小室泰六(SHERLOCK) - 南総の亡霊 Ⅳ 改訂版
引き潮の数理によって、漆黒の岩肌の奥に隠されていた巨大な海底洞窟
網元の「動く隠し倉庫」の全貌が、松明の明かりのなかに剥き出しとなった。
「おのれ……お上の役人どもが、ここまで正確に私の商いの裏を暴き立てるとはな」
屈強な男たちを従えた房総の大商人は、顔を激しく歪めながらも、まだ傲慢な微笑を浮かべていた。
長年、地元の警察をお金や酒で手懐けて懐柔し、お上の税務署の目を完璧に欺いてきたという自負が、彼の精神の防壁となっていたのだ。
「だが、隠し倉庫の場所がわかったところで、この荒波の洞窟の奥にある房総藍の資材を、そう簡単に持ち出せると思うなよ。
証拠がなければ、お上とて私を罪人にはできまい」
大商人が言い放った、まさにその瞬間だった。
大蔵省・主税局の生真面目な若き税務官――織田完治が、四角四面な眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、懐から大蔵省の厳重な印章が押された一通の書状を突きつけた。
「大商人さん。君は何か大きな勘違いをしているようだ。
これは殺人事件ではない。
国家の根幹を揺るがす重大な脱税事件だ。
わざわざお上の法廷へ持ち込んで、君の言い訳を聞くような温い手続きなど、最初から大蔵省の算法には存在しないのさ」
織田税務官の四角四面な、しかし有無を言わせぬお上の宣告。
「和田進一くんが君の番頭台の奥から暴き出した『二冊目の隠し大福帳』。
そこには、君がこれまでお上の目を盗んで密輸してきた房総藍の本当の取引データが完全に記述されている。
小室の潮汐の計算によって、海底洞窟の中に、その帳簿の数字と一寸の狂いもない膨大な資材の物証が揃った。
……大福帳の数字と、この目の前の現物の合致。これ以上の立証など必要ない」
織田は書状を広げ、大商人の顔へと冷酷に突きつけた。
「大蔵省主税局、および司法省の連名による『即時行政処分』をここに執行する。
容疑は租税回避、および密輸。これより、この洞窟内の房総藍の資材、および君の屋敷のすべての財産を、お上の権限をもってその場で一括して強制差し押さえとする。
あなたが、どれほど往悪く異議申し立ての書類を大蔵省へ送りつけようとも、この現物の証拠が揃った以上、君の敗北は数字の上で100%確定しているのだよ」
「な……、差し押さえだと……っ!?」
完璧だった大商人の社会的地位(見た目の傲慢さ)が、初めて激しい絶望を起こして完全に崩壊した。
法廷で屁理屈を捏ねて引き延ばす時間など一秒も与えられず、お上の冷徹な財務の手続きによって、自らが他人の金を騙し取って築き上げてきたすべての富と城を、その場で一瞬にして毟り取られたのだ。
「フッ、お上の警察を騙し通した大商人も、中身を剥ぎ取ればただの数字の合わない詐欺師か。理詰めの幕引きだな、小室」
司法省検事正・岩村潔が外套をひるがえし、現地の職人たちの怯える瞳孔の残像を冷徹に見すえながら、満足そうに深く頷いた。
大自然の満ち引きという絶対的な数理を利用した、完璧な遠隔の密室消失トリック。
それは小室泰六の圧倒的な知性によって完全に看破され、地方の暗闇に蠢いていた強欲さは、その場で完膚なきまでに解体されたのである。
小室は指先で静かに巻きタバコをくゆらせ、その白煙の向こうで崩れ落ちる大商人の姿を冷徹に見つめていた。
新大陸シカゴの「人工の白夜」の光の影で、殺人鬼ホームズを取り逃がした、苦い思い出。
だが、日本の地において、進一の暴いた二つの大福帳と、お上の税務の手続きによって、あの時果たせなかった完璧な完全勝利を得たのだ。
3人は房総の海岸線を後にした。
海の向こうからは、冬の清々しい朝日が、青白い波飛沫を金色へと美しく照らし始めていた。
「小室さん、岩村さん。大蔵省への引き継ぎの手続きはすべて完了いたしました」
インクの染みがついたノートをしっかりと閉じ、誇らしげに胸を張る進一に対し、小室は巻きタバコの煙を風に散らしながら、静かに笑った。
「ご苦労だったね、進一。さあ、神田へかえろうじゃないか。
僕たちの論理思考を待っている、次の事件が、あの神田 駿河台の街で待っているはずだからね」
3人の旅路は、光あふれるアメリカ シカゴの喧騒の中、いささかの遺恨を残す事となったが、その遺恨の霧は、この南総の激しい潮風のなかに、洗い流されている様のだった。
そして、いつのまにかに、小室泰六(SHERLOCK)の帰る家は、東京 神田になっていたのだった。




