小室泰六(SHERLOCK) - もの云わぬ能面 Ⅱ 改訂版
神田駿河台の貸家の門前に待機させていた岩村の車へ飛び乗り、車輪を激しく軋ませながら牛込の濠を渡って、わずか数十分。
東京・神楽坂の表通りのきらびやかな夜の賑わいから一歩入った、迷宮のような黒塀の路地裏は、冬の夜気と、妖しい気配に支配されていた。
名家の敷地の中庭には、夜の帳の奥深くまで、巨大な両手を広げるような「大きなヒマラヤ杉」が、圧倒的な威厳をもってそびえ立ち、冬の夜風に擦れ合いながら、囁きあっている様だった。
「岩村検事、よくぞお越しくださいました。」
蔵へと繋がる危うい木橋の手前、提灯を掲げた警視庁の若き高等刑事――神田刑事が、外套を正して最敬礼で歩み寄ってきた。
彼は司法省の直系の部下であり、国の法の血脈を同じくする優秀な男であった。
「神田くん、公務ご苦労さま。現地の状況はどうなっている」
岩村潔が国を背負う重鎮としてのまっとうな静けさを湛えた声で問いかける中、
同行した書生 和田進一が、インクの染みがついたノートを胸に抱えながら、緊迫した声で若き刑事に尋ねた。
「神田刑事、失礼ながら、そもそも一体どなたが、この隔離蔵での監禁と消失を警察へ通報してきたのですか」
「ああ、通報したのは、この旧家へ毎日近くの路地裏から通っていた、若き勘定方の母親だよ。
いつもなら夕刻の決まった時刻に長屋へ帰るはずの息子が夜更けになっても戻らず、不審に思った彼女が池の隙間から蔵を覗き見たところ、おぞましき能面を被らされて監禁されている我が子の姿を目撃し、狂乱の体で牛込署へ駆け込んできたのだ。
……だが、不気味なのはその先さ」
神田刑事は四角四面な顔を小さく歪め、不気味な蔵の格子戸を睨みながら声を潜めた。
「我々が通報を受けてすぐさまこの敷地を包囲し、格子戸を破って突入したまさにその瞬間だ。
格子戸には国の厳重な封印の鍵がかかり、泥の池に足跡の痕跡は一寸たりとも存在しない完全なる密室の中で、その白木の能面を被らされた衣服の男――大蔵省へ密かに内情を流していたあの若者が、現地の駐在や私の部下どもの目の前で、忽然と消え去ったのだよ。
部下どもは『虎列剌の怨霊の祟りだ』と怯えておりますが……」
「祟りという名の隠蔽(目暗まし)か。神田くん、心配はいらないよ。我が法科の最も優秀な若者である和田くんと、駿河台で一番の変わり者を引き連れてきたからね」
岩村が背後を示すと、小室泰六は顔色ひとつ変えず、細い紙を使って煙草の葉を器用に包み込むと、手製の巻きタバコに静かに火をつけ、不敵に笑った。
その指先から燃える微かな紫煙は、冬の夜風にさらわれて、神楽坂の昏い夜の奥へと吸い込まれていく。
神田刑事の案内によって格子戸を開け、蔵の内部へと足を踏み入れた瞬間、4人を迎えたのは、まっとうな人間の正気を一瞬で崩壊させるような、異様極まる光景だった。
薄暗い蔵の壁一面に、剥き出しの松明の光に照らされて、異形の「面」が数十枚、まるで死者の顔が並んでいるかのように、ぐるりと飾られていたのだ。
それは、この旧家の先先代の主が狂ったように自ら手彫りしていたという、色付けの施されていない、白木のままの「もの云わぬ能面」であった。
胡粉も色彩もない剥き出しの木肌の面々は、月明かりの揺らめきによって、生きているかのように不気味な表情を蠢かせている。
その最奥、古い青畳の上にぽつんと置かれた厳めしい「帳箱」の前に、旧家の番頭が顔を真っ赤にして狼狽えていた。
「小室さん、やはりこの旧家が東京市場へ流している商品の量に対し、国へ申告されている納税額があまりにも少なすぎる。ですが、彼らがどんな工作で隠し倉庫の場所を隠蔽しているのか、それだけが大蔵省の数字の技術者にも掴めないのです」
同行していた大蔵省主税局の織田税務官が声を潜めて耳打ちすると、小室泰六は巻きタバコの煙を静かに吐き出し、不敵に笑った。
「安心したまえ、織田くん。彼らがコレラの祟りと、あの先先代の手彫りの能面という因縁の目くらましを使って、警察の視線を100%固定させていた手法は、実に退屈な手品に過ぎないよ。
どれほどおぞましき能面を並べ立てようとも、人間の強欲の配線図は騙せない。
進一、その帳箱の底を開けるんだ。
国の目を盗むための『二冊目の隠し大福帳(二重管理)』が、そこへ記述されているはずさ」
「はい!」
進一が神田刑事の立ち会いのもと、帳箱の隠し二重底から裏帳簿を引きずり出した瞬間、旧家の番頭の裏で、瞳孔の散大が一発で看破された。
怨霊の仮面劇の裏に隠された、神楽坂の旧家がひた隠しにする、莫大な資産の不正流通。
帳簿の数字のつじつま(数理)は完全に解き明かした。だが、実際に隠匿された大量の物証(隠し倉庫)がどこに隠されているのか、それだけはまだ計算できていない。
探偵と調査対象、二人の知性をはらんだ意思と欺瞞が、土蔵の中で、静かに交差し、衝突をはじめていた。




