが……わからないのです」
私は眉を上げた。
「一枚も見つからないと言いながら、何枚刷ったかはわからない。なかなか興味深い話だ」
「先生、どうか笑わないでください。社内では、誰かが刷り上がった号外を盗んだのではないかと言われています。しかし、印刷所の戸は内側から閉められていた。窓も、裏口も、異常はありませんでした」
「それで、警察には?」
「まだ届けておりません」
「なぜ」
三浦は言葉を詰まらせた。
その沈黙こそ、彼がここへ来た理由の一部だった。
「号外に載せる予定だった記事が、少々……」
「少々、何かな」
「海軍の調達に関する、不正の疑いです」
和田が、私の横でわずかに顔を上げた。
海軍。 調達。 不正。
この三つの言葉が並ぶと、私の記憶の中では、先日の一件で扱った帳簿の数字が、再び不快な輪郭を持って浮かび上がった。
しかし、私はその連想を口にしなかった。
「記事の内容を見せたまえ」
三浦は鞄から、折り畳まれた原稿の控えを取り出した。
そこには、ある海軍関係の物資納入業者が、契約で定められた数量を満たさない品を納めながら、正規の代金を受け取っている疑いが記されていた。
金額は大きい。
ただし、記事は断定を避けていた。
帳簿の写しと、匿名の関係者による証言をもとに、疑惑として報じる構成になっている。
「この記事を、誰が書いた」
「私です。ただし、情報を持ち込んだ人物がいます」
「誰だね」
「名は明かせません」
「なるほど。新聞記者が情報提供者を守ろうとしている。珍しいことではない」
私は原稿を返した。
「三浦君。私は君の新聞を守るために来たのではない。君の話に矛盾があるなら、それを見つける。誰が何をしたか、可能な限り明らかにする。それだけだ」
「承知しております」
「では、印刷所へ案内してもらおう」
私は外套を取り、帽子を手にした。
「進一、君も来たまえ」
「もちろんです」
和田は、すでに鞄を持って立ち上がっていた。
私は心の中で、ほんのわずかに満足した。
彼は、もはや私が命じるまで待つ男ではない。
事件があると知れば、自ら歩き始める男になりつつあった。
それは、なかなかよい変化だった。
二 活字の迷宮
東都日報の印刷所は、神田の裏通りにあった。
表通りから一本入ると、往来の騒音は少し遠のく。しかし、印刷所の戸を開けた途端、別の種類の騒々しさが私たちを迎えた。
鉄と木のぶつかる音。
紙を揃える音。
職工たちの短い掛け声。
そして、油とインクの混じった、独特の匂い。
部屋の中央には、大きな印刷機が据えられていた。その脇には、活字を収めた棚が並び、作業台の上には、紙束と版を固定するための道具が置かれている。
近代文明というものは、実に面白い。
かつて情報は、人間の口から口へ伝えられた。今では、一人の人間が書いた文章を、何千人もの人間へ同じ形で届けられる。
しかし、伝達の速度が上がったからといって、伝えられる内容が真実になるとは限らない。
むしろ、誤りが大量に複製される危険も、同時に増えたのである。
「こちらが印刷機です」
三浦が説明した。
「昨夜、午後十時頃から号外の準備に入りました。原稿を活字に組み、版を整え、試し刷りをしたのです」
「試し刷りは残っているか」
「一枚だけ。こちらです」
彼は、机の引き出しから紙を取り出した。
私は受け取って、目を細めた。
紙には、記事の見出しと本文の冒頭部分が印刷されていた。
見出しは、
『海軍物資調達に疑惑――納入数量をめぐる帳簿の不一致』
となっている。
本文には、金額の数字が一か所、手書きで訂正されていた。
「これは誰が訂正した」
「私です。最初の原稿では、帳簿の数字を読み違えていました」
「訂正したのは、試し刷りの前か、後か」
「前です。試し刷りは、訂正を反映させたものです」
私は紙を光に透かした。
紙質は普通。印刷のかすれも、特に異常はない。
しかし、試し刷りの右端には、小さな黒い点が三つ並んでいた。
「この点は何だね」
「印刷機の汚れだと思います。昨日から、ローラーの具合が悪かったのです」
「なるほど」
私はその点を指先で軽くなぞった。
乾いたインクが、ほんの少しだけ浮き上がった。
「印刷機を見せてもらおう」
印刷機の周囲を歩き、紙を送る部分、インクを載せる部分、版を固定する部分を観察する。
大きな機械だが、構造はそれほど複雑ではない。少なくとも、仕組みを理解するのに特別な神秘は必要ない。
