『小室泰六(SHERLOCK) - 和田進一の事件録』- Ⅱ 改訂版
第2話:天賦の才 - gifted
白雪に覆われた、神楽坂の夜を歩き、僕は再び神田の書斎へ戻っていた。
鉄瓶から立ち上るただの湯気が、冷え切った部屋を静かに潤している。
そして、机の向こうには、僕が外套をはおり、雪の夜へと消えていったあの時と一文字も変わらぬ佇まいで、名探偵・小室泰六が静かに佇んでいた。
僕は衣服の裾を直し、大塚の街の死角から無事に確保し、連れ戻してきたあの豪商の放蕩息子――若旦那を小室さんの前に座らせると、自らが足で稼いできた調査報告のすべてを、静かに小室さんへ伝えた。
「小室さんの言った通りでした。
僕が番頭殿に導かれて足を踏み入れた、あの大塚の蔵の内部。…
…三重の錠前が綺麗に並ぶ重厚な扉を開けた先は、鉄の匂いが鼻を突く、薄暗く冷え切った密室でした。
部屋の中央にある棚の上には、鳳凰の細工が施された金属の箱がぽつんと取り残されていました。
僕はその箱をこの手で持ち上げてみたのです。確かに大人ひとりが両手で抱えなければ持ち上がらない重量が、そこには存在していました。……
でも、僕は棚の床面、そして箱の底をじっと凝視しました。
もし、
それが(現在の貨幣価値に換算すれば時価数千万円に相当する)
本物の純金で作られた鍵であるならば、棚の木面にはもっと深く、鋭い陥没の傷が刻まれていなければならないはずです。
純金の持つ真の重量は、木を静かに歪ませるほどの質量を孕んでいるからです。
だが、目の前の棚に残された痕跡は、あまりにも浅く、滑らかでした。…
…だから僕は確信したのです。
若旦那が蔵の密室から小脇に抱えて走って逃げ延びることができたのはなぜか。
悪党どもが命を懸けて奪い合おうとしていたあの鳳凰の鍵の中身が、最初から、軽い鉛の偽物だったからです」
僕の報告を、手元の湯呑みから立ち上る玉露の香りとともに、一口含むと、机の上の書類を一瞬にして見抜きながら聞いていた小室泰六は、驚く風もなく、ふっと静かな微笑みを浮かべた。
何も知らずに本物だと信じ込まされ、父親の犯罪の片棒を担がされていた若旦那は、小室さんの理知の瞳の前で、ただ俯いていた。
僕は湯呑みを眺めながら、なぜ大塚の地で若旦那を見つけ、連れ戻せたのか、その件も、小室さんへ伝えた。
「若旦那が、なぜ大塚にいたのか、その理由は、若旦那が馴染みにしていた薄暗い居酒屋が、あの大塚の路地の奥に実在していたからです。
番頭殿から若旦那の交友を伝え聞き、
僕は、彼が裏の賭博場で胴元にはめられ、莫大な借金を背負わされていた事実を突き止めました。
悪党の正体は、その賭博の胴元でした。
彼らは借金の形として、一族の秘宝である鳳凰の鍵を盗み出して持ってこいと若旦那を脅迫し、あの居酒屋の密室で彼を取り囲んで『暗号を解け、さもなければ命はないぞ』と迫っていたわけです。
…だから僕は、その密室の戸を開けて割って入り、あんたたちが命懸けで奪い合っていたその鍵は最初からただの『ニセモノ』だと、小室さんの数理を突きつけてやりました。
万年筆の先で鍵の表面をガリリと削り、剥き出しになったただの鈍い鉛の肌を見せてね。
胴元たちは自らの仕掛けた罠の無意味さを知って絶望のなかで声を失って逃げ出し、若旦那も自分が父親の自作自演の犯罪に踊らされていた事実を知って、完全に自我を喪失しました。
僕は彼の肩を叩き、『まず、実家の神楽坂へ戻ってすべてを打ち明けよう』と、僕は、若旦那を説得して、こうして連れ戻してきたわけです」
「進一。君がその無機質なロジックに囚われてみた結果は、薄情な(heartless)計算で、
手に入れたゲームのスコアは、やはり仕掛けが総て丸見えだったあのお化け屋敷と同じ、ただの『落胆』だったろう?」
「わかっていますよ、小室さん。悪党どもが命を削り合って奪い合おうとしていたあの鍵は、ただの真鍮と鉛のゴミでした。…
…でも、小室さん。一つだけ、僕の良識の数理では、どうしても解決できない死角があるのです」
僕は万年筆を強く握り締め、小室さんのその明晰な横顔を見つめた。
「新政府の役人を騙すために提示され、厳格な調査をパスした、あの時価数千万円に相当する正真正銘の本物の純金製の鳳凰。……あの本物は、一体どこへ消えたのですか?」
その問いに対し、小室泰六は湯呑みを静かに置くと、冷酷な理知をその瞳の奥に走らせ、鋭く突き刺した。
「進一、物質の比重という物理的な数理を、君はまだ考えている段階で引き算できていないのさ。
本物の純金は、泥棒に盗まれたのでも、火災で溶けたのでもない。
君が連れてきたその若旦那の親父殿が、お上の目を欺いて裏の利権を処理するために、
【今もなお、誰の目にも触れない豪商の、あの暗黒の地下金庫の奥深くへと、冷徹に隠匿されたまま実在している】のさ」
その核心を突く一撃。
最初から、胴元に脅されて軽い鉛の偽物を持ち出していった息子。
裏と金庫の一対の鳳凰。
一族の生存本能の資産へと化けた本物の純金という、本物の純金。
小室さんが「数字のつじつま合わせには興味がない」と鼻で笑った真の理由は、この血の通わない、薄情な(heartless)計算のすべてを、最初から百パーセント完璧に見抜いていたからに他ならない。
僕は服の裾を直し、冷徹にゲームのスコアを判断していた。
警察を動かすまでもない、ただのつまらない物質のすり替えの手続き。
小室さんは、静かに紫煙をくゆらせている。
僕が、現場に赴き、確認した内容を、
天才探偵 小室泰六は、机上でやってのける。
改めて、小室泰六の底知れぬ、天賦の才に、僕の脳内は、完全に撃ち抜かれていた。
小室さんには敵わないのだと……




