小室泰六(SHERLOCK) - 南総の亡霊 Ⅱ
太平洋の黒潮がダイレクトに激突する南総の沿岸は、昼なお昏い鉛色の波飛沫に白く煙っていた。
神田駿河台の貸家を発ってから、東京湾の定期船(蒸気船航路)を乗り継ぎ、わずか一日。
小室泰六、岩村潔、和田進一の3人は、大蔵省・主税局の地方税務官である織田完治を伴い、この房総の海を一手に独占している、網元の巨大な屋敷の帳場へと、お上の正式な手続きに則って足を踏み入れていた。
「小室さん、岩村検事正。…
…やはり、この屋敷の流通データの数理は完全にエラーを起こしています」
帳場の堅牢な格子戸の向こう、青畳の上にそびえ立つ厳めしい「番頭台」を睨みながら、四角四面な眼鏡を指先で押し上げた織田完治税務官が、声を潜めて小室へと耳打ちした。
「この地の大商人が東京市場へ流している“房総藍(藍染め資材)”の量に対し、お上の税務署に申告されている納税額があまりにも少なすぎる。
ですが、彼らがどんな工作で隠し倉庫の場所を隠蔽しているのか、それだけがお上の数字の技術者である私にも掴めないのです」
「安心したまえ、織田くん。君が数字の上でデバッグしたその脱税の正体を、僕たちの論理思考システムで100%の理詰めに解体してあげるさ」
小室は細い紙で煙草の葉を器用に包み込むと、巻きタバコに静かに火をつけ、笑った。
4人が番頭台を守る頑固な大番頭を相手に仕掛けたのは、大蔵省と司法省による「合同臨検(強制監査)」という、有無を言わせぬ国家公務の手続きだった。
「大蔵省主税局である。房総藍の流通に重大な脱税の容疑あり。これより、この屋敷のすべての帳簿(大福帳)の監査を行う」
織田税務官が厳粛に臨検の令状を番頭台へ突きつけると、大番頭は顔を真っ赤にして激しく狼狽えた。
「お、お上のお役人様とはいえ、滅相もない! 我らが生真面目な商いに、不審な裏帳簿など一枚も存在いたしません!」
大番頭は冷静を装い、お上の目を誤魔化すために用意された「偽の大福帳」をこれ見よがしに番頭台の上へと広げた。
だが、その瞬間、司法省検事正・岩村潔の、メンタリストとしての脳細胞が完全に目を覚ました。
岩村は言葉を交わすことなく、男の微細な指先、そして番頭台の引き出しの奥へ無意識に視線を走らせた瞳孔の散大を一発で看破した。
岩村は男の視線を「右側の小室が燻らせる巻きタバコの煙」へと完全に固定させる、剥き出しの視線誘導を発動。その心理の死角(隙)を見逃さず、記録係である和田進一が、番頭台の影から引き出しの鍵を鮮やかに奪い去り、引き出しの奥に隠蔽されていた二冊目の
「本物の隠し大福帳」を引きずり出した。
「織田さん、これです!」
進一から裏帳簿を手渡された大蔵省の織田完治税務官は、その専門知識を起動させ、頁に刻まれた真実の文字列を瞬時に確認した。
「……間違いない! 表の大福帳には記載されていない、地方の隠し港から東京へ密輸されている房総藍の本当の取引データが、ここに記述されています! お上の目を盗むための完璧な二重管理だ!」
「お役人さま、何ごとでございますか?」
その時、番頭台の奥の重々しい襖が開き、冷静を装う顔つきの裏に冷酷な瞳孔のノイズを明滅させた男――屋敷の主である房総の大商人が、穏やかな足音を響かせて現れた。
その佇まいは、地元の警察をも懐柔し、完璧な社会的地位で世間を騙し通してきた圧倒的な強欲のオーラを放っていた。
だが、小室は指先で巻きタバコをくゆらせたまま、その男の顔を冷徹に見据えて不敵に笑った。
「ご主人。
ご主人が、二つの大福帳を使い分けてお上へ、隠ぺい工作していた算法は、僕たちの論理思考システムの前には退屈な手品に過ぎないよ」
帳簿の数字のつじつま(数理)は完全にデバッグした。
だが、実際に密輸された房総藍の大量の物証(隠し倉庫)がどこに隠されているのか、その物理的な場所だけがまだ計算できていない。
海の向こうで夜な夜な現れては消えるという“南総の亡霊”の不気味な足音を背後に感じながら、小室たちの知略戦は、外房の激しい引き潮が牙を剥く、夜の海へと向かっていた。




