『小室泰六(SHERLOCK) - crisis management』- Ⅰ
新章:小室泰六(SHERLOCK) - Alias
明治二十六年の、
或る、十二月の夜。
白雪に覆われた東京・神田駿河台の書生長屋は、
張り詰めた静寂に包まれていた。
鉄瓶から立ち上るただの湯気が、
冷え切った部屋を静かに潤していた。
私――小室泰六は、
手元の湯呑みから立ち上る玉露の香りを優雅に一口含むと、
いつものように窓の外の、
白雪に覆われた神田の暗闇をじっと見つめていた。
その夜、
私たちの事務所の扉を激しく叩き、
入ってきた一人の依頼人がいた。
白山の名高き旧家である、
美術品収集家に長年仕える、
実直な老番頭。
彼は、
衣服の裾を震わせながら、
一枚の帳簿の写しを私たちの前の机へと差し出してきた。
「小室先生、
どうかお助けください。
昨日、
我が当主の放蕩息子が、
あの白山の収集家宅に出入りする新興宗教の教祖、
神沼さえこという女に騙され、
円空仏の共同投資という怪しげなねずみ講にはまり込んでしまったのです。
若旦那はその教団に貢ぐために、
蔵の奥深く、
三重の錠前で密室保管されていたはずの、
あの『家宝の美術品(円空仏の彫像)』を持ち出そうとしていました。
そればかりか、
蔵の中では我が主が、
何者かに襲われて胸を刺され、
軽傷を負っておりました。
主は幸い命に別状はなかったものの、
なぜか警察へ行くことを頑なに拒むのです。
ですが、
先代から一族に仕える私としては、
あの不気味な教祖の罠にはまり、
身を滅ぼしかけている跡取りの身が気にかかります。
私はみずからあの女の素性を調べたのですが、
恐ろしいことに、
あの神沼さえこという高名な名前すら、
最初から一文字の真実もない、
ただの偽名(Alias)だったことまで突き止めたのです。
このまま見過ごすなどできないのです」
実直な番頭の吐き出す、
恐怖と焦燥。
さらに三重の錠前で固められた密室の状況から、
お上の警察すらも不可能犯罪だと大騒ぎし、
頭を抱えているという。
だが、
その時、
私の瞳の奥に、
冷酷な理知が静かに点火した。
私は、
机の上の書類を一瞬にして見抜くと、
万年筆を机へと置いた。
「番頭殿。
面白い。
その事件、
私を引き受けよう。
君の主を襲わせ、
若旦那を骨抜きにしたその神沼さえこという教祖の偽名(Alias)の裏に走る、
計算のすべてを、
今この場で完璧に解き明かして見せよう」
老番頭が、
声を失った。
私は冷酷な理知をその瞳の奥に走らせ、
鋭く突き刺した。
「君の主が警察へ届け出ることを拒んでいた本当の理由。
その若旦那がはまり込んだ『円空仏』の正体が、
かつて廃仏毀釈の混乱に紛れ、
君の主とその偽名(Alias)を使った教祖が結託して仕組んだ『円空仏の共同投資』という大衆を騙すための罠そのものだからさ。
高利回りの配当を謳って商人たちから巨額の金を騙し取っていた、
ただの投資詐欺。
警察へ届け出た瞬間に、
自らの詐欺の配線が逆探知されて、
君の主の一族は処刑される。
だから君の主は軽傷で済んだのをいいことに、
警察を動かせなかったのだよ」
「う、
うう……
我が主と、
あの偽名(Alias)の女が、
投資詐欺の元締めだったと……」
「だが、
私が呆れ果てているのはそんな歴史の闇ではない。
円空が遺した本物の木彫り仏であれば、
その鑿の跡や木の経年変化、
背中に刻まれた墨書に一寸の狂いもない特徴があるはずなのだよ。
だが、
君が差し出してきたその帳簿の写しに記された木彫りの特徴は、
教祖の神沼さえこ(Alias)が投資詐欺の破綻を隠蔽するために、
最近になって職人に彫らせて急造した、
時代考証が完全に崩壊している真っ赤な偽物の木彫りさ。
主が襲われた本当の理由、
それは投資詐欺の破綻によってすべてを失い、
首が回らなくなった信者、
あるいは偽名(Alias)の教祖自身が仕組んだ計算の最果てに過ぎない。
……面白い、
進一。
衣服の裾を直しなさい。
私たちは今すぐ、
その偽名(Alias)の教祖が潜む本郷の地へ乗り込むのさ」
私が万年筆をポケットへと収め、
衣服の裾を直して静かに席を立った瞬間、
傍らに佇んでいた進一の瞳の奥で、
かつてないほど強烈な意思が速度を上げたのを、
私は見逃さなかった。
「ええ、
わかりましたよ、
小室さん。
僕の良識だけで、隠した偽名(Alias)の嘘を解き明かせるか、試してみたくなりました。
進一の脳裏には、小室の思考回路へ追いつきたいという、少しばかりの、ライバル心が芽生えていた。