必要なのは、どこに力が加わり、どこで紙が動き、どこにインクが残るかを把握することだ。
「昨夜、印刷機を操作したのは誰だね」
三浦が、職工の一人を示した。
「こちらの佐々木です。印刷主任をしております」
佐々木と呼ばれた男は、四十歳ほどの、肩幅の広い人物だった。
腕まくりした袖から、筋肉質の前腕がのぞいている。指先は黒いインクで汚れ、顔には警戒心が浮かんでいた。
「昨夜、号外を刷ったのは、あんたか」
「はい」
「何枚刷った」
「……百枚ほどです」
「ほど、というのは曖昧だね」
「急いでおりましたので、正確には数えていません」
「百枚刷ったとして、その紙はどこへ行った」
「わかりません」
「誰かが持ち出したのを見たか」
「いいえ」
「印刷所から外へ出た者は?」
「私の知る限りでは、誰も」
私は彼の手を見た。
指先には、濃いインクがついている。だが、手の甲にはほとんど汚れがない。
印刷主任なら、特に不自然ではない。
「佐々木君。君は昨夜、どこで寝た」
彼は驚いた。
「寝た、ですか」
「そうだ。君は印刷機を操作していた。夜通し仕事をしたのなら、疲れているはずだ」
「家へ帰りました。終わったのは、夜中の十二時過ぎです」
「そのとき、号外はどうなっていた」
「刷り終えて、紙をまとめて……」
そこで、彼は言葉を止めた。
ほんの一瞬だった。
だが、彼の視線が、印刷機の奥にある紙置き台へ走ったのを、私は見逃さなかった。
「紙をまとめて、何だね」
「……乾かすために、積んでおきました」
「その後、誰かに渡したのか」
「いいえ」
彼は、今度は私の目を見て答えた。
私はそれ以上、問い詰めなかった。
嘘をついている者は、必ずしも目を逸らすわけではない。反対に、真実を語る者が、恐怖や恥から視線を避けることもある。
人間の表情だけで真偽を判定するのは、三流の探偵が好む手法だ。
重要なのは、言葉と物証が一致しているかどうかである。
私は印刷機の台座にしゃがみ込んだ。
床には、細かな紙屑が散っている。
その中に、一枚だけ、通常の紙屑とは違うものがあった。
薄い灰色の紙片。
端に、文字の一部らしき黒い跡が残っている。
私はそれを拾い上げ、光に透かした。
文字は、「……数量……」の一部に見えた。
「三浦君。昨夜の号外は、何部刷る予定だった」
「五百部です」
「佐々木君は百枚ほどと言った」
「ええ」
「百枚の試し刷りではなく、百枚の本刷りだったのだね」
佐々木の顔が強張った。
「私は、そう言いました」
「ならば、残り四百部は、どこへ行った」
誰も答えなかった。
印刷所の機械音が、遠くから聞こえていた。
私は立ち上がり、和田を見た。
「進一。君はどう考える」
和田は、紙片を見つめながら答えた。
「紙が盗まれたのなら、何らかの持ち出しの痕跡が残るはずです。しかし、出入口に異常がない。ならば、印刷所の中で処分されたか、そもそも予定された枚数が刷られていなかったか……そのどちらかではないでしょうか」
「よい。では、どちらを先に調べる」
「刷られた枚数です。紙の消失を考える前に、本当に五百部刷られたのかを確かめるべきです」
私は満足してうなずいた。
「その通りだ」
私は、印刷機の紙送り部分を指した。
「紙は、勝手に増えたり減ったりしない。五百枚を投入したなら、少なくともその数に見合う紙の動きがある。印刷機の構造、紙束の残り、紙屑、作業記録。すべてを調べれば、何枚が実際に通過したか、ある程度の見当はつく」
三浦は、顔色を失っていた。
「先生……まさか、号外は最初から百枚しか刷られていなかった、と?」
「まだ断定はしない」
私は煙草の灰を落とした。
「しかし、君たちが探しているのは、消えた紙なのか、それとも、刷られなかった紙なのか。そこを区別しなければ、事件の入口にすら立てないよ」
三 四人の証言
私たちは、印刷所の従業員を一人ずつ調べた。
まず、活字を組んだ植字工の小林。
次に、紙を運んだ見習いの少年、徳次。
そして、印刷主任の佐々木。
最後に、編集主任の三浦。
四人の証言には、微妙な食い違いがあった。
小林は、午後十時半頃に版を組み終えたと言った。
徳次は、午後十一時頃に紙束を印刷機のそばへ運んだと言った。
佐々木は、午後十一時半頃から本刷りを始めたと言った。
三浦は、深夜零時頃に印刷所を出たと証言した。
この時点では、特に矛盾はない。
しかし、私が気にしたのは、四人がそれぞれ「何を見たか」だった。
