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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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『小室泰六(SHERLOCK) - 和田進一の事件録』- Ⅰ 再改訂版

【ダシール・ハメットへ捧げる賛辞と謝意】


一九三〇年、この世界に『マルタの鷹』という名の冷徹な数理を記述し、非情なる、ハードボイルド探偵小説を爆誕させた偉大なる作家ダシール・ハメット氏。


当時の、厳しい検閲の手続きを潜り抜け、無駄な虚飾の記号を大幅に削ぎ落とすことで、言葉の骨組みにダイヤモンドの強度(ハードボイルド)を宿してみせた彼の圧倒的な執念と美学に対し、ここに賛辞と、心からの謝意を、そして、足元にも及びもせぬが、本作を捧げる。


東曌(アズマショウ)

第1話:小室の門前払い


明治中期の夜。

雪の気配が這い回る神楽坂の書斎は、張り詰めた静寂に包まれていた。


鉄瓶から立ち上るただの湯気が、冷え切った部屋を静かに潤していく。


私 和田進一は、いつものように机の傍らに佇み、私の相棒であり、この国最初の名探偵である小室泰六の、その明晰な横顔をじっと見つめていた。


その夜、先般の神楽坂の事件のあらましを聞きつけて、私たちの書斎の扉を激しく叩き、入ってきた一人の依頼人がいた。


神楽坂でも名高い、格式高き旧家の大豪商に長年仕える、実直な老番頭。


彼は、衣服の裾を震わせ、一枚の帳簿の写しを私たちの前の机へと差し出した。


「小室先生、どうかお助けください! 昨日、我が当主の放蕩息子が、蔵の奥深く、三重の錠前で密室保管されていたはずの、あの『家宝の金属細工(鳳凰の彫像)』をどこかへ持ち出し、そのまま行方不明になってしまったのです!


当主は、なぜか警察へ行くことを頑なに拒むのですが、先代から一族に仕える私としては、跡取りの身を案じています。このまま見過ごすなどできないのです」

実直な番頭の吐き出す、恐怖と焦燥。

だが、その時、小室泰六の微笑みは、ふっと冷淡に凍りついた。


泰六は、手元の湯呑みから立ち上る玉露の香りと共に、一口含むと、机の上の書類を一瞬にして見抜き、それを床へと退けた。


「番頭殿。お引き取り願おう。

私は、君の主と新政府が維新の闇のなかで仕組んだ、無機質な数字のつじつま合わせには、最初から興味がないのさ」


「えっ……先生!? なぜそれを! 若旦那の命がかかっているのです!」


老番頭が、声を失った。


泰六は、冷酷な理知をその瞳の奥に走らせ、鋭く突き刺した。


「あなたの主あるじが警察へ届け出ることを拒む本当の理由。

その持ち出された『家宝』の正体が、かつて幕府の瓦解のドサクサに紛れ、新政府の役人自らが君の主と結託して隠蔽した、旧幕府軍の『開かずの金庫の鍵』そのものだからさ。警察へ届け出た瞬間に、お上自らの過去の不祥事が逆探知されて、君たちの一族は裁かれる。

だから君の主あるじは警察を動かせない」


「う、うう……」


「だが、私が呆れ果てているのはそんな歴史の闇ではない。物質の比重という物理的な数理を、あなたの主たちは考えている段階で忘れてしまったのかい?

純金で作られたその鍵は、重すぎて大人ひとりの力では持ち上げることも、運ぶことも最初から絶対に無理なのだよ。


放蕩息子がひとりで小脇に抱えて、雪の夜のなかを走って逃げ延びることができたのはなぜか。


中身が最初から、軽い鉛の偽物だったからさ。

あなたの主あるじが過去の不祥人を隠蔽するために地下金庫へ本物を隠し、息子に軽い鉛の偽物を持ち出させた自作自演の犯罪。


君の主は、最初から君をも騙していたのだよ。


そんな矛盾に満ちた、ただの物質のすり替えの手続きなど、私の脳細胞を動かすまでもない。

ただのつまらない話だ。


私は人間の生々しい業や、言葉のパズルしか興味がないのさ」

「そ、そんな……若旦那が、ただの偽物のために……」

番頭は絶望のなか、肩を落として部屋から出ていこうとした。

天才・小室泰六にとっては、それはただの物理的な間違いに過ぎなかったのだ。

だが――。

その老番頭の背中を見つめていた私の胸のなかで、かつてないほど強烈な、意思が超加速を開始した。

「小室さんが、退けた案件。

…いいえ、小室さんが動かないのなら、この僕、和田進一がその事件を、引き受けましょう」

私がそう声を立てて宣言した瞬間、泰六は驚く風もなく、ふっと静かな微笑んだ。

「いいだろう、進一。君がその無機質なロジックに囚われてみたいと言うのなら、私は止めはしない」

小室は湯呑みを置き、戸惑う私を見つめて、その言葉の意味を静かに噛み砕いた。


「私の云う、ロジックとはね、血の通わない、薄情な(heartless)計算のことさ。


私は、人間の生々しい感情や、言葉の裏に隠された動機という、水のように複雑に変化する知性だ。

だが、今回の事件は違う。


豪商が国を騙して隠した数字、そして純金と鉛の重量の違いという、ただの無機質な物理のつじつま合わせに過ぎない。


君がこれから若旦那の消えた浅草へ繰り出した最果てで、その冷たい数字の罠の正体を暴いたとき、総て丸見えの、お化け屋敷と同じ、ただの『落胆』を突きつけられることになるのさ。それでも行くのかい?」


「わかっていますよ、小室さん。

でも、僕自身のまっとうな良識だけで、どこまでその、隠した鉛の比重の嘘を解き明かせるか、試してみたくなったのです」


僕は、外套をはおり、一人、雪の降る薄暗い浅草の街へと、探偵としての初めての歩みを開始した。


天才的探偵 小室泰六 の影から踏み出し、一人で国家の裏の帳簿へと戦いを仕掛けようとしている男、和田進一。


神楽坂の夜空には、重く低い雪空が垂れこめていた。

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