『名探偵 小室泰六(SHERLOCK)とサイコメトラー岩村 潔(検事正)の第二の事件記録』 旧家に消えた唐寅の軸 Ⅱ
東京地方裁判所検事局長・岩村潔検事正の黒塗りの車が、七条家の立派な、だが、どこか手入れの行き届かない長屋門の前に滑り込んだのは、夕刻のことだった。
帝東新聞のリーク報道を受け、岩村は即座に東京地裁の予審判事へ『捜索差押請求書』を提出し、正式な【捜索押収令状】を発付させていた。
車から降り立った岩村は、最高級の英国製生地を用い、腕の良い職人に依って誂えられた、ダブルの三つ揃え(3ピース)の、極めて仕立ての良いスーツをまとい、静かにそのボタンを留め直した。
クミコ未亡人とヒロコさんに、連れられて、岩村検事正、私と進一、臨検の案内役の警察官が、数日前に事件の舞台となった七条家の広い母屋の座敷へと入って行った。
床の間には、当然ながら至宝『唐寅の掛け軸』の姿はなく、歴代の鑑定人の箱書が記された桐箱ごと丸ごと消え失せ、ただポッカリと不自然な空白の壁が広がっている。
畳の上には、虫干しの際に掛け軸を固定するために使われたであろう、古い鉄の文鎮だけが寂しげに転がっていた。
「……なるほど、ここにいたな」
岩村は静かに歩み寄ると、白い手袋を外した剥き出しの指先を、その掛け軸が掛けられていた床の間の柱、そして畳の上に残された文鎮へとそっと触れさせた。
彼が目を閉じた瞬間、座敷の空気がピキリと凍りつく。残留思念を視る、彼だけのサイコメトリーの異能が発動したのだ。
次の瞬間、岩村の額に、大粒の汗が浮かんだ。彼の呼吸が、恐怖に激しく乱れる。
「岩村検事正、何が視えた」
私の問いに、岩村は目を見開き、ダブルの胸元を片手で押さえながら、喉を詰まらせて絞り出した。
「青い炎だ……。
まだ起きていない、だが確実にこの屋敷を灰にする『飢えた青い炎の幻影』が視える……! そして、この柱の根元から立ち上る、ツンと鼻を突く酸っぱい、だがどこか甘い、おぞましい薬品の匂いだ……。数日前、虫干しの陰干しが行われていたまさにその日、この座敷の暗闇に忍び込み、掛け軸を箱ごと運び出した『男の影』が視える……!」
「小室くん、犯人がこれほど大胆な工作を仕掛けられた時期は、一体いつなんだ」
岩村の問いに、私は床の間の柱の根元を冷ややかに見つめながら応じた。
「決まっているさ、岩村。七条家が数日前、この至宝に風を通すために行った『虫干し』の、あのわずか半日から一日だけの陰干しの時間だ。普段は蔵の奥深くで厳重に守られている掛け軸だが、あの陰干しの間だけは、こうして母屋の座敷に掛けられ、桐箱も同時に蓋を開けて干される。
その、一日の無防備な静寂を犯人は狙ったのさ。屋敷の人間が目を離したわずか数時間の間に、この座敷に忍び寄り、本物の掛け軸を価値ある本物の桐箱ごと丸ごと盗み出した。……だが、それだけじゃない。犯人は、この床の間の隙間へ、数日後にこの母屋を灰にするための時限発火の仕掛けを滑り込ませていったんだよ」
私は懐から手製の試験管とピンセットを取り出すと、岩村が指し示した床の間の鴨居の隙間にわずかに残されていた、目に見えないほど極小の『透明な結晶の屑』をすくい上げた。
「刑事さん、これを見てごらん。お上の警察なら『ただのゴミ』として見落とすファクトだ。ニトロセルロースは絵画の修復に使われる強力な接着剤だが、極めて自然発火しやすい数理的特性がある。
本物はすでに箱ごと別の場所へ運び出されているが、数日後にこの母屋が原因不明の火災で丸ごと灰になれば、七条家は新聞報道を盾にして、明治火災から最高額の保険金を騙し取れる。
世間的には灰になったはずの本物は、本物の桐箱に入ったまま、裏ルートで海外へさらに高値で売り抜ける……。
保険金と売却益の二重取り。これが、時代遅れの旧家をそそる悪徳美術商の算法さ」
完璧な科学のロジックによって、岩村の視た「過去の犯行の記憶」と「未来の火災の予言」が、まだ起きていない「保険金詐欺の時限タイマー」の物理的証明へと鮮やかに翻訳された。
「小室くん。火災が起きる前に、その美術商の倉庫へ次の令状を執行せねばならぬな」
ダブルのスーツのシワを静かに伸ばし、岩村が再び冷徹な法の番人の顔に戻っていた。