小林は、版を組んだことは覚えている。しかし、印刷機が動いているところは見ていない。
徳次は、紙束を運んだことは覚えている。しかし、その紙が何枚あったかは知らない。
佐々木は、百枚ほど刷ったと証言した。しかし、正確な枚数を数えていない。
三浦は、試し刷りを見た。しかし、本刷りが終わるところは見ていない。
つまり、四人とも、号外が五百部刷られたことを、実際には確認していなかったのである。
「進一」
「はい」
「君が新聞社の責任者なら、どうする」
和田は、少し考えた。
「まず、原稿の内容を知っている人間を調べます。情報が外へ漏れることを恐れた誰かが、印刷を止めた可能性がありますから」
「それも一つの可能性だ。では、印刷を止める方法は?」
「版を壊す、印刷機を故障させる、紙を持ち出す……あるいは、刷り上がったと見せかけて、実際には刷らない」
「最後の方法が、もっとも単純だね」
私は、印刷機の横に置かれた紙束を指した。
「この紙を見たまえ。端がきれいに揃っている。紙の厚みも、ほぼ均一だ。だが、上から数枚を取ると、わずかに端がずれている」
「運ぶときにずれたのでしょうか」
「その可能性はある。だが、紙束の下の方には、同じずれがない。つまり、上の紙だけが動かされたか、別の束が重ねられた可能性がある」
私は、紙束の端を指でなぞった。
「徳次君。昨夜、紙を運んだとき、紙束は何束あった」
少年は、緊張した面持ちで答えた。
「五束です。一束が百枚と聞いていました」
「五束すべてを、印刷機のそばへ運んだのだね」
「はい」
「では、今、ここにある紙束は何束だ」
徳次は、数え始めた。
一、二、三、四。
「……四束です」
「一束は、どこへ行った」
少年は、困惑したように周囲を見回した。
「わかりません。昨夜は、確かに五束ありました」
佐々木が、低い声で口を挟んだ。
「一束くらい、別の仕事に使ったのかもしれません」
「昨夜、ほかの仕事をしたのかね」
「いや、それは……」
「君は、紙が足りなくなったことを知っているのか。それとも、今、そう推測したのか」
佐々木は黙り込んだ。
私は、紙束の端にある小さな印を見た。
紙を納入した商店の印だった。
同じ印が、ほかの紙束にもある。
しかし、一束だけ、紙の厚みがわずかに違っていた。
私はその束を持ち上げた。
「これは、昨夜運ばれた紙かね」
「はい」と徳次が答えた。「ただし、最後に持ってきた束です」
「最後に?」
「ええ。最初の四束を運んだあと、佐々木さんに、もう一束持ってくるように言われました」
私は、佐々木を見た。
「君が追加を頼んだのだね」
「……はい」
「なぜ」
「紙が足りなくなると思ったからです」
「五百枚で足りる予定だったのに?」
佐々木は、口を閉ざした。
その沈黙は、先ほどよりも重かった。
私は紙束を台に戻した。
「三浦君。君たちが号外を五百部刷る予定だったのは確かだ。しかし、実際に何枚刷られたかは、誰も見ていない。そして、紙束は五束運ばれたはずなのに、今は四束しかない」
「では、盗まれたのですか」
「そうとは限らない。紙が使われたのかもしれないし、どこかへ移されたのかもしれない。だが、もっと重要なのは、君たちが『五百部刷られた』という前提で話をしていることだ」
私は、印刷機の前に立った。
「この事件では、誰もが、見たことと聞いたことを混同している。紙束が五つ運ばれたことは見た。五百部刷る予定だったことは聞いた。試し刷りを見た。しかし、五百部が刷り上がったところを見た者は、一人もいない」
私は、ゆっくりと振り返った。
「それでは、消えた号外の謎は解けない。なぜなら、消えたものが、本当に存在したかどうかさえ、まだわかっていないのだからね」
四 刷られなかった紙
昼を過ぎた頃、私は印刷所の裏手にある小さな倉庫を調べていた。
倉庫には、古い紙束、壊れた木箱、使用済みの版などが積まれている。
窓は小さく、光が十分に入らない。
私は、床に落ちた紙屑を拾い、端を調べた。
印刷機の下で見つけた紙片と、同じ種類の紙だった。
ただし、こちらには、文字がほとんど残っていない。
印刷されたものを破いたのか。
それとも、試し刷りの失敗作なのか。
私は、紙片をポケットへしまった。
そのとき、倉庫の入口に、和田が現れた。
「小室さん。三浦さんから話を聞きました」
「何かわかったか」
「記事の情報提供者についてです。三浦さんは、名前を明かせないと言っていましたが、情報が持ち込まれた経緯は説明してくれました」
