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明治の世、SHERLOCK 東京神田で探偵はじめました『東京神田のシャーロック』  作者: 東曌


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小室泰六(SHERLOCK) - 南総の亡霊 Ⅲ

夜の南総の海は、昼間の鉛色から一転して、底の知れない漆黒の闇へと姿を変えていた。


「出た、出たぞ! 沖のほうに、またあの亡霊の船が浮かび上がっていやがる!」


地元の年老いた漁師たちが、高張提灯の明かりを小刻みに震わせながら、恐怖に満ちた声を上げていた。


網元の屋敷からほど近い、太平洋の荒波が容赦なく叩きつける外房の海岸線。

その引き潮が牙を剥く波間に、確かに乗組員の気配が一切ない、漆黒の巨大な帆船が不気味な影を浮かび上がらせていた。


「……小室先生、あれが地元の瓦版を騒がせている“南総の亡霊”です。

警察がいくら捜査しても、夜明けとともに何ひとつ証拠を残さず、海の上から完全に消え去ってしまうのです」


大蔵省主税局の織田完治税務官が、懐から取り出した流通の帳面を握りしめながら、冷たい潮風のなかで眼鏡を曇らせた。


「安心したまえ、織田くん。

この世に本物の亡霊など存在しない。あるのは、人間の強欲が仕掛けた精密な目暗ましと、大自然の数理だけさ」


小室泰六は、外套の襟を立て、細い紙で煙草の葉を器用に包み込むと、その手製の巻きタバコに静かに火をつけた。

その指先で燃える微かな白煙は、夜の海の潮風にさらわれて、闇の奥へと吸い込まれていく。


「進一、いまこの海の満ち引きの時間はどうなっている」


問いかけられた若き書生――和田進一が、懐中時計と房総沿岸の正確な潮汐の運行表を帳面の明かりで素早く確認した。


「小室さん、いまは夜の数理上、最も海が引く『大潮の干潮』の一時間前です。潮位は夕方に比べて数メートルも下がっています」


「完璧だね、進一。これですべての謎のつじつまが合った」


小室は巻きタバコをくゆらせたまま、無人の幽霊船の影を冷徹に見据えて不敵に笑った。


「織田くん、二冊目の隠し大福帳の数字が示す通り、あの大商人は東京の市場へ流すための膨大な“房総藍”の資材を、お上の目を盗んでどこかへ隠匿している。その隠し倉庫の正体こそ、あの海の上の船さ。

……いや、正確に言うなら、あの船そのものが、網元の『動く隠し倉庫』なのだよ」


「船が、隠し倉庫……? ですが小室先生、あの巨体が夜明けとともに消え去る理由が説明つきません!」


織田税務官が驚愕の声を上げる中、小室は静かに海岸の断崖絶壁の下、波が激しく激突する岩肌を指差した。


「この外房の海岸線には、長い年月の波の侵食によって作られた、干潮の時にしか入り口を覗かせない天然の『海底の洞窟』が無数に実在している。

あの大商人の算法は実に単純で、かつ大胆だ。


彼らは夜の満潮時、海面が最も高くなった瞬間に、房総藍の資材を積んだあの船を、断崖の奥深くに隠された巨大な海底洞窟の中へと滑り込ませているのさ。


そして、いまのように潮が引き始めると、洞窟の入り口の岩肌が海面の上に剥き出しとなり、外側からは船の姿が完全に遮断され、忽然と消え去ったように見える。

……夜な夜な現れる亡霊の船とは、満潮の暗闇に乗じて洞窟の奥から引きずり出され、密輸の積み込みを行っているその一瞬の姿に過ぎないのだよ」 


大自然の満ち引きという絶対的な数理を利用した、完璧な遠隔の密室消失トリック。


「……なるほどな。

幽霊という目隠しを使って、お上の税務署の目を完璧に誤魔化していたわけか。

実に見事な知恵だが、法を舐めすぎているな」


闇の中から、仕立ての良い外套をまとった司法省検事正・岩村潔が、まともな静けさを湛えた声で歩み寄ってきた。


その手には大蔵省から正式に下された臨検の令状が握られており、その剥き出しの双眸には、人間の嘘を内側から破壊し尽くす冷たい心理の光が脈打っていた。


「さあ、大商人さん。隠れて見ていないで、出てきたらどうだ。君の仕掛けた手品は、神田から来たこの探偵の前に、すべて暴かれたぞ」


岩村が背後の暗闇の岩陰へと冷徹に視線を走らせると、そこから数人の屈強な男たちを従えた、あの屋敷の主である房総の大商人が、顔を激しく歪めながら姿を現した。


「……まさか、この海の満ち引きの法則までを見抜く者がいようとはな。だが、お役人様、隠し倉庫の場所がわかったところで、あの荒波の洞窟の奥に眠る物証を、どうやってお上の法廷まで持ち出すつもりかね?」


大商人の傲慢な微笑。

しかし、小室は巻きタバコの煙を静かに吐き出し、その男の顔を冷徹に見据えて笑うのだった。

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