小室泰六(SHERLOCK) - 南総の亡霊 Ⅰ
【主要登場人物】
• 小室 泰六:ライヘンバッハの滝から明治に輪廻した英国最高の知性。
シカゴから帰国し、今度は房総の海にはびこる黒潮の満ち引き(潮汐の算法)と建築工学のロジックのみを武器に、地方の完璧な消失トリックをデバッグする。
• 岩村 潔(検事正):司法省の若きエリート。
東京湾の死角で行われている大規模な密輸・脱税の取り締まりの公務を拝命する。
言葉の壁のない日本の地で、房総の網元たちの「瞳孔の散大、微細な指先のノイズ」から嘘を見抜く剥き出しのメンタリスト。
• 和田 進一:神田駿河台の書生長屋から同行した実直な書生。
英語の連携でフロントを翻弄した知性を今度は数字の管理に注ぐ。
房総の大商人が隠蔽した「二つの大福帳(帳簿データ)」の数字のバグを、実直なデータ管理で暴き出す。
• 織田 完治 / 大蔵省・主税局 地方税務官:
明治二十六年当時、地方の網元や大商人による「密輸・脱税」を暴き立てるには、司法省(刑法・逮捕)の力だけでなく、税金の計算と流通データを管理する大蔵省・主税局(財務)の専門知識が不可欠。
彼は生真面目で四角四面な「お上の数字の技術者」であり、房総藍(藍染め)の東京市場への流入データのエラー(数万円規模の脱税)を数字の上でデバッグしたものの、現地の警察に「幽霊船の仕業だ」と黙殺されたため、神田の貸家へ正式な合同捜査の依頼(告訴)を持ち込んできます。
• 房総の網元(大商人):房総藍(藍染め)や太平洋の海産物の利権をハッキング(独占)している土着の権力者。お上への納税を100%踏み倒すため、外房の激しい引き潮の死角を利用した、完璧な脱税システムを構築している。
明治二十六年の暮れ。
東京・神田駿河台の家は、どこか張り詰めた、しんしんとした冬の静寂に包まれていた。
新大陸シカゴから、太平洋の荒波を越える日本郵船の遠洋定期客船と大陸横断鉄道の鉄路を乗り継ぎ、二十日間の航海を経て帰国してから、まだ数日。
部屋の薄暗い書斎の奥で、小室泰六の肉体に宿った英国最高の知性シャーロックは、巻きタバコの煙をふぅと燻らせながら、窓の外の東京の景色を冷徹な双眸で見つめていた。
彼の脳内システムを占拠していたのは、新大陸の「人工の白夜」
――テスラの手掛けた数万個の白熱電球がもたらした、あのまばゆい文明開化の光。
光の足元で発生していた、殺人鬼H・H・ホームズの「殺人ホテル」の暗黒の算法だった。
小室と進一の英語連携によるホテル買収のハッキング劇、そして岩村のメンタリズムによって二つの宿帳の嘘を暴き、罠を100%の理詰めで無力化してみせたものの、男には複雑極まる隠し階段の奥へと泥を塗って逃げられてしまった。
「……光あふれるシカゴの喧騒の中、いささかの遺恨を残す事となった、か」
小室がぽつりと呟いた、まさにその瞬間だった。
部屋の木扉が厳粛にノックされ、冷たい冬の風とともに、実直な瞳をした若き書生――和田進一が、大蔵省・主税局の地方税務官と岩村を伴って、貸家へとやってきた。
「小室さん、 大蔵省の税関から、司法省へ正式な合同捜査の依頼が持ち込まれました!
シカゴのあの二つの宿帳の偽装工作の残像が、今度は東京のすぐ目と鼻の先、房総半島の海で別の算法として発生しているのです!」
進一が興奮を抑えきれない様子で、大蔵省から持ち込まれた輸出入の流通データと、地方紙の紙面を広げてみせた。
警視庁の警察すらも「ただの地方の噂」だと相手にしない中、税関のデータが示す数理は極めて不穏なエラーを吐き出していた。
『南総の海岸線、太平洋の荒波が叩きつける房総沖において、夜な夜な乗組員が誰一人乗っていない無人の船が浮かび上がり、夜明けとともに何ひとつ物証を残さず完全に消失する。
現地の網元(大商人)から東京市場へ流入する“房総藍(藍染め資材)”の税金の数理がどうしても数万円規模で合わないが、いくら税務署が監査しても隠し倉庫の場所が掴めない――』
「なるほど。亡霊という名の隠ぺいか。
大衆記事や事件記事しか読めない読者なら、怪奇事件だと騒いで終わりだろうね」
小室は巻きタバコを置き、仕立ての良い上着の袖を少し捲り上げると、その鋭い双眸を大蔵省のデータへと固定した。
「だが、進一。大自然の潮の満ち引き(潮汐の算法)と、人間の強欲が噛み合えば、幽霊船の完璧な消失トリックを構築することは十分に可能だ。
地元の網元が、お上への納税を100%踏み倒すために、海の上に『動く隠し倉庫』という絶対的な死角を作っているとしたら、実にビジネスライクで悪辣なお話しじゃないか」
「フッ、大蔵省税関からの正式な告訴(依頼)とあれば、司法省としても断る理由はないな。お上の令状と手続きを踏んで、堂々と捜査しよう」
司法省検事正・岩村潔が、静けさを湛えた声で歩み寄ってきた。
その瞳の奥には、容疑者の精神の防壁を言葉ひとつで内側から破壊し尽くす、剥き出しの心理操作の冷たい光が脈打っていた。
「岩村くん。神田駿河台から東京湾の定期船(蒸気船航路)を乗り継げば、わずか一日で、南総の現場へアクセスできる。
……進一、ノートを開くんだ。シカゴで果たせなかった『立証責任の履行』を、今度は東京の法廷で完璧に成し遂げ、商人の大嘘を暴いてやろう」
「はい。 小室さん、岩村さん、定期船の手続きはすべて完了しています」
3人はコートを羽織ると、冬の寒々しい風が吹き抜ける神田を後にし、黒潮の荒波と亡霊の噂が蠢く、南総の海へと向かうのであった。