「聞こう」
「情報提供者は、海軍の物資調達に関係する役所で働いていた人物だそうです。帳簿の写しを三浦さんに渡したあと、新聞が記事を掲載すると知って、ひどく動揺したらしいのです」
「掲載を望んでいたのではないのか」
「最初はそうだったようです。しかし、記事が出れば、帳簿を持ち出したことが明らかになります。本人だけでなく、家族まで危険にさらされるかもしれない。そう考えて、掲載をやめてほしいと申し出たそうです」
私は、口元をわずかに歪めた。
「なるほど。情報を告発する勇気と、その結果を引き受ける覚悟は、同じものではない」
「三浦さんは、記事を掲載する責任があると考えた。しかし、情報提供者の身を危険にさらすことにも、ためらいがあったようです」
「それで、誰かが印刷を止めたのか」
「まだ、そこまではわかりません」
私は、和田の目を見た。
「君は、どう考える」
彼は、しばらく考えてから答えた。
「記事を止めたかった人間がいたのは確かでしょう。しかし、それが情報提供者なのか、新聞社の内部の人間なのか、あるいは記事の対象になった業者なのかは、別の問題です」
「よろしい。動機を一つに決めつけないことだ。事件の入口で、犯人を決めてしまうと、すべての証拠をその人物に結びつけたくなる。探偵にとって、もっとも危険な誘惑の一つだよ」
私は、倉庫の奥を見た。
そこには、古い紙を包むための布が置かれていた。
布の端に、黒い汚れがある。
私はそれを持ち上げた。
汚れは、インクではなかった。
乾いた泥だった。
「進一。ここへ、誰かが紙束を運び込んだ可能性がある」
「しかし、紙束は四束しか残っていません」
「そうだ。だが、五束目が本当に印刷に使われたのかどうかは、まだ確定していない」
私は布を畳み、元の場所へ戻した。
「紙束の消失と、号外の消失を、同じ事件だと考えるのは早い。紙がなくなったことと、記事が公表されなかったことは、似ているようで、違う問題かもしれない」
「別々の人間が、別々の目的で動いた可能性があるということですね」
「その通りだ」
私は、倉庫を出た。
冬の風が、頬を刺した。
印刷所の裏口から、細い路地が伸びている。
その地面には、荷車の轍が残っていた。
轍の幅は、印刷所へ紙を運ぶ荷車のものと一致しているように見えた。
しかし、路地の先には、別の紙商の倉庫がある。
私は、その方向を眺めた。
「進一。あの倉庫へ行こう」
五 紙商の証言
路地の先にあったのは、小さな紙商の倉庫だった。
店主は、五十歳ほどの男で、私たちを見ると、すぐに警戒の色を浮かべた。
「新聞社の方ですか」
「違う。私立探偵だ」
「探偵……?」
「昨夜、東都日報へ紙を納めたかね」
「ええ。いつもの納入です」
「五束か」
店主は、少し考えてから答えた。
「最初は四束でした。あとから一束、追加で持っていきました」
「誰が追加を頼んだ」
「東都日報の印刷主任、佐々木さんです」
「そのとき、紙束はどこにあった」
「店の奥です」
「紙の種類は、最初の四束と同じだったか」
店主は、首を振った。
「いいえ。最後の一束だけ、少し厚みが違いました。いつもの紙が足りなかったので、別の紙を用意したんです」
「なぜ、それを使った」
「急ぎだと言われましたから。紙質が少し違っても、号外なら問題ないと思いまして」
私は、和田と視線を交わした。
紙の厚みが違う。
印刷所の紙束のうち、一束だけが異なる。
そして、その一束は、最後に運び込まれたものだった。
「店主。追加の紙束を運んだ者は、誰だね」
「うちの若い者です。徳次という少年ですが、東都日報で働いている子でもあります」
「その少年は、紙束をどこへ置いた」
「印刷機の横です。佐々木さんが、そこへ置くように指示したそうです」
私は、少し考えた。
「店主。君は、昨夜、印刷所へ行ったか」
「いいえ」
「では、紙束が印刷に使われたかどうかは知らない」
「もちろんです」
「それでよい」
私は、店主に礼を言って店を出た。
和田は、歩きながら言った。
「最後の一束が、事件の鍵なのでしょうか」
「可能性は高い。だが、紙質が違うというだけで、何かを断定することはできない」
「それでも、紙が足りないという理由で追加された一束が、印刷所から消えている」
「そうだ。では、考えてみたまえ。もし、誰かが号外を刷りたくなかったなら、どうすればよい?」
和田は答えた。
