『名探偵 小室泰六(SHERLOCK)とサイコメトラー岩村 潔(検事正)の第二の事件記録』 旧家に消えた唐寅の軸 Ⅰ 改訂版
本作で、進一が捲し立てる「唐寅」という名の、明時代中期 中国の偉人。
歴史に暗いお上の警察には、その二文字の重みが理解できないに違いなかった。
ここで歴史的ファクトを冷徹に整理しておく必要がある。
唐寅またの名を唐伯虎
中国・明代中期(1470年〜1523年)
明代の中国において「江南四才子」の筆頭と称えられ、その描く山水画や美人画は、東洋の美術史において人間の域を超えた「神品」と崇拝される伝説の天才である。
明治二十六年の日本において、この唐寅の真筆を所有しているということは、単に物持ちが良いという次元の話ではない。かつて長崎の出島を経由して、あるいは大名同士の格式高い贈答の中で、一族が命を賭して手に入れ、数百年間守り続けてきた「一国の国宝を預かっている」に等しい究極のステータスなのである。
現在の価値に換算すれば数十億円、文字通りの世界遺産級の至宝であった。
国家の信用を揺るがした神田錦町の偽札事件から、数週間後の事。
神田駿河台の私の探偵事務所の古びた扉を、いつも以上に困り果てた表情で引き開けたのは、助手であり事件の記録者でもある進一だった。
しかし、彼の手に握られていたのは法律書ではなく、インクの匂いも新しいその日の『東京朝日新聞』の朝刊であった。
「小室さん……少々、いや、大変なことになりました。先ほど、うちの大家でもある、駿河台の町内会長の奥様が、今にも泣き出しそうな顔で私のところへ駆け込んでこられたのです」
「小室さん、唐寅ですよ!
明代の中国で『神品』と崇められた、あの伝説の天才画家・唐伯虎の真筆です!
かつて徳川の将軍家や一握りの大名しか拝むことすら許されなかった、東洋の至宝が、七条家には先祖代々の守り神として遺されていたのです。
現在の価値に直せば家が何軒も建つ……いや、一国の国宝に等しい巨費、数千円を下らない掛け軸です。それが、あのわずか半日の陰干しの隙に、箱ごと消え失せてしまったのです!」
進一は息を整えながら、机の上に広げた、帝東新聞の雑報欄を指し示した。
そこには、大々的な見出しが躍っている。
―『名門・七条家より、
中国 明代的天才・唐寅の国宝級掛け軸、密室の蔵より忽然と消ゆ!』
記事には、盗まれた掛け軸がいかに東洋の至宝であり、数千円(現代の数千万円から億単位)を下らない価値があるかが、これでもかと書き立てられていた。
「この七条家の奥さまいうのが、実は町内会長の奥さんの『遠縁』にあたる方なのだそうです。
町内会長の奥さんの話では、未亡人となったクミコさんは、没落していく家名を再興するための最後の希望として、もしもの火災に備え、明治火災の『明記物件』として最高額の保険金さえかけて守っていた至宝なのだとか。……ところが、泥棒に盗まれてしまった。
明治の保険のルールでは火事で燃えなければ保険金は一銭も出ないため、七条家は完全に破産だと、奥様も、その遠縁のご家族も、今、裏の応接室で絶望して震えておられます。
……小室さん、どうか、どうか力を貸してあげてください!」
進一の泥臭いまでの正義感が、私の脳内の論理システムにガソリンを注ぐ。
「なるほど、町内会長の奥様の遠縁、か。名門がわざわざこんな貧乏事務所を頼ってきた事由としては合理的だね、進一。――よろしい、そのお可哀想な七条の奥様方を、ここへ通しなさい」
進一の案内によって事務所へと入室してきた二人の女性を、私は巻きタバコを燻らせながら静かに観察した。
一人は、七条家の未亡人・クミコさん。
彼女が身にまとっていたのは、真っ黒な喪服などではなかった。かつて七条家が栄華を極めていた頃に仕立てられたのであろう、上質ではあるが、今はどこか色褪せ、時代のあわいに取り残されたような訪問着であった。
その色褪せた布地こそが、没落していく旧家の悲哀と、それでも家名を守ろうとする彼女の痛々しいほどのプライドを、何よりも雄弁に物語っていた。
「小室さん、お恥ずかしい姿でお邪魔いたします……」
クミコ未亡人は、困り果てて涙を浮かべた目元をぬぐった。
そしてもう一人は、その娘のヒロコさん。
一度は他家へ嫁いだものの、婚家の都合で実家に出戻ってきたという彼女は、世間の世知辛い荒波を一度見てきた分、未亡人である母親よりも遥かに冷徹で、現実的な眼をしていた。
「小室先生、おかしなことはそれだけではありません」
出戻り娘のヒロコさんが、母親の肩を庇うように抱きしめ、私を真っ直ぐに見据えた。
「私たちは、掛け軸が蔵の密室から盗まれた事実を、お上(警察)以外には誰にも話していないのです。なのに、なぜ新聞社がこれほど詳細な事実を知っているのですか? まるで、誰かが我が家を破滅させるために、あるいは、わざと世間の注目を引くために、裏から新聞社へ情報を流したかのようです」
「素晴らしい観察眼だ、ヒロコさん」
私は紫煙の向こうで、笑ってみせた。
クミコ未亡人の色褪せた訪問着、ヒロコさんの現実的な不信、町内会長の奥様を経由した紹介ルート、そして新聞のインク。その全てのパズルが、私の脳内でガチリと噛み合った。
「面白い。犯人の真の狙いは『盗難事件』そのものじゃない。
新聞という近代の拡声器を使って掛け軸の価値を最高潮まで吊り上げ、この僕を『偽物の真贋を保証するためのピエロ』として利用し、最後に全てを灰にする……あまりに悪辣で、あまりにロジカルな、メディアと大衆心理のハッキング(プロパガンダ戦)だ」
私は立ち上がり、進一を振り返った。
「進一、直ちに司法省の岩村潔検事正へ緊急の電報を打ちなさい。―
『七条家の蔵の壁に、今すぐ君の「眼」の令状を執行してほしい』とな.......