「印刷機を壊すか、版を壊すか、紙を持ち出す。あるいは、刷り上がった紙を処分する」
「それは、すでに考えたことだね。別の方法は?」
彼は、しばらく黙った。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……最初から、刷らなければよい」
「そうだ」
私はうなずいた。
「紙を盗む必要もない。印刷機を壊す必要もない。版を壊す必要もない。刷らなければ、刷り上がった紙は存在しないのだからね」
「しかし、試し刷りはあります」
「試し刷りは、一枚だけだ。誰かがそれを見せれば、印刷が行われたと信じる者もいるだろう。だが、一枚刷ったことと、五百枚刷ったことは、まったく違う」
私は、煙草を取り出した。
「三浦君は、号外が刷られたと信じている。徳次君は、紙束を運んだと証言している。佐々木君は、百枚ほど刷ったと言っている。しかし、五百部の完成を見た者は一人もいない」
火をつけ、煙を吐き出す。
「では、誰が、なぜ、百枚だけ刷ったのか。それを解けば、事件の半分は解決する」
六 佐々木の告白
私たちは、再び印刷所へ戻った。
佐々木は、印刷機のそばで、部下に指示を出していた。
私を見ると、明らかに表情を硬くした。
「佐々木君。少し話をしよう」
「……何でしょう」
「昨夜、君は百枚ほど刷ったと言ったね」
「はい」
「五百部を刷る予定だったのに、百枚で止めた。なぜだ」
彼は、答えなかった。
「君は、印刷機の故障を理由にしたわけではない。版が壊れたわけでもない。紙が足りなかったわけでもない。追加の紙束は届いていた。ならば、印刷を止めたのは、君自身の判断だったのではないか」
「違います」
彼は、強い口調で言った。
「私は、ただ……」
そこで、言葉が途切れた。
私は、彼を見つめた。
「君は、記事の内容を知っていたか」
「……はい」
「海軍の調達に関する疑惑だ。君は、記事を読んだのだね」
「原稿を運ぶときに、見ました」
「それで、印刷を止めた」
「……はい」
三浦が、息を呑んだ。
「佐々木さん、あなたが?」
佐々木は、うつむいた。
「私は、新聞を売るために働いている。印刷機を動かし、紙を刷り、読者に届ける。それが仕事です。しかし、昨日の記事を読んで……怖くなったのです」
「何が怖かったのかね」
私が尋ねると、彼は、しばらく沈黙した。
「私の兄は、海軍の下請けをしている小さな工場で働いています。今回、記事に名前が出る会社とは、直接の取引はありません。しかし、もし海軍の調達全体が疑われれば、仕事が減るかもしれない。兄の工場は、ただでさえ苦しいのです」
彼は、手を握りしめた。
「もちろん、不正があったなら、明らかにするべきなのかもしれません。しかし、新聞に疑惑が載れば、関係のない者まで疑われる。仕事を失う者も出るでしょう。私は、それを考えてしまったのです」
「それで、君は記事を止めた」
「はい。私は、百枚だけ刷りました。試し刷りを含めて、編集主任に見せれば、印刷が始まったことはわかる。あとは、機械の調子が悪いと言えば、時間を稼げると思ったのです」
「しかし、君は、号外を盗んだわけではない」
「盗んではいません。残りの紙は、別の仕事に回しました。五束目は、まだ印刷所にあります。私が、倉庫へ移しました」
私は、倉庫で見つけた紙片を思い出した。
「では、紙束は存在していたのだね」
「はい」
「なぜ、隠した」
「記事が中止になれば、紙を無駄にせずに済むと思ったのです。それに、紙束が残っているとわかれば、三浦さんが、もう一度印刷を命じるかもしれない。私は、そう考えました」
佐々木は、顔を上げた。
「私は、新聞を売る仕事をしています。しかし、記事が世に出ることで、誰かの生活が壊れるかもしれないと思ったとき、何を優先すべきなのか、わからなくなったのです」
印刷所は、静まり返っていた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
三浦は、怒りを抑えるように、唇を結んでいた。
私は、佐々木を見た。
「君は、記事が真実かどうかを確かめたかね」
「いいえ」
「記事の内容が誤っている可能性を調べたか」
「いいえ」
「それなのに、君は、記事が出れば誰かの生活が壊れると判断した」
佐々木は、うつむいた。
「……はい」
「それは、君の仕事ではない」
私は、淡々と言った。
「君は、印刷主任だ。記事の真偽を判断するのは、編集者の仕事だ。掲載するかどうかを決めるのも、編集部の責任だ。君が心配すること自体は理解できる。しかし、その心配を理由に、独断で印刷を止める権限はない」
「わかっています」
「本当にわかっているなら、次からは、止める前に相談したまえ」
佐々木は、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
しかし、私は、事件がこれで終わったとは考えていなかった。
佐々木が印刷を止めた理由はわかった。
紙束が消えた理由もわかった。
だが、試し刷りにあった三つの黒い点は、まだ説明されていない。
そして、もう一つ。
佐々木は、なぜ、最初から百枚だけ刷ったのか。
彼は、印刷を止めるために、試し刷りを利用したと言った。
しかし、その方法が、最初から計画されていたのか。それとも、途中で思いついたのか。
そこには、まだ確認すべきことが残っていた。
七 三つの黒い点
私は、三浦に試し刷りをもう一度見せてもらった。
紙の右端に、三つの黒い点が並んでいる。
私は、印刷機のローラーを調べた。
確かに、インクの汚れがあった。しかし、三つの点ができるような形ではない。
次に、版を固定する金具を調べた。
そこにも、黒い汚れが付着していた。
しかし、三つの点とは位置が合わない。
私は、紙を印刷機の台に置き、版の位置と照らし合わせた。
すると、三つの点は、本文の印刷範囲からわずかに外れた場所にあることがわかった。
「これは、印刷機の汚れではないな」
私が言うと、三浦が顔を上げた。
「では、何なのでしょう」
「版の端に、何かが接触した跡だ。だが、インクがついた原因は、まだわからない」
和田が、版を覗き込んだ。
「小室さん。この版は、まだ使えるのですか」
「使えるはずだ。文字の欠けも、大きな損傷もない」
「ならば、昨夜、誰かが版に触れた可能性はありませんか」
「ある。だが、版に触れたことと、三つの点ができたことが、直接結びつくかどうかは別だ」
私は、印刷機のそばに置かれた道具箱を調べた。
そこには、活字を扱うための小さな道具が並んでいた。
その中に、先端の丸い金属棒が一本あった。
先端には、黒いインクがついている。
私は、その棒を持ち上げた。
「これを使うのは、誰だね」
「植字工です」と三浦が答えた。「活字を調整するときに使います」
「昨夜、誰が使った」
「小林君です」
私は、植字工の小林を呼んだ。
「君は、昨夜、この道具を使ったか」
「はい。版の調整に使いました」
「そのとき、版にインクがついた可能性は?」
「あります。ただ、印刷前には拭き取ったはずです」
「はず、か」
私は、金属棒の先端を観察した。
インクは乾いている。だが、先端の一部には、新しい油のような光沢があった。
「小林君。君は、試し刷りを見たか」
「はい」
「三つの点に気づいたか」
「いいえ。気づきませんでした」
「では、試し刷りを見たあと、版に触れたか」
「……いいえ」
彼は、少しだけ目を泳がせた。
私は、その表情を追わなかった。
「君は、昨夜、何時に印刷所を出た」
「午後十一時頃です」
「そのとき、佐々木君は何をしていた」
「印刷機の前にいました」
「三浦君は?」
「編集室にいたと思います」
「徳次君は?」
「紙を運んでいました」
私は、金属棒を道具箱へ戻した。
「わかった。君は、もう戻ってよい」
小林が去ったあと、和田が言った。
「小室さん。今の質問には、何か意味があったのですか」
「もちろんだ」
「しかし、三つの点の原因は、まだわかっていません」
「そうだ。だが、重要なのは、三つの点そのものではない。誰が、いつ、版や印刷機に触れることができたかだ」
私は、試し刷りを机の上に置いた。
「佐々木君は、印刷を止めるために百枚だけ刷ったと言った。しかし、もし彼が最初から印刷を止めるつもりだったなら、なぜ、試し刷りを三浦君に見せる必要があったのか」
「印刷が始まったと信じさせるため、ではありませんか」
「その通り。だが、試し刷りは一枚でよかった。三つの点が付いた理由は、佐々木君の計画とは無関係かもしれない」
私は、紙の端を指で叩いた。
「事件には、必ずしも一人の犯人しかいないわけではない。ある人間が何かを隠し、別の人間が別の理由で行動し、その結果、誰も予想しなかった事態が生まれることもある」
和田は、静かにうなずいた。
「つまり、号外を刷らなかったのは佐々木さん。しかし、三つの点をつけたのは、別の誰かかもしれない」
「あるいは、誰も意図していない偶然かもしれない。そこを確かめるのが、我々の仕事だ」
八 真実を刷る者
夕方、私は三浦と佐々木を、編集室へ集めた。
窓の外では、日が傾き始めていた。
机の上には、原稿、試し刷り、紙束の記録が並べられている。
「事件の経緯は、ほぼ明らかになった」
私は、煙草をくわえたまま言った。
「佐々木君は、記事の内容に不安を抱き、独断で印刷を止めた。予定されていた五百部のうち、実際に刷られたのは、試し刷りを含めて百枚ほど。残りの紙は、印刷所の倉庫へ移されていた。つまり、号外が盗まれたのではない。最初から、五百部の号外は存在しなかったのだ」
三浦は、目を閉じた。
「私は、印刷が始まったと信じていました」
「君は、試し刷りを見た。それで、印刷が進んでいると考えた。しかし、実際に本刷りが行われたところは見ていない。君が信じたのは、事実そのものではなく、事実についての推測だった」
「……はい」
「佐々木君の行為は、職務上の問題だ。君の許可なく印刷を止めたことについて、社内で責任を問う必要があるだろう。しかし、彼が何を恐れたのかを理解することも、同じくらい重要だ」
佐々木は、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。どのような処分でも受けます」
三浦は、長い間、黙っていた。
やがて、彼は口を開いた。
「佐々木さん。あなたの判断は、間違っていたと思います。記事を止める権限は、あなたにはありません。しかし……あなたが心配したことまで、間違いだとは思いません」
佐々木は、顔を上げた。
「編集部として、情報提供者の安全を、もっと慎重に考えるべきでした。記事を掲載することだけを急いで、その人が置かれた状況を十分に考えていなかったのかもしれません」
「三浦さん……」
「ただし、記事をどうするかは、改めて編集部で決めます。あなた一人の判断で止めることも、私一人の判断で出すことも、もうしません」
私は、彼らを見ていた。
なかなか興味深い結末だった。
どちらか一方が完全に正しく、もう一方が完全に間違っているというわけではない。
佐々木は、職務上の責任を果たさなかった。しかし、記事が人々の生活に与える影響を恐れた。
三浦は、報道の責任を果たそうとした。しかし、情報提供者の危険を十分に考慮していなかった。
彼らは、それぞれ別の問題を見ていたのである。
そして、問題を一つしか見ていない者は、しばしば、自分が正しいと信じるあまり、別の問題を見落とす。
「小室先生」
三浦が、私に向き直った。
「記事は、掲載すべきでしょうか」
「私に尋ねることではない」
「しかし、先生は真実を見抜く方です」
「私は、事実を調べる者だ。記事を掲載するかどうかを決める者ではない」
私は、机の上の原稿を指した。
「まず、帳簿の数字を裏付けたまえ。情報提供者の証言だけでなく、納入記録や契約書を照合する。疑惑が事実なら、事実として報じればよい。裏付けが不十分なら、追加取材をする。君の仕事は、紙に文字を刷ることではない。読者が判断するための材料を、可能な限り正確に届けることだ」
三浦は、深くうなずいた。
「承知しました」
私は立ち上がった。
「では、我々の仕事は終わりだ」
「先生、もう一つだけ」
三浦が言った。
「もし、裏付けが取れたとしても、記事を出せば、関係者が報復を受けるかもしれません。それでも、報じるべきなのでしょうか」
私は、しばらく考えた。
「報道には、危険が伴う。だからといって、危険があるという理由だけで、すべてを沈黙させれば、権力を持つ者にとって、都合のよい世界ができあがる。しかし、危険を無視して記事を出すことも、勇気とは限らない」
私は、彼の目を見た。
「君が考えるべきなのは、報じるか、報じないかという二つの選択肢だけではない。どうすれば、必要な事実を明らかにしながら、関係のない者を危険にさらさずに済むか。その方法を探すことだ」
三浦は、何度もうなずいた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。私は、君の代わりに決断するつもりはないからね」
九 神田の夜
夜。私たちは、神田駿河台の借家へ戻った。
鉄瓶から湯気が立ちのぼり、部屋の中には、いつもの静けさが戻っていた。
私は椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
和田は、机の上に事件の記録を並べていた。
「小室さん」
「何だね」
「今回の事件は、奇妙でした」
「どのあたりが?」
「号外が消えたのではなく、最初から刷られていなかった。それなのに、誰もが、刷り上がった号外が盗まれたと考えていたことです」
「人間は、目の前にある事実よりも、自分が信じた筋書きを優先することがある。新聞社の人間なら、五百部を刷る予定だったという話を聞き、五百部が刷られたものと思い込む。印刷主任なら、記事が世に出た場合の危険を考え、印刷を止めることが最善だと思い込む」
「そして、情報提供者は、最初は告発を望んでいたのに、記事が出る段階になって恐ろしくなった」
「その通りだ」
私は、窓の外を見た。
遠くで、新聞売りの少年の声が聞こえた。
今日もまた、新聞が街へ流れていく。
紙の上には、事件があり、政治があり、商売があり、人間の欲望がある。
そして、その紙を手にする者は、そこに書かれた言葉を、真実として受け取るかもしれない。
だが、新聞に印刷された文字は、真実そのものではない。
それは、真実へ近づこうとする人間の営みの一部にすぎない。
「進一」
「はい」
「君なら、今日の記事をどう扱う」
和田は、しばらく考えた。
「まず、帳簿を確認します。数字が正しいか、納入記録と一致するか、別の証拠があるか。情報提供者の安全も考えなければなりません。しかし、危険を理由に疑惑を隠すことも、正しいとは思いません」
「よい答えだ」
「ただし、すぐに記事を出すべきかどうかは、まだ判断できません」
「それでよい」
私は、煙を吐き出した。
「わからないことを、わからないままにしておく。それは、無能の証明ではない。判断するための材料が足りないと認めることは、時として、もっとも誠実な態度なのだ」
和田は、記録帳を閉じた。
「小室さんは、最初から、佐々木さんが印刷を止めたと考えていたのですか」
「いや。最初に考えたのは、五百部が本当に刷られたのかどうか、ということだけだ」
「それだけですか」
「それだけだよ。事件の最初に、壮大な陰謀を想定する必要はない。まずは、紙が何枚あったのか。誰が何を見たのか。どこに矛盾があるのか。そうした小さな事実を積み重ねるのだ」
私は、指先で灰皿を軽く叩いた。
「大きな謎は、しばしば、小さな事実の見落としから生まれる」
和田は、静かにうなずいた。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
神田の街は、明日も騒々しいだろう。
新聞は発行され、商人は商売をし、役人は書類に印を押し、人々はそれぞれの事情を抱えて生きていく。
その中には、誰にも知られぬまま終わる事件もある。
誰かが嘘をつき、誰かが真実を隠し、誰かが善意から誤った判断をする。
そして、時には、誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っていることもある。
私は、机の上の記録を眺めた。
事件の結末は、明快だった。
号外は盗まれていなかった。
印刷主任が、独断で印刷を止めていた。
しかし、事件の意味は、それだけではなかった。
真実を伝えることと、誰かを守ること。
その二つが衝突したとき、人間は、何を選ぶのか。
その問いに、探偵が答えを与えることはできない。
探偵にできるのは、何が起きたのかを明らかにすることだけだ。
その先をどうするかは、事件に関わった人間たち自身が、決めなければならない。
私は、煙草を灰皿に押しつけた。
「さて、進一。明日は、何か新しい事件が舞い込むかな」
「できれば、しばらくは平穏であってほしいものです」
「君は、探偵の相棒に向いていない発言をするね」
和田は、苦笑した。
「小室さんのように、事件を好んでいるわけではありませんから」
「私は事件を好んでいるのではない。矛盾を好んでいるのだよ。矛盾は、世界が我々に見せている、解決を待つ問題だからね」
私は窓の外を見た。
東京の夜空は、雲に覆われていた。
その下で、無数の人間が、明日もまた、それぞれの真実を生きていく。
そして私は、その真実の隙間に生じた矛盾を追いかける。
小室泰六。ロンドンでシャーロック・ホームズと呼ばれた男の魂を宿す、神田の私立探偵。
明治の東京は、まだまだ私を退屈させてはくれそうになかった。




